(原題:The Last Station)物語の組み立て方に難のある映画だ。ロシアの文豪トルストイの死につながる最後の家出の真相を描くマイケル・ホフマン監督作品だが、トルストイの秘書になった青年ワレンチンの視点からドラマを追っていること自体が敗因である。もっとも、狂言回しのような第三者から物語を綴ることには異存がない。問題は、その第三者の扱い方が中途半端である点だ。
1910年、トルストイの文学と思想に心酔するトルストイアン(トルストイ主義者)のワレンチンは、トルストイの個人秘書に採用されたことを喜ぶが、上司のチェルトコフに命じられたのはトルストイ夫人のソフィヤの言行を監視して報告することだった。世界史上の“三大悪妻”の一人とされるソフィヤは、トルストイの理念を無視して金儲けだけに執心した女だと言われる。
だが、映画の中ではトルストイ夫妻は明らかに愛し合っている。だからこそ、ちょっとした認識の違いで溝が深くなってしまうのだ。この複雑な関係を描くには、トルストイの理想と現実主義のソフィヤとの確執に厳しく迫らねばならない。それを第三者の目を通して叙述するのならば、その第三者はトルストイ夫妻の深く関わり合って両者の立場を良く知る人間か、あるいは全然関係のない傍観者に現象面だけのリポートをさせて、結論を観客に任せるかのどちらかにすべきであろう。
ところが、ここでのワレンチンの立場は妙に煮え切らないのだ。トルストイ主義に心酔はしているが、実のところ世間知らずの若造でもある。トルストイ夫妻に表面的には仲良くしてもらっているものの、付き合いが浅いので懐には飛び込めない。要するに、どうでもいいキャラクターなのだ。
その“どうでもいい奴”の描写が必要以上に長い。トルストイが村に作り上げたコミュニティ内で、若い女と懇ろになるとかいった微温的なエピソードが並ぶだけ。もちろん、トルストイ主義の何たるかは全く語られない。
どうしても第三者の立ち位置が必要ならぱ、事業補佐担当のチェルトコフをそれに据えれば良かったのだ。夫妻に深く関わってきた彼ならば、本人達とは別の視点で主題を見つめることが出来て、またそれを観客に納得させるだけの作劇に貢献したと思う。
トルストイに扮したクリストファー・プラマーとソフィヤ役のヘレン・ミレンはさすがに上手く、脚本の浅さをある程度はカバー出来ていたとは思う。音楽も映像も申し分ない。ただ、舞台がロシアなのに全員が英語で話していること自体がどうにも愉快になれない(笑)。製作にロシア資本も入っているのだから、ぜひとも本場のキャストで映画化すべきであったろう。