チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

大地震 その13

2011年03月24日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月12日(土) 震災2日目

7時、私たちは、被害状況確認のためヒロシの実家と連絡の取れない私の実家へ行くことにした。
途中で、灯油を購入しようとポリ缶2個を積み込む。
(この行為が私たちを救った)

ヒロシの実家は、家を囲む石垣塀が崩れ、屋根瓦が所々ずれ、2階のサッシ窓が10㎝程開いたままになっていた。頑丈なブロック造りの蔵には、数か所のひび割れが出来ていた。
義兄たちに怪我が無かったので、一先ず安心。

その足で、私の実家へ向かう。
途中、国道でコンビニに入る。とにかく、何かすぐ食べられる物が欲しかった。
駐車場は満杯。
中に入ると、期待していたおにぎり・パンはからっぽ。
その他の商品棚もそれに近いものがあった。
誰しも、考えることは同じらしい。
私たちはあきらめて、車に戻った。

国道を左折しようとして、先が詰まっていることに気付く。
ガソリンスタンドの行列が、10台ほど国道まではみ出していた。
そこをパスし、先を急ぐ。
私たちには、当てにするガソリンスタンドがあったのだ。

また、コンビニを見つけて入る。ここは、先程の所よりマシだった。
スナック菓子5袋、フルーツゼリー3個、お茶のペットボトル4本、なぜかキウイ2個を買うことができた。(こんな時は、ビタミンの補給が大事だと思った)
水は売り切れて、もうない。

さらに進み、お目当てのガソリンスタンド。
混んではいたが、道路に行列ができるほどではなかった。
(つまり、市街から離れているので、まだ空いていた)
灯油2缶と、プリウスを満タンにすることができた。

築60年の実家は、存在していた。よかった。
両親も元気そうだった。
その時は、屋外に避難したのだという。
家がギシギシと揺れ、怖かったと話す。
やはり、停電。ガスは、プロパンで使える。
水は井戸水だが、電気式ポンプで汲み上げているので、ダメだった。
お茶のペットボトル4本をおみやげ代わりとした。
コタツは、炭。反射式ストーブ。灯油の保存もあった。
食料もとりあえずは、冷蔵庫の残りと畑の野菜で大丈夫とのこと。

私たちは、我が家に戻り、お昼は小麦粉と卵、キャベツ、カニカマで、お好み焼き風を作って食べた。粉っぽかった。
こうなると、今ある材料で、何ができるかといろいろ知恵が浮かぶものだと可笑しくも思った。
私たちは、人肌コタツに入って横になることにした。疲れていた。
窓から射す、太陽の光が有難かった。

今夜も停電が続くからと、早い夕飯。(食べたものは思い出せない)
車の12Vで充電したヒロシのワンセグを見ていると、パッと明かりが点いた。
明かりが灯るとホッとした。
明かりとは、こんなに幸せなものだったのだと思った。
しかし、TVの大画面で見る津波被害の状況は、ワンセグのそれよりも、もっと凄惨なものだった。


その14へ つづく




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2 コメント

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> 宮城県さん (チエちゃん)
2011-03-30 05:48:51
いえいえ、状況は福島も同じです。
私たちは、運が良かったのです。
震災翌日、午前9時ごろだったので、まだ満タン給油が出来たのです。
午後にはもう、長蛇の列。売り切れ続出。
その後、1週間は、緊急車両のみになりました。
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Unknown (宮城県)
2011-03-29 09:46:35
仙台いや宮城では震災後給油できるスタンドはありません電気が無いのでポンプが使えずまた自家発電のある震災用のスタンドは自治体が素早く押さえたので緊急車両以外利用出来なくなりました、福島は良い条件がそろっていたようですね。
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