気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

空の扉  田中教子歌集  

2008-10-17 21:25:17 | つれづれ
期待とは大凧の糸 引きすぎてフッと切れたる時の青空

いかなごのひらいたままの目の中に雨に煙れる港が見える

居場所なき我が自ら入り来たる樹海と思えり万葉集研究

父親を忘れぬように会わせろとほとんど他人の君が言い来る

「幸福力」特集に組む雑誌あり役に立つべき一行もなし

我よりの離婚の催促待つ夫(つま)が送って寄越す林檎の木箱

子によりて親となりゆく我の手に松ぼっくりのひらいたかたち

ひっそりと隠れていたい衝動にシャツから首を出さないでいる

鋏の刃並べる店の前に立つ 縁を切りたき男のあれば

子を抱きて路上に物乞いする女或は吾の過去かもしれず

(田中教子 空の扉 ながらみ書房)

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新淀川歌会でご一緒している田中教子さんの第一歌集。
田中さんは、アララギ派所属で、今年度の第三回中城ふみ子賞を受賞されている。
この歌集には、受賞作は収録されていないが、見開きの右ページは縦書きの短歌、左ページはその英訳という構成になっている。意欲的な歌集である。内容は、誇張はいくらかあるとは思うが、作者の等身大に近いものだと思う。小学生になろうという年齢のひとり息子を育てながら、大学院で万葉集の研究をされているようだ。その前後の離婚にまつわる歌も、作者の苦悩を表していて、作り事ではないだろう。それだけに真に迫ってくる強さがある。私としては、いかなごの歌や、松ぼっくりの歌に好感を持つ。人生のなかで遭遇する喜怒哀楽を表現して、カタルシスとするのは本人にとっても短歌の効用といえるが、そこより一歩すすんで、歌として完成度の高くなるのは、やはり適切な小道具のある歌だと思う。この歌集を出すことで、歌壇に大きく一歩を踏み出した田中教子さん。歌人をして生きてゆく強い意志を持っておられるのが、ひしひしと伝わって来た。

歌集 猫のまくら  高橋彌子 

2008-10-15 23:44:07 | つれづれ
何ひとつ欲しいと思ふものがない今日猫に遣る魚の他に

葬式代戒名代で当分は猫に刺身を遣つてください

かぜくさと猫となづなが好きだから風知院猫撫菜大姉(ふうちゐんねこなづなだいし)

猫たちはわたしを探して哭くだらうこれまで誰も聞かぬ声して

理由(わけ)言はず二日三日と家出する猫になります生れ変つて

潮の香のことさら強く匂ふ日に逢ひたくなりぬ法則のごと

引き出しに長く忘れし紐二本ふと結ばれて絡まつてをり

時経れば濃く鮮やかに浮かびくる一日(ひとひ)と思ひつつ君と逢ふ

(高橋彌子 猫のまくら 青磁社)

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この歌集の著者、高橋彌子さんがどんな方か知らない。たまたま某歌会で知り合いになった友達から、この歌集をもらってくださいと言われて受け取った歌集。
猫好きの女性が、海に近くの土地で何匹もの猫と暮らしながら、ときどき恋人に逢うというだけの内容。装丁もシンプルで、価格は1000円と歌集としては安い。
二首目から五首目までは、遺言と名づけられた一連の中から引用した。作者が死んだあとのことを想定して、残るであろう猫たちに思いをめぐらせている。
想像だが、この作者は別の名前で何冊か歌集を出しているようなキャリアのある人ではないだろうか。それがふと、別のペンネームで別の人格になって歌を詠んでみたくなり、この歌集を纏められたような気がする。作者が楽しんでおられるのがわかる。読む方も、肩の力が抜けるような気楽さを感じることが出来た。


今日の朝日歌壇

2008-10-13 23:39:31 | 朝日歌壇
診察室にゆくとき子らがぽいと置くこのぬいぐるみ汚れつつ笑む
(和泉市 長尾幹也)

子殺しの母は責められそを捨てし男は責むる記事見当たらず
(横浜市 道蔦静枝)

携帯をいじるいじるときいじれども繋がることなく夜の中ひとり
(広島市 小田優子)

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一首目。小児科の待合室に置いてあるぬいぐるみ。診察を待つ子供は退屈して、それで遊んでいるが、診察の順番が来ると、ぽいと置いて行ってしまう。いろんな子供が触るので、だんだん汚れてくるが、何人もの子供がそのぬいぐるみに慰められている。見落としそうなところに目をやって拾った歌。
二首目。子殺しの事件が起きるたびに、確かにそうだと思う。四句目は「男を責むる」の方がよいのではないかと思うが、内容に共感した。
三首目。携帯電話を持たない私は、まわりの人がバスの中でもどこでも携帯をいじっているのを見て、それだけ人と繋がっているのかと思っていたが、そうでもないらしい。繋がろうとしても繋がれないのは、携帯があってもなくても同じことなのだ。切ない気持ちがあらわれている。

短歌の面白さは、技術的なことより、目のつけどころにあるのではないかと、新聞歌壇を読んでいておもう。一首にまとめるには技術がもちろん必要だが、事物を見る目の新鮮さ、発想の意外さが、共感を呼ぶ歌になる。そのためには、人間としての力のようなものが大事。それを伝えるには、やはり技術も大事。その両方を磨かなければならない。しんどいけれど、やりがいはある。