風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

もっとも安上がりなリゾート

2006-08-18 23:46:08 | コラムなこむら返し
 太陽は燦々と輝き、空はどこまでも青かった。さすがにここまで来ると空気も気温も違うのだった。頭上にあるバリの竹の風鈴はカラコロと、さわやかな風を受けて転がるような音をたてている。脇にあるアジアン・ティストのすだれは日射しを柔らかなものに変え、その先の大自然の広がりを感じる事ができる。
 ボクはそこにあるサンデッキに半身裸で身体を横たえ、ヘッドフォンから流れるアンビエントな音楽に身をまかせている。よく冷えたグラスに玉のような結露をつくっているジャスミンティのサービスを受け、時間を忘れたゆったりとした時を過ごしている。

 そこは隠されたリゾート地だった。どこに行っても押し寄せてくる人波で、ボクはいつもヘキエキするのだったが、ここは人知れず自分ひとりのゆったりとした時間が過ごせるのだった。
 そんな夢みたいなリゾート地があった。ボクは自分が飼っているネコたちにいつも通りかこまれ、好きな音楽を聞きながら、太陽をひとりじめにした。ジョン・レノンがかけていたのと同じ円い縁のサングラスを通して見る太陽は、強烈な光を優しいものにした。
 それにここは、到着するまでのわずらわしい交通手段もまして航空機もいらない。行楽地にでかけるまでのあの苦痛以外のなにものでもない渋滞も、満員電車も必要無い。

 なぜならその夢のようなリゾートとは、自宅のテラスのことであるからだ。テラスといっても早い話、洗濯物を干すためのネコのひたいほどのスペースで、ボクは、今日、そこにキャンプ用のベットを置き、外からの目隠しにあまっていたすだれを手すりにくくりつけて、頭上にバリ製の風鈴を吊るし、カセットデッキからヘッドフォンで音楽を聞きながら、日光浴をしていたらすっかりリゾート気分になってしまったのだった。もちろんティサービスは自分で用意するのだが……。

 これはニートの方たちや、出不精の方たちにおすすめしたい究極のリゾート満喫法だ。人間はなぜリゾートをもとめるかという事をつきつめてゆくと、「脳内リゾート」というか、脳がリラックスした時に分泌するエンデルフィンや興奮時に分泌されるアドレナリンやドパーミンなどの脳内麻薬や、神経伝達物質の分泌し易い条件が整っているからだ。ボクは唯脳論者ではないが、人間の行動は快楽や、快感を求める方向に誘導され、みずからもそのような無意識の意志をもつものだとは思っている。これは、「快楽原則」といい、フロイトが発見したこころの機能の原則だが、卓見だと思う(唯脳論はフロイトの脳生理学的な焼き直しではないのかと、ボクは思っている)。

 だからある面では想像力や、想念でもそれらの脳内麻薬をコントロールできる可能性はあるが、それはよほどの修行者でもないと無理だろう。だとすれば、自分でも心地よくそのような想像力が働き易い条件を整えてあげればよい。現実には、いまここで浴びている日射しと、バリで浴びる日射しがさほど変わる訳ではない。いや、空気感やその澄み具合で違うし、たとえばそのバリの空気には甘い果実などの匂いが加わったりするから現実には違うのだが、気温的にはバリにもハワイにも近いこのような季節であればこそ、条件は酷似している。だとすれば、あとは想像力の強さの問題だ。

 どうぞ、この格安なリゾート満喫法をおためしあれ!

 (しかし、先日の「自宅深夜ジャズ喫茶」といい、「格安リゾート満喫法」といい、ボクはよっぽど江戸時代の貧乏長屋向きらしい。このような「見立て」を「粋(いき)」と感じる享受法は落語の『長屋の花見』と同じであると思う。いわば、貧乏なくせに「やせ我慢」で「見栄っ張り」なところがあるという、おかしみである。と、自分でつっこみ的な分析を入れてみた(笑)。)