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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

ピアノ・レッスン

2005-10-30 | 一つの愛二つの心
 
 時間があったので、「ピアノ・レッスン(The Piano)」を観た(監督:ジェーン・カンピオン、出演:ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、アンナ・パキン他)。
 
 6歳のときに、自ら話すことをやめってしまったエイダは、父親の決めた結婚のため、スコットランドからはるばるニュージーランドへとやって来る。手荷物と、娘と、ピアノを伴って。ときに、ニュージーランド入植の時代。
 だが、夫となるステュアートは、とても運ぶことはできない、とピアノを海岸に置き去りにする。

 なのでエイダは夫に心を開こうとしない。そして夫の留守に、隣人ベインズに頼み、海辺に行く。微笑みながらピアノを弾くエイダに、ベインズは関心を持つ。
 ベインズはステュアートに持ちかけ、土地と、海辺のピアノとそのレッスンとを交換する。彼は自分の小屋にピアノを運び入れ、調律する。エイダはレッスンのため、ベインズのもとへと通うようになる。そして、黒鍵の数だけ自分の要求を呑めばピアノを返そう、というベインズの申し出に応じ、体を許す。

 が、ベインズは、エイダに売春婦の真似はさせたくない、とピアノを返してくる。ピアノは戻るが、エイダはそれを弾こうとしない。逆に、もはやピアノのなくなったベインズの小屋へと足を運ぶ。二人の関係は、夫ステュアートに発覚する。
 エイダはピアノの壊れた鍵盤に、愛の言葉を刻んでベインズに届けようとする。それを知ったステュアートは激怒して、エイダの指を斧で切り落とす。

 To be continued...

 画像は、クシジャノフスキ「ピアノ」。
  コンラッド・クシジャノフスキ(Konrad Krzyzanowski, 1872-1922, Polish)

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真珠の耳飾の少女

2005-10-28 | 一つの愛二つの心
 
 映画、「真珠の耳飾の少女(Girl with a Pearl Earring)」を観た(監督:ピーター・ウェーバー、出演:スカーレット・ヨハンソン、コリン・ファース、他)。フェルメールの同名の絵画を題材に取ったフィクションだが、フェルメール存命当時のデルフトの生活シーンが、あたかもフェルメールの描く絵のように再現されている。
 運河の街並や、女主人やメイドの衣装、市松模様の床、壁に掛かる絵画や地図、カーテンや絨毯、食器の並ぶテーブル、天蓋のあるベッド、光の差し込むガラス窓、などなどのインテリア、……と、どれを取っても、17世紀のオランダらしい。またそれらすべてが、柔らかな光に満ちた美しい映像に仕上がっている。
 
 物語は、タイル職人の娘グリートが、画家フェルメールの屋敷に奉公にやって来るところから始まる。絵画に理解のない妻とパトロンに絵を売り込む姑、騒々しい大勢の子供たち。フェルメールは筆が遅いために、家系は常に火の車。そのせいで妻はいつもいらいらし、夫婦の口論も絶えない。
 ある日フェルメールは、アトリエを掃除していたグリートの姿に閃きを得、新しい絵を描き始める。グリートは絵に興味を示し、絵に関する美的センスも持つ。
 彼女は、光の加減が変わってしまう、と窓の拭き掃除を躊躇し、バランスが良くない、と椅子の位置を勝手に変えてしまう。雲は何色かと画家に問われて、「ホワイト。……ノー、ノーホワイト。ブルー、イエロー、グレー」と答える。
 ……これって、フェルメールの主色と言われる色ではないの。フェルメールの絵の色って、雲の色だったんだねー。

 フェルメールは次第に、妻には手出しさせなかった自分の仕事を、グリートに手伝わせるようになり、やがて彼女をモデルに、青いターバンの少女の絵を描き始める。

 二人は触れ合うことすらない。主人と使用人、画家とモデル、にすぎない。が、妻は二人のこのストイックな関係に強く嫉妬する。
 グリートは、いつも髪を見せずに頭巾でまとめ、ほとんど笑うこともない。髪を下ろしたくない、と拒絶する彼女に、フェルメールはターバンを着せる。するとその耳に、妻の持つ耳飾を着けたくなる。そうでなければ、絵が成り立たないと感じる。
 フェルメールがグリートの耳たぶに針で穴を開け、グリートが痛さに顔を歪めるシーンは、ある官能を暗示している。……別の何かで聞いたことがあるが、この絵のとおりに照明すれば、本来なら、真珠には光が当たらないらしい。

 ……教養にはなったけれど、絵にまつわる架空のエピソードの域を出ない凡作だと思った。真実の愛も見えてこないし。
 でも、デルフトはいい感じ。やっぱり行ってみたい町。

 画像は、フェルメール「真珠の耳飾の少女」。
  ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675, Dutch)

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エンド・オブ・オール・ウォーズ(続)

2005-10-21 | 一つの愛二つの心
 
 アーネストの周囲で学ぶ捕虜たちにも希望が灯り、次第に変化が現われる。
 自分勝手だったヤンカーは、自ら人身御供となって打擲される。ダスティは、自分たちを密告したキャンベル少佐の身代わりに磔となる。このあたり、アーネストの思想であるキリスト教的犠牲の精神を感じる。
 そこにあるのは、
「正しい人間が現われたらどうなるか。鞭打たれ、拷問を受け、鎖でつながれる。あらゆる責苦を受け、磔にされ、人前にさらされる」というプラトンの言葉。
 
 敵国同士でありながら、同じ学者肌の人間同士として心を通わせる、アーネストと、日本軍の通訳兵ナガセ。ナガセは、眼にする日本軍の非道や収容所捕虜の惨状に心を痛めながらも、どうすることもできずにいる。アーネストの学校が認められ、捕虜たちの心の支えになる本や手紙が許されたとき、ナガセは、謙虚にではあるが、自分のことのようにそれを喜ぶ。
 捕虜にも部下にも自分にも、等しく厳しい軍曹イトウ。彼もまた、慰安婦にだらしなく喜び、のちに敗戦の気配を見て取ると金目のものを抱えて一人で逃げるような、いい加減な上官に腹を立てながらも、服従せざるを得ない。そして、自分とは異なるアーネストたちの思想に、明らかに戸惑う。自分で命令してダスティを磔にしたにも関わらず、十字架の上のダスティを見上げるイトウの眼からは、涙がこぼれ落ちる。

 捕虜の側だけでなく、日本兵たちもまた、それぞれに葛藤や格闘を抱えている。日本軍のイメージとしては、一方的でない、随分しっかりとした描かれ方だと思う。

 眼の前で上官を処刑されて以来、日本兵たちへの復讐を誓うキャンベル少佐。彼にとって収容所を生き抜く希望とは、憎しみだった。
 解放が目前に迫ったとき、少佐はイトウを捕らえ、殺そうとする。アーネストに止められ、彼を罵倒する少佐。が、隙をついてイトウが自決した途端、少佐は泣き叫んでイトウを胸に抱きしめる。

 戦争が終わり、故国に帰ったアーネストとナガセが、結局、それぞれ牧師と僧になったのには、戦争から受けた若い二人の心の傷の深さを感じてしまう。
 
「麦は地面に落ち、死なない限り、ただの麦だ。死んで初めて、実りをもたらす」
 ……死んだ麦も、それがもたらす実りも、多くの日本人は見ずにいる。憲法9条改悪も射程内に入ってしまった。

 画像は、ルーベンス「磔にされたキリスト」。
  ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640, Flemish)

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エンド・オブ・オール・ウォーズ

2005-10-20 | 一つの愛二つの心
 
 相棒のモットーの一つに、「あらゆる事実を知らなければならない。が、それらに囚われてもならない」というのがある。
 で、先日、パソコンTVで無料配信される映画で、「是非これは観ておきなさい」と強く言い含められたのが、これ、「エンド・オブ・オール・ウォーズ(To End All Wars)」(監督:デヴィッド・カニンガム、出演:ロバート・カーライル、シアラン・マクメナミン、キーファー・サザーランド、他)。私は戦争映画のような重い映画が苦手なので、かなり渋ったけど、やっぱり観た。

 原作は、第二次大戦で日本軍の捕虜となったスコットランド兵、アーネストの手記である「クワイ河収容所」。映画のストーリーもドキュメンタリー・タッチで、派手な戦闘シーンやヒロイズム臭がなく、淡々と展開する。
 「人は希望を持つと苦しむが、希望を失えば生きてはいけない」というのが、この映画を貫く主張。単なる反戦や、日本軍の残虐を訴えたものではない。
 
 タイ-ビルマ間のジャングルを走る泰面鉄道の建設のため、強制労働に従事させられるスコットランド兵捕虜たち。多くの死者を出したこの鉄道は、「死の鉄道」と呼ばれる(実際には、イギリス軍捕虜以上に、現地タイ人たちが命を落としているらしいが、これについては取り上げられていない)。
 人間として扱われない捕虜生活の上に、過酷な敷設工事、さらに拷問や処刑。死と隣り合わせの絶望的な極限のなかで、次々と生きる意味を見失う捕虜たち。

 志願前、教師を志望していたアーネストは、収容所で「ジャングル大学」という学校を開く。守らなければならない最後の尊厳とは何か、を問うことで、生きる力を見出す。

 To be continued...

 画像は、デタイユ「装備を持った兵士」。
  エドゥアール・デタイユ(Edouard Detaille, 1848-1912, French)

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哀愁

2005-10-19 | 一つの愛二つの心
 
 また映画を観てしまった。どーもなー、夜眠れないと映画を観てしまうなー。

 かの「哀愁(Waterloo Bridge)」(監督:マービン・ルロイ、出演:ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー、他)。甘く哀しく切ない、というのはこういうことを言うのだろう。
 が、古典的純愛映画はどうも苦手な私。戦争で引き裂かれる悲恋なら、なおさら苦手な私。……私は単純なハッピーエンドが一番好き。
 
 舞台は、第一次世界大戦下のロンドン。空襲警報が鳴り響くウォータールー橋上で、イギリス将校クローニンはバレエの踊り子マイラを助け、連れ立って地下鉄に避難する。その夜二人は、蝋燭の灯るなか、「別れのワルツ(蛍の光)」を踊る。
 二人は恋に落ち、結婚式を挙げようとするが、クローニンの突然の出征のために、そのまま別れる。彼の無事を祈りながら健気に待つマイラの眼に、クローニン戦死の知らせが飛び込む。失意と困窮から、マイラは娼婦に身を落とす。

 物語の要所々々に登場するのが、マイラのお護りとウォータールー橋。二人は橋上で出会い、マイラは車に轢かれそうになりながら、道路に転がり落ちたお護りを拾う。大切にしていたお護りだが、彼女は戦地に赴くクローニンにそれを渡す。
 橋上で男に声をかけられたのをきっかけに、彼女は娼婦となる。クローニンと再会し、彼は預かっていたお護りを彼女に返す。彼のもとを去ったマイラは、ウォータールー橋で通り過ぎる車に飛び込み、そばにはお護りが転がっている。

 悪意が人を死に追いやるとき、人は悪意を憎めばよいけれど、この物語に大きな悪意はない。マイラを追いつめたのは、彼女自身とクローニン、彼の家族らの良心や善意。ある種の気高さや、すれ違いへの溜息が、物語に漂っているのは、そのせいだと思う。

 ところで、女性は困窮だけが理由なら、なかなか売春はしないような気がする。また、困窮だけが理由で売春した場合、心の傷はなかなか致命的とはならないような気がする。
 困窮に絶望が加わったとき、それが困窮そのものに対する絶望にせよ、心の傷は致命的となるように思う。

 私も昔、一時期、そういう状況に陥ったところで知ったことか、という心境になったことがある。「女が簡単に稼げる方法だと言う。男には分からないのだ」と吐き捨てるキティの台詞には、自己防衛と同時に自己嫌悪、そしてそれにつけこむ男性すべてに対する嫌悪と敵意を感じる。
 が、分かる男も稀にいるというのが、世の中の救いかな。

 ウォータールー橋は現在では、コンクリートのモダンなアーチ橋に架け替えられているのだとか。

 画像は、モネ「ウォータールー橋、曇り」。
  クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926, French)