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生涯学習の部屋

資格取得数243。6つの修士と19の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

久々の大学PCルーム!

2011年10月29日 12時18分36秒 | 武蔵野大学大学院
この部屋に来たのはいつ以来だろうか・・・

今日は、日本人の「若い学生」もいる。発表に間に合わないとか、間に合うとか、そんな話を「大きな声」で話している。続けて集まってきたのは中国の留学生。懐かしい「中国語」のイントネーションが、PCルームに響き渡る・・・

まあ、この院生専用のPCルームで、精神集中して学習するのは「掟破り」なのかもしれない。友と和気藹々と語り合えばいい。どうせ、私以外は群れている学生なのだから(笑)

さて、あと40分で「精神保健学特論」の授業が始まる。今日は最終講義で、最後の時限には「試験」が待っている。気も重くなりがちだが、落としても問題のない単位(唯一の2単位もの:本学終了要件は40単位なので、ペアとなる2単位ものがない以上、4の倍数にはなりえない)なので、それほど、切羽詰ってはいない。

楽しい授業だったので、それなりに学習にはなったと思っている。それで十分じゃないのかな・・・
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闇夜

2011年10月29日 04時52分53秒 | ちょっと立ち止まって・・・
波乱の1週間が終了し、闇夜の中で一人思いに耽る。

人間、健康が一番なのだが、不健康のために失った時間はとても口惜しい。そういった後悔は、してはいけないし、しても無意味だし、しても過ぎ去った時間は戻ってこないので、すること自体、時間のムダである。

しかし、煩悩に苛まれることが人生の大きなウエイトを占める凡夫には、そういう悔悟の念も必要であり、だからこそ、生きているという証にもなる。悟りを開くには、まだまだ、尻が青いのだろう。

ある意味、今の自分自身が、大いに「未熟」なのであろう。修士の学位を取ることに「悩み」「後悔し」「落ち込む」という思考回路そのものが、くだらぬ所業といわざるを得ない。何のために学んでいるのだろうか?レポートを期限内に提出することが、そもそも、人生にとって、それほど、大きなウエイトをしめるような一大事なのであろうか・・・

書かなければいけないと思うからこそ書けるときもあるのだが、書かなければいけないと思いつつも書けないなら、それが、今の自分の「運命」というか「限界」というか「宿命」とうか・・・いや、言葉のニュアンスがちょっと違う・・・言いあらわすことが難しいのだが、運命に導かれたあるがままの自分というか、あるべき自分なのであろう。

そんな言葉のアヤでごまかしても仕方ないのであるが、「その程度の自分」なのである。



「書けないけど、書いてしまえばいいじゃない」というのは、非常に簡単な解決方なのであるが、なかなか、そうもいかないものなのである・・・

例えば・・・履修している「浄土教特講」のレポート作成において、、、

「大無量寿経」において、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行中の名前)は世自在王仏に48の願をかけるのだが、その第18願にはこうかかれている・・・

>わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも
>念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

すなわち、「五逆と誹謗正法」の罪を犯した人の救済を除外することが明記されているのだ。

しかし、「観無量寿経」においては、父王を殺害した阿闍世王が、お釈迦さまにより救済されることが書かれている・・・というか、なぜ、48願のうち、第18願だけ、「例外規定」が書かれているのだろうか?

浄土真宗の聖典は浄土三部経とよばれ、「大無量寿経(大経)」「観無量寿経(観経)」「阿弥陀経(小経)」で構成されている。その並列された「大経」と「観経」において、矛盾のある内容が述べられている、何故なんだろう??

しかし、この「観経」がなければ、到底、親鸞聖人は、悪人正機の考えには及ばなかったのではないのだろうか?あるいは、五逆を行ってしまった者は、未来永劫救済されず、改心する機会を奪われ、「五逆と誹謗正法」をし続けることとなりはしないだろうか・・・それなら、何故、慈悲深い法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)が、例外規定を、その第18願に掲げたのだろうか・・・

こういうことを考えてくると、書けるはずのレポートも書けないのである(笑)


だが、考えても見て欲しい。武蔵野大学大学院(浄土真宗本願寺派の大学)に行く前は、自分の宗教(真宗大谷派)の唱える念仏も知らなかったのだ。というか、浄土真宗には主要な十派があり、そのうち、「浄土真宗」と名乗っているのは本願寺派だけで、あとの9派は「真宗」と名乗っていることすら知らなかった。

あるいは、「浄土三部経」や、「龍樹」「天親」「曇鸞」「道綽」「善導」「源信」「源空」といった真宗における7人の先師すら知らなかった。それ以前に、「絶対他力」と言う考え方自体、知らなかった。それが、今では、理解できている上に、経典間の矛盾に悩むところにまで届いている。

無論、それは先生が適切なレポート課題を与えてくださったからなのだが、そのレポート課題を解くために、参考文献を漁っているうちに、深みに落ち込んでしまったようだ。

とはいえ、「何故」が私の学習の出発点であり、「学位」が欲しくて学んでいるわけではない。いくつもの「何故」があり、それを解決した、あるいは、解決のために努力した結果が「学位」なのである(「修士」までの場合。「博士」の学位は努力賞ではなく、その分野で「優勝」しないと取得できません。)。時に、凡夫の私は、本末転倒にも、レポート提出を優先させるキライがあるのだが、それは、本来、禁じ手である。学位のコレクターになってしまっては、チンケな生涯学習しか望めない。

さて・・・法蔵菩薩=阿弥陀仏は、「無量光仏」とも呼ばれる。「無明の現世をあまねく照らす光の仏」ということだ。最近、この「光」というものにも、非常に興味が湧いている。救いの光であり、浄土教を学んでいると、「無量光」「無辺光」「無対光」「歓喜光」等12光が出てくる。闇夜に綴った一文だが、もう、朝日が昇ってしまった。尊い光である。

かなりの時間を費やしてしまったが、私の学びのスタンスを紹介できたので、良しとしよう。
コメント (4)
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