風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

夕焼け評論/まつり!まつろう!まつりを!まつれ!

2006-08-09 00:01:22 | コラムなこむら返し
Sunset88 久しぶりに「夕焼け評論」のタイトルを冠した記事を書こう。
 というのも、思わずカメラをかかえて定点観測の場所に走ったほど、昨夕の夕焼けは素晴らしかった。全天が燃えるような真紅に染まった位であった。きっと、それを見つめていたボクの顔も真紅に染まっていただろう。

 8月8日、ハチハチであったこの日、二度目の延長戦にはいるまさしく熱闘だった甲子園高校野球大会(それも第88回ハチハチなのだった)の第4試合日本最南端の高校という紹介が、幾度もくり返された八重山商工と、対するは千葉経済大学付属高校。そのバックネット裏の背景にも見事な夕焼けが写っていたが、接戦・逆転・延長戦に夢中の応援団はまったく目に入らないようだった。
 しかし、ボクはそこで空を見にいってその素晴らしい夕焼けに気付き、走ったのだった。

 1988年8月8日をまたいでの9日間(1日~9日)富士見パノラマスキー場で開かれた「いのちの祭り’88」から18年の歳月が流れた。ハチハチ自体が60年代からの息吹を引き継いでいたホビット村関係者や、おおえまさのりさんや、よくこれだけ集まったものだと思えるようなネットワークがつくられ「No Nukes One Love」というメッセージの下に結集した。
 その核となった運動は、これとは一概に決められないが「ポピの予言」の上映運動や、反原発運動、有機野菜の販売や店つくりで生産者と消費者のなかだちをしたいと活動していたグループや、整体やヨーガなどの東洋体育道をやっていたもの、C&Fなどニューサイエンス関係、ラマーズ法や共同保育をやっていたグループや、和尚(ラジネーシ)や新宗教関係の参加まであって雑多だった。
 伏線はそれまでもあった。「まつり」の原形をつくった70年代の「花まつり」(御殿場)や、「All Species Day」(松本)、「隠鬼祭」(下伊那)などの「まつり」が脈々とその火をつないできていたからだ。

 新宿時代からへだてること20年近く、マンガや、共同保育や、NGOや、反農薬運動にかかわっていたボクは反農薬のパンフ(ボクがイラストを描いたもの)を持ち、売れない頃にマネージャーのようなことをしていた深草アキのPAの手伝いをして「縄文コンサート」にはりついていたりしていたが、ボクもひとりの一参加者だった。だから、ボクにとっても同窓会のようなノリをもった「まつり」だったのだ。

 そもそも、ポンは彼が歌舞伎町で似顔絵描きをして部族に仲間入りする頃から、知っていたし、三省はボクらの詩集を売りつけた。おおえまさのりさんは金坂健二が中心になって発行した地下新聞『Dropower』の仲間だった。つまり、おおえさんが映像作家としてアメリカのベトナム反戦デモや集会、Be-inなどの映像を撮って帰国した頃、新宿風月堂で金坂さんたちのグループでよく会っていたひとだった。

 「ベトナムから遠く離れて」はゴダールの映画だった。新宿から遠く離れて、いや、距離の問題ではなく、むしろ時間や時代だから、60年代から遠く離れてと言い直した方が正確だろうが、ボクにとっても「まつり」は原始人に近いキャンプインをすることだし、オンオンと鳴り響いている60年代からのメッセージに耳を澄ます事でもある。

 そう、そのようなまつりを まつり!まつろう!まつりを!まつれ!

 この場合、「まつり」はまつろわぬ者、時流や世の中の体制に組みしないものの「まつり」であるのだけれど……。

 だから正確には まつり!まつろわぬもののまつりをまつれ! である。

(写真:2006年8月8日夕刻の夕焼けにこころまで染まりそうだった!)