元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「四川のうた」

2009-06-10 06:23:48 | 映画の感想(さ行)

 (原題:二十四城記)秀作だったジャ・ジャンクー監督の前の作品「長江哀歌」ほどではないが、見応えはあると思う。四川省・成都にある巨大国営工場が国家当局の方針転換によって閉鎖され、広大な敷地はニュータウンへと生まれ変わる。ところがその工場で働いてきた人々の数は相当なものであった。

 国の繁栄と生活の安定を願って地道に職務に励んでいた彼らは、政府の勝手な都合によって、いとも簡単に放り出されてしまう。もちろん、仕事を終えるにあたっては相応の手当をもらうだろうし、次の職場を斡旋された者も多いだろう。しかし、この工場で積み上げてきたスキルと矜持、そして苦楽を共にした人間関係は、いくら退職する際にそれなりの保障があったとしても、理不尽に奪われるべきものではないはずだ。

 映画は8人の労働者をピックアップしてそのプロフィールを紹介してゆくが、顔に刻まれた皺や遠くを見つめるような眼差しが工場と一緒に過ごした年月の深さを物語る。面白いのは実際の当事者たちだけではなく、ジョアン・チェンやリュイ・リーピンといったプロの俳優が混じってストーリーを紡いでいる点だ。ヘタをすればそこだけ浮いてまとまりのない出来になっていたところだが、演技力のあるキャストを入れたことによって登場人物達の生きた世界が奥行きを増している。この監督でしか出来ない芸当かと思う。

 かつては最先端の設備を誇っていた工場が、合理化によって廃墟となりやがて取り壊される。滅びゆくものに対するジャ監督の視線は哀切に満ちているが、それは上辺の経済的効率が優先される昨今の風潮に対するアンチテーゼであることは言うまでもない。

 終盤近くに描かれる新しい都市の無味乾燥な佇まいも併せて、ひところ一世を風靡した新自由主義経済の虚しさを訴えかける。そして人間にとって労働とは何なのか、職場とはどういうものか、住む者の仕事と密着した“有機的な”街の風景とはいかなるものか、それらを観る者に深く考えさせる。「長江哀歌」で特徴的だった、ドキュメンタリータッチとケレン味溢れる映像ギミックの融合という妙味がないのは残念だが、作品の性格上それは仕方がないことだろう。

 余談だが、我が国の状況は本作で描かれている構図よりもさらにヒドいと思う。無情に職を奪われていく人々が増加する一方で、この映画のような(雇用を生む)具体的な大規模開発計画さえ提示せず、もちろん労働者への保障はなおざりで、事態を放置したままジリ貧状態まっしぐらだ。経済政策において中国にさえ遅れを取るとは、まさに恥でしかないだろう。
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「咬みつきたい」

2009-06-09 06:24:34 | 映画の感想(か行)
 91年作品。会社の汚職事件の責任をとらされた上、殺されてしまった男が、ドラキュラとなって復讐するという日本映画では珍しいホラー・コメディ。こんなおちゃらけた企画がよく通ったなとあきれたものの、監督が金子修介なら話は別だ。なんといっても彼は話がマンガであればあるほど、作品にリアリティが出てくるという、珍しい才能の持ち主なのだから(これは褒めているのだ)。

 さらに、チャウシェスクが実はドラキュラの血の研究をしていて、それを安田成美扮する科学者の執事が日本に持ってくる導入部とか、緒方拳のドラキュラが昼間出歩いたために帰ってきたら老人になっているエピソードとか、ところが日傘とサングラスをかけていたら日光も平気だったり、人間に戻すために血を入れ換えるシーン(これってほとんどフランケンシュタインだ)、極め付けは採血する医者になりすまして血を集めるくだりなど、由緒正しいドラキュラ映画ファン(そんなのいるのか知らないが)が見たら腹を立てそうな場面のオンパレードで、徹底的に遊んでいるといった感じだ。第一、ドラキュラといえば昔から色白で長身の美男子と相場が決まっているはずだが、頭の薄い疲れた中年の緒方拳では、イメージが壊れてしまう(爆)。

 それではつまらない映画かというと、そうではないのだ。主人公と石田ひかり演じる娘の関係が丁寧に描かれていたり、吉田日出子の妻と彼女に思いを寄せる主人公の弟のエピソードなど、けっこう登場人物が等身大にとらえられていて、話が絵空事になるのを抑えている。そして安田成美が血を吸われるシーンのこの監督にしては耽美的なイメージも捨て難い。やっぱりファンタジーにこそ日常的リアリティが不可欠であるという、常識を再確認できる。空撮を生かしたカメラワークも見所のひとつだ。
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「チョコレート・ファイター」

2009-06-08 06:25:12 | 映画の感想(た行)

 (原題:Chocolate )驚くべきタイ製アクション映画である。展開は荒っぽく、エクステリアは垢抜けない。もとより予算をそんなにかけておらず、ウェルメイドな手触りを求めても仕方がないと言える。しかし、ヒロインの憤怒が極限にまで達し、その能力が全解放されるとき、本作のヴォルテージはまさに“映画の神が降りてきた”ような目覚ましい次元にまで到達する。観る者はその輝きに陶然とするしかない。

 日本人のヤクザと地元のボスの情婦との間に生まれた主人公ゼン。生まれながらに自閉症という重いハンデを負っている彼女だが、目にした格闘技のスタイルをそのまま自らのものにしてしまうという特殊能力を持っていた。いわゆるサヴァン症候群のヴァリエーションだが、実際にこういうパターンがあるかどうかは怪しい。しかし、メンタル面での傷害に苦しみながらも、難病で倒れた母親を助けようとして数々の難敵に立ち向かうという、その設定だけでも健気で泣かせる。しかも必死の戦いを展開するのはマッチョなファイターなどではなく、か細い身体に鞭打って技を繰り出す女の子なのだ。

 主演の“ジージャー”ことヤーニン・ウィサミタナンは、まさしくここ数年の映画界での“ひとつの発見”である。どこから見ても普通の女の子だ。ところが一度格闘のスイッチが入ると、完全に人間のレベルを超える。同じプラッチャヤー・ピンゲーオ監督の「マッハ!」を観たときもびっくりしたのだが、本作はあれを上回る。CGもワイヤーもスタントマンも使っていないという謳い文句で、己の肉体だけを武器にした、これぞ原初的な“アクション”の神髄である。

 ブルース・リー映画の影響が見て取れるのも嬉しい。製氷工場での死闘は「ドラゴン危機一発」の、大座敷での立ち回りは「ドラゴン怒りの鉄拳」の、そして敵役がジャージー姿で出てくるシーンは「死亡遊戯」の、それぞれオマージュであることは論を待たない。しかもちゃんと怪鳥音まで挿入されるのには参った。

 敵方にもゼンと同じような傷害を持った少年がいて、そいつと死闘を繰り広げるシーンは何かの間違いではないかと思うほど凄い。まるで夢を見ているようだ。さらにクライマックスの線路高架下での死闘は、並の神経で撮ってはいない。常軌を逸している。すでに“あっちの世界”に行っていると言っても良く、ただただ圧倒されるのみ。

 とうに死んでいるはずの面々が五体満足で動き回ったり、唐突に日本語のナレーションが入ったりと、いろいろと納得できないことはあるのだが、この超絶的な体技の応酬を見ているとそんなことはどうでも良くなってくる。ヒロインを取り巻くキャラクターは十分に“立って”いるし、日本人ヤクザとして登場する阿部寛もイイ味出している。とにかく、活劇史上に残る快作としてチェックする価値は大いにあるだろう。
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野沢尚「深紅」

2009-06-07 17:06:32 | 読書感想文
 幼い頃に家族を虐殺された女子大生が、加害者の同世代の娘に身分を隠して接触し、一種の“復讐”を果たそうとするサスペンス。以前この映画化作品を紹介しているが、小説版はどうもパッとしない。高橋克彦は“これは奇跡的傑作だ!”なんて絶賛しているらしいけど、その評価は怪しいものだ。少なくとも「破線のマリス」や「リミット」といった野沢の他の作品と比べると相当落ちる。

 何よりダメな点は、序盤に一家惨殺事件の詳細を描いてしまったことだ。仕事上の恨みから相手の家族までも殺害してしまう犯人の異常性を冷徹に追うパートは十分衝撃的だが、そのために舞台を現代に移した後半部分が薄っぺらに見えてしまう。ヒロインの側からすれば加害者の娘が(社会の裏街道を歩いているとはいえ)のうのうと生きていること自体が許せないことだろうが、前半の修羅場に匹敵するような見せ場を作ってくれないと読む方は納得しないのだ。

 この程度の“復讐”なんてママゴトと一緒だし、そこに至る心理描写も取って付けたようで物足りない。なお、この事件のモデルとなっている殺人事件が実在するそうだ。ただし、作者が綿密に取材したのかどうかは不明。何も知らない事件関係者が読んだら不愉快な思いをするのではないかと、いらぬ心配をしてしまった。
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最近購入したCD(その17)。

2009-06-06 06:54:24 | 音楽ネタ
 まず紹介するのがシアトルのロック・バンド、フリート・フォクシーズの同名のデビュー・アルバム。最近聴いたディスクの中で最もインパクトが強かったのがこれだ。先日「トワイライト 初恋」という映画について述べたが、あの作品で描かれた米国ワシントン州の幽玄な自然の風景がそのまま音楽になって流れてくると思えばいい。とにかく壮麗でスケールが大きい。旋律はあくまで優美で、コーラス・ワークの素晴らしさはタメ息が出るほどだ。通常のギターやドラムスといったロックを構成する基本的な楽器だけではなく、バンジョー、マンドリン、ピアノ、フルートといった多種多様なインストゥルメントを使い、分厚い音世界を展開させている。



 各ナンバーは一見同じ調子のように思えるが、それぞれ巧みにニュアンスを変えてきており聴き飽きない。録音もこのジャンルのディスクにしては良い方だろう。リーダーでヴォーカルのロビン・ペックノールドをはじめとするメンバーは、何と20歳代前半という若さだ。こういうグループの出現を見ると、アメリカの音楽文化がいかに奥深いものかを痛感する。ヒットチャートではCMやテレビドラマとのタイアップ曲がえらく目立つ“音楽後進国”の日本とは雲泥の差だ。なお、国内盤CDに関してはファースト・アルバムに先立って発売されたEP盤の「サン・ジャイアント」がカップリングされており、その意味でもお買い得感の高い音楽ソフトである。

 フロリダ州を拠点として活動を続けてきたジャズ・ピアニストのマイケル・ロイヤルが、自らのトリオを率いてリリースしたアルバム「トランジション」は、その簡素すぎる装丁に誰しも買うのをためらってしまうだろう。みすぼらしい紙ジャケットにディスクが放り込まれているだけで、CDを入れるビニール状の袋さえない。もちろん別添のライナーノーツも省略されており、ジャケットの裏に簡単な紹介文が書いてあるだけだ。しかし、内容は目を見張るクォリティの高さである。見かけばかりで判断していては、めぐり逢えない音楽もあるのだ。



 「サム・アザー・タイム」や「フットプリンツ」といった良く知られた曲のカバーを中心に、いくつかのオリジナルが挿入された構成。まずそのクリスタルのような透徹した音色に魅せられてしまう。メロディの美しさを存分に引き出すロイヤルの繊細極まりないピアノ・タッチと、マイナーだが手練れのテクニシャンであるドラマーとベーシストの強力なリズム・セクションとのコラボレーションは、スリル満点だ。けっこう緊張感はあるが、決して聴き手を突き放さない。それどころか清涼なサウンド世界にリスナーを引き込んでしまう。録音もかなり優秀で、部屋の空気まで変わってくるようだ。どこにでも売っているディスクではないものの、耳を傾ける価値はある。

 ヘンデルのオルガン協奏曲は良く知られたナンバーであるにもかかわらず、意外と代表盤が少ない。曲の雰囲気からしてモダン楽器よりもオリジナル楽器を使った演奏がツボに入ると思われるのだが、一時期は評判になったトレヴァー・ピノック&イングリッシュ・コンソートによるアルバムは国内盤のリリースが終わったようだし、定番と言われているトン・コープマン&アムステルダム・バロック・ソロイスツ盤は、個人的にはどうもマジメすぎて面白くない。そんな中で久々の快打が、このオッターヴィオ・ダントーネ&アカデミア・ビザンティーナというイタリア勢によるアルバムである。



 まず感じるのは音色の明るさだ。快晴の空の下で野外コンサートを聴いているような爽快感がある。ダントーネのオルガンは実にスムーズで屈託がない。かといって決して軽くはなく、要所を押さえた堅実さも覗かせる。時折挿入されるちょっとしたケレン味も絶妙の効果だ。バックを務めるアカデミア・ビザンティーナの演奏は小気味良く、モタついた部分は微塵もない。聴き手によっては陰影が無さ過ぎると思うかもしれないが、この清新な持ち味は“これでいいのだ!”という説得力を持っている。録音も良好。左右の広がりは程々だが、各楽器の前後の距離感は上手く捉えられている。特にやや腰高に定位するオルガンの響きは、ノーブルかつ鮮やかだ。
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「キャラメル」

2009-06-05 06:28:10 | 映画の感想(か行)

 (英題:Caramel )どうにも居心地が悪い。これは、散りばめられたエピソードがどれも完結せず、空中分解したまま放置されたことによる。もちろん、結末を付けないこと自体が悪いというのではない。明確なエンディングを迎えなくても、観客に対する訴求力の大きい映画は作れる。しかし本作は物語を途中で放り出したとしか思えない。こんな体たらくではとても評価できない。

 レバノンの首都ベイルートを舞台にした女たちのドラマ。とあるエステサロン(美容院)の従業員や常連客、近所の住人など5人の女たちが主人公。彼女たちはいずれも悩みを抱え、次なる一歩になかなか踏み出せないでいる。その屈託の描出は申し分ない。観ていて身につまされるシーンもある。

 タイトルの『キャラメル』とは砂糖を煮詰めて作る例の甘い菓子のことだが、当地では出来たばかりで軟らかいキャラメルを脱毛ワックス代わりに使うらしい。これは実に痛いと思うのだが(爆)、その“甘いけど痛い”という素材を登場人物達の甘辛い人生のメタファーとして機能させようとしている。これは良いと思う。

 しかし、前述のように彼女たちが何をどのようにして内面で決着を付け、最後はああいう行動に走ったのか、まったく述べられていない。明示どころか暗示もなし。これで作劇を組み立てたと言えるのか。さらに、ビデオ上映であったことが大いに萎えた。しかも、この画質の荒さは断じてブルーレイディスクなどの高精細フォーマットではなくDVDレベルである。こんなのを金取って上映する神経が分からない。いずれにしろ作品の低調ぶりを象徴していたと言えよう。

 あまりケナすのも何なので褒める点を二つあげたい。一つはレバノンの文化と風俗。地中海沿いの小国だがイスラエルと南で国境を接しており、昔から紛争が絶えない。民族的にはアラブ系のはずだが、キリスト教徒が3割以上いるらしく、劇中でもそれが示されていた。そしてフランス領になったこともあるのでフランス語が日常会話の端々に現れる。普段なじみのない国だけに、大いに興味深かった。

 二つ目は監督・脚本のナディーン・ラバキーだ。若手の女流で、映画の中でも不倫に走るエステサロンのオーナーに扮しているのだが、これが凄い美人なのである。もちろん、普段は女優でたまにメガホンを取るといったスタンスではなく、監督が本業(長編はこれが初めて)。おそらくは現役の女流映画監督の中では世界一ルックスが良いと思う。・・・・というか、本作の出来からして、今後は監督よりも演技者としての仕事を増やした方がいいのではないだろうか。
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「刑事グラハム 凍りついた欲望」

2009-06-04 06:27:26 | 映画の感想(か行)
 (原題:Manhunter )86年作品。トマス・ハリスのレクター博士シリーズの最初の作品「レッド・ドラゴン」の第一回目の映画化(第二回目は2002年にブレット・ラトナー監督によって作られている)。監督は「インサイダー」や「アリ」などのマイケル・マンで、人気TVドラマ「マイアミ・バイス」を手掛けていた時期に撮った映画だ。

 連続一家殺害事件を追うFBIのクロフォード部長は、元捜査官グラハム(ウィリアム・ピーターセン)に協力を依頼する。彼は犯罪者の心理に同化し、嗅ぎ当てる特殊能力の持ち主だった。犯行は猟奇的で、どうやら満月の晩だけ凶行を繰り返しているらしい。次の満月の夜までにどうにかして解決させねばならない。この事件の鍵を握っていたのが、グラハムがかつて捕らえた天才的精神科医にして変質的な殺人鬼レクター博士(ブライアン・コックス)である。

 いかにも低予算、キャストも見慣れない名前ばかりで、一見マイナーなB級作品であるが、ハッキリ言って「羊たちの沈黙」よりも面白い。

 主人公は2人いる。一人は捜査官グラハムで、もう一人は犯人の連続殺人鬼だ。追う者と追われる者という違いはあるが、この2人はコインの裏表なのだ。グラハムの家庭が必要以上と思うぐらいに綿密に描かれている。一方、犯人は家庭の暖かさを知らずに育ち、それが人格に大きな影響を与えている。粘着気質の性格は同じで、互いに心に傷を負っていながら、環境の違いでこうまで人生が隔たってしまった。この設定は苦い過去を持っているとはいえ実直なワーキング・ウーマンに過ぎないヒロインを登場させた「羊たちの沈黙」よりも興味深い。

 グラハムは犯人の心理を読もうとするたびに、過去の身を削るようなレクター博士との死闘が頭をかすめ、苦悩にさいなまれる。「羊たちの沈黙」と違って犯人像がよく描きこまれており、その異常な動機も「羊たちの沈黙」の犯人----結局はただの変態おじさん----と比べて真に迫ったものがあり、観る者をゾッとさせる。しかも、犯人にとって唯一救いとなる母性的な女性(彼女は盲目という設定)を登場させるあたり話の運び方に一日の長が認められる。

 ドイツ映画を思わせる寒々とした画面とスリリングな展開は異様な迫力を生み出し、最後まで目が離せない。プロットが強引・難解なところがありミステリーとしては上出来とは言えないかもしれないが、キャラクター設定の見事さはそれを補って余りあると思う。レクター博士は今回はあまり出番がないが、それでもグラハムの住所と電話番号を少ないデータからあっという間に突き止めてみせるくだりは、なかなかの鬼才ぶりである。

 寒色系の手触りを身上とするマン監督の持ち味は、「ヒート」や「コラテラル」などの単純な娯楽編では作品が妙に“沈んだ”感じになるが、こういうニューロティックな雰囲気の作品にはよくマッチしている。観る価値はある佳作だ。
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「レイチェルの結婚」

2009-06-03 06:36:03 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Rachel Getting Married)やるせない映画だ。舞台はコネチカット州の田舎町。長女レイチェルの結婚式を間近に控えたバックマン家に、麻薬中毒患者のリハビリ施設から一時帰宅を許された次女キムが戻ってくる。祝賀ムードに包まれた家族と友人縁者たちの中にあっては異質な存在だが、それでも式と披露宴は滞りなく進む。しかし、キム自身がこの一家に漂う“暗い影”の象徴であったことが明らかになるにつれ、観ていて何ともやりきれない気分になる。

 結局、この一家はキムがリハビリセンターに収監されるずっと前から“崩壊”していたのだ。もちろん、そのきっかけを作ったのはキム自身である。しかし、状況を考えると家族全員に責任があると言わざるを得ない。世の中には、不幸な目に遭ってもそれを乗り越えてたくましく生きてゆく家族は、いくらでも存在する。ところがバックマン家の悲劇は、その逆境に対峙しないまま有耶無耶の状態で時を重ねてきたことだ。

 それに耐えられず母親はすでに家を出ている。レイチェルだって結婚は喜ばしいことだが、彼女とパートナーの新居は遠く離れたハワイだ。今後はそう頻繁には帰省できない。逆に言えば、実家に帰ることが難しいような地理的条件を、自ら選んだのだ。母親と同様、レイチェルも早々に家を出たかったのである。

 音楽業界に身を置く父親はかなりのリベラル派らしく、数多い友人知人は人種もさまざま。マイノリティも目立つ。いろんな話題と情報が飛び交い、気の置けない会話だけで毎日を面白可笑しく過ごせるように思える。しかし、それは家族の“暗い影”を封印しているだけなのだ。陽気に振る舞ってはいるが、食器棚の奥にしまわれた辛い過去を思い出して立ち往生してしまう、彼の屈託が悲しい。キムはといえば、式が終わると逃げるようにリハビリ施設に逆戻りするしかないのだ。

 かつて「ストップ・メイキング・センス」というコンサート映画の傑作を作り上げたジョナサン・デミ監督らしく、断続的に挿入される音楽演奏シーンは見事である(反面、いわゆるBGMとしての音楽は存在しない)。ただしそれは、事の本質に向き合わずに目先の楽しさだけにウツツを抜かす登場人物たちを象徴しているとも言えるので、理屈抜きで楽しむわけにはいかない。手持ちカメラを駆使した臨場感あふれる映像も要チェックだ。

 キムに扮するアン・ハサウェイは目を見張る力演。キュートなルックスも含めて20代のアメリカ人の女優では屈指の人材で、アカデミー賞ノミネートも納得だ。彼女と母親役のデブラ・ウィンガーを除いて顔を知らない俳優ばかりだが、皆実力派である。家族関係の終焉を描いた辛口のドラマとして、観ていて楽しくはないが、存在価値は大いにあると思う。
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「ヌードの夜」

2009-06-02 06:30:45 | 映画の感想(な行)
 93年作品。元エリート証券マンで、今は街の“何でも代行屋”にまで落ちぶれた村木(竹中直人)は、ある日地方から出てきたという女・名美(余貴美子)から東京見物のエスコートを依頼される。最初は気が乗らなかった村木だが、ちょっとした美人の名美と一緒にいるうち、まんざらでもない気になってくる。しかしその晩突然キャンセルされ、翌日荷物を取りにホテルの彼女の部屋に入ると、浴室には男の死体が。ヤクザ(根津甚八)にゆすられていた名美は、ヤクザを殺し、死体の始末を村木に押しつけて失踪したのである。必死になって名美を探す村木だが、殺されたヤクザの弟分の執拗な追跡が始まる。

 劇画家・脚本家としても知られる石井隆の、これが監督4作目だ。公開当時は評論家筋に高い評価を受けていた映画だが、ハッキリ言って少しも面白くない。まず暗い。とことん暗い。意味もなく暗い。こんな鬱陶しくなるような映画撮って何が楽しいのかと思う。

 別にすべての映画が明るくなくてはいけないとは思わないが、観客を無視したような暗さのための暗さみたいな、自己矛盾に限りなく落ち込んでいく一人よがりの暗さにはウンザリである。第一、ヒロインのキャラクターがいけない。あんな主体性がなくて受け身でメソメソして挙げ句の果ては殺人を犯すような女を思い入れたっぷりに描くこと自体、信じられない(大っ嫌いだ。こんな女)。

 技巧的にも見るべきものはない。シャワー室での殺人シーンは石井の前作「死んでもいい」の二番煎じである。ラストの死んだ者の魂が疾走する場面は監督デビュー作「天使のはらわた/赤い眩暈」の二次使用である。拳銃が頭にめりこむ幻覚シーンはテイヴィッド・クローネンバーグ監督の「ヴィデオドローム」のモノマネである。極端な長回しはストーリーをわからなくするだけで、ちっとも効果が上がらない。

 本来なら途中退場するタイプの映画だが、なぜかキネマ旬報のベストテンに入っているせいで、最後まで観てしまった。どうして評論家はこういう映画を褒めるのだろう。当時の彼らの文章を読んでも意味不明の単語が並んでいただけという記憶がある。肝心の“どこが面白いのか”が書かれていない。こうした一般ピープルと嗜好のかけ離れた連中が映画ジャーナリズムの一翼を担ってんだから、邦画を取り巻く状況は明るいものではない。
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「レッドクリフ Part II 未来への最終決戦」

2009-06-01 06:30:25 | 映画の感想(ら行)

 (原題:RED CLIFF PART II/赤壁)今後の映画興行の在り方を示す意味では興味深い一編だ。前作が封切られてから半年近く経つが、続編の公開にありがちな“パート1を観ていることが鑑賞の絶対条件”みたいなスタンスが微塵もないことが面白い。

 本当のことを言えば、もちろん前作を観ていないと物語の背景や登場人物の関係は分からないのだ。しかし、興行主のエイベックスはパート1を観ていなくても何ら支障がないように、本編前に十分時間を掛けた“前回までのあらすじ”を勝手に挿入した。もちろんナレーションと画面表示は日本語。CGも効果的に使われ、これが実に分かりやすい。

 話自体が日本人にも馴染みの深い“三国志”だったことも大きいが、なおかつダメ押し的に説明を繰り返すことで、観客をスグに映画の中へと引き込むことに成功している。さらに映画が始まると、前回でもお馴染みになった過剰な説明的テロップの洪水だ。主だったキャラクターが出てくると氏名がフリガナ付きで表示される。場面が切り替わると“ここは○○側の陣営です”みたいなフォローが入る。まさにかゆいところに手が届くような、何も考えずに観ていられる至れり尽くせりのエクステリアだ。

 パート1はテレビゲームみたいな映画だと思ったが、この二作目は遊園地だろう。観る者は想像力や洞察力を働かせる余地は全くなく、出し物を受動的に楽しんでいるうちに何となく時間は潰せる。こういうマーケティングを編み出したエイベックスのスタッフはアイデア賞ものだ。しかし、私のような昔ながらの(?)映画ファンとすれば、こんなのは“邪道”であることは論を待たない。本作が興行的に成功したのを受けて、他の娯楽映画でも同じように説明的小道具が満載になってしまっては堪らないのだ。

 さて、映画自体の出来はどうかといえば、特筆されるものはない。前半までは目立った活劇シーンがなく、観客を焦らしておいて中盤以降にグッと盛り上げる作戦が功を奏し、後半のアクションの釣瓶打ちは大したものである。ただし、元より登場人物の内面描写や歴史に対する骨太な見解などを捨象しているため、深みはない。観た後はすぐに忘れ去られてしまうようなシャシンだ。

 もちろん、たかが映画に対して物事を突っ込んで考えない多くの観客にとって、ほどよい“薄味感”だと言うことは出来る。ただ、暗黒街ものを手掛けていた香港映画時代や、ハリウッド進出後の「フェイス/オフ」などでは映像面でも主題の掘り下げ方でも奥行きのある展開を見せていたジョン・ウー監督の作品としては、まるで物足りないことは確か。終盤付近に取って付けたように“戦争の虚しさ”を強調するのもワザとらしく、彼のフィルモグラフィの中では上位に来る作品では決してない。
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