気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2008-10-13 23:39:31 | 朝日歌壇
診察室にゆくとき子らがぽいと置くこのぬいぐるみ汚れつつ笑む
(和泉市 長尾幹也)

子殺しの母は責められそを捨てし男は責むる記事見当たらず
(横浜市 道蔦静枝)

携帯をいじるいじるときいじれども繋がることなく夜の中ひとり
(広島市 小田優子)

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一首目。小児科の待合室に置いてあるぬいぐるみ。診察を待つ子供は退屈して、それで遊んでいるが、診察の順番が来ると、ぽいと置いて行ってしまう。いろんな子供が触るので、だんだん汚れてくるが、何人もの子供がそのぬいぐるみに慰められている。見落としそうなところに目をやって拾った歌。
二首目。子殺しの事件が起きるたびに、確かにそうだと思う。四句目は「男を責むる」の方がよいのではないかと思うが、内容に共感した。
三首目。携帯電話を持たない私は、まわりの人がバスの中でもどこでも携帯をいじっているのを見て、それだけ人と繋がっているのかと思っていたが、そうでもないらしい。繋がろうとしても繋がれないのは、携帯があってもなくても同じことなのだ。切ない気持ちがあらわれている。

短歌の面白さは、技術的なことより、目のつけどころにあるのではないかと、新聞歌壇を読んでいておもう。一首にまとめるには技術がもちろん必要だが、事物を見る目の新鮮さ、発想の意外さが、共感を呼ぶ歌になる。そのためには、人間としての力のようなものが大事。それを伝えるには、やはり技術も大事。その両方を磨かなければならない。しんどいけれど、やりがいはある。