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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

プライベート・ライアン(続)

2008-03-18 | 一つの愛二つの心
 
 これでもかと圧倒する冒頭の戦場の様相が、最後まで尾を引く。1人の兵士を8人が救出する軍上層部の特務を、兵士たちは「フーバーだ」と罵る。前線に送り込んだ他の兄たちが戦死したと知った途端、残りの末弟を母親の許へと帰すよう命じる、そのために別の兵士たちの危険を無視する、軍の矛盾した温情。「俺にだってお袋はいるさ!」
 “フーバー(FUBAR)”とは、“Fuck-Up Beyond All Recognition(認識糞食らえの糞滅茶苦茶)”の略だが、思えば、戦争自体が“フーバー”なのだ。

 だから、戦争で意味のある行為があるとすれば、それは誰かの命を救うことなのかも知れない、というミラー大尉の言葉、生き残ったことを無駄にするな、しっかり生きろ、という言葉が、意味を持ってくるのだと思う。

 なぜ自分だけが特別扱いされるのか、と帰還を拒否するライアン、自分を探し出すために兵士が死んだと聞き、彼らの名を尋ねるライアンを、ずっと任務に反撥し、ライアンを罵り続けていたライベンが、眼で追い、最後の塹壕のなかでもしげしげと見つめる。ライアンの命は俺たちの命よりも価値があるってのか? というそれまでの問いが、もう消えているのが分かる。残って一緒に戦うハメになったのに。
 そのライベンが、カパーゾの手紙を最後に手に取る。この手紙はカパーゾが父に宛てたもので、彼が死ぬと戦友が、その戦友が死ぬと別の戦友が引き継いで預かってゆく。ここに、生き残った者の使命のようなものが暗示されている。

 もう一つ。ドイツ語とフランス語が話せるばっかりに任務に引っ張り出された、実戦経験のないアパムが、実弾戦で、恐怖からどうにも動けなくなってしまう。実際、これがフツーなんだろうな。その彼が、以前自分が助けた捕虜のドイツ兵が敵軍に舞い戻って、ミラー大尉を撃ったのを目撃して、最後にそのドイツ兵を撃ち殺す。
 特定個人を、明確な殺意でもって、殺す・殺さないの選択肢から殺すことを選択し、殺す。理性によって殺す。人間として、どうしても許せなかったんだろうな。

 画像は、W.T.リチャーズ「レヴァリントン墓地」。
  ウィリアム・トロスト・リチャーズ(William Trost Richards, 1833-1905, American)

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プライベート・ライアン

2008-03-17 | 一つの愛二つの心
 
 自分用にレビューを残しておこうと思うのに、消費するほうが速くてレビューが追いつかん。

 私は戦争映画は、義務感から観る。相棒は、映画は楽しく観なきゃいけない、って言うけど、戦争映画を楽しく観るなんて無理。
 「プライベート・ライアン(Saving Private Ryan)」もそう(監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:トム・ハンクス、マット・デイモン、エドワード・バーンズ、ジェレミー・デイビス他)。「プライベート」とは「二等兵」という意味だとか。

 第二次大戦のノルマンディ上陸作戦。激戦となったオマハ・ビーチの攻防を切り抜けたミラー大尉は、軍参謀本部から、敵地に降下した行方の知れないライアン二等兵を救出するよう指令を受ける。ライアンの3人の兄たちは一度に戦死。末弟を母親のもとへ帰還させるように、との軍の温情だった。
 ミラーは部下を率いて、最前線へと向かう。兵士たちは、なぜ1人の兵士のために8人の兵士が命を懸けなければならないのか、と、任務に疑問を持つのだが……という物語。

 あー、この戦闘の描写、耐えられん。浜辺に接近する上陸艇。銃を構える兵士たち。が。ゲートが開いた瞬間、敵機関銃の掃射。前兵たちの体が次々と容赦なく吹っ飛ぶ。
 降り注ぐ銃弾。掠め行く銃声。運不運だけが生死を分ける。肉体の脆さ。死の呆っ気なさ。死体の重なり合う浜辺に、赤い波が打ち寄せる、文字通りの血の海。

 To be continued...
 
 画像は、レピーヌ「ノルマンディの海岸」。
  スタニスラス・レピーヌ(Stanislas Lepine, 1836-1892, French)

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ミリオンダラー・ベイビー(続)

2007-12-27 | 一つの愛二つの心
 
 フランキーはいつもゲール語で書かれたイェーツの詩集を読んでいて、マギーの初めてのウェルター級の試合で、鼻血まみれで勝利を喜ぶ彼女を見て、「モクシュラ」と呟く。イギリス・チャンピオンへのチャレンジ・マッチの際、彼はマギーに、このゲール語“モクシュラ”と刺繍されたグリーンのガウンをプレゼントする。緑は確かアイリッシュ・カラー。
 会場のアイルランド人たちは「モクシュラ!」と叫んで熱狂、以来、これがマギーのリング・ネームとなる。

 だから多分、この映画はアイリッシュな要素が一つのポイントなのだろう。家族愛が重要なエレメントだし。フランキーは熱心なカトリック教徒だし、イェーツを愛読しているし。タイトル・マッチではマギーがバグパイクの演奏で登場、アイルランド系がアイルランドの国旗を振って声援を送っていたし。
 レモンパイに目がないフランキーをマギーが連れて行った、国道沿いの食堂の看板には、“IRA'S DINER”。……おいおい。

 このレモンパイもポイントで、フランキーがマギーにイェーツの詩、「イニスフリーの湖島」と読んで聞かせ、この詩のように小屋を建て、そこで一緒に平穏に過ごすかい? と尋ねると、マギーは、じゃあレモンパイを焼くわ、と答える。
 フランキーはマギーに“モクシュラ”の意味を告げた後、姿を消す。国道沿いの店のカウンターでレモンパイを食べているイメージ・シーンで終わるが、フランキーが持っていた注射器が2本だったことが、彼の行方を暗示している。

 薄明かりが灯るだけの夜のシーンが多く、映像に一貫する光と影のコントラストはとても印象的。
 相棒がすぐに憶えて口ずさんだ、あの単純素朴な音楽は、イーストウッドによるものなのだとか。

 画像は、R.ヘンリ「アイルランド娘」。
  ロバート・ヘンリ(Robert Henri, 1865-1929, American)

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ミリオンダラー・ベイビー

2007-12-26 | 一つの愛二つの心
 
 数日前から冬休み。美術館まで遠出したり、映画を観たり、その合間にチャバネを片付けたりして過ごしている。結構元気。このブログには訪問者が多く、心配の声も聞くので、ご報告。
 ついでに、映画のレビューを一つ。「ミリオンダラー・ベイビー(Million Dollar Baby)」(監督:クリント・イーストウッド、出演:クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン、他)。

 ロサンゼルスのダウンタウン。昔ながらの小さなボクシング・ジムを営む初老の名トレーナー、フランキー・ダンのもとに、31歳の女子ボクサー、マギー・フィッツジェラルドが弟子入りを志願してくる。女は教えない、と断るフランキーだが、マギーのボクシングへの情熱に折れて、彼女を育てることに。そのなかで、師弟を越えた絆と愛情も育まれてゆく。
 フランキーの指導のもと、めきめきと上達したマギーは連戦連勝、ついに世界ウェルター級チャンピオン、ダーティなファイトで知られるビリーに挑戦する。百万ドルを賭けたタイトル・マッチはマギーの優勢で進むのだが……、という話。

 物語は、フランキーを唯一理解する初老の黒人、元ボクサーで今はジムの雑用係をしているスクラップを語り手に進む。そしてそれは、フランキーの実娘、ケイティへと当てたものだということが、後で分かる。
 フランキーは過去の何らかの行為のせいで、自分を許せず、また娘からも許されないで、娘とは疎遠な状態にある。彼は毎週、娘に手紙を書いているが、それらは決まって未開封のまま送り返されてくる。スクラップは、何とか君を捜し出して、と言っているから、娘はフランキーの手紙だけを拒絶しているのではなく、フランキーから完全に存在を消してしまっているのだろう。

 一方、マギーもまた、トレーラーで育ち、13歳からウェイトレスをして働くという貧困のなか、家族の愛情には恵まれないでいた。
 こうした、愛情を拒まれる父親と、愛情を知らずにいた娘とのあいだに芽生えた愛情は、互いを慈しむヒューマニズムが貫いていて、最後の結末に説得力を持たせている。

 To be continued...

 画像は、アリンガム「アイルランドの小屋」。
  ヘレン・アリンガム(Helen Allingham, 1848-1926, British)

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シザーハンズ

2007-09-12 | 一つの愛二つの心
 
 相棒は、若いとき、映画を1万本観ると決めて千本まで観、1年くらい前から、一からやり直して百本ほど観た。だから私も、もう百本ほど観たことになる。
 昨日観たのは、「シザーハンズ(Edward Scissorhands)」(監督:ティム・バートン、出演:ジョニー・デップ、ウィノナ・ライダー、ダイアン・ウィースト他)。
 鑑賞後は両手をチョキチョキしながら、カクカク歩いてしまう。でも実際のところ、こういう悲しいファンタジーって、悲しくなっちゃってダメポ。

 エドワードは、丘の上の屋敷に住まう人造人間。人間と同じ心と身体を持つが、彼を生み出した孤独な発明家の老人が急死したため、両手は未完成でハサミのまま。ある日、一人残された彼を同情した、化粧品のセールス・レディ、ペグが家へと連れ帰る。
 エドワードは両手のハサミで、植木やペットの毛、女性たちの髪を刈って人気者になる。彼はペグの娘キムに恋をするが、やがて、人間たちの残酷さ、身勝手さに傷ついて……、という物語。

 両手がハサミ。そのため、フランケンシュタインのように、顔は傷だらけ。一見、不気味で、でもコミカルで、心は純粋な人造人間、というあり得ない設定。が、そんなものが、自己中心的で間主観的で意地悪で無責任な人間どもの世界へとやって来たら、さもありなん、という、無理のない展開。
 親である発明家に愛され、自身も人を愛する心を持つ人造人間(このあたり、フランケンシュタインとは正反対)。対して、普通の人と異なるからという理由で、ちやほやしていたのが、一転、人類の敵のように祭り上げる、醜悪な隣人たち。彼を理解しているのに、彼を護るために闘う術を知らない、不甲斐ない家族。……大いにデフォルメされた構成なのに、現実にもよくあるパターン。さながら私はエドワード。

 ただ、ヒロインのキム、これはあまり魅力がなかった。彼氏の悪事にエドワードを巻き込むし、そのくせエドワードの無実を晴らそうとしないし。どうも卑怯っぽい。金髪も嘘っぽいし。 

 雪が降る理由は、凄く切ない。私も、醜悪な人々から遠く離れて、チョキチョキ(……じゃなくてもいいけど、何かクリエイティブなことを)しながら暮らしたい。

 画像は、トワックマン「クリスマス・ツリー」。
  ジョン・ヘンリー・トワックマン(John Henry Twachtman, 1853-1902, American)