東日本大震災から2年が経過した。
テレビ等でも、震災関連の特集を組んで、この悲劇を風化させないようにしている。私にとって地震といえば阪神淡路大震災が一番の思い出なのだが、やはり、東日本大震災も自然の脅威を思い知らされ、人間の無力さを考えさせられた。
阪神淡路大震災の時には、神戸で支店の応援に従事し、1か月ほど現地と大阪を行ったり来たりしたものだ。慣れ親しんだ神戸の町が無残に瓦礫と化し、人々は疲れ果て、本当に復興できるのだろうかと心配したものだった。
一方で東日本大震災当日はJRが早々に運転を取りやめ、武蔵関まで歩いて帰ったことを思い出す。深夜の0時を回って、復旧した西武線に救われた。やはり、ビジネスシューズで歩くのは20キロが限界だった。その後、電気の供給が危うくなり、計画停電で蝋燭生活を体験した。
無論、被災地の方々と比べれば、幸せな生活を送っているだろうし、その程度の不便で済んでしまったことを申し訳なく思っている。しかし、明日は我が身であり、申し訳なく思うのなら、今、与えられた役割期待に基づいて、一生懸命働くしかないと考えている。それぐらいしか、自分にできることはないだろうから。
テレビ等でも、震災関連の特集を組んで、この悲劇を風化させないようにしている。私にとって地震といえば阪神淡路大震災が一番の思い出なのだが、やはり、東日本大震災も自然の脅威を思い知らされ、人間の無力さを考えさせられた。
阪神淡路大震災の時には、神戸で支店の応援に従事し、1か月ほど現地と大阪を行ったり来たりしたものだ。慣れ親しんだ神戸の町が無残に瓦礫と化し、人々は疲れ果て、本当に復興できるのだろうかと心配したものだった。
一方で東日本大震災当日はJRが早々に運転を取りやめ、武蔵関まで歩いて帰ったことを思い出す。深夜の0時を回って、復旧した西武線に救われた。やはり、ビジネスシューズで歩くのは20キロが限界だった。その後、電気の供給が危うくなり、計画停電で蝋燭生活を体験した。
無論、被災地の方々と比べれば、幸せな生活を送っているだろうし、その程度の不便で済んでしまったことを申し訳なく思っている。しかし、明日は我が身であり、申し訳なく思うのなら、今、与えられた役割期待に基づいて、一生懸命働くしかないと考えている。それぐらいしか、自分にできることはないだろうから。