元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「蜘蛛女」

2009-06-18 06:24:14 | 映画の感想(か行)
 (原題:Romeo is Bleedings)94年作品。この映画のヒロインは宣伝文句によると“映画史上最高の悪女”らしい。それにしても“悪女”という言葉はあっても“悪男”という言葉はないのは、逆差別ではないだろうか(^_^;)。それと、「氷の微笑」や「ゆりかごを揺らす手」のヒロインは“悪女”と形容されるが、「ミザリー」とか「ダニエルばあちゃん」の主人公みたいなのはあまり“悪女”とは呼ばれない。周囲が受ける迷惑は後者の方が大きいのではないかと思うのだが・・・・。やっぱ映画の世界では、いくら底意地が悪くても、美人じゃなきゃ“悪女”ではない。性格の悪い不美人(失礼)や意地悪な年寄りはホラー映画かコメディの主人公にしかなれないのだ(どうでもいいか)。

 ゲーリー・オールドマン扮する万年巡査部長が、小遣い銭ほしさにマフィアの情報屋をやってるうちに凶悪な女殺し屋に付きまとわれるハメになり、転落の道をまっしぐらに進んでいくというストーリー。

 “悪女”のコワイとこは、外見や雰囲気がどうあれ、フツーの身分のくせして裏で悪いことをするという点だ。当然、周囲をたぶらかす高い知性がモノを言う。沈着冷静、狙った獲物は逃がさない狡猾さ。獲物は当然金銭である。愛とか恋なんていう曖昧なものには悪女はとらわれない。この意味では「白いドレスの女」のキャスリーン・ターナーは映画史上屈指の悪女だったと思う。対して「危険な情事」のグレン・クロースは動機が婚期を逸した欲求不満であり、ラストで逆上するあたりは悪女の風上にも置けない。「いつかギラギラする日」の荻野目慶子とか「トゥルー・ロマンス」のパトリシア・アークェットなんぞは完全に問題外。“品”がなくては悪女ではない。

 それではこの映画のレナ・オリンはどうだろうか。最初から殺し屋として登場する設定から、“悪女”としてのポイントはかなり低くなる(意外性がないからだ)。しかも、どう見たってマトモな神経の持ち主とは思えない容貌。極めつけは、主人公に腕を撃ち抜かれ、車の後部座席に放り込まれるシーンだ。運転手の首を足で締め上げ、車を追突して大破させると、後部ガラスをハイヒールで叩き割り、全身血まみれで走り去っていく姿は、すでに人間ではない(おいおい)。確かに凄いけど、悪女というよりジェイソンやフレディに近いヒロインを描くこの作品は限りなくホラー映画に近づいていく。悪女ものとしてのキレの良さを期待していた私はがっかりである。

 G・オールドマンの好演が救いである。世の中金とセックスだ、と思い込んでいても、実際はしがないマフィアの垂れ込み屋。ヒロインには振り回され、最愛の妻(アナベラ・シオラ)には去られ、今では沙漠でひっそり暮らすしかないダメ男ぶりを、しみじみと演じていて印象的だ。脚本は女流のヒラリー・ヘンキン。監督はイギリス出身のピーター・メダック。音楽はマーク・アイシャムで、普段とはうって変わったホーン中心のジャズ的展開である。
コメント
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