風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

真夏の夜のJAZZ/JAZZ on a Midsummer's night

2006-08-12 15:43:57 | アングラな場所/アングラなひと
Jazz_summerday 最初に思い出話を書こう。ボクが1958年のニュー・ポート・ジャズフェスティバルの記録映画である『真夏の夜のジャズ』(原題:JAZZ on a Summer's Day)を見たのは、67年か68年のやはり初夏で「DIG」で行われた解説付きの上映会だった。「DIG」は、フリージャズをガンガンかけていた当時の先進的なアヴァンギャル紹介のジャズ喫茶のひとつだったから、いわばプチブル以上の白人がリゾートで音楽を楽しむ雰囲気を見事な映像美で描いた最後の「ジャズ・エイジ」を彷佛とさせる映像作品で「DIG」には珍しい内容だなぁと漫然と思ってきたような気がする。
 もちろん、そこに記録された黒人ジャズ・ミュージシャンの演奏する姿は、セロニアス・モンクからエリック・ドルフィまでほぼはじめて見る動く姿だった。当時、ミュージシャンが演奏する姿は映画の一シーンとして見るか、TVでしか見れなかった。まして、ジャズメンといったらそれらで見る事は、ほとんどありえずその頃やっと出来はじめたライブの店に行くしかなかった。ボクも、最初に見たライブは「ジャズ・ギャラリー8」で行われた超満員の渡辺貞夫の帰国凱旋ライブだったように記憶している。

 そうして、ない小遣いをはたいて「pit in」や「タロー」などでジャズのライブを多少は見に行くのだが(日野照正など)、深夜ジャズ喫茶でレコードを聞くのがおもなジャズ体験だった。
 日暮里の「シャルマン」から、有楽町「ママ」そして渋谷百軒店の「スウ井ング」「ありんこ」などや新宿の「汀」「DIG」「木馬」「PONY」「ヴィレッジ・バンガード」「きーよ」「びざーる」「ヴィレッジ・ゲート」そしてボクが最近よく書く「ジャズ・ヴィレッジ」などだ。

 当時のボクらにとっては、JAZZはジャズ喫茶でレコードで聞かれるものだったし、ジャズ喫茶はデカダンな雰囲気があればあるほどよく、タバコの煙りがモウモウとたちこめ、たむろったフーテンたちはジャズをBGMにして、ジャズ論議をおこない、ナンパをし、そしてたしなみのようにハイミナールをはじめとした睡眠薬、筋肉弛緩剤などのケミカル系のドラッグで意識を混濁させてラリっていた。

 そうして、朝があけると早朝からやっている「ウィーン」などのクラッシック喫茶へ移動し、つかのまの眠りをむざぼるのだった。ボクは、そこから隣の「風月堂」や新宿駅東口前の通称「グリーンハウス」という植え込みへ移動し、そのまま夜が訪れるのを待っていたという訳なのだった。

 ジャズがボクをこうして深夜の新宿で夜な夜な遊び暮らすドロップアウトの生活へいざなったのだが、同時にジャズ喫茶は早稲田等の学生街にも京都や名古屋、大阪をはじめとする地方都市にもかならずあり、そこは情報と友を求めにいく場所でもあった。口コミやマスターの話で一夜の宿をもとめる場所でもあったジャズ喫茶は、ボクらにヒッチハイクをして渡り歩く旅のネットワークを提供してくれる場所でもあったのだった。



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