元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「スカーレットレター」

2005-12-08 19:02:15 | 映画の感想(さ行)
 基本的に映画を評点する際には俳優の実生活などを考慮に入れるべきではないが、この作品に限っては、思い詰めた挙げ句破滅への道をひた走るヒロイン像に、主演女優イ・ウンジュの衝撃的な最期がシンクロしてくるのを避けられない。それほど本作の彼女の演技は鬼気迫るものがあった。

 美しい容姿に加え、今回特に楽器演奏や歌、ダンスなども披露して芸達者なところを見せてくれただけに、残念な気持でいっぱいだ。冥福を祈りたい。

 さて、殺人事件をきっかけに刑事とその妻、愛人がそれぞれの“地獄”を見るというストーリーは目新しさはないものの、ピョン・ヒョクの演出は力強く、ドロドロの愛憎劇を最後まで見せきっている。ただし、ラスト近くには“ありえないプロット”が目につき、キワ物臭さが払拭されていないのは惜しい。上映時間を削っても良いからタイトに仕上げて欲しかった。

 それより気になったのがハン・ソッキュの勘違いマッチョぶり。よほど肉体に自信があるのか、露出度は女優陣よりはるかに多い(爆)。でも、前回の「二重スパイ」といい本作といい、ヘンにハードボイルドを気取るのは彼には似合わない。個人的には「八月のクリスマス」のような“人の良いアンチャン役”をずっと続けて欲しいと思っているのだが、韓国映画界では男優はマッチョでなければいけないのだろうか(苦笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太平洋戦争の“検証”

2005-12-08 18:57:53 | 時事ネタ
 本日12月8日は、日本が先の戦争に関わった日だ。あの戦争を今どう捉えるかというのは、まあいろいろと議論があるわけなんだが、よく見かけるものに「アジアを侵略し、人々に多大な迷惑をかけた悪い戦争だった。我々は反省しなければならない」といったリベラルっぽい意見と、「あの戦争はアジアを欧米列強から解放した正義の戦争だった。我々はそれを誇らなければならない」というタカ派っぽい意見とがあるように思える。でも、正直言って、どっちの意見もピンと来ない。

 戦争に良いも悪いもないだろう。勝ち負けがあるだけだ。ただ、先の戦争では日本は負けて大きく国益を損ねる結果になったのだから、そのへんはしっかり検証して今後に繋げなければならないとは思う。つまり、なぜ勝てる公算の少ない戦争に突入したのか、避ける方法はなかったのか、ひょっとして勝てる方法もあったのではないか・・・・そういうことを考えるのも、無駄ではないんじゃないかな。

 先の戦争が、大陸における日本と欧米諸国との勢力争いに端を発していたことは誰もが認めることだけど、ではどうして日本がわざわざ大陸に進出しなければならなかったのかというと、1930年代末の世界大恐慌により主要資本主義国がそれまでの建前だった“自由貿易主義”を捨てて排他的な経済エリアに各々引き籠もってしまったことによる。で、日本も仕方なく市場を求めて大陸進出を強めたというわけだろう。

 ここで、もし日本が大陸に販路を求めずに、自国内での需要のみで乗り切ってしまっていたらどうなったかと考えてみる。そうなりゃ大陸で外国とケンカせずとも済んだかもしれない。でも、そうなるにはルーズベルトのニューディール政策とか、ヒトラーの積極財政策とか、そういう有効需要創出政策が日本でも必要だったはずだが、そんなのが実現する気配はなかった。それどころかピント外れの金融政策で傷口を広げている間に、軍部の強硬姿勢に押し切られてしまったんだな。

 あと、法律的な整備はどうなっていたか、その解釈はどうか・・・・とか、ハル・ノートを突きつけられて開戦やむなしになった時点での、具体的戦略はどうなっていたか・・・・とか、いろいろと突っ込むべき事柄はあると思う。しかし、先に挙げたような「侵略戦争だから徹頭徹尾ダメ」「聖戦だから何が何でも正しい」といった情緒的なアプローチは遠慮したいな。ある意味、先の戦争に性急に駆り立てたのは、鬼畜米英という情緒的スローガンが一人歩きして(それを煽ったのはマスコミ)冷静な認識を脇に追いやったためだ・・・・との見方も出来るかもしれないし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カナリア」

2005-12-08 06:55:30 | 映画の感想(か行)
 納得できない内容である。一連の“オウム真理教事件”から10年の歳月が経過した今、元カルト教団女性幹部を母に持つ少年(石田法嗣)が児童施設を脱走し、祖父に引き取られた幼い妹を捜す旅に出るというストーリーの中で、いったいあの事件の何が語られたのか。

 少年の回想場面の中でしつこく描かれる母(甲田益也子)との決別や怪しげな修行の日々は、単なる“主人公の苦労話”に過ぎず、それ自体何のドラマ的意味を持たない。ましてや“カルトとは何か”という、観客が一番知りたいであろう事柄とはほとんど関係ない。

 では作者は最初から“事件の真相”に対するアプローチを放棄し、観客に全てを委ねているのかというと、そうでもない。元信者を冷遇する世間や、苦悩の末に少年の引き取りを拒否する祖父、つまりは“カタギの社会”を代表するモチーフを意図的に軽視している。言うなれば“アウトローへの共感”という曖昧模糊とした本音と“現実社会の重要性”という建前とを自分の中で十分に整理・咀嚼しないままに、見切り発車的に作られたような感じである。

 というか、カルト教団の正体を“本当に”理解することなど、常人には不可能ではないだろうか。是枝裕和監督の「DISTANCE」の失敗を見ても分かるように、生半可な“共感”など無駄なことだ。どう逆立ちしても、映画の作り手も観客も“カタギ”の側にいることは厳然とした事実である。我々はカルトを“異質なもの”として見るしかないのである。

 その他、主人公達が道中遭遇するレズのカップル(りょう&つぐみ)の描き方の不自然さや、元信者(西島秀俊)たちとの再会から祖父の居所を突き止めるまでの超御都合主義的な展開、そして物語を放り出したようなラストと、そのバックに流れる下品極まりないエンディング・テーマ曲など、この映画は欠点だらけだ。ワースト作品として片付けられても仕方がない。

 しかし、それでも私は“観る価値はある”と断言する。理由は、主人公と行動を共にする少女の描き方が凄いからだ。悲惨な家庭に育ち、学校にはロクに行けず、時には援交まがいのことをして、我が身を切り刻むようにして必死で生きている。しかも、主人公のようにカルトという異世界に逃げ込むようなこともしない。この“どうしようもない現実”だけが彼女のすべてだ。

 演じる新人女優・谷村美月が素晴らしい。この世の不幸を残らず背負ったような境遇を諦観するような眼差しと、あっけらかんとした大阪弁には泣けてきた。今年度の新人賞の有力候補である。

 「黄泉がえり」でメジャー監督になった塩田明彦だが、この新作では商業路線に背を向けて“少年少女の姿を通して世界を俯瞰する”という本来の作家性を堅持しようとしているのは頼もしい。本作といい、以前の「害虫」といい、今のところ“誰しも納得できる成果”には行き着いていないが、ひとつのテーマを一作ずつ練り上げてゆく過程をリアルタイムで検証できるだけでも、この作家と付き合う価値はありそうだ。

 音楽は大友良英が担当しているが、それよりもヒロインが自らのテーマ曲のように口ずさむ古い歌謡曲「銀色の道」が抜群の効果をあげている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする