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■ 鬼レンチャンの富田鈴花

昨日放送の「千鳥の鬼レンチャン」で、鬼レンチャン達成した日向坂46の富田鈴花。
彼女は逸材だと思う。

@ovama513 すーじー、おめでとう🎉感動したよ🥹 #鬼レンチャン #日向坂46#富田鈴花 ♬ オリジナル楽曲 - ovama513

↑ 以前視たときも、歌が巧いと思ったけど、今回は声質のよさに改めてびっくり。↓

@kokoro______31 鬼レンチャン達成おめでとう!!#日向坂46 #千鳥の鬼レンチャン #富田鈴花 #高橋未来虹 #怪物 #おすすめ ♬ オリジナル楽曲 - Ongen_music


坂道シリーズはたいていユニゾンだし、人数多いのでひとりひとりの実力がいまいちわかりにくい。
でも、オーディション経由で選ばれたメンバーもいるし、歌が巧い子も当然いるはず。
と、つらつら思いつつもソロで唱うシーンがあまりないので、こういう番組は嬉しい。

つやつやと伸びるハイトーンはたぶん倍音含みで、高音がとんがらない。
音程&ピッチコントロールも巧みで、鬼レンチャンの最中でも歌を聴かせる実力はそうとうなものだと思う。

日向坂だろうがなんだろうが、巧いものは巧い。いいものはいい。
でもって、やっぱり「黄金の世代」か・・・。

ミュージカル「ヴィンチェンツォ」で、主役とってるがな。


3:18~のシンガーがそうだとしたら、やっぱり相当な実力だと思う。

こういう実力あるシンガーがなかなかソロ曲で表に出れないのが、いまのJ-POPのジレンマかとも思う。
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■ 『東都歳時記』の霊場札所 ~江戸の庶民が巡った霊場~

昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」、なかなかよかったですね。
脚本も出演者の演技力も映像や音楽のうつくしさもハイレベルだったと思います。
戦国時代が舞台でなくても、優れた作品がつくれるいい事例になったのでは。

今年のNHK大河ドラマは「べらぼう」。
主人公は東洲斎写楽、喜多川歌麿らを世に送り出した江戸の版元・蔦屋重三郎(寛延三年(1750年)- 寛政九年(1797年)/俗称:蔦重)です。

蔦重は新吉原で産まれたともいい、下町をメインに活動し、江戸中期の町人文化とふかくかかわっていました。

生年は寛延三年(1750年)ですから、江戸の風物をとりまとめた『江戸砂子』(享保十七年(1732年)刊)や『続江戸砂子』(享保二十年(1735年)刊)などはすでに世に出ています。

『江戸砂子』には江戸のいくつかの霊場が記され、江戸の弘法大師霊場・御府内八十八箇所は宝暦五年(1755年)頃の開創、江戸六地蔵は宝永年間(1704-1711年)の建立と伝わるので、すでにこの頃から江戸の庶民は御府内外の霊場を巡っていたとみられます。

これは、天保九年(1838年)刊の『東都歳事記 巻之4冬之部』の巻末附録(→こちら)に多くの霊場札所が収録されていることからも裏付けられます。

そこで、今年は『東都歳事記』に載っている霊場をメインに追ってみたいと思います。
(廃れてしまった霊場も少なくないですが、できる限り追ってみます。)

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まずは、「べらぼう」に関連する人物ゆかりの寺社の御朱印・御首題をざっとご紹介してみます。

たいとう文化マルシェの蔦重ゆかりの地紹介記事
台東区資料(PDF)

■ 吉原神社の御朱印
 

■ 正法寺(蔦重の菩提寺/台東区東浅草)の御首題


■ 専光寺(喜多川歌麿の墓所/世田谷区北烏山)の御朱印


■ 浅草寺(山東京伝机塚の碑/台東区浅草)の御朱印


■ 本念寺(大田南畝(蜀山人)の墓所/文京区白山)の御首題


■ 深光寺(滝沢(曲亭)馬琴の墓所/文京区小日向)の御朱印


■ 誓教寺(葛飾北斎の墓所/台東区元浅草)の御朱印


■ 榧寺(石川雅望の墓所/台東区蔵前)の御朱印
 

■ 霊巌寺(松平定信公の墓所/江東区白河)の御朱印
 


【関連記事】
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1A(導入編)
■ 弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-1
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1

■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~
■ 江戸六地蔵の御朱印

■ 谷中の御朱印・御首題


【 BGM 】
■ 【SorAZ】君の知らない物語 / AZKi ときのそら【歌ってみた】


■ ClariS『White Love』リリック Music Video (Illustration: たん旦)


■ さよならメモリーズ / supercell 【Covered by Hanon×Kotoha】
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■ 正月の限定御朱印

もうかれこれ7年も前の記事ですが、いきなりアクセスランキングに上がってきました。
(自分でも忘れてた。)
せっかくなので、これに追加するかたちでリニューアルアップします。

なお、以前は正月限定だったところが通年授与となっているケース(主に本務社が授与を開始)もありますが、訂正せずにそのまま掲載します。
また、令和7年度正月の授与については定かではありません。

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2019-01-13 UP

限定御朱印はとみに人気ですが、じつは2種類あって、内容はぜんぜん別物です。
1.特定期間に特定印が捺されたり、字色がかわったり、見開き御朱印になるもの。
2.特定期間にしか拝受できないもの。

わたしは1.にはほとんど興味がないので、原則、基本の御朱印しかいただきません。(御開帳御朱印は別。)
でも、2.となると話は別で、機会を逃さず拝受をめざします。

神社だと祭礼や正月、寺院だとご縁日に授与される場合が多く、寺院でも七福神の札所では正月限定御朱印が授与されるケースがあります。
この「正月」の定義はまちまちで、正月のみ、三が日、七草(1/7)まで、旧成人の日(1/15)まで、1月一杯などで、年により変動したりするのでなかなかやっかいです。

また、「羽田七福いなりめぐり」は、東官守稲荷神社~穴守稲荷神社の全8社を詣でる寺社巡りですが、こちらも多くは正月のみの授与となっています。
期間中はすべての神社で御朱印帳書入れ可能です。
(授与期間:令和7年1月1日~3日 各日9:00~15:00まで受付)

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これまでに拝受した2.タイプと思われる限定御朱印をいくつかご紹介してみます。

1.千葉神社・千葉天神 (千葉市中央区院内1-16-1)
 
平成27年より正月期間は書置の限定御朱印が授与されています。(例年1/1~2/2)
両社とも通常は社号の揮毫ですが、限定御朱印では妙見信仰にちなむ御朱印となります。
なお、こちらの御朱印帳は天の川と三光紋(月星紋)・九曜紋をモチーフとしたすごぶる美しいものです。
限定御朱印の案内は→こちら

2.大川町氷川神社 (足立区千住大川町12-3)

北千住の千寿七福神は無住の神社が多く、限定御朱印がメインとなっています。
七福神だけでなく、神社の御朱印そのものが正月限定なのでレア度が高いです。
ここも千寿七福神開催期間中のみ、特設テントでの授与で御朱印帳に揮毫いただけます。
無住ですが、旧千住五丁目の鎮守とされ旧村社の格式を有します。

3.春陽山永隆寺の神保大黒尊天 (世田谷区北烏山4-17-1)
 
本所から移転した法華宗本門流の寺院です。
毎年1月の第二週目の日曜日が神保大黒尊天のご縁日で、御朱印は1月一杯の限定授与であることが、公式Webにて告知されています。
近くの調布七福神の御朱印のいくつかも正月限定授与の可能性があります。
なお、御首題は通年授与されているようです。

4.盬竃神社 (港区新橋5-19-7)

伊達家所縁の都内ではめずらしい盬竃神社です。(旧無格社)
こちらは正月限定かどうかは不明ですが、Web上の情報では、これまで拝受された方はほとんど正月のようです。
三が日に参拝しましたが、ご不在だったため郵送にて授与いただきました。
正月以外でも郵送であれば授与いただけるかもしれませんが詳細不明です。

5.武蔵野八幡宮(大國様) (武蔵野市吉祥寺東町1-1-1)
 
こちらは間違いなく正月限定です。武蔵野吉祥七福神の一尊で、社務所ではなく、特設テントにて授与されます。印判タイプで御朱印帳に受けることができます。
武蔵野八幡宮は旧吉祥寺村鎮守とされる八幡宮で、こちらの御朱印は社務所にて通年授与されています。

6.(西御門(にしみかど)/大蔵)白旗神社 (鎌倉市西御門2ー1)

原則正月三が日のみの書置授与です。授与所は拝殿向かって右手前の授与所。
たしか15時くらいまでだったと思うので、早めの参拝をおすすめします。
詳細は→ こちら(鎌倉のお正月限定御朱印)をご覧ください。

7.(鶴岡八幡宮末社)白旗神社 (神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1)

公式Web(PDF)によると、令和7年正月も授与される模様です。
「数量限定三社一組正月特別朱印」は鶴岡八幡宮・旗上辨戝天社・白旗神社の3社の御朱印がセットになったもので、白旗神社の御朱印は正月限定となります。
正月三が日の授与と思われ、公式Webには「※数に限りがございます。」とあり、授与の可否はそのときの授与状況によりますので、2日、3日の参拝で拝受できるかはわかりません。
また、1日あたりの授与数が決まっている可能性もあるので、なるべく早い時間の参拝をおすすめします。

境内東側に御鎮座。
源頼朝公・実朝公をお祀りし、学業成就・勝負運の御神徳あらたかとされます。
詳細は→ こちら(鎌倉のお正月限定御朱印)をご覧ください。

8.押上天祖神社 (墨田区業平2-9-6)

特設テントで氏子さんによる授与のようで、原則正月三が日のみの授与と思われます。
Web検索によると、最近の揮毫は社号ではなく「福寿」のようです。

9.品川神社の大黒天尊 (品川区北品川3-7-15)

東海七福神は、原則元旦から成人の日までの御朱印授与とみられます。

10.深川稲荷神社 (江東区清澄2-12-12)

深川七福神のご開帳期間は毎年1/1から1/7の午前九時から午後五時までで、通常無人の寺社についてはこの期間のみが拝受チャンスとみられます。
Web検索でヒットする御朱印の拝受日付をみる限り、深川稲荷神社もおそらくそのひとつです。

11.朝日天神神社(神道大教 天神大教会) (埼玉県ふじみ野市西原1-1-18)

正月限定ではないかもしれませんが、Web検索でヒットする数少ない御朱印の拝受日付をみるとほとんどが正月です。
筆者も正月に拝受しています。

12.尾崎神社 (埼玉県川越市笠幡1280)

「川越笠幡郷総社」とされ兼務社14社を擁する名社ですが、御朱印授与は正月3ヶ日のみ?の模様です。


まだいくつかありますので追加していきます。
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■ 志木開運・招福七社参り-1


 

先日、敷島神社の境内に「志木開運・招福七社参り」の新しいリーフレットが置かれていました。
この神社巡りは恒久的なものかどうか不明でしたが、新版のリーフレットがつくられたということは、定着を目指しているものと思われます。
こちらの神社巡りについてはすべて御朱印を拝受していますが、本務社の水宮神社の宮司様は兼務社多数ですこぶる多忙なご様子なので、常時七社の御朱印を授与されているかは不明です。

ただし、敷島神社と境内社の田子山富士塚については、祭礼日および原則「大安」「友引」の日に境内で御朱印を拝受できます。

志木市は住宅地ですが、東部の川沿いにはけっこう自然が残っていて、朝霞五社巡りとともに変化に富んだ神社巡りを味わうことができます。

川越ほども混まないし、東上線沿線の方はお正月の空いた時間にでもトライされてみてはいかがでしょうか。

【関連記事】
■ 朝霞五社巡り
■ 平林寺の御朱印
■ 埼玉県富士見市・ふじみの市・三芳町の御朱印
■ 埼玉県所沢市の札所と御朱印
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)

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2021/05/08 UP





こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。

七社とも参拝済で一部御朱印も拝受済でしたが、先般、敷島神社の境内にリーフレットが置いてあったのでリーフ記載の問合せ先の水宮神社様にお伺いすると七社とも御朱印授与可とのことで、これまで未拝受の御朱印もいただいてきました。

ただし、書置はなく、ご神職もすこぶるご多忙なご様子なので、よほどタイミングが合わないと拝受はむずかしいかもしれません。
筆者も数回に分けて御朱印帳をお預けしての拝受となりました。

こういう状況なので迷いましたが、それぞれ趣きある神社ですし、新たにリーフレットの配布も始められていますし、このところお隣の朝霞市の朝霞五社巡りの記事にも多くのアクセスをいただいているので、ご参考までにUPすることにしました。


志木開運・招福七社参りは、志木市内に御鎮座の七社を巡拝するものです。

1番 敷島神社 志木市本町2-9 境内に田子山富士塚あり
2番 舘氷川神社 志木市柏町3-6
3番 (羽根倉)浅間神社 志木市上宗岡4-27-20 別称:羽根倉浅間神社
4番 宿氷川神社 志木市上宗岡2-2 別称:上ノ氷川神社
5番 産財氷川神社 志木市中宗岡2-29 別称:中ノ氷川神社
6番 下ノ宮氷川神社 志木市下宗岡4-7 別称:下ノ氷川神社、下の宮氷川神社
7番 (中宗岡)天神社 志木市中宗岡1-4-36

埼玉県南部に位置する志木市は広くはないですが、江戸時代は新河岸川の舟運の要衝で、引又河岸(現在の市役所付近)は物産の集散地として栄え、寺社も比較的多く残っています。
市域のほとんどが住宅地(一部農地)ですが、南側は武蔵野台地、中心部から北部にかけては柳瀬川、新河岸川、そしてさいたま市との市境には荒川が流れ、地勢も変化に富んでいます。


【写真 上(左)】 新河岸川沿いは桜の名所
【写真 下(右)】 左手が武蔵野台地の斜面林

こちらの資料の図をみると、志木開運・招福七社参りや朝霞五社巡りは、ちょうど柳瀬川と黒目川に挟まれた武蔵野台地と、荒川(新河岸川)沿いの低地を行き来する道程であることがわかります。

〔 志木開運・招福七社参りの神社の位置図 〕
※ 志木市洪水ハザードマップを加工して作図


上図の左下の色のついていないエリアが武蔵野台地、新河岸川から北の色がついているエリアが新河岸川と荒川に挟まれた低平地(宗岡エリア)です。
この図からも、武蔵野台地と荒川(新河岸川)沿いの低地を行き来する、変化に富んだ道程であることがわかります。

上図のとおり七社はほとんど川沿いに鎮座しているので、荒川・新河岸川・柳瀬川の3つの川沿いのハイキング・コースを巡拝ルートにとることもできます。

志木は石工の盛んな地で、星野勝五郎、星野弥五郎などの名工を輩出しています。
また、高野伊兵衛からつながる高野一族、万寿五郎注之など大工の棟梁も輩出しており、彼らの手とみられる作品がいまも市内でみられる点も楽しみのひとつです。


【写真 上(左)】 メイン通り
【写真 下(右)】 柳瀬川


【写真 上(左)】 新河岸川沿いの遊歩道
【写真 下(右)】 荒川沿いの遊歩道


【写真 上(左)】 新河岸川と柳瀬川の合流点
【写真 下(右)】 市のキャラ「かっぱ」が至る所にいます

7社いずれも非常駐ですが、敷島神社は特定の日に境内社の田子山富士塚のご開山があるので(田子山富士塚公式Webを参照、祭礼日および原則「大安」「友引」の日)、そのときには敷島神社と田子山富士塚の書置御朱印を拝受できます。
それ以外は、上記のとおり水宮神社でタイミングがあえば拝受できるかもしれません。

敷島神社と(羽根倉)浅間神社には駐車スペースがありますが、それ以外は不明でアプローチの道もこみ入っているので、市内のどこかの駐車場に停めて徒歩でまわるのがベター。
電車利用の場合は、東武東上線「志木」駅がベースとなります。
発願の敷島神社は「志木」駅から1㎞強、徒歩で20分ほどかかりますので頻繁に運行しているバスを使うのも手かもしれません。(バス停「富士道入口」下車徒歩5分)
また、JR浦和駅発志木駅行きのバスは日中は1時間に3本ほど運行され、これも「富士道入口」に停まるので浦和方面からも便利がいいです。

かなり歩き甲斐があり、見どころも多いので思いのほか時間がかかります。
1日ないし数日かけてじっくり参拝し、御朱印については事前にTEL確認のうえお伺いするのがベターかと思います。
また、上記のとおり田子山富士塚の開山日にはこちらの御朱印も拝受できますので、開山日にあわせた巡拝がおすすめです。

それでは、順に連載形式でご紹介していきます。
(関連する寺社の御朱印もあわせてこ紹介します。)

1.敷島神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市本町2-9
御祭神:木花開耶姫大神、罔象女大神、倉稲魂大神
境外社:津島天王社(本町2-4)、御嶽神社(本町2-15)
御利益:開運招福
旧社格:村社
元別当:
授与所:境内(田子山富士塚開山日)ないし水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)
※水宮神社授与所には敷島神社の御朱印の見本が掲出されているので、こちらでは開山日以外でも拝受可能と思われます。
なお、敷島神社から水宮神社までは、気合いを入れれば歩けます。(新河岸川沿い遊歩道を2㎞ほど)
朱印揮毫:敷島神社 書置ないし直書(筆書)

【写真 上(左)】 水宮神社で拝受の御朱印(直書)
【写真 下(右)】 敷島神社境内で拝受の御朱印(書置)

かつて、新河岸川と柳瀬川の合流地点にかかる”いろは橋”周辺は「引又河岸」と呼ばれ、新河岸川舟運の要衝でした。
いろは親水公園内の説明板に詳しいので、抜粋引用してみます。(引又河岸については、こちらのWebに詳しいです。)

※ 過去の写真や図は現地案内版、行屋稲荷境内掲示物などより

【写真 上(左)】 旧引又河岸周辺の案内図
【写真 下(右)】 旧引又河岸周辺

「新河岸川舟運の起源は、寛永十五年(1638年)に川越の大火で燃えた東照宮・喜多院を再建するため、江戸城紅葉山御殿を運んだことに始まると言われているが、それ以前からも本河岸(現富士見市)や古市場(現川越市)までの舟運が行われていたようである。正保二年(1645年)に川越藩主松平信綱が川筋を整備し、舟運が本格化した。」
「引又河岸(明治7年からは志木河岸)は、新河岸川の河岸場のなかでも、取引の範囲が群を抜いて広大であり、所沢・立川・八王子・青梅さらには甲府まで荷主が分布していた。これは、府中から大宮を経て奥州に達する奥州街道(脇往還)と交差する交通の要衝であり、また、江戸時代初期から六齋市が立てられていたことによると考えられる。」
「舟運に使われた舟は80石~100石で、速さによって分けられ、飛切(引又を夕方出て翌日の夜明けに浅草・花川戸に着く)、早舟(下りに15時間)、並舟(不定期)の3種類があった。」
「取り扱われた貨物は、江戸からの上りものでは綿糸・雑貨・鮮魚・糠・〆粕・塩・藁・石材・肥料など、江戸への下りものでは酒・米・大麦・小麦・醤油・材木・燃料など。乗客を扱うようになったのは天保の頃(1830-1840年)からで、おもに飛切が使用された。」
「引又河岸には、いつの時代にも2軒以上の舟問屋(三上問屋、井下田問屋、高須問屋など)が営業していたが、新河岸川の改修や鉄道の普及により舟運は急速に衰え、昭和6年には廃業に至った。」


【写真 上(左)】 明治37年の引又河岸
【写真 下(右)】 引又河岸の輸送船(大正時代)


【写真 上(左)】 いろは橋のレリーフ(しきがし)
【写真 下(右)】 旧村山快哉堂(土蔵造りの店蔵)

敷島神社はこの引又河岸をみおろす高台に、明治40年(1907年)、当地の浅間神社に村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と水神社の三社を合祀し、敷島神社と改めて成立しました。
社名は、御祭神木花開耶姫大神にちなみ、本居宣長の和歌「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」から引いたものとされています。


【写真 上(左)】 引又河岸の説明板
【写真 下(右)】 引又河岸の水神宮碑

田子山富士塚公式Webによると、幕末に引又町で醤油醸造業を営む高須庄吉という人が霊夢に導かれ、当地の田子山塚で「逆修」の板碑を発見しました。
この板碑は、室町時代の暦応三年(1340年)、僧・十瀧房承海が富士山入定に先立って建立したものとされています。

富士山信仰に篤い高須氏は田子山塚の上に富士塚築造の決意を固め、同志を募って明治2年10月から明治5年6月までの期間を要し、田子山富士塚として完成に至りました。
富士塚の頂上には木花開耶姫大神を奉斎して浅間神社と号しました。

引又周辺(現・志木市内)は富士信仰の盛んな地で、「田子山富士」の「丸吉講」以外にも上宗岡の「浅間神社」を中心とした「丸藤講」があり、明治13年に「羽根倉富士嶽」が築造されています。
「丸藤講」の第八代先達「日行星山」(本名:星野勘蔵)は、明治25年に富士山麓(富士吉田市)に「吉田胎内」を開基されています。

村山稲荷神社は武蔵七党に属した名族、村山家の総本家(助右衛門家)の地所に祀られていたお社、星野稲荷神社は星野家の総本家の地所に祀られたお社とされます。
また、水神社は、新河岸川の引又河岸付近に舟運の安全を祈って祀られていたお社とされます。

境内にいるとさほど感じませんが、新河岸川から眺めるとかなりの高みにあり、武蔵野台地東端の要地に鎮座していることがわかります。
ここから志木中心部にかけての高みは、市の西側を流れる柳瀬川の流れを北上させるほどのもので、南側の新座市にある平林寺方向までつづきます。
また、立川市の玉川上水から引かれた野火止用水(伊豆殿堀)は新座市の平林寺境内を流れ、敷島神社の下で新河岸川に注いでいました。(志木市観光協会Web、一部いろは樋で新河岸川を渡って旧宗岡村方面にも分流。)
このことからも、志木が水利に乏しい武蔵野台地の北(東)端に位置することがわかります。


【写真 上(左)】 新河岸川からのぞむ敷島神社の高台
【写真 下(右)】 敷島神社下の”はけの道”


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居

住宅地から参道に入ります。
社頭に石造の明神鳥居で、最近立派な社号扁額が掲げられました。
右に「敷島神社」の社号標。
正面にこんもりと田子山富士塚が見えます。
地域の中核社らしく多くの境内社も鎮座し、地域の住民が集って華やぎのある境内です。


【写真 上(左)】 境内案内図
【写真 下(右)】 桜と社殿

右手に進むと手水舎。
水盤には富士山形の線刻の下に○に吉の紋が刻まれ、これは「丸吉講」の奉納とみられます。
本殿拝殿前に石灯籠一対。


【写真 上(左)】 参道と拝殿
【写真 下(右)】 拝殿

拝殿は入母屋造平入り流れ向拝。縋破風の照りが効いて均整のとれたつくり。
拝殿と本殿は石の間で接続しているようです。



【写真 上(左)】 拝殿扁額
【写真 下(右)】 本殿

水引虹梁まわりは直線的で、海老虹梁部も湾曲なくシンプルな仕上がり。
向拝まわりの意匠もスクエアで統一され、全体にきっちり端正な印象です。
向拝見上げに、新たに立派な社号扁額が掲げられました。


【写真 上(左)】 稲荷神社と護国神社
【写真 下(右)】 鷲宮神社


【写真 上(左)】 水神宮
【写真 下(右)】 敷島子安神社

拝殿向かって右手には護国神社と稲荷神社、左手には鷲宮神社でいずれも鳥居を構えています。
手水舎の並びに水神宮(御祭神:罔象女大神)が鎮座しますが、リーフレットによると本殿にも罔象女大神が祀られているので、この水神宮と引又河岸の水神社とのつながりについてはよくわかりません。
また、水神宮の並びに天平宝宇三年(759年)創建と伝わる敷島子安神社が鎮座し、こちらのご祭神は木花開耶姫命です。

〔田子山富士塚〕
朱印揮毫:木花開耶姫命 書置(筆書)

【写真 上(左)】 平成30年1月の御朱印
【写真 下(右)】 令和2年11月の御朱印


【写真 上(左)】 桜と田子山富士塚
【写真 下(右)】 つつじと田子山富士塚


【写真 上(左)】 入山口
【写真 下(右)】 なかなか立派な狛犬です

境内左手に田子山富士塚。高さ9m、麓の円周約125mのかなり大がかりな富士塚です。
「山頂に祠」「烏帽子磐」「小御岳神社」富士山の溶岩「黒ぼく」「御胎内」(地下洞穴)を備え、しかも「霊峰富士を遥拝」できる稀少な富士塚とのこと。
石造物の数もすこぶる多く細工の質も高いため、令和2年3月に「国指定の重要有形民俗文化財」に指定されています。


案内図


【写真 上(左)】 下浅間社
【写真 下(右)】 琴比羅神社

登り口手前右に琴比羅神社、左の下浅間社には開祖の十瀧房承海僧が祀られているようで、祭礼日にはご開帳されます。
頂上の浅間神社(奥宮)には木花開耶姫大神が祀られているかと思いきや、リーフレットによると御祭神は国常立大神、大山祇大神、御食津大神とのことです。


【写真 上(左)】 開山日の境内
【写真 下(右)】 けっこう険しい登山道


【写真 上(左)】 山頂部
【写真 下(右)】 山頂の奥宮


【写真 上(左)】 田子山冨士の紋
【写真 下(右)】 山頂からの境内

富士塚西側に鎮座の松尾神社の御祭神は大山咋大神で、正月には敷島神社拝殿前にお出ましになります。


【写真 上(左)】 松尾神社
【写真 下(右)】 松尾神社(正月)

神仏習合の名残を残し、法華宗の御題目の石碑や烏天狗の石像、不動明王の石像もみられます。


【写真 上(左)】 神猿と石碑
【写真 下(右)】 御題目の石碑


【写真 上(左)】 御胎内
【写真 下(右)】 不動明王

境内西側には不動明王が祀られていますが、こちらは以前この地にあったとされる真言宗の古刹宝幢寺の仏さまで、「御胎内」の奥に祀られている大日如来とともに仏の信仰の中心であったとのこと。
成田山ゆかりのお不動様で、境内の琴比羅神社とあわせてお参りすると、四国の金刀比羅宮と岡山の喩伽大権現・蓮台寺の「両参り」と同じご利益となるそうです。


【写真 上(左)】 宝幢寺
【写真 下(右)】 宝幢寺の御朱印

御朱印は開山日は境内観光案内所で敷島神社と田子山富士塚の2体の書置御朱印が授与されます。志木市商工会でもいただけるようですが現況の詳細不明。
水宮神社では敷島神社は常時授与されているようですが、田子山富士塚については不明です。
よって、2体拝受されたい向きは、開山日の参拝が確実です。なお、開山日でも御朱印授与は15時で終了となるので要注意です。

■ 水宮神社(富士見市水子1762)の御朱印もUPしておきます。


【写真 上(左)】 書置御朱印
【写真 下(右)】 直入御朱印
※ 週末はタイミングにより書入御朱印拝受可の模様


境内の摩訶山 般若院 六蛙堂の御朱印


2.舘氷川神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県埼玉県志木市柏町3-6
御祭神:須佐之男大神(素戔嗚尊)、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:家内安全
旧社格:村社、旧舘之郷(舘村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村)総鎮守
元別当:地王山 宝幢寺(志木市柏町)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:舘氷川神社 直書(筆書)


江戸時代には舘之郷(舘(たて)村・引又村・中野村・針ケ谷村・北野村)の総鎮守として重きをなしたとされる神社。

創祀史料は明らかでないですが、志木市のWeb資料などによると以下のとおりです。
延暦年間(782-808年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐に向かう途中、この地で賊と戦いになり苦戦に陥りました。

そこで田村麻呂は武蔵國総鎮守の大宮氷川神社に出向き、戦勝を祈願しました。
祈願ののち、田村麻呂の軍勢は鈴なりに実をつけた椋の木をみつけ、田村麻呂はこの実を疲れた兵士たちに食べさせました。
すると兵士たちはたちまち鋭気を取り戻し一気に賊を平らげたため、これを氷川様のご加護と信じた田村麻呂は、この椋の木のそばに一社を祀ったのが当社の創祀とされます。

また、境内由来記などによると、時の郡司藤原長勝が自らの城(「柏の城」)内に大宮氷川神社を分祀勧請し貞観年間(859-877年)に創建とあります。
社号や地名に「館」ではなく「舘」がつかわれるのは、これを裏付けるものとされています。(「舘」は高貴な身分の方の居館をさす。)

藤原長勝については、いろいろと伝承が伝わっているので少しく寄り道してみます。

志木市のWeb資料によると、長勝は「柏の城」のそばの大蛇ヶ淵を埋めて水田にしようとしたところ、淵の主の大蛇の怒りに触れて工事は滞りました。
そこで長勝は日頃から尊崇篤い家宝の弘法大師お筆の不動明王に祈願したところ、夢枕で二本の矢を伝授され、長勝はこのうちの一本で大蛇を射たものの一本は射損じて窮地に陥りました。するとどこからともなく白衣の若者があらわれて、格闘の末に大蛇の首をはねました。
長勝の手柄で広大な水田を得たので人々は長勝を田面(たのもの)長者と尊称しました。

長勝には皐月の前(さつきのまえ)というすぐれて美貌の息女がおりました。
在原業平が東下りの折に当地に逗留し、皐月の前と恋におち、ある晩二人して「柏の城」から出奔しました。
長勝は家来に捜索を命じましたが、草深い武蔵野のこととて容易にみつからず、長勝は窮余の策として野に火を放ちました。

猛火は二人の身に迫りましたが、皐月の前が「むさしのは今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」という一首を詠み出すと、たちまちに火勢は収まり二人は「柏の城」に連れ戻されたとのことです。(志木市Web史料より)
このとき二人がかくれた場所が平林寺境内の「業平塚」とされ、「野火止」の地名もこの逸話にちなむものとされています。

伊勢物語にも、このくだりが記されています。(出所は →こちら(『伊勢物語』と業平伝説/近藤さやか氏 2016年))

<東下り・東国章段 第十二段>
「むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、『この野はぬすびとあなり』とて、火をつけむとす。女、わびて、~ 武蔵野は今日はな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり ~ とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。」

 
【写真 上(左)】 平林寺の業平塚
【写真 下(右)】 平林寺の御朱印

なお、かつて当地は「亭(ちん)の台」と呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説もあって、在原業平とのゆかりが強い土地柄に思えます。

藤原長勝の存在は史料からは裏付けられていないようですが、この地に「柏の城」があったことは確かで、中世には荏柄氏、二階堂氏、大石氏などが拠ったともされ、境内由来記によると当社神域は「柏の城」の大手門にあたり城の守護神であったといいます。
明治40年(43年とも)に字久保の村社白山社、城山八幡社など15社を合祀していまに至ります。


柏の城配置図(行屋稲荷境内掲示物より)

志木第三小学校前にある「柏の城跡」、長勝院内の「柏の城西の曲輪跡」説明板によると、柏の城は、木曾義仲の子孫で関東管領山内上杉家の重臣大石氏が室町中期に築いた居館で、当地に伝わる『舘村旧記』によると、現在の志木三小に本曲輪(本丸は校庭のほぼ中央)、その東側に二の曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪が、そして志木三小西側の長勝院境内に西の曲輪があったとされています。


【写真 上(左)】 柏の城跡
【写真 下(右)】 柏の城西の曲輪跡(長勝院)

戦国期の当主は大石越後守直久で北条氏に属し、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に豊臣勢に攻められて落城。
徳川家康の江戸入府にともない、家臣福山月斉が地頭としてこの城地に居住したとされます。


【写真 上(左)】 長勝院旗桜
【写真 下(右)】 長勝院旗桜の花

西の曲輪跡と伝わる真言宗智山派(石神井村三寳寺末)の蓮華山 無量寿寺 長勝院は「長勝院旗桜」(ちょうしょういんはたざくら)で知られていますが、現在堂宇は残っていません。
(堂宇は昭和60年に解体されましたが、本堂廊下に掛けられていた版鐘は志木市の指定文化財に指定されています。)

4番、宿氷川神社のすぐそばにある「道興准后歌碑」の道興准后があらわした東国巡遊の紀行文『廻国雑記』には下記の記載があります。
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『廻国雑記』(大月隆 著)/国会図書館DCより引用
「ある時、大石信濃守といへる、武士の館に、あそびにまかりて、あそび侍るに、庭前に高閣あり矢倉などを、あひかねて、侍りけるにや、遊景すぐれて、数千里の江山、眼の前につきぬ、とおもほゆ、あるじさかづきを、とりいだして、くれすぐるまで遊覧しけるに
一間乗興●登樓 遠近江山分幾州
落雁呌霜風颯々 白沙翠竹斜陽幽
十玉か坊にて、人々に、二十首歌よませ侍るに(以下略)」


【写真 上(左)】 長勝院付近からの柳瀬川
【写真 下(右)】 柳瀬川から西側のながめ

「柏の城西の曲輪跡」の説明板に、「このあたりは、かつて亭の台(ちんのだい)とも呼ばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説もあり(中略)また、館村八景(江戸時代の舘村の景勝地)の一つに『亭の下の夕照』とあり、この付近は、秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名なところでした。」とあり、武蔵野台地の突端に位置するこの眺望の地が、すでに室町時代に歌に詠まれていたことがわかります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居


【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 拝殿

戸建て住宅立ち並ぶ一画にありなかなかわかりにくいですが、たどり着いてみると思いのほか広い境内。
銅板葺?の立派な両部鳥居で「氷川神社」の扁額。
参道左手は野火止用水の跡で、その手前に手水舎。右手に社務所、左手の建物は志木市の武道館です。

参道に石灯籠二対、拝殿前に狛犬一対。
左手の「氷川大明神」の石標には、「五箇村総鎮守 別當寶幢寺」の添書きがあります。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額

拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、水引虹梁、蟇股、雲形の木鼻、海老虹梁、手挟、「氷川神社」の扁額などを備えています。
回縁に朱塗りの組高欄をまわし、どっしりとした印象の拝殿です。
本殿は切妻造平入りで拝殿と接続しています。


【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 本殿

境内由来記や掲示によると、養老元年作の素戔嗚尊の御神体と供人の木像二体を安置。
市内唯一の図像板碑(阿弥陀如来御来迎図、文明十八年(1476年)銘、志木市指定文化財)も伝わりますが、これはもとは志木第三小付近にあった城山八幡社の御神体として祀られていたもので、城山八幡社が当社に合祀されたことにより移されたとのこと。

また、境内の「舘氷川神社修復記念碑」(志木市指定文化財)は、江戸時代の一般庶民が苗字をもっていたことを示す貴重な文化財とされています。


【写真 上(左)】 境内社
【写真 下(右)】 富士塚?の石碑

境内社は数多く、頂上に木花佐久夜姫命、天孫彦穂瓊々杵命、大屋満津見命が祀られ、「志木宿講社中」の銘がある富士塚らしきものがあります。
境内案内図によると参道向かって右手の稲荷社は「境松稲荷大明神」とのことです。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


3.(羽根倉)浅間神社

埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡4-27-20
御祭神:木花開耶姫大神
御利益:子授安産
旧社格:村社
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:浅間神社 直書(筆書)


荒川にかかる羽根倉橋のたもとに鎮座し、「羽根倉橋の浅間様」として崇敬される浅間神社。
境内説明板などによると、建久四年(1193年)、源頼朝公が富士の裾野で巻狩りを催した際、宗岡の住民は勢子役を課せられ、その代償として年貢が免ぜられたのでこれを記念して字大野の地に祠を建てて富士浅間社を祀りました。

富士山から距離のあるこの地の住民が勢子役を課せられたのは不思議な感じがしますが、『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、ここからほど近い難波田の地の武士、難波田(金子)高範は頼朝公が初めて京に上った折の随兵として選ばれ、奥州征伐にも加わるなど武蔵武士の中では重きをなしていたため、その支配下にあった宗岡の村民が使役されたのだろう、ということです。

(難波田(金子)高範については「■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3」の24.(羽根倉)浅間神社をご覧くださいませ。)


その後、長禄年間(1457-1460年)の荒川大洪水で字大野の祠が流され羽根倉(現在の羽根倉橋上流)に流れ着いたので、これを神意と考えこの地に社殿を建立。
明治維新後、荒川の改修工事にともない字蓮田に移転、字十人野の稲荷杜、字大野の浅間社、字蓮田の稲荷社、字東前の八幡社の無格社四社を合祀して村社に列格。
昭和48年(1973年)、県道浦和所沢線の建設のため当地へご遷座しています。

ご遷座と羽根倉富士嶽(富士塚)の関係は、境内案内版によると下記のとおりです。
明治13年(1880年)、現在の堤外地(荒川河川敷)に高さ約10mの塚が築かれ、昭和4年(1929年)頃、河川改修により堤内に移転、昭和45年(1970年)、県道改修事業のため現在地に移転しました。
なお、「明治五年から同十三年の九年間を要して境内に富士塚が築かれた。」というWeb情報もあります。
昭和40年代の県道改修による移転では先に富士塚が移転、のちに浅間神社がご遷座ということになります。

この羽根倉は、南北朝時代の「観応の擾乱」の際、足利尊氏方の高麗常澄と直義方の難波田九郎三郎が激闘を繰り広げた「羽根倉の合戦」の地としても知られています。

リーフレットによると、本殿の御祭神は木花開耶姫大神。冨士塚の御祭神は、国常立大神、大山祇大神、木花開耶姫大神とのことです。

富士塚を築いたのは上宗岡の丸藤(まるとう)講で、江戸後期の著名な行者、食行身禄(じきぎょうみろく)の弟子の高田藤四郎(日行青山)の弟子となった高野源次郎が初代先達となって文化二年(1805年)に結成した講で、二度の移転を経ながらも、熱心な信仰によって現在も整然と保たれており、近世からの富士信仰の様子をよく示すものとして説明されています。
もともとの富士塚は丸藤講五代先達池之内政五郎が、十年のあいだ富士登山の度に溶岩を運んで築いたものと伝わります。

境内に現在地に移転の経緯を記した「浅間神社移転記念碑」がありましたので、抜粋引用します。
「わが浅間神社は建久の昔から 我等の祖先が代々崇敬して来たが 嚮に(以前に)国の荒川改修工事のため此所に遷祀された 然るに未だ幾何もないのに県道改良工事に当り 再び移転の止むなきに至った 神社役員等は再三その筋に計画変更方を願ったが許されず 遂に昭和四十四年八月境内地(中略)買収に応じた。よって氏子一同相謀り 社殿擬岳は移転して古容を残し(中略)社殿を修理し(中略)昭和四十五年十一月竣工した。」


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 境内

南に羽根倉通、西に浦所バイパスの築堤、北に荒川の堤防を控えた立地ですが、境内には富士塚が整然とそびえ、右手の社殿の日当たりもよく、高燥なイメージがあります。
境内には参拝者用の駐車場もありました。

社頭に石造の明神鳥居で「浅間神社」の真新しい扁額が掲げられています。
参道左手に手水舎。神使の猿像一対と石灯籠二対。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 向拝

拝殿は正面からみると入母屋造銅板葺平入りですが、背後に石の間と本殿を連結しています。
本殿はおそらく方一間の切妻造平入り(神明造?)で、屋根に千木、堅魚木、小狭小舞を置く端正なつくりです。
拝殿に向拝柱や水引虹梁はなく、向拝正面は下部連子、上部格子で見上げに「冨士浅間大神」の扁額が掲げられています。
主祭神の木花開耶姫命の御神像は六十年に一度の御開帳とのこと。


【写真 上(左)】 拝殿扁額
【写真 下(右)】 石の間と本殿


【写真 上(左)】 本殿裏は荒川の堤防
【写真 下(右)】 羽根倉富士塚

拝殿向かって右に羽根倉富士嶽(富士塚)。(志木市Web資料
こちらは志木市の有形民俗文化財に指定されています。

高さ約5m、直径約17m。
平成24年に崩落防止のためコンクリート補修されているものの、黒ボク(富士山の溶岩)は残り、胎内穴も残る本格的な富士塚です。
頂上の白い岩には「浅間大神」と刻まれています。
丸藤講の奉納とみられる石碑もありました。


【写真 上(左)】 胎内穴
【写真 下(右)】 丸藤講?の石碑


【写真 上(左)】 頂上
【写真 下(右)】 境内社

境内社は富士塚左手に八幡神社と稲荷社。
羽根倉通側に稲荷社とお社(御嶽神社か?)と覆堂のなかに立像の石仏。
如来を思わせる面差しの石仏は、薬壺を両手で抱えられた薬師如来にも思えましたが、石仏の薬師如来立像はめずらしいですし、通常薬壺は左手の持物なので、宝珠を抱えられた地蔵菩薩かと思われます。(『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』の境内図にも、この位置に「地蔵」とあるので間違いないかと思います。)

露仏の青面金剛も御座されていました。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。

■ 志木開運・招福七社参り-2へつづきます。

【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵


■ 風と花と光と - 世理奈


■ Hello,my friend - 松任谷由実


■ 滴 - 今井美樹


■ 夏空の下 - やなわらばー
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■ 御朱印展

12/13(金)~16(日)に銀座で開催された「御朱印展」に行ってきました。
東京都神道青年会の主催で、東京都内のご協力神社・全225社の御朱印が展示されました。

 
【写真 上(左)】 「御朱印展」
【写真 下(右)】 「御朱印展」のチラシ

個人的には御朱印ブームはすでにピークアウトしたと感じているので、余裕で入場・鑑賞できると思いきや、実際には展示場前の歩道に行列ができ、場内も満員の盛況でした。

チラシには「御朱印がここまでの数集まるのは東京都では初めての試み」とあり、御朱印ファン?には貴重な機会だったようです。
しかし、場内は写真撮影一切不可で、展示御朱印を記録することは叶いませんでした。

筆者は展示御朱印は島嶼部をのぞいてほとんどいただいており、展示御朱印以外にも拝受している御朱印がかなりあります。

そこで、「御朱印展」と同じ順序で御朱印を紹介してみたいと思います。
まずは東京都千代田区から始め、以降連載形式で順次追加していきます。

と、ここまで書いたところでやにわに思い立ち「東京 神社 御朱印」でWeb検索したところ、ものすごい記事がヒットしたので、この無謀な試みはやめにします。

「御朱印神社メモ」

このサイトは圧巻です。到底筆者が太刀打ちできる点数ではありません。
世の中にはすごい人がいるものです。

なので、おとなしく、これまでの寺社ごとのご紹介をつづけます。
直近の記事は、→ こちら「■ 鎌倉市の御朱印-24 (C.極楽寺口-7)」です。
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■ ご縁日と御朱印

・冬至の日の御朱印(再掲)
飯能の高山不動尊(高貴山 常楽院)は、毎年、冬至の日に秘仏・軍茶利明王の御開帳で、当日のお昼前後のみ高山不動尊の御朱印がいただけます。
成田不動尊、高幡不動尊とともに「関東三大不動尊」のひとつにも数えられる名刹ですが、御朱印をいただけるのは原則年に1日のみ。平日も休日も関係なく冬至の当日です。
(ただし今年の冬至(12/21)の授与については未確認。)

快晴であれば、木の葉が落ちきった明るい尾根道(奥武蔵グリーンライン)を駆っての清々しいアプローチが楽しめ、近くの関八州見晴台の奥の院からは雄大な眺望も得られます。

 
【写真 上(左)】 高山不動尊参道
【写真 下(右)】 高山不動尊の御朱印

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すべてご縁日ではないですが、このところ日にち限定授与の御朱印をかなりいただいたので、ご紹介してみます。


汐留稲荷神社(川崎市川崎区)
原則として「かわさき大師ウォークラリー」(今年は10/27)当日の14時までしか拝受できない模様。
近隣の他の数寺社も当日のみの限定授与のようです。


十番稲荷神社(港区麻布十番)の一の酉の御朱印です。


三柱神社(栃木県足利市)の御朱印。
原則として足利文化財特別公開日(今年は11/23、24)のみの限定授与とみられます。
同公開期間中限定授与の神社は他にもあります。


浮岳山 深大寺(東京都調布市)のそば守観音の造立60周年記念御朱印。
今年(2024年)10/30~11/20の月曜と、「そばまつり」開催期間(11/25~12/3)の授与でした。


浅草鷲神社(台東区千束)の三の酉の御朱印です。


深川の富岡八幡宮・境内社の大鳥神社の三の酉の御朱印です。
原則として酉の市当日のみの授与とみられます。


西浅草八幡神社の御朱印。限定授与ではないですが、原則電話予約が必要です。
数年前の三社祭当日に限定授与された例がありますが、それ以降は不授与でした。
本年(2024年)11月初旬から授与開始の模様です。
詳細は→ こちら


西浅草八幡神社境内御鎮座の大黒天の御朱印。
浅草寺の大黒天とゆかりをもつとされる尊像です。


谷口鹿島神社(相模原市南区鶴間)、毎月1日、15日限定授与の御朱印です。


翠ケ丘出雲神社(相模原市南区相南)、毎月1日、15日の午前中限定授与の御朱印です。


金湯山 早雲寺(神奈川県箱根町湯本)の御朱印。
年3日ほどの特定日の特別拝観等拝観者に限定で授与とみられます。
詳細情報


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2023/10/25 UP

ご縁日ではないですが・・・
鎌倉の建長寺と円覚寺では、今年も11月3日(金・祝)~5日(日)の3日間「宝物風入」(ほうもつかぜいれ)が行われます。
例年、この期間中にはふだんはいただけない御朱印が授与されますが、今年も授与されるかはわかりません。

建長寺の風入情報
円覚寺の風入情報
↑ 検索でヒットする(公社)鎌倉市観光協会のWebは最新情報にアップデートされていませんが、両山の公式Webに上記3日間で開催の案内があります

〔建長寺の風入特別御朱印の例〕
 
 
金泥印の御朱印も  

〔円覚寺の風入特別御朱印の例〕
 

■ 円覚寺の御朱印(25種)

なお、新型コロナ禍前には11月初旬に開催されていた箱根・早雲寺の特別拝観では貴重な御朱印が授与されていたようですが、新型コロナ禍以降は中止となり、今年も11月3日に「箱根大名行列」が4年ぶりに本格開催される関係上、開催見送りとのこと。(箱根湯本観光協会に電話確認)
筆者、痛恨の未拝受御朱印です。

■ 箱根の御朱印

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正月三日は厄除元三大師のご縁日(初大師)です。
川越の喜多院では「だるま市」が開催されます。

 
↑ 令和初の川越喜多院「初大師」の御朱印とだるま市

筆者は、令和のはじめから「ご縁日の御朱印帳」をつくっていて、先日、飯能の高山不動尊で念願の御朱印をいただき46のすべての頁を収められましたので、これと絡めて「ご縁日と御朱印」についてまとめてみます。

構成がけっこうたいへんなので(笑)、しばらくお待ちくださいませ。

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)


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ちょっととりかかってみましたが、江戸時代まで遡るにはあまりにもテーマが大きいので(笑)
まずは骨子だけまとめ、あとは随時追記していきます。

縁日とはなんでしょうか。
『神仏混淆の歴史探訪』(川口謙二氏著、東京美術、昭和58年10月刊)の「縁日」の頁には「仏陀、神明に有縁の日で、祭や供養のある日を縁日という。社寺に参詣して、仏・神を追念し、その縁を結び、功徳を生ずる日のことである。また縁日を香期(こうき)ともいう。」とあります。

また、江戸期の国学者、喜多村信節が文政十三年 (1830年)に著した随筆『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)巻七には下記のとおりあります。
「縁日 佛神縁日といふこと 佛𦬇(菩薩)降誕日示現日或は其神誕辰 降現 昇仙等の日 道書並月令広義などに見ゆ。是俗にいふ縁日なり。」

要は、神仏に有縁の日で社寺に参詣してその縁を結び、功徳を生ずる日ということで、規模が大きく参詣者が多く集まるものが「祭り」ではないかと思われます。
なお、個別の尊格のご縁日についてはこちら (→「主な縁日」(Wikipedia))をご覧ください。

いま、ご縁日に参詣してご住職やご神職とお話しをすると、「昔はもっと賑わっていたものだが・・・」というご感想をよく耳にします。
ご縁日でしっかり向拝幕が張られ、幟も整えられ、尊佛はご開扉されて供物も捧げられているのに、参詣者がほとんどいない境内、というのは寂しいものです。


明治42年刊の上京者向けの観光ガイド『東京案内』(森集画堂編輯部編)には、「祭礼縁日案内」の頁があり、縁日詣で目的の上京者がいたことがわかります。

また、大正13年には全國縁日案内というかなりマニアックな本が出版されているので、この頃までは縁日を意識して参詣していた人がかなりいたのではないでしょうか。
この本をみると、東京都内に限っても毎月一日から晦日まで、一日も途絶えることなく社寺の縁日が連なっています。

時代が進み、次第に世相が忙しくなって、縁日の参詣者も減り、このところの寺社ブームで祭りは注目されても、ご縁日まで掘り下げられることは多くありません。

まぁ、時代にそぐわない企画ともいえるのですが(笑)、ご縁日しかいただけない御朱印があったり、縁日印を捺していただけるところもありますので、ご紹介の意味でUPしてみます。
(筆者は御朱印を「参拝の証」というよりは、その結果としての「神仏との結縁の証」と考えているので、個人的には「ご縁日の御朱印」はひときわ特別な意味があると思っています。月替わり・日替わり限定御朱印にはほとんど興味がありませんが、「ご縁日の御朱印」となるとついついいただいてしまいます。)
西新井大師のご縁日紹介のWebページ

これ以上、縁日の定義や意義にふれても煩雑になるだけなので、ひとまずはご縁日の御朱印をいくつかご紹介してみます。

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令和元年5月1日は「新天皇即位日」の祝日でGWさなかであったこともあり、各地の寺社で御朱印を求める人々の行列がみられました。
個人的な感触からすると、おそらくこのときが御朱印ブームのピークで、近ごろは授与所前で行列をみることは希になりました。

その背景として、御朱印に興味をもつような人の多くはすでにある程度いただいてしまったこと、拝受希望者の増加や新型コロナ禍による「書置御朱印」の増加、そして300円から500円へのお納め額の引き上げなどが考えられます。
筆者は直書御朱印にさしてこだわりませんが、自分の御朱印帳にご住職やご神職がみずから書き入れて下さる、という有り難みが、御朱印ブームを盛り上げていた一面は否定できないと思います。

しかも、ブーム前は書入れでもほとんど300円。
寺社様側の諸般のご事情をお伺いすると、引き上げやむなし、という感じもするのですが、三十三観音を廻ると300円では9,900円、500円だと16,500円。
八十八箇所だと500円で44,000円にもなり、気軽に霊場巡拝をはじめる人が減っているのかもしれません。

すこしく話が逸れました。
とにかく、元号が変わった令和元年5月1日、および平成最終日の平成31年4月30日は、御朱印にかかわる人には特別な日であったと思われます。

ご縁日ではないですが、まずはこちらの関係の御朱印をご紹介します。
改元にちなむ限定御朱印の例は各地でみられましたが、当日はどこもパニック状態で筆者はひとつもいただいておりません。
御朱印帳の最終頁を閉めたり、新しい御朱印帳の1頁目を開いたりがメインでした。

 
【写真 上(左)】 最終頁にいただいた平成31年4月30日の八王子・多賀神社の御朱印
【写真 下(右)】 最初の頁にいただいた甲斐国一宮・浅間神社の令和初日の御朱印

筆者の仕事は時間が比較的自由になるので、これ幸いといくつか令和初縁日の御朱印をいただいています。

〔ご縁日の御朱印〕

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(十日)の虎ノ門・金刀比羅宮の御朱印
【写真 下(右)】 令和初縁日(十五日)の阿弥陀如来の御朱印(芝・増上寺)

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(十六日)の閻魔大王の御朱印(小石川・源覚寺/こんにゃく閻魔)
【写真 下(右)】 令和初縁日(十九日)の馬頭観世音菩薩の御朱印(江東区大島の羅漢寺)

 
【写真 上(左)】 令和初縁日(廿六日)の愛染明王の御朱印(練馬・愛染院)
【写真 下(右)】 令和初縁日(廿八日)の大日如来の御朱印(湯島・霊雲寺)

〔四万六千日・一粒万倍日の御朱印〕
四万六千日(しまんろくせんにち)とは、観世音菩薩の功徳日のひとつです。
功徳日とは、その日に参拝すると100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日をいいます。
尊格や寺社によって異なりますが、浅草浅草寺の四万六千日(毎年7月10日)はほおずき市も催され、多くの参拝客で賑わいます。

四万六千日に浅草寺の観音さまを参拝すると、その功徳はじつに46,000日分。なんと126年分の功徳を積めるといわれています。
四万六千日の縁日は浅草寺が創始といわれ、次第に各地の寺院にも広まったとされます。

浅草寺の四万六千日(7月10日)の御朱印には、「四万六千日」の印判が捺されます。

四万六千日とは別に、月に5日程度の「一粒万倍日」というのもあります。
わずかなものが非常に大きく成長する日とされ、ことを始めるのに最適な日といわれています。
一年に数日一粒万倍日と天赦日(暦の上で最上の吉日)が重なる日があり、この日を狙って芸能人カップルが入籍したりして話題を集めます。

 
【写真 上(左)】 浅草寺の四万六千日の御朱印
【写真 下(右)】 市守大鳥神社(八王子)の一粒万倍日&酉の市御朱印

〔酉の市の御朱印〕
酉の市(とりのいち)は、例年11月に催される酉の日の縁日・祭で、年により2日(二の酉)の場合と3日(三の酉)の場合があります。
「おとりさま」と呼ばれ、縁起物の熊手などを求めて多くの人出で賑わいます。
酉の市には、特別な御朱印を出される寺社や、その日しか御朱印をいただけない寺社がかなりあります。

■ 特別な御朱印の例
 
【写真 上(左)】 鷲神社(台東区千束)の酉の市特別御朱印
【写真 下(右)】 長國寺(台東区千束)の酉の市特別御朱印

■ 酉の市しかいただけない御朱印の例
 
【写真 上(左)】 (目黒)大鳥神社の御朱印
【写真 下(右)】 (調布)大鳥神社の御朱印

〔干支・節句など特別な日の御朱印〕
干支が絡むご縁日は複雑で、数十年に一度の縁日などという例もあるようです。
芝の寶珠院の弁財天は60日に1日の「己巳の日(つちのとみのひ)」が大縁日で、特別な御朱印が授与されています。
品川区・双葉の蛇窪神社(上神明天祖神社)でも己巳の日の御朱印が授与されています。

 
【写真 上(左)】 寶珠院の弁財天の己巳の日の御朱印
【写真 下(右)】 蛇窪神社の己巳の日の御朱印は受けていないので、大祭(蛇窪祭)の御朱印です

・浅間神社山開きの御朱印
木花咲耶姫命を御祭神とする浅間神社や富士塚は、7月上旬の「富士山お山開き」に合わせ概ね7月1日前後に山開きとなります。
とくに富士塚系は通常非常駐の場合が多く、山開き日限定の御朱印が多くなっています。
北区中十条の十条冨士神社は、毎年6月30日・7月1日の山開きの例祭時のみ御朱印が授与されている模様です。
台東区下谷の小野照崎神社境内の下谷坂本富士も、毎年6月30日・7月1日の山開きの例祭時のみ御朱印が授与されている模様です。

 
【写真 上(左)】 十条冨士神社の御朱印
【写真 下(右)】 下谷坂本富士の御朱印

・冬至の日の御朱印
飯能の高山不動尊(高貴山 常楽院)は、毎年、冬至の日に秘仏・軍茶利明王の御開帳で、当日のお昼前後のみ高山不動尊の御朱印がいただけます。
成田不動尊、高幡不動尊とともに「関東三大不動尊」のひとつにも数えられる名刹ですが、御朱印をいただけるのは原則年に1日のみ。平日も休日も関係なく冬至の当日です。
こちらは長年の宿題でしたが、先日ついに参拝できました。
冬至の快晴の日、木の葉が落ちきった明るい尾根道(奥武蔵グリーンライン)を駆っての清々しいアプローチ。
関八州見晴台の奥の院も参拝しました。

 
【写真 上(左)】 高山不動尊参道
【写真 下(右)】 高山不動尊の御朱印

・庚申の日の御朱印
巣鴨庚申堂は、元旦と年6日ほどの庚申(かのえさる)の日の午前中のみ御朱印が授与されます。
授与日は公式Webで告知されています。

柴又帝釈天のご縁日も庚申の日で、庚申の日には「庚申」、年の最後の庚申の日(納庚申)には「納庚申」の印判つきの御朱印が授与されています。

 
【写真 上(左)】 巣鴨庚申堂の御朱印
【写真 下(右)】 柴又帝釈天の納庚申の御朱印

・亥の日の御朱印
上野の摩利支天・徳大寺では、亥の日にイノシシの印判つきの御朱印が授与されています。


上野摩利支天・徳大寺の亥の日の御朱印

〔不動明王のご縁日〕
不動明王のご縁日、毎月28日もよく知られており、各地で例祭や護摩供が催されます。
不動明王ご縁日の特別御朱印は西日本で盛んで、関東では少ないですが、深川不動尊では「縁日」の印判が捺されます。
また、品川区豊町の大原不動尊の御朱印は、己巳の日に戸越公園駅周辺の商店街が催す「へびくぼ市」の日のみの授与となっています。

 
【写真 上(左)】 深川不動尊のご縁日の御朱印
【写真 下(右)】 大原不動尊の御朱印

〔お大師さまのご縁日〕
弘法大師空海(お大師さま)は825年3月21日高野山にてご入定され、こちらにちなんで毎月21日はお大師さまのご縁日とされます。
お大師さま専用の御朱印帳に、21日のご縁日にいただいています。

 
【写真 上(左)】 成田山川越別院 本行院のご縁日特別御朱印
【写真 下(右)】 御府内八十八箇所霊場結願所、遍照山 文殊院(杉並区和泉)のご縁日の御朱印

※お大師さまご生誕 1250年
令和5年(2023年)はお大師さまがお生まれになって1250年の記念の年です。(→高野山金剛峯寺Web
ご誕生日の6月15日を中心として各地の真言宗寺院で記念法会が営まれました。

東京・高輪の高野山東京別院では6月15日~17日に青葉まつりが開催され、本堂内に四国八十八か所お砂踏み所が設けられ巡拝ができました。
結願者には稚児大師の御影入りの結願証が授与されました。

 
【写真 上(左)】 ご生誕 1250年当日の御朱印
【写真 下(右)】 結願証

〔閻魔大王のご縁日〕
閻魔大王はことに縁日と縁のふかい尊格です。ご縁日は毎月16日ですが、とくに1月16日は「初閻魔」、7月16日は「藪入り」といわれ、参詣客で賑わいました。
閻魔大王も専用の御朱印帳をこしらえて、原則16日のご縁日に江戸・東京四十四閻魔参りの札所をメインにまわっています。

中目黒の鶏足山 実相寺は、初閻魔と藪入りの年2回のみの授与でしたが、新型コロナ禍以降の授与状況は不明です。
巣鴨の醫王山 眞性寺では藪入りに閻魔まつりが催されます。こちら↓ はその時の御朱印ですが、常時授与されているかは不明です。

 
【写真 上(左)】 実相寺の藪入りの御朱印
【写真 下(右)】 眞性寺の藪入りの御朱印


縁日といえるかはわかりませんが、二十三夜月待講ゆかりの寺院などは毎月23日に限定御朱印を出されるケースがあります。
詳細は→こちら(■ 勢至菩薩の御朱印 / 二十三夜月待講)

なお、神社で正月や祭礼日のみ授与の御朱印はかなりあるので、この記事ではご紹介を控えました。
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■ 早雲寺の御朱印

箱根湯本の名刹、金湯山 早雲寺

小田原城主・北条氏の菩提寺で、二代氏綱公が初代早雲公の遺言により京都大徳寺第83世以天宗清禅師を開山として招き大永元年(1521年)に創建した臨済宗大徳寺派の古刹です。

箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったといわれるほどの大寺で、数々の文化財を所蔵されます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 中門


【写真 上(左)】 客殿(方丈)
【写真 下(右)】 庭園


【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 北条五代の墓参道


早雲寺の御朱印については、令和元年までは11月の曝涼(ばくりょう)時にあわせた特別拝観時のみの授与でした。
(以前は条件が合えば授与されていたときもあったらしい。)

新型コロナ感染症が広まった令和2年春以降、昨年(令和5年)までは特別拝観は休止となっていたので、御朱印も不授与でした。


庫裏玄関には、こういう掲示↑がされています。


今年は曝涼時ではなく、下記日程で寺宝公開され、そのときに御朱印も授与されます。
詳細は→ こちら
 2024年10月4日(金)達磨忌の前日
 2024年12月8日(日)釈迦尊成道会
 2025年2月15日(土)釈迦尊涅槃会
前回の特別拝観は令和元年11月でしたから、じつに5年ぶりの堂内一般公開&御朱印授与となります。

公開時間は各日それぞれ4回。定員は各回20名で予約者優先となります。

筆者は令和元年11月の特別拝観を狙っていたところ、あいにく時間がとれず懸案となっていましたが、ついに今回拝受できました。

寺宝公開は、ご住職のご案内をいただき開催されました。
すこぶる敷居の高い印象のある当山ですが、ご住職からはたいへんご丁寧な説明をいただき、こちらが恐縮するほどでした。
益田玉城画伯の「出山釈迦図」、北条早雲・氏綱・氏康画像、本堂襖絵三十八面、狩野永納の「宗祇騎馬図」などが公開されました。

また、客殿(方丈)では御本尊の釈迦如来を間近で拝せました。

御朱印は、拝観受付時に御朱印帳をお預けすると拝観後に授与いただけます。
書置のものがあるかは不明です。
今回も相方とそれぞれ1通宛、計2通拝受しました。

 

早雲寺の御朱印は「虎の御朱印」ともいい、捺される印判は「禄壽應穏」(ろくじゅおうおん)と刻されたものです。
虎の印「禄壽應穏」は、二代北条氏綱公の時代から、北条氏の出した朱印状に押印されていたとされ、上部に虎の伏した姿が刻まれています。

じっさいに拝受してみると、やはりただならぬ存在感のある御朱印です。

 
【写真 上(左)】 御朱印説明
【写真 下(右)】 パンフレット

今回は創建500年記念特別展図録「早雲寺」が、内容に比して破格のお値段で頒布されていたので購入しました。


「早雲寺」


次回は2025年2月15日(土)の釈迦尊涅槃会です。
現況、予約枠が空いているかは不明ですが、興味をもたれた方は問合せされてみてはいかがでしょうか。

早雲寺については、平林寺と同様のフォーマットでまとめてみたいと思いますが、歴史ある名刹ゆえしばらく時間がかかるかと思います。

【関連記事】
■ 箱根の御朱印



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 雪の華 - 中島美嘉 Cover.花たん(hanatan)


■ Mirai 未来 - Kalafina

数十人でユニゾンがあたりまえの時代に、わずか3人でこのテクニカルなハーモニー。
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■ 箱根の御朱印

早雲寺の御朱印を追加しました。

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2022/06/21 UP
御朱印を数点、追加しました。

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2021/11/13 UP

先日、超ひさびさに箱根に行ってきました。
元箱根あたりは例年の秋の行楽シーズンに比べ、まだ人出はすくないと思います。
また、新型コロナ禍による御朱印授与制限はおおむね解除されている模様です。



箱根は関東有数の観光地で、箱根神社や箱根七福神があるためか、”御朱印のメッカ”のイメージもありますが、授与される寺社はさほど多くはありません。
(そもそも寺社の数が多くない。)
現況、Web上の御朱印情報は箱根神社など、一部のメジャー神社に集中しています。

御朱印を授与されている寺院もそれなりにあるのですが、拝受難易度はけっこう高く、Web検索でもなかなかヒットしません。
そこで、箱根周辺の御朱印情報を網羅的にまとめてみることにしました。

拝受数を稼ぐ向きは、寺社が集中する小田原市や南足柄市と併せて回るのも面白いかもしれません。
(今回のご紹介範囲は小田原市の一部と箱根町全域、そして小山町の一部とします。)

〔 関連記事 〕
■ 熱海温泉&湯河原温泉周辺の御朱印
↑ 早川方面はこちらでご紹介しています。

なお、こちらでご紹介する御朱印が現在も授与されているかは定かではありません。
(授与状況は寺社様のご都合により都度変動します。)
札所でない寺院も多く含むので、ご不在のケースも予想されます。
また、アプローチは概ね込み入って細く、Pも狭いところが多いので、車での参拝は細心の注意が必要です。
以上、ご留意をお願いします。

〔 温泉の関連記事 〕
■ 箱根二十湯制覇!


それでは、小田原市からいきます。


〔 小田原市の御朱印(一部) 〕



小田原市は関東でも有数の御朱印エリアで、すべてご紹介するとこの記事の主旨を外れるので、下記エリアのみとします。
・小田原城大手前から南西側(本町・南町)の東海道沿い、および城山4丁目、板橋、風祭、入生田あたりの箱根に向かう箱根登山鉄道沿線の寺社
※小田原城では、摩利支天の御朱印を拝受できます。(筆者未拝受)


■ 報徳二宮神社
公式Web 
小田原市城内8-10
御祭神:二宮尊徳翁
旧社格:県社、別表神社
元別当:
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:報徳二宮神社 直書(筆書)



■ 松原神社
神奈川県神社庁公式Web 
小田原市本町2-10-16
御祭神:日本武命、素戔嗚命、宇迦之魂命
旧社格:県社、小田原宿総鎮守
元別当:玉瀧坊・西光坊?
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:松原神社 書置(筆書)



■ 不老山 壽松院 無量寺
公式Web
小田原市本町3-13-53
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第33番(十一面観世音菩薩)、小田急武相三十三観音霊場第26番


〔拝受御朱印〕
1.足柄三十三観音霊場の御朱印 十一面観世音菩薩
※御本尊の御朱印の授与は不明。



■ 大恩山 知見院 妙泉寺
小田原市本町3-13-35
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 ※御首題は筆者参拝時ご住職ご不在につき未拝受
1.「大恩山知見院妙泉寺」の御朱印


2.毘沙門天の御朱印



■ 青陽山 妙経寺(御幸ヶ浜)
公式Web
小田原市本町4-6-5
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 蓋子山 福田寺
公式Web
小田原市本町4-6-12
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 六字御名号



■ 醫王山 薬師院 圓福寺
公式Web
小田原市本町4-6-24
東寺真言宗
御本尊:不動明王
札所:小田原七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 不動明王

2.小田原七福神の御朱印 布袋尊



■ 妙珍山 蓮昌寺
小田原市本町4-5-19
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 稲荷山 一花院 大蓮寺
小田原市南町2-4-9
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第32番、小田原七福神(福禄寿)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 永刧山 最勝院 報身寺
小田原市南町3-11-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第31番、小田原七福神(恵比寿神)

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来
※足柄三十三観音霊場の御朱印不授与



■ 居神神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命
旧社格:旧山角町、旧板橋村の鎮守
元別当:庭松寺
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:居神神社 直書(筆書)



■ 水神社
公式Web 
小田原市城山4-23-29
御祭神:國之水分神
旧社格:-、居神神社境内社
元別当:
授与所:居神神社境内社務所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:水神社 直書(筆書)



■ 宝聚山 随心院 大久寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山4-24-7
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 惺雄山 蓮船寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市城山3-31-15
日蓮宗
御本尊:
札所:小田原七福神(大黒尊天)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.小田原七福神 大黒尊天



■ 大久保神社
神奈川県神社庁公式Web
小田原市城山3-27-7
御祭神:大久保忠世候、大久保忠眞候
旧社格:
元別当:
※参拝しましたが、境内に御朱印不授与の掲示がありました。



■ 象鼻山 御塔生福寺
日蓮宗ポータルWeb
小田原市板橋771
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ 秋葉山 量覚院
小田原市板橋544
本山修験宗
御本尊:秋葉大権現
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 種子(ボロン)


※御朱印の揮毫は種子(ボロン)とみられます。
ボロンは一字金輪仏頂の種子で、密教系でもことに特別な種子とされます。
秋葉大権現とボロン、ないし一字金輪仏頂との関係は不明ですが、種子ボロンがあらわされた貴重な御朱印と思われます。
思い出せる範囲では、ボロンの御朱印はこちらのほか、王子の金輪寺(豊島八十八ヶ所霊場第55番、御本尊一字金輪仏頂尊)でしか拝受したことがありません。 


■ 南谷山 香林寺
小田原市板橋908
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第27番

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 薬師如来



■ 金龍山 宗福院(板橋地蔵尊)
小田原市板橋566
曹洞宗
御本尊:延命子育地蔵菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 ※香林寺にて拝受
1.御本尊 地蔵大菩薩



■ 玉正山 妙覚寺
小田原市風祭482-1
日蓮宗
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕



■ 永禄山 寶泉寺
小田原市風祭918
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 長興山 紹太寺
小田原市入生田303
黄檗宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第12番

〔拝受御朱印〕 ※現在、御朱印は原則不授与の模様(不授与の貼り紙あり)。
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



〔 箱根町の御朱印 〕

■ 金湯山 早雲寺
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本405
臨済宗大徳寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 
2024年12月8日の釈迦尊成道会の寺宝公開時に予約拝観して拝受。
通常は御朱印不授与です。
■ 早雲寺の御朱印



■ 霊泉山 鎖雲寺(初花寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町須雲川147
臨済宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 薬師如来



※須雲川にある箱根大天狗山神社およびその分院では御朱印が授与されている模様ですが、筆者は未拝受です。


■ 高榮山 守源寺
箱根ナビ
箱根町畑宿167
日蓮宗
御本尊:
札所:箱根七福神(大黒天神)

〔拝受御朱印〕
1.御首題


2.箱根七福神 大黒天神



■ 玉簾神社
天成園公式Web
箱根町湯本682
御祭神:御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)箱根大神、相殿に九頭龍大神・水波能売神・稲荷大神・恵比寿神
旧社格:
元別当:
授与所:天成園内自販機および授与所(orフロント?)


【写真 上(左)】 以前の授与所
【写真 下(右)】 多彩な御朱印が授与されていました


【写真 上(左)】 現在の授与所
【写真 下(右)】 御朱印の自動販売機

※以前は境内授与所で書家さんの揮毫による複数のカラフルな御朱印が授与されていましたが、現在は墨朱の書置御朱印のみ授与の模様。
授与所(orフロント?)と自動販売機での授与があり、揮毫はいずれも「玉簾神社」ですが若干内容が異なります。日付の書入れがほしい場合は授与所(orフロント?)で拝受します。
駐車場は天成園の立体駐車場を利用。30分以内の参拝ならば無料となります。(超過すると500円。)

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:九頭龍神 直書(筆書)


2.御朱印揮毫:玉簾神社 直書(筆書)


3.御朱印揮毫:玉簾神社(授与所で授与) 書置(印刷?)


4.御朱印揮毫:玉簾神社(自販機で授与) 書置(印刷?)



■ 箱根出世地蔵尊
箱根町湯本682
宗派不明
御本尊:地蔵菩薩
札所:

※天成園庭園内に奉安されているお地蔵さまです。
玉簾神社の授与所(orフロント?)で拝受できます。

〔拝受御朱印〕
1.箱根出世地蔵尊の御朱印



■ 大慈悲山 福寿院(箱根観音)
箱根湯本観光協会Web
箱根町湯本茶屋182
曹洞宗
御本尊:開運出世慈母観世音菩薩
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 箱根観音



■ 阿育王山 阿弥陀寺(あじさい寺)
箱根湯本観光協会Web
箱根町塔ノ沢24
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第28番、小田急沿線花の寺四季めぐり第19番
※車でのアプローチ可(お寺下にPあり)ですが、急坂で道幅の狭い山道経由でおすすめしません。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 黒本尊


2.御本尊の御朱印 黒本尊



■ 大光山 林泉寺
曹洞禅ナビ
箱根町大平台337
曹洞宗
御本尊:
札所:
※交通量の多い国道1号に面し、見通しの悪いカーブの途中に車両出入口があるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.大平十一面観世音菩薩の御朱印



■ 養食山 常泉寺
公式Web
箱根町宮ノ下289
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:
※一方通行のアプローチ道は入口がわかりにくく、道幅も狭いので要注意です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来



■ 山王神社(福禄寿社)
箱根ナビ
箱根町二ノ平1297 箱根小涌園内
御祭神:
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(福禄寿)
授与所:境内授与所
※Web上では「山王神社」の御朱印もみつかりますが、参拝時は「福禄寿」の御朱印のみとのことでした。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:福禄寿 書置(筆書) ※山王神社の印判あり




■ 大雄山 最乗寺 箱根別院
箱根町強羅1300-319-1
曹洞宗
御本尊:
札所:
※現在、こちらは寺務休止中とのことで、御朱印は授与されていない模様です。

〔拝受御朱印〕 
1.道了尊の御朱印
 

●詳細情報
■ (早雲山)温泉 「最乗寺箱根別院」 〔 Pick Up温泉 & 御朱印 〕


■ 阿字ヶ池弁財天
箱根ナビ
箱根町芦之湯
御祭神:弁財天
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(弁財天)
授与所:旅館「きのくにや」フロント

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:阿字ヶ池弁財天 印判・書置 (令和元年9月)



■ 駒形神社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:駒形大神(天御中主大神、素戔鳴尊、大山衹神)
旧社格:
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)/境内社の毘沙門天社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:駒形神社 直書(筆書)



■ 毘沙門天社
公式Web
箱根町箱根290
御祭神:毘沙門天
旧社格:-、 駒形神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(毘沙門天)
授与所:駒形神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:毘沙門天 直書(筆書)



■ 到国山 無量壽院 本還寺
箱根ナビ
箱根町箱根223
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:足柄三十三観音霊場第34番、箱根七福神(寿老人)、小田急沿線花の寺四季めぐり第26番
※足柄三十三観音霊場第34番の御朱印は不授与とのこと。箱根七福神(寿老人)の御朱印は授与されています。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (平成28年9月)


2.御本尊の御朱印 阿弥陀如来 (令和元年9月)



■ 箱根山 萬福寺
親鸞聖人を訪ねて
箱根町箱根228
真宗大谷派
御本尊:
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.「箱根御舊地」の御朱印(記念印)



■ 興禅院
箱根ナビ
箱根町箱根125
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:

〔拝受御朱印〕 
1.関所庚申堂
※御本尊の御朱印は不授与とのこと。



■ 瑞龍山 興福院
箱根ナビ
箱根町元箱根26
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:箱根七福神(布袋尊)

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦如来


2.箱根七福神の御朱印 布袋尊


(3.白龍神社の御朱印)


※九頭龍神社本宮、箱根元宮、箱根神社の巡拝を「箱根三社参り」といいます。
このところ、「最強の神社巡り」として人気を集めている模様。




■ 箱根神社


公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:箱根大神(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊)
旧社格:国幣小社、別表神社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)/境内恵比寿社
授与所:境内社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根神社 印判 (平成28年9月)


2.御朱印尊格:箱根神社 印判 (令和3年11月)



■ 箱根元宮


公式Web
箱根町元箱根 駒ヶ岳山頂
御祭神:箱根大神
旧社格:
元別当:
授与所:拝殿内授与所
※こちらの御朱印は、駒ヶ岳頂上の箱根元宮拝殿内でしか拝受できません。
原則毎月1日、24日の例祭および土日祝のみの授与で、荒天時は箱根駒ヶ岳ロープウェイが運休となるのでそのときも授与されません。参拝当日に箱根神社社務所(0460-83-7123)に問合せするのが確実と思われます。
また、御神職の在殿時間は原則10:00~15:00で、遅くとも14:20箱根園発に乗車する必要があります。


〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:箱根元宮 印判



■ 九頭龍神社新宮
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:九頭龍大神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 恵比寿社
公式Web
箱根町元箱根80-1
御祭神:事代主神
旧社格:-、箱根神社境内社
元別当:
札所:箱根七福神(恵比寿神)
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:恵比寿神 印判



■ 九頭龍神社本宮


公式Web
箱根町元箱根防ケ沢(箱根樹木園内)
御祭神:九頭龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:箱根神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:九頭龍神社 印判



■ 白龍神社
公式Web
箱根町元箱根和田ノ角(箱根樹木園内)
御祭神:白龍大神
旧社格:
元別当:
授与所:興福院(箱根町元箱根26)
※※白龍神社例大祭(6月13日)時のみ授与というWeb情報がありますが、興福院で常時授与されている模様。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:白龍大明神 直書(筆書)



■ 龍虎山 長安寺
箱根ナビ
箱根町仙石原82
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第91番、小田急沿線花の寺四季めぐり第30番

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛


2.東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 釈迦牟尼佛


3.五百羅漢の御朱印



■ (仙石原)諏訪神社
公式Web
箱根町仙石原88
御祭神:建御名方命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:諏訪神社 印判



■ 公時神社
公式Web
箱根町仙石原1181
御祭神:坂田公時命
旧社格:村社、旧仙石原村鎮守
元別当:
授与所:公時神社社務所

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:公時神社 印判



〔 静岡県小山町の御朱印(一部) 〕

■ 足柄山聖天堂
小山町Web
小山町竹之下3649(足柄峠)
曹洞宗
御本尊:大聖歓喜双身天王
札所:
※隣の茶店にて書置御朱印を拝受
・かつて、東海道の箱根(足柄)越えは、足柄路(矢倉沢往還)、湯坂道(湯本~浅間山~鷹巣山~芦之湯~芦ノ湖箱根権現)、箱根八里(三枚橋~畑宿~芦ノ湖)の3つのルートがありました。
もっとも険しい湯坂道は、二所詣(鎌倉将軍の箱根権現と伊豆山権現の参拝)に使われ、かつての鎌倉古道とも伝わります。
時代が下ると距離の短い箱根八里が主街道となり、足柄路は脇街道の位置づけとなりました。
・足柄越えはもっとも古く、昌泰二年(899年)にはすでに足柄之関(関所)が設けられていたとされます。
また、寛治元年(1087年)頃、新羅三郎源義光公が兄八幡太郎源義家公の応援のため奥州に向かう際、笙の秘曲を笙の師匠の息子・豊原時秋に伝授した「新羅三郎義光吹笙之石」がこの地に残り、義光公も足柄越えを使ったことがわかります。
・こちらは足柄路の足柄峠に祀られる堂宇で、弘法大師が奉納されたと伝わる大聖歓喜双身天王が御座され、日本三大聖天(浅草聖天・生駒聖天・足柄聖天)のひとつともされる由緒ある聖天様です。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大聖歓喜双身天王



今回、令和3年4月28日に開通したての「県道731号/愛称:はこね金太郎ライン・南箱道路」を走ってみました。
この開通により、足柄峠~箱根仙石原という新たな周遊ルートができたことになります。(以前は、矢倉沢林道とも呼ばれ、箱根の道路大渋滞時に箱根から大井松田方面に抜けるエスケープルートとして一部で知られ、筆者も何回か使ったことがありますが、かなり手厳しい道路でした。)
今回、かなり補修はかけられているものの、線形はほぼ旧林道を踏襲しており、細かいカーブが連続します。初心者にはきびしいかもしれません。
(→道路の概要(県Web資料)

■ はこね金太郎ライン入口(松田側)


■ 和泉山 圓通寺
公式Web
小山町新柴292
曹洞宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:御厨観音横道札所第20番
・こちらの御本尊は足利将軍義教公の家臣、小栗判官助重公ゆかりの由緒ある「鬼鹿毛馬頭観世音菩薩」で、牛馬あるいは陸運の守護神として篤い信仰をあつめました。
・堂内には小田原・早川港で水揚げされた鮮魚を(おそらく箱根ないし足柄越えをして)甲州方面へ運ぶ奉納絵が掲げられています。
箱根山の陸運とも関係があると思われる古刹なので、こちらでご紹介します。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 大悲殿(馬頭観世音菩薩)




■ (中島)金時神社
小山町観光協会Web
小山町中島 金時公園内
御祭神:坂田公時命
旧社格:
元別当:
授与所:駿河小山駅前観光案内所(「道の駅足柄」でも授与されているようです。)
・御祭神の坂田金時命は、金時山(足柄山地の最高峰、箱根外輪山の一峰)の麓で育ち、長じて源頼光公の家来として取りたてられ、渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに「源頼光四天王」の一人として大江山の酒呑童子退治をするなど、名声を高めました。(その実在については諸説あります)
・当社は坂田金時の生家の跡地といわれ、金太郎ゆかりの数々の名跡が残ります。
・箱根仙石原の「公時神社」に対してこちらの社号は「金時神社」。ともに御祭神として坂田公時命をお祀りしています。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印尊格:金時神社 書置(筆書)




■ 鷹巣山 勝福寺
公式Web
小山町観光協会Web
小山町中島123-1
臨済宗円覚寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:
・金太郎(坂田金時)の生家「坂田家」の菩提寺といわれます。

〔拝受御朱印〕 
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 雪の華 - 中島美嘉 Cover.花たん(hanatan)


■ Mirai 未来 - Kalafina

数十人でユニゾンがあたりまえの時代に、わずか3人でこのテクニカルなハーモニー。


それにしても、日本の歌姫のレベルおそるべし!
いまの芸能界は優れた才能を粗末にしすぎ。
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■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)
■ 同-22 (C.極楽寺口-5)から。


62.龍護山 満福寺(まんぷくじ)
公式Web

鎌倉市腰越2-4-8
真言宗大覚寺派
御本尊:薬師如来
司元別当:
札所:新四国東国八十八ヶ所霊場第84番、相州二十一ヶ所霊場第15番、相模国準四国八十八ヶ所霊場第50番、小田急武相三十三観音霊場第33番

稲村ヶ崎~七里ヶ浜周辺に寺社は少なく、霊光寺(日蓮宗)は参拝していますが御首題はいただけず、顕証寺(本門佛立宗)の御首題はWeb検索でヒットしません。
よって腰越にエリアを進めます。

満福寺は源義経公・武蔵坊辨慶ゆかりの寺院です。

公式Web、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

天平十六年(744年)行基の開山と伝わる古刹で、古義真言宗手広村青蓮寺末といいます。
御本尊は行基御作の薬師如来、弘法大師御作の不動尊を安ずるとあります。

史料の多くは義経公とのゆかりに紙面をさいています。

源義経公(1159-1189年)は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の異母弟で、日本史上もっとも著名とみられるその生涯については、ここではふかくなぞりません。
当山に関連ある事柄のみ、簡単に追ってみます。

治承八年(1184年)2月、摂津一ノ谷で平氏を破った義経公は京に凱旋すると後白河法皇から厚遇を受け、頼朝公の許可を得ずして法皇から検非違使・左衛門少尉の任官を受けました。
頼朝公はこれを怒り、義経公の平氏追討の任を解きました。

しかし、義経公解任後の戦況は思わしくなく、元暦二年(1185年)再び義経公を平氏追討に起用するや、義経公は讃岐屋島で見事な勝ち戦をおさめ、同年3月、長門壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。

しかし同年4月、頼朝公は朝廷から勝手に任官を受けた義経公麾下の東国武者らを罵り、東国への帰還を禁じました。
平氏追討で義経公を補佐した梶原景時からは、義経公が平家追討の功を誇るあり様が書状で頼朝公に伝えられました。
軍監・景時の意見を聞かず独断専行で軍を進めたこと、兄の範頼公の所轄である九州へ無断で進出したことなども伝えられ、頼朝公の不興を買ったともいわれます。

同年5月、義経公は壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、鎌倉に凱旋しようとしました。
しかし義経公のあり様に不審を抱く頼朝公は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ、義経公は腰越の満福寺に留め置かれました。

5月24日、義経公は満福寺で頼朝公に対し叛意のないことを切々と示す書状をしたため、頼朝公の側近大江広元に託しました。
これが有名な「腰越状」で、義経公の側近・辨慶が筆を執ったという説もあります。

頼朝公は義経公を弟として正当に処遇し、その実力も認めていましたが、義経公の神がかった武略と声望の高まり、そして法皇との個人的な結びつきは、東国での武家政権樹立をめざす頼朝公にとって脅威となったことは想像に難くありません。

また、義経公が京で平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶ったことも、頼朝公の疑念を深めたという見方もあります。

6月9日、頼朝公が義経公に宗盛父子と平重衡を伴わせて帰京を命じると、鎌倉入りを果たせなかった義経公はこれを恨み、「関東に怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、これを聞いた頼朝公は義経公の所領を没収したと伝わります。

なお、『愚管抄』、延慶本『平家物語』などは、義経公はじつは鎌倉入りを果たし頼朝公と対面している旨記しているようで、「腰越状」も後世の偽作との見方があります。

8月16日の除目で義経公は頼朝公の推挙により伊予守を拝任したといい、この時点では頼朝公と義経公の決裂は決定的ではなかったという見方があります。
しかし、義経公は伊予守拝任後も朝廷から頼朝公に無断で受けた検非違使・左衛門少尉を離任せず、これにより頼朝公との関係はついに破綻したという説もあります。

頼朝公は義経公の動向を監視すべく梶原景時の嫡男・景季を京に遣わすと同時に、木曽義仲に与力した叔父・源行家の追討を要請しました。

10月、義経公の行家同心を断じた頼朝公は義経公討伐を決意し、刺客として京へ送られた土佐坊昌俊らは堀川の義経邸を襲いました。(堀川夜討)
しかし義経公に行家勢が加勢して襲撃は失敗。

義経公は捕らえた土佐坊から頼朝公の命による襲撃と聞き及ぶと、行家と謀って頼朝公打倒の兵を挙げ、後白河法皇より頼朝公追討の院宣を得ています。
しかし、義経公への与力は思うように集まらず勢いなしとみるや、今度は法皇は義経公追討の院宣を出しています。

このあたりの前後関係や頼朝公の関与については諸説ありますが、義経公が政治に長けた法皇の動きに翻弄されている姿がうかがわれます。

11月1日、頼朝公率いる義経公追討軍が駿河国黄瀬川に達すると、義経公らは京を落ち船で九州へと向うも、暴風で難破して摂津に押し戻されました。
7日には伊予守、検非違使・左衛門尉などの官職を解任され、義経公と行家捕縛の院宣が下されました。

義経公は郎党や愛妾の静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、ここでも追討を受け京に潜伏。
文治二年(1186年)になると叔父・行家、佐藤忠信、伊勢義盛などの郎党もつぎつぎと討ち取られました。

義経公の関東での後見人として義父の河越重頼がいましたが、重頼と嫡男重房も殺害され関東での後ろ盾も失いました。
文治三年(1187年)京に潜み切れなくなった義経公は、藤原秀衡を頼り奥州・平泉へと赴きました。

藤原秀衡は義経公を盛り立てる意思をもっていましたが文治三年(1187年)10月に病没。
後継の泰衡は義経公を守り抜くことができず、文治五年(1189年)閏4月ついに義経公が拠る衣川館を襲撃、義経公や辨慶などの郎党は奮戦しましたがことごとく討死し、義経公はここに自害しました。(衣川の戦い)
享年31と伝わります。

義経公の首は鎌倉に送られ、和田義盛、梶原景時らによって首実検が腰越の浦で行われたといいます。
このことからも、腰越は義経公とゆかりをもつ地といえます。

満福寺には辨慶が書いたという「腰越状」の下書きとされる書状が所蔵され、山内には辨慶の腰掛石や手玉石など、義経公・辨慶ゆかりの品が遺ります。

寺前の池は、辨慶が「腰越状」を書く時に墨摺りの水を汲んだことから「硯池」と呼ばれ現存しています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
満福寺
満福寺は、腰越村の中にあり、龍護山と号す。眞言宗なり。
開山行基、本尊薬師 行基作・不動 弘法作
此寺地は、昔源義経、宿せられし所なりと云ふ。【東鑑】に、元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、如思に朝敵を平げ訖ぬ。剰へ前内府平宗盛を相具して参上す。其賞兼て不疑處に、日来不儀の聞へ有るに依て、忽御気色を蒙り、鎌倉中に入られず。腰越の驛に於て、徒に日を捗るの間、愁鬱の余に、因幡前司廣元に付して、一通の疑状を頼朝へ奉つるとあり。其状の下書也とて、今寺にあり。辨慶が筆跡と云。状中の文字、【東鑑】に載たるとは所々異なり。或人云、新筆なり。辨慶が筆には非ずと。
硯池
寺の前にあり。相伝ふ義経の命にて、辨慶疑状を書し時、硯水を汲たる池なりと。池の端に辨慶が腰懸石とてあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
萬福寺
腰越村の内なり。龍護山と号す。古義眞言宗、同國手廣青蓮寺末なり。
開山行基、本尊薬師如来 行基作。弘法大師作の不動尊を安ず。
此寺、義経の宿陣せられし事をいひ伝ふ。元暦二年(1185年)五月二十四日、源延尉義経、思ひの如く朝敵を平げ、剰へ屋島の内府平宗盛を相具して参り、其賞兼て疑はざる處に、不儀の聞へ有に依て、忽御気色を蒙り、鎌倉へ入られず、腰越の驛に於て徒に日を捗るの間、愁鬱の余り、因幡前司廣元に附して、一通の疑状を幕府え奉るといふ。其状の下書なりとて、今も此寺にあり。辨慶が筆なりといひ伝ふ。文書中【東鑑】に見えしとは異なる所もあり。辨慶が書けること覚束なし。
硯池
寺の前庭にあり。寺伝に、義経の仰に依て、辨慶が疑状を書たる時、硯水を汲し池といふ。又池の端に辨慶腰かけ松と名附るもあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(腰越村)満福寺
龍護山醫王院と号す。古義眞言宗手廣村青蓮寺末。
開山は行基、中興は高範(承安三年(1173年)三月十六日寂す)
本尊は薬師なり 長三尺三寸、行基作、同作の日月光、十二神もありしが、寛文中、回禄に烏有せしとぞ。
不動 弘法作長八寸
十一面観音 同作、長二尺五寸
彌陀 定朝作、長一尺五寸 等を安ず。
文治元年五月延尉義経頼朝の不審を蒙りて鎌倉へ入られず、当所に滞留す。
当時●止宿の所なりと云ふ
此時大江廣元に就て呈せし疑状の草案なりとて今に蔵せり。古文書部に詳載す、世に腰越状と称す是なり、辨慶が書記せしと伝ふれどおぼつかなし
【寺宝】(抜粋)
薬師書像一幅 弘法筆
地蔵堂 天神社 辨天社
硯池
本堂の前にあり。是辨慶疑状を書し時、池水を汲て硯池に滴す故に此名ありと云ふ、池辺に腰掛石といふあり、辨慶が腰を掛し所といふ。

■ 山内掲示
龍護山満福寺と号し、開山は行基(668-749)と伝えられ、本尊は薬師如来像です。源義経(1159-89)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。-古義真言宗-

■ 山内掲示(鎌倉市教育委員会・鎌倉文学館)
源義経と腰越
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承四年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇ノ浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。

その申し状に曰く、
源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれね勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)

しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉-大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。

■ 現地掲示(義経宿陣之趾/鎌倉市青年団)
文治元年(皇紀一八四五年) 五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ 降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ 鎌倉二入ルコトヲ許サレズ
腰越ノ驛二滞在シ 鬱憤ノ餘
因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ歎状ヲ呈セシコト東鑑ニ見ユ
世ニ言フ腰越状ハ 即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺二存ス


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江ノ電「腰越」駅からもほど近く、駅前通りを南東に進んだところが参道入口。
ここにサイン類と「義経腰越状旧跡 満福寺」の寺号標があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道入口のサイン類


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 江ノ電と参道階段

ここから、江ノ電の踏切の向こうに山門と鐘楼、そして本堂の屋根が見えます。

踏切遮断機のすぐ脇から山門階段。江ノ電の線路に至近で、撮り鉄さんにはたまらないスポットでは?


【写真 上(左)】 幟
【写真 下(右)】 参道階段

階段脇に「義経腰越状旧跡 満福寺」の幟がはためき、雰囲気が高まります。


【写真 上(左)】 参道階段すぐ下に江ノ電
【写真 下(右)】 山門

階段の先に構える山門はおそらく入母屋屋根銅版葺の四脚門で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、梁上に四連の斗栱、軒に二軒の垂木を備えた豪壮なもの。
見上げに山号扁額、大棟には清和源氏の紋「笹龍胆」を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門の寺号標


【写真 上(左)】 「義経宿陣之趾」の石碑
【写真 下(右)】 鐘楼

山門右手には、鎌倉市青年団建立の「義経宿陣之趾」の石碑。左手には鐘楼。
山門そばにある「笛供養」の碑は、笛を愛した義経公にちなむものと思われます。
「笛供養」の碑のよこには、ぼけ封じ祈願仏(おそらく地蔵尊と思われる)が御座します。

さほどの階段ではないのにかなり高低差を稼いでいるらしく、山内からは相模湾が見渡せます。

【写真 上(左)】 「笛供養」の碑とぼけ封じ祈願仏
【写真 下(右)】 山内からの相模湾


【写真 上(左)】 大師堂と札所碑
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-1

山内には大師堂があり、こちらが弘法大師霊場の拝所とみられます。
山内には相州二十一ヶ所霊場の札所を示す碑や板がいくつかあります。この霊場の札所標はあまり目にることがないので、これは貴重です。


【写真 上(左)】 相州霊場札所碑-2
【写真 下(右)】 相州霊場札所碑-3

山門くぐって正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。向拝上に端正な軒唐破風をおこしています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、頭貫から中備にかけて、じつに8つの斗を置いています。
身舎側に海老虹梁、中備の彫刻は「腰越状」書き上げの構図と思われます。


【写真 上(左)】 中備と兎の毛通しの彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額


【写真 上(左)】 相州霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州霊場札所板-2

その上兎の毛通しは朱雀の彫刻か、さらに唐破風上の鬼飾りには「笹竜胆」の紋が輝いています。
向拝正面桟唐戸の上には寺号扁額や相州二十一ヶ所霊場の札所板が掲げられ、見どころの多い本堂てす。


【写真 上(左)】 腰越状の石像と本堂
【写真 下(右)】 腰越状の石像

本堂向かって左には、義経公と辨慶の石像。辨慶が筆を執っているので、おそらく腰越状をしたためている場面と思われます。
その横に「弁慶の腰掛石」。
訪れたときは、マスコット?のおネコちゃんが石のうえに座り込んでいました。


【写真 上(左)】 弁慶の腰掛石
【写真 下(右)】 おネコちゃん

本堂向かって右には慈悲観音立像と「弁慶の手玉石」。

本堂を拝観(有料)すると、腰越状(の下書き?)、義経公や静御前の襖絵、弁慶仁王立ちの絵などが間近で拝せるようですが、筆者は拝観しておりません。


【写真 上(左)】 弁慶の手玉石
【写真 下(右)】 硯の池(右)と義経公手洗の井戸(左)

本堂右手の山側には鎌倉七里ヶ浜霊園へ向かうトンネルがあり、その右手に「硯の池」、左手には義経公手洗の井戸があります。

「腰越」駅にも案内看板があり、道すがらもいくつかの案内サイン、参道まわりの幟、さらには腰越状の石像を置かれるなどサービス精神?が感じられるお寺さまです。


【写真 上(左)】 サイン-1
【写真 下(右)】 サイン-2


御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。

こちらはかなり渋めの霊場札所を兼務されています。
相模国準四国八十八ヶ所霊場は湘南エリアの弘法大師霊場で文政四年(1821年)開創と伝わる歴史ある霊場ですが、現況は廃寺や札所異動も多く、御朱印はいただきにくい霊場となっています。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

小田急武相三十三観音霊場は小田急電鉄が主導して沿線の寺院を札所選定した観音霊場です。
この霊場の札所印はなかなかレアですが、他霊場を兼務される札所が多く、御朱印じたいの拝受は比較的容易です。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)


〔 満福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印

これまでに拝受している御朱印は以上の2点ですが、Web上では「千手観音」(新四国東国八十八ヶ所霊場第84番)、「十一面観音」(おそらく小田急武相三十三観音霊場第33番)の御朱印もヒットします。


63.小動神社(こゆるぎじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市腰越2ー9ー12
御祭神:健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊、歳徳神
旧社格:村社、旧腰越村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:浄泉寺(鎌倉市腰越、真言宗大覚寺(青蓮寺)末)

小動神社は八王子宮(はちおうじのみや)とも呼ばれ、源頼朝公の側近・佐々木左兵衛尉盛綱の勧請と伝わります。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

佐々木盛綱(1151年-)は、近江国佐々木庄に拠った宇多源氏の棟梁・佐々木秀義の三男です。
秀義は平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝公に従うも敗れ、一門は関東へ落ちのび渋谷重国の庇護を受けました。
秀義には長男:定綱、次男:経高、三男:盛綱、四男:高綱、五男:義清などの優れた息子がおりました。
三男盛綱は16歳で伊豆國に配流された頼朝公に仕えました。

頼朝公の信任篤く、治承四年(1180年)8月、平氏打倒を決意した頼朝公に挙兵の計画を告げられたとも。
治承四年(1180年)8月の山木館襲撃に加わり、加藤景廉とともに山木兼隆の首を獲ったといいます。

石橋山の戦いののちは渋谷重国の館に逃れ、頼朝公が兵を集めて鎌倉に入ると再び頼朝公の麾下に参じ、富士川の戦いでも戦功をあげています。
元暦元年(1184年)、盛綱は平氏追討のため備前國児島に入り、平行盛ら五百余騎が籠もる城郭をわずか六騎で攻め落としたといいます。(藤戸の戦い)

平家滅亡後も頼朝公の側に仕え、公の寺社参詣や儀式、あるいは上洛の随兵としてその名が多くみえます。
頼朝公没後の建久十年(1199年)3月に出家して西念と号しました。

なお、群馬県安中市磯部の松岸寺には佐々木盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔があります。
詳細は→こちらの記事(■「鎌倉殿の13人」と御朱印-4)をご覧ください。

小動(こゆるぎ)の岬は江ノ島をのぞむ風光明媚な地で、この地に聳える「小動の松」は風もないのに枝葉が揺れ、常に妙音を琴瑟の如く発していたためこの銘木にちなみ「小動」を地名にしたといいます。

『八王子宮縁起』「鎌倉公式観光ガイドWeb」によると、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱は江の島弁財天への参詣の途中に当山に詣で、「小動の松」のあたりを散策して佳景を楽しみ、まことに神徳の地と詠嘆したそうです。
「当山に詣で」とあるので、当地にはすでに寺社が存在していた可能性があります。

現地掲示の『由緒略記』には「相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり」とあります。
弘法大師ゆかりの奇瑞の地とあっては、霊地として崇められのは自然な成り行きでは。

盛綱は平家追討中備州児島の戦で霊夢を感じて大勝し、その報賽のため故郷・近江國から八王子宮を勧請したのが当社の草創といいます。

盛綱の小動来訪は文治年中(1185-1190年)、児島の戦(藤戸の戦い)は元暦元年(1184年)なので時系列が合いませんが、おそらく以前から小動のパワスポぶりは知っていたのでは。
『吾妻鑑』には、盛綱が尊崇する近江國の八王子宮を勧請する地を探していたとあるので、小動のパワスポぶりを知り、藤戸の戦いの戦捷もあってこの地に八王子宮を勧請したとみられます。

元弘三年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際に当社に戦勝を祈願し、建武年間(1334-1338年)に社殿を再建したといい、義貞を中興とする史料もあります。
この戦勝祈願は稲村ヶ崎の戦いの際とみられ、小動は稲村ヶ崎より手前なので、あるいは進路の潮が引く奇跡は八王子宮の霊験あってのことかもしれず、これを報賽して社殿再建がなされたのでは。
社殿再建は義貞寄進の太刀と黄金をもってなされたといい、黄金の太刀を海中に投じたという稲村ヶ崎の戦いを彷彿とさせます。

当社は明治維新までは、八王子宮(社)、八王子大権現、三神社などと称せられ、腰越の浄泉寺が別当でした。
旧腰越村の鎮守と伝わり、小田原藩7代藩主・大久保忠真(1778-1837年)が「三神社」の扁額を揮毫奉納しているので、大名層の尊崇も集めていたとみられます。

明治元年、神仏分離を受け地名の小動をとって小動神社と改称しています。
以前は本地佛として銅造長四寸の十一面観世音菩薩を安じ、八王子大権現と称されているので、神仏習合色が強かったのでは。

明治6年村社に列格。明治42年字神戸の鎮守・諏訪社を合祀し、昭和13年には神饌幣帛料供進神社に指定されています。

浄泉寺による管理は、神仏分離以降も大正6年7月までつづいていました。
『鎌倉市史 社寺編』には「当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。」とあり、なにか委細があったのかもしれません。

関東大震災で文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊しましたが、昭和4年に新築しています。

毎年7月に催される天王祭は江ノ島の八坂神社と共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わうそうです。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
小動 附八王子宮
小動はも七里濱を西へ行、腰越へ入左の方、離れたる巌山あり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。又山の端に、海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。

土御門内大臣の歌に、「こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」。
又北條氏康の歌に、「きのふたちけうこゆるぎの磯の波、いそひでゆかん夕暮の道」。
此等の歌、此所とも云ひ、或は大磯の濱とも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
小動
『新編鎌倉志』とほぼ同様のため略。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
八王子社
守鎮とす、幣殿・拝殿あり、社地を小動(古由留義)と云ふ。按ずるに【鎌倉志】に此地を当國の名所、小余呂伎磯となし、證歌を引用し、或は大磯の濱を詠とも記したるは、謬と云ふべし、彼名所は、淘綾郡大磯の属なること論を挨ず
本地佛 十一面観音 銅造長四寸を安ず
牛頭天王歳德神を合祀し、神社の額を扁す 今の領主の筆
縁起に拠るに文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱の勧請と云ふ。毎年正月十六日を祭期とし、六月十四日には天王の祭事を行へり
境内社後に至れば翠岩丹壁峙立して海中に突出し頗勝地たり
別当は村内浄泉寺兼管す、神木銀杏樹あり
神寶
劔一振 元弘三年(1333年)新田義貞鎌倉を攻るの時当社に祈誓し、成功の後報賽として、奉納せし物と云ふ
末社 稲荷 金毘羅 天神 船玉 第六天 山王 十羅刹 辨天 宇賀神

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 健速須佐之男命、建御名方神、日本武尊 相殿に歳徳神を祀る。
境内社 海神社 稲荷社 琴平社 第六天社
神事と芸能 例祭日・湯花神楽 七月十四日・天王祭の神輿渡御
社殿 本殿(流造) 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風付)以上権現造 銅板葺 三棟一宇
境内坪数 630.21坪
由緒沿革
『八王子宮縁起』(弘治二年(1556年銘))によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱当山に詣で、松樹の辺を徘徊、佳景を愛す。殊に小動の松は平日無風なるに枝葉摩動し、妙音琴瑟の如く、正に天女遊戯の霊木なり。誠に神徳永昌の奇峰なりと感じ、平家追討中備州児島の戦に霊夢を感じて大勝した報賽のため、年来尊崇の八王子宮を勧請し奉る、これ当社の草創なり」という。
又、元弘三年(1333年)五月新田義貞が鎌倉攻めの時、当社に戦勝を祈願し社殿を再建したという。
社号は八王子宮、八王子大権現などと称せられ、常泉寺が別当あったが、明治維新、神仏分離により独立し地名の小動をとって小動神社と改称した。
明治六年十二月村社に列格。
大正十四年の関東大震災に、文化十四年(1817年)建立の本殿が大破、拝殿は倒壊したが昭和四年十二月復興工事か完成した。
昭和十三年七月神饌幣帛料供進神社に指定された。
腰越区の氏神社である。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
小動神社
もと八王子宮、三神社などと称したが明治の神仏分離に際し地名の小動をとって小動神社と改めた。
祭神は健速須佐之男命・建御名方神・日本武尊。『風土記稿』には本地十一面観音銅像長四寸を安んじ、牛頭天王・歳徳神を合祀すとある。(中略)
元指定村社。境内地630.21坪
本殿・拝殿・末社四(海神社 稲荷社 琴平社 第六天社)・社務所・倉庫(中略)
腰越の鎮守。
勧請年月未詳。
弘治二年(1556年)、浄泉寺中興の元秀法印が書写した八王子宮縁起によれば、文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱が勧請し、建武年間(1334-1336年)新田義貞が中興したという。
明治四十二年三月九日、諏訪神社を合併。
文化十四年(1817年)四月建立の本殿は震災により破損した。拝殿は昭和四年に新築したものである。
当社は大正六年七月まで浄泉寺が別当であった。神仏分離の例外として注意しておきたい。神仏混淆引別執行のとき、引わけを実行しないで(中略)今規則に基いて公然社寺両者の関係を絶つとみえている。この時になって分離した事情については、その理由があるのであるが、ここではふれないことにしたい。

■ 境内掲示(小動神社由緒略記)
祭神 日本武尊 素戔嗚尊 建御名方神 歳徳神
伝承
相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。新編鎌倉史に、土御門内大臣の歌『こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」の歌は、此所の事とも云ひ、或いは、大磯の浜を詠うとも云う。相模の名所「こゆるぎ」の歌、多しとある。
社号は、古くは八王子宮、八王子大権現などと称された。相模風土記には、八王子社を鎮守とし、社地を社地を小動(古由留義)と云うとあり。
明治初年、現在の『小動神社』と改称した。
明治42年当地字、神戸の鎮守であった諏訪神社を合祀した。

由緒
文治年中(1185年)佐々木盛綱の創建と考えられる。
盛綱は、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた武将で、源平合戦の時に、神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべく、その地を探し求めていたが、ある日、江の島弁財天に参詣の途次、小動山に登り、大いにその風光を賞せられ勧請の地と定められた。
新田義貞が、鎌倉攻めの戦勝を祈願され、後に『報 賽』として『剣一振に黄金』を添えて寄進され、社殿は再興された。
八王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。
江戸時代、小田原城主、大久保忠真公(113,000石)は【三神社】の扁額を揮毫し奉納された。三神社とは、三柱の祭神を尊称したものである。

社殿(前半略)・祭礼(略)
境内社として、海(わたつみ)神社(海上安全の神様)・稲荷社・金刀比羅宮・第六天社をお祠りしています。

■ 境内掲示(鎌倉市)
主祭神 健速須佐之男命 建御名方神 日本武尊
小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。
元弘三年(1333年)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。
七月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る神輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。


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「腰越」駅からもほど近い小動の岬に御鎮座です。
西側は腰越漁港。現在の主力魚種はしらすで、周辺には名物「しらす丼」の店がいくつかあります。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

社頭は国道134号に面しています。
参道すぐに石造明神鳥居と右手に社号標。
海際の神社は境内が狭い例も多いですが、こちらは鳥居から長々と参道が伸びています。
道幅が広くスケール感のある参道です。


【写真 上(左)】 神宝殿
【写真 下(右)】 参道階段手前

しばらく進むと両脇に一対の石灯籠。
その先から参道階段が始まります。
海側に向かっているのにのぼり階段とは、当地のパワスポぶりを物語っています。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水鉢

位置関係が定かではないのですが(おそらく参道階段の手前)、立派な手水舎のなかの手水鉢は黄褐色に変色し、これは井水使用かと思います。

階段の先に石造の明神鳥居(二の鳥居)で、社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 二の鳥居
【写真 下(右)】 二の鳥居の扁額


【写真 上(左)】 小動神社
【写真 下(右)】 小動神社の向拝-1

小動神社社殿は参道右手に御鎮座。
拝殿前に狛犬一対。
拝殿は入母屋銅板葺で流れ向拝。軒唐破風とその上に千鳥破風を起こす重厚な意匠です。
水引虹梁両端に獅子獏の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、その上に兎の毛通し、唐破風の鬼飾、千鳥破風の懸魚と鬼飾を立体的に連ねて見応えがあります。
向拝正面桟唐戸のうえには社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 小動神社の向拝-2
【写真 下(右)】 向拝の扁額

史料に載る境内社がいまも趣ふかく御鎮座される、パワスポ的空気感の境内です。

小動神社の向かって右手の奥には石の鳥居の先に、海(わたつみ)神社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 綿津見神 別名 船玉神とも云う」「漁業の神・航海の神」とありました。



【写真 上(左)】 海神社
【写真 下(右)】 稲荷社(右)と金刀比羅宮(左)

参道階段の正面にあたる位置には覆屋があり、向かって右手の朱い鳥居の先に、稲荷社が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 宇迦之御魂神 併神 佐田彦神=猿田彦神 大宮能売神=天鈿女命」「商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の神」とありました。

向かって左手の石の鳥居の先に、金刀比羅宮が一間社流造のお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 大物主神 別名 大国主命」「海神竜王ともいい、航海安全 海難救助を司る神」とありました。

境内右手奥の石の鳥居には六天王の扁額が掲げられています。
ここからくの字に曲がった参道階段がつづき、大(第)六天社が切妻造銅板葺妻入りのお社を構えられて御鎮座。
掲示には「祭神 第六天神 別名 淤母陀琉神(おもたるのかみ)」「諸願成就の神」とありました。
淤母陀琉神(おもだる)は神世七代の第六代の神とされ、中世には神仏習合により第六天王の垂迹であるとされました。


【写真 上(左)】 第六天社
【写真 下(右)】 腰越漁港と江ノ島

境内からは腰越漁港を見下ろし、その先には江ノ島が望めます。


御朱印はたしか社務所でご神職から拝受できました。


〔 小動神社の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-24 (C.極楽寺口-7)へつづく。


【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-2)
■ 素顔で踊らせて


■ ラチエン通りのシスター


■ 旅姿六人衆
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■ 鎌倉市の御朱印-22 (C.極楽寺口-5)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)から。


60.霊鷲山 感応院 極楽律寺(ごくらくりつじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市極楽寺3-6-7
真言律宗西大寺派
御本尊:釈迦如来
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番、鎌倉十三仏霊場第12番(大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第1番
※鎌倉二十四地蔵霊場第20番導地蔵尊、同第21番月影地蔵尊を護持

極楽律寺は真言律宗の名刹で極楽寺とも呼ばれます。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

極楽寺の開基は北条重時、開山は忍性菩薩(良觀上人)とされますが、草創はそれ以前に遡るとみられています。
Wikipedia等によると『極楽寺縁起』には「深沢(現・鎌倉市西部)に創建された念仏系の寺院(開山正永和尚)」が草創とあるようです。
(『極楽寺由緒沿革書』には永久年間(1113-1118年)、僧勝覚の創建とあるとも。)

また、『元亨釋書』には正嘉(1257-1259年)の頃に一沙門が一宇を建て、丈六の彌陀像を安して極楽寺を号したとあり、極楽寺の草創については諸説あります。

鎌倉幕府2代執権・北条義時の三男で幕府連署であった重時(極楽寺殿)は、この極楽寺が寺域が狭く整備も足りないことから、正元元年(1259年)忍性菩薩(良観上人・良観房)に諮ったところ、西南の「地獄谷」と呼ばれる霊場こそ招提すべき地であるとの教示を得ました。
重時は早速地獄谷の地に極楽寺を遷し、自身が開基となりました。

重時は建長八年(1256年)に出家し、(今の)極楽寺の山庄に隠居しているので、隠居後に極楽寺を開基していることになります。

『吾妻鏡』には、重時は弘長元年(1261年)6月病に倒れるも、鶴岡八幡宮別当隆弁の加持により回復したとあります。
『新編鎌倉志』には「発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終る」とあり、重時は往生まで極楽寺にて念佛三昧で過ごしたことになります。

弘長元年(1261年)11月3日逝去。
重時の子長時(鎌倉幕府6代執権)・業時兄弟は極楽寺を修営したとあり、子院四十九院を擁して伽藍は壮麗をきわめたといいます。


(雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻,雄山閣,昭7-8. 国立国会図書館デジタルコレクションより転載/インターネット公開(保護期間満了))

『新編相模國風土記稿』収録の「極楽寺古繪図」には伽藍が立ち並ぶ山内が描かれ、一大霊地を構成していたことがわかります。
最盛期には現在の極楽寺のみならず、稲村ヶ崎小学校の建つ谷一帯が極楽寺の山内で、現在江ノ電が走る極楽寺川沿いの谷には病者・貧者救済の施設があったとみられます。
(現・立稲村ケ崎小学校が最盛期の中心伽藍の地とみられています。)

『吾妻鏡』には、重時の三回忌法要は弘長三年(1263年)極楽寺で西山浄土宗の宗観房を導師として催行とあり、この時点では極楽寺は浄土教系寺院との見方があります。

しかし文永四年(1267年)8月に忍性菩薩を請して開山とし、当寺に移住した時点では「真言律(宗)」に改めていたとみられます。

忍性(にんしょう、忍性菩薩、1217-1303年)は、通称良観とも呼ばれます。
大和国の生まれで、幼くして文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊から真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いだといいます。

聖徳太子の「四箇院の制」に感銘を受け、とくに病者に薬を施す施薬院、病者を収容治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院を重んじ、社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。

弘長二年(1262年)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、文永四年(1267年)8月には極楽寺を開山しています。

師の叡尊は、忍性の生来の慈悲心が弱者救済に適していると見抜き、この役割を忍性に託したという見方があります。

実際、忍性が開山した極楽寺山内にも療病院、悲田院、癩宿などが設けられています。
忍性は道路の改修や橋梁の架設などを行い、極楽寺坂切通を拓いたのも忍性と伝わることから、忍性は優れた土木技術を持つ人々を抱えていたとみられています。

忍性の多岐にわたる功績は広く称えられ、嘉元元年(1303年)87歳で示寂の後、後醍醐帝より菩薩号を贈られています。

忍性菩薩、そして極楽寺を語るとき、「真言律(宗)」は外せないのでこれについてまとめてみます。
「真言律(宗)」については、■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9の第28番霊雲寺で整理しているので、ほぼそこからの再掲となります。

真言律(宗)とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。

弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。

■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)

真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。

以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。

叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。

叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
『新編相模國風土記稿』には「弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺(極楽寺)を御願場とす」とあります。

江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。

明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。

真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。

元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。

この点からしても、中世の極楽寺は勅願祈願寺としての性格も強かったとみられます。

なお、鎌倉と律宗との関係をみるとき、願行上人憲静(1215-1295年)の存在は欠かせません。
願行上人は北京律(ほっきょうりつ)の法統とされますが、真言律宗の名刹、金沢の称名寺とも関係があったとみられており、極楽寺ともなんらかの関係があったのかもしれませんが、調べた限りでは詳細不明です。
関係記事(■ 鎌倉市の御朱印-7)

極楽寺に戻ります。
元弘三年(1333年)には後醍醐帝の綸旨を賜り寺領を安堵され後醍醐帝の勅願所となりましたが、その後度重なる戦乱や火災により寺勢は衰微しました。

天正十九年(1591年)、徳川家康公より九貫五百文の朱印地を得たものの、再び荒廃し、一時無住の時期もあったといいます。

天保十二年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿』には「塔頭 吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す」とあり、最盛期には49を数えた子院が、天保にはわずか1院となったことがわかります。

そのなかには他地へ移った寺院もあるとみられます。
たとえば、横浜市港北区新羽の西方寺の公式Webには「極楽寺の一院として存在した西方寺は、極楽寺坂切り通しの北側崖上にあり、その付近が古図に示す西方寺の所在と一致し、歴代住侶の墓石十基ほどを残し今も存在し、西方寺跡とされています。」「極楽寺より西方寺が移転されたのは、明応年間(1492)で今から五百年ほど前のこと」とあり、極楽寺の一院であったことを明記しています。


【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印

栄枯盛衰の歴史を辿った極楽寺ですが近世に復興し、複数の霊場の札所も兼ねて、いまは多くの拝観客が訪れています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
極楽寺
極楽寺、霊山山と号す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と号す。
当寺は、陸奧守平重時が建立なり。重時を極楽寺と号し、法名觀覺と云。【東鑑】に、弘長元年(1261年)十一月三日、平重時卒す。年六十四、時に極楽寺の別業に住す。発病の始より、萬事を擲ち、一心念佛正念にして終るとあり。按ずるに、【元亨釋書】に、初め正嘉(1257-1259年)中に沙門あり。一宇を営で、丈六の彌陀の像を安ず。名て極楽寺と云。未落せずして亡す。平重時、其宇を今の地に遷して齋場とす。重時の子長時・同弟業時、力を戮て修營すとあり【帝王編年記】に、永仁六年(1298年)四月十日、関東の将軍家久明親王、御祈祷の為に、十三箇寺の寺領の違亂を停止、殺生禁断の事あり。相州鎌倉郡の極楽寺、其一つなり。
此寺、昔は四十九院ありしとなり。今吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨とて、大なる石磨、門を入右の方にあり。昔此寺繁昌なりしを、知らしめんが為なりといふ。

本堂
本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸したりといふ。十大弟子の像もあり。作者不知。
左に興正菩薩の木像、自作といふ。
右に忍性菩薩の木像、是も自作と云。
又文殊の坐像あり。古への文殊堂の本尊なりと云ふ。(略)
寺寶
九條袈裟 壹頂 乾陀穀子袈裟、東寺第三傳と書付あり。今按ずるに、乾陀穀子袈裟は、弘法大師の伝来にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に所有は、其袈裟を摸したる、第三伝と見へたり。(中略)
二十五條袈裟 壹頂 紗なり。八幡大神の所持と云ふ。按ずるに八幡へ調進の物なり。(中略)
千體地藏 弘法作。本尊は、長一寸餘。千體は長五六分ばかり也。今皆紛失して纔に二三百ばかり残れり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
極楽寺
霊山山と号す。眞言・律、南都西大寺末なり。
開山は忍性菩薩良觀上人、開基は陸奧守重時が、法号をば極楽寺觀覺と称す。(中略)
古は谷々に四十九院ありしといふ。今は吉祥院といふ一院ばかり。
本堂
本尊釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸せしといふ。十大弟子の像もあり。作不知。
左に興正菩薩の自作の木像、右に忍性菩薩の是も自作の木像といふ。
文殊の坐像もあり。古への文殊堂の本尊なりといふ。(以下略)

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)極楽寺
霊鷲山感應院と号す。眞言律宗南都西大寺末。
北條陸奧守重時が草創なり、始正嘉(1257-1259年)中に一老衲ありて一宇を営み丈六の彌陀像を安じ、名づけて極楽寺と云ふ。然るに経営の功未だ完かずして老衲尋て寂しぬ
正元(1259-1260年)の初重時寺域の狭小なるを見て地を卜して新に創立せんと欲し僧忍性に議しけるに、性答て是より西南に当り地獄谷と云へる霊場あり、此地こそ招提の境なれと云て即性彼地に到り念誦す、須㬰にして感應あり、重時就て一宇を遷して斎場とす、地獄谷は今の境内なりと云ふ
重時の子武蔵守長時其弟業時等力を戮て修飾し、子院四十九院を構造す、堂宇壮麗に一刹となる
時に性(忍性)を請して開山始祖とす、文永四年(1267年)八月性(忍性)当寺に移住せり
弘安四年(1281年)勅に拠て蒙古降伏の御教書を下されしかば性(忍性)護国の法を修し蒙古退散す、時宗是功を奏聞して当寺を御願場とす
性(忍性)嘉元元年(1303年)七月十二日寂す 嘉暦三年(1328年)後醍醐帝性(忍性)の行徳を追崇ありて菩薩の号を賜ふ
元弘二年(1332年)六月勅願寺幷寺領安堵の事
其後堂宇漸く衰廃し、今は仏殿一宇塔頭一院のみ残れり
本尊釋迦 大像長六尺余、興正作、十大弟子の像を置く 毘首羯磨作、脇に興正菩薩 坐像自作長三尺及び聖徳太子の像 立像長二尺三寸余、運慶作、又文殊の像あり、古昔域内別堂に安ぜし本尊なりと云ふ
寺寶
乾陀穀子袈裟 一領 東寺第三傳とあり、元は京都東寺にありしに、永仁元年(1293年)十二月八日、当寺に贈りしとなり、今按ずるに、この袈裟は、東寺の寶物にて【元亨釋書】空海の伝に、弘安十四年正月勅以東寺賜空海乃置惠果所付、健陀國袈裟及念珠為寺鎮と載す、文字違へり健陀●は西域の國名なり(中略)
二十五條袈裟 一領 八幡太神の御袈裟と云へど、是は八幡宮へ調進せし物ならんと

北條陸奧守重時墓
寺後の山にあり、重時は左京太夫義時の三男なり、弘長元年(1263年)十一月三日当所別業に在て卒す、法名を觀覺極楽寺と称す

塔頭
吉祥院 古昔は四十九院あり、今当院のみ現在す、本尊不動を置く 座像二尺五寸智證作

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 真言律宗
山号寺号 霊鷲山感応院極楽律寺
建立 正元元年(1259年)
開山 忍性菩薩
開基 北条重時  
開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(一二六二)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(一二六七)に極楽寺に開山として迎えられました。
極楽寺は正元元年(一二五九)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。


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【写真 上(左)】 極楽寺駅
【写真 下(右)】 極楽寺駅ホームから

江ノ電「極楽寺」駅至近でホームから見えます。
駅の出口は反対側なので、桜橋で江ノ電の線路を渡って「導地蔵尊」の前を左に折れるとすぐです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標と墓標

少しく引きこんで山門。
手入れの行き届いた植栽、落ち着いたただずまいは鎌倉の名刹ならではのもの。

こちらは以前は境内撮影禁止でしたが、現在は解除されている模様です。
解除後参拝しておらず、山内の写真がまったくないので、↓の動画を参考にご案内します。

■ 極楽寺駅周辺と極楽寺 (鎌倉市極楽寺)


山門手前左に、開山忍性菩薩・開基北条重時の墓標と寺号標。

山門は趣ある茅葺屋根。左右に脇塀を備えた四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を置く堂々たる山門です。
主門は柵で閉ざされているので脇門の木戸から入内します。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

山門から真っ直ぐに桜並木の石畳参道が伸び、正面が本堂。
参道右手に大師堂と転法輪殿(収納庫)。
参道左手には客殿、納経所と本堂よこに資料館があります。


【写真 上(左)】 冬の山内
【写真 下(右)】 山門から本堂

度重なる天災や兵火のため当初の伽藍は失われ、現在は文久三年(1863年)再建の山門、本堂、大師堂、客殿がメインです。

西側山手には忍性塔があり、こちらは奥の院となっています。
忍性塔は高さ3.57メートルの大型の石造五輪塔で、納置品から嘉元三年(1303年)頃の建塔とみられ、国の重要文化財に指定されています。
通常は非公開で、毎年4月8日のみ公開の模様。
塔内納置品は良観房忍性和尚と同二世賢明房慈済和尚の舎利容器であることから、忍性の墓塔ともいわれます。こちらも国の重要文化財に指定されています。

五輪塔(伝・忍公塔、非公開)は忍性塔の右方にある石造五輪塔で、かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年国の史跡に指定されました。
しかし、昭和36年の豪雨で塔が倒れた際、塔内から発見された納置品より当山3世善願坊順忍と比丘尼禅忍の供養塔であることが判明しています。
忍性塔の周囲にある宝篋印塔が北条重時の墓塔とみる説もあります。 

大師堂は宝形造銅板瓦棒葺で向拝柱はありません。
鎌倉二十四地蔵霊場第22番、相州二十一ヶ所霊場第14番の札所板が掲げられ、霊場拝所となっています。


【写真 上(左)】 鎌倉観音霊場札所板
【写真 下(右)】 同 札所標


【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-1
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所板-2

鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印には「常磐御前念持佛」の印判がありますが、これを裏付ける史料はみつかりませんでした。

転法輪殿(収納庫)はがっしりとした近代建築で、御本尊である秘仏「清凉寺式釈迦如来」、伝来の木造十大弟子像、木造釈迦如来坐像などが収納されています。

本堂はおそらく宝形造銅板葺流れ向拝で四周に高欄をまわし、屋根勾配が急な特徴ある意匠です。
頂部露盤には北条氏の家紋「三つ鱗紋」とおぼしき紋が刻まれています。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。

Wikipediaによると、
本堂の須弥壇中央に不動明王坐像、向かって右に薬師如来坐像、左に文殊菩薩坐像を安置。右奥には忍性像、左奥には興正菩薩(叡尊)像を安置するとのこと。

文殊菩薩坐像はかつてあった文殊堂の御本尊ゆかりの像とみられ、忍性像、興正菩薩(叡尊)像も史料にあらわれています。
不動明王坐像は平安時代末期の作といい、島根県の勝達寺から大正5年に移されたとの由。

向拝に地蔵尊のご縁日が張り出されているので、地蔵尊も奉安とみられます。
通常本堂内は非公開で、4月7日-9日のみ入堂できるようです。

なお、史料に見える聖徳太子像(伝運慶作)、弘法大師が師の惠果阿闍梨から贈られた乾陀穀子袈裟(東寺蔵)の写し(?)などについては所在の調べがつきませんでした。
あるいは、転法輪殿(収納庫)か資料館に収蔵されているのかもしれません。

本堂前には「不許葷酒肉入山門」と刻した戒壇石。戒律の厳しい真言律宗らしい標石です。

本堂向かって右前には「千眼茶臼」「製茶鉢」。
開山の忍性菩薩が悲田院、施益院などを設置されたときに使用されたものと伝わります。

参道右手、授与所前には子育地蔵尊の露仏が御座、参道山門寄り左手には忍性菩薩が粥を施すために使用したという「極楽寺の井」もあります。


御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受できます。
複数の霊場札所を兼務されているので、霊場申告は必須です。
また、鎌倉二十四地蔵霊場第20番の導地蔵尊、同第21番の月影地蔵尊の御朱印もこちらで拝受できますが、当然先にお参りしてからの申告となります。


〔 極楽律寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 東国花の寺霊場の御朱印(御本尊)
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)


鎌倉十三仏霊場の御朱印


61.導地蔵堂(みちびきじぞうどう)
鎌倉市極楽寺2-2-2
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第20番
※御朱印は極楽律寺にて授与。

導地蔵堂は導地蔵尊を安する鎌倉二十四地蔵霊場第20番の札所で、極楽寺地蔵尊とも呼ばれます。

『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記の史料などを参考に縁起沿革を追ってみます。

導地蔵堂は文永四年(1267年)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのが創始といわれています。

『新編相模國風土記稿』には「(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二 一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持」とあり、おそらく前者の「運慶の作佛」が導地蔵尊とみられます。

子育てに霊験あらたかで、この地蔵尊の視野の中にいる子どもたちを災難から守るとされることから「導(き)地蔵」と呼ばれます。

幼い子の宮参りの帰りにはこの地蔵尊に赤飯を供え、子の安全成長を祈るのがこのあたりの風習といいます。

鎌倉時代~室町にかけて戦火に遭うも、室町時代に地蔵尊を新たに造立、堂宇に安置されたといいます。

なお、極楽寺の忍性については、60.極楽律寺の記事をご覧ください。

当尊については史料・資料がすこぶる少なく、この程度しかご紹介できません。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
(山之内庄極楽寺村)地蔵堂二
一は運慶の作佛を安ず、極楽寺持、一は行基の作像を置く、極楽寺・成就院両寺持。


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江ノ電「極楽寺」駅至近です。
駅の出口は反対側、桜橋で江ノ電の線路を渡るとすぐに「導地蔵堂」があります。
山肌を背に、寄棟造で朱色の銅板本瓦棒葺の大ぶりな堂宇です。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2

屋根は二重で、下の屋根は雨よけになっており、縁側には観光客が座って休んでいました。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

身舎に「導地蔵」の板がかかり、地蔵堂であることがわかります。
扉は開いている場合があり、そのときはお厨子のなかに御座す木立像の導地蔵尊を拝せます。
大きな瞳で前方を見つめられ、子供の安全を見守られているかのようです。


【写真 上(左)】 尊格板
【写真 下(右)】 導地蔵尊


御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。


〔 導地蔵堂(鎌倉二十四地蔵霊場)の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-23 (C.極楽寺口-6)へつづく。



【 BGM 】
■ Bobby Caldwell - What You Won't Do For Love
〔 From 『Bobby Caldwell』(1978)


■ Natalie Cole - Split Decision
〔 From 『Everlasting』(1987)


■ King Of Hearts - Don't Call My Name
〔 From 『King Of Hearts』(1994)
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

最新情報を追加しました。


Vol.-4からのつづきです。


■ 第15番 瑞光山 如意寺 密嚴院
(みつごんいん)
荒川区荒川4-16-3
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第83番

第15番札所は荒川区荒川の密嚴院・三河島大師です。

下記史料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

密嚴院は天文二年(1533年)、覚錟ないし覺生和尚の開基と伝え、山内には同九年(1540年)銘の板碑(荒川区登録文化財)も残ります。
南側にある清瀧山観音寺の末寺で、新義真言宗豊山派に属します。

観音寺は、天文年中(1532-1553年)に長偏僧都が開基創建した名刹で、江戸時代には将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられていました。
このエリアの獲物は鶴で、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と格別に称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしとなっていました。

密嚴院の御本尊は、一尺八寸の如意輪観世音菩薩立像といいます。
『豊島八十八ヶ所巡礼』には「本尊の如意輪観音は弘法大師作と伝えられ、文化十四年(1817年)に高野山から勧請されたもの」とあります。

境内に弘法大師堂があり「三河島大師」と称され、毎月廿一日の護摩修行は信仰者で賑わったといいます。

御府内二十一霊場札所として、本寺の観音寺ではなく密嚴院が選ばれたのは「三河島大師」の名声が高かったためではないでしょうか。

なお、『荒川区史』には「当院は豊島『八十八ヶ所』の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。」とありますが、「新四國八十八ヶ所の内第四十二番」についてはよくわかりません。

境内には竜女塚があり、塚上にあった文政十三年(1830年)の石碑、本堂・庫裡等は昭和20年の東京大空襲の際に失われたといいます。
伽藍は終戦後に再建されていますが、現在は無住で、観音寺が護持されているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(三河島村)密嚴院
(三河島村)観音寺末 瑞光山如意寺ト号ス 本尊如意輪観音

『荒川区史』(国立国会図書館)
密嚴院(三河島町五丁目九六七番地)
観音寺の北隣にある密嚴院は、瑞光山如意寺と号して、新義真言宗豊山派に属し観音寺の末寺である。本尊如意輪観音は其の丈け一尺八寸の立像である。
開山は覺生和尚と云はれるが詳細は不明である。
境内に弘法大師堂がある。敷地四百六十五坪余。毎月廿一日に護摩修行がある。
当院は豊島「八十八ヶ所」の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。


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京成線「町屋」駅とJR常磐線「三河島」駅の中間くらい、近くに荒川区役所はありますが、区民以外はなかなか訪れないところ。
戸建て、マンション、ビルや町工場が混在する下町らしい街区です。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 院号標

観音寺の北東側の路地に面していますが、山内はなかなか広そうです。
参拝時は門扉が堅く閉ざされていたので、山内の詳細はわかりません。



【写真 上(左)】 三河島大師の標
【写真 下(右)】 弘法大師の石標

門柱には「院号」と「三河島大師」の刻字。
鉄扉には真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」。
門柱手前には「開運厄除弘法大師」の石標が建ち、弘法大師霊場であることを示しています。

鉄扉ごしに近代建築陸屋根の本堂が見えますが、詳細は不明です。

御朱印は観音寺にて拝受しました。(以前の情報)
「門扉が閉まっていたので、門前からの参拝となった旨」申告しましたが、現在、閉門中につきその参拝方法でよろしいということで、快く御朱印を授与いただけました。
※ 現在(2024年秋)、密嚴院の御朱印は円性寺(足立区東和1-29-22)で授与されています。
御府内二十一ヶ所霊場、豊島八十八ヶ所霊場ともに拝受できます。


〔 密嚴院の御朱印 〕
〔 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕


中央に如意輪観音の揮毫と如意輪観音のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内廿一ヶ所第十五番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕




■ 第16番 五剣山 普門寺 大乗院
(だいじょういん)
台東区元浅草4-5-16
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第81番、弘法大師二十一ヶ寺第3番

第16番札所は元浅草の大乗院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

大乗院の創建年代は不詳ですが、『江戸志』には増誉法印の開山とあります。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、江戸大塚護国寺末、境内古跡拝領地五百坪とあります。
本堂は四間四方で、御本尊は丈壱尺三寸の不動明王立像と記されています。

本堂内奉安の弘法大師御像は「江戸八十八ヵ所之内八十一番」とあり、これは荒川辺八十八ヶ所霊場第81番をさしているとみられます。
『江戸砂子』には「波断不動」ともあるようです。
山内に護摩堂、天王社も擁していたとみられます。

当山は度々類焼に見舞われたためか史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

しかし、荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺の3つの弘法大師霊場札所を兼務されているわけですから、弘法大師とのゆかりのふかい寺院であると考えられます。


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【史料・資料】

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.45』
江戸大塚護國寺末 浅草新寺町
五釼山普門寺大乗院 境内古跡拝領地五百坪
当寺書留●度々類焼之為焼失仕 年数其外共●相知不申候
本堂 四間四方
 本尊 不動明王、丈ヶ壱尺三寸立像
 弘法大師 江戸八十八ヵ所之内八十一番
護摩堂
天王社 九尺四方 神体幣束
二王門 二天門 山門 楼門
波断不動(江戸砂子)
開山増誉法印 (江戸志)



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。

住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から南下する左右衛門橋通りの1本東側の路地を南に入って正福院を過ぎたすぐ先です。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 院号標

路地から少し引きこんだ民家風の建物なので、参道入口の院号札を見落とすとそれとわかりません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

参道をたどり、本堂に近づくにつれて寺院らしい雰囲気が高まります。

建物手前が向拝。
正面はシックな格子扉、壁面には真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」、見上げには院号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 札所標

向拝手前の「弘法大師 第十六番」と刻まれた立派な石標は、御府内二十一ヶ所霊場の札所標です。

こちらは何度かの参拝でご不在気味だったので、特別にお願いして御朱印を授与いただきました。
通常は不授与の可能性があります。


〔 大乗院の御朱印 〕



中央に不動明王の揮毫と、不動明王のお種子「カン/カ-ン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・院号の揮毫があります。


■ 第17番 和光山 興源院 大龍寺
(だいりゅうじ)
北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:(上田端)八幡神社
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第13番-2、豊島八十八ヶ所霊場第21番、滝野川寺院めぐり第6番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-4 をベースに再編しています。

第17番札所は田端の大龍寺です。

真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺は、東京・豊島エリアの「豊島八十八ヶ所霊場」第21番の札所でもあります。
こちらはWeb上で「弘法大師 十三番」の札所印の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

御府内八十八箇所は、番外・掛所などの札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院(弘法寺)がリストされています。

御府内霊場第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺とされ、明治初期に龍生院に引き継がれたとされていて大龍寺との関連は不詳です。

そこで「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」に注目してみました。
「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」は江戸期に開創とみられる弘法大師霊場で、『東都歳時記』に「弘法大師 二十一ヶ所」として記載があります。(ただし、こちらは別霊場とみられる「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

こちらをみると、ほとんどが新義真言宗系・真言宗霊雲寺派(天台宗1)で、古義真言宗寺院はありません。
ふたつの真言宗霊雲寺派は湯嶋霊雲寺(結願)と大龍寺で、湯嶋霊雲寺のみの御府内霊場より札所数が多くなっています。

ふつう、弘法大師二十一ヶ所は弘法大師八十八ヶ所の簡易版で、札所が重複するケースが多いですが、御府内二十一ヶ所霊場では21札所のうち7のみ(谷中観音寺、谷中加納院、谷中明王院、谷中長久院、谷中多宝院、谷中自性院、湯嶋霊雲寺、当山を入れると8)で重複はすくなく、御府内霊場とは別の観点から開創されたものかもしれません。

いずれにしても、すくなくとも大龍寺は豊島八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所霊場のふたつの弘法大師霊場札所なので、大師霊場とゆかりのふかい寺院であることは間違いないと思います。

下記史料等によると創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興され、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸期は(上田端)八幡神社の別当を司っていたようです。

【写真 上(左)】 (上田端)八幡神社
【写真 下(右)】 (上田端)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国立国会図書館DC)
(西ヶ原村)大龍寺
眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ 天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置
八幡社 村ノ鎮守トス
稲荷社

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JR「駒込」駅と「田端」駅のほぼ中間、上野から日暮里、田端、西ヶ原、飛鳥山とつづく台地のうえにあります。

落ち着いた住宅地のなかに名刹らしい広大な寺地を構えています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れたご対応です。
拝受者が少ない滝野川寺院めぐりの御朱印申告についても、特段驚かれた風はありませんでした。

御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。
なお、こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。


〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下に「弘法大師 十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 滝野川寺院めぐりの御朱印 〕



■ 第18番 象頭山 観音寺 本智院
(ほんちいん)
北区滝野川1-58-2
真言宗智山派
御本尊:
札所本尊:
司元別当:鳥越大明神(鳥越神社)?
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第80番、弘法大師二十一ヶ寺第18番、北豊島三十三観音霊場第28番

第18番札所は北区滝野川の本智院(滝野川不動尊)です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

『御府内寺社備考』によると本智院は当初八丁堀辺に起立されたといいます。
明暦年間(1655-1658年)に記録焼失とあるので、すくなくともそれ以前の起立とみられます。(元和年中(1615-1624年)開基という資料あり。)
同書には「京都智積院末」とあり、智積院直末というすこぶる格の高い寺院であった可能性があります。

中興開山は権大僧都法印明実(元禄二年(1689年)寂)。

『寺社書上』(文政年間(1818-1830年)編纂)には「仮本堂」とあるので、この時期なんらかの理由で仮の本堂となっていたとみられます。
とはいえ間口六間奥行三間の堂々たる堂宇です。

御本尊は金剛界大日如来木像。
本堂には弘法大師木座像、興教大師木座像、阿弥陀木立像、正観音木立像を安すと記されています。

聖天堂は宗対馬守建立とあり、対馬藩主宗家の建立かもしれません。
安する長七寸五分の聖天銅立像は弘法大師の御作で赤松円心(赤松則村、1277-1350年、村上源氏赤松氏4代当主で播磨国守護)の所持と記されています。
甲宵聖天像も弘法大師の御作で赤松円心の所持とあります。
本地は十一面観世音菩薩木立像、長一尺七寸五分で恵心僧都作とあります。

弁財天並びに十五童子も弘法大師の御作で、「江の嶋にて十万座護摩修行、其灰を以て作り裏に手判有之」とあります。
正観音立像も弘法大師の御作とあります。

山内に鎮守十二所権現、長珠院・不動院の二ケ院を擁したとあります。

弘法大師御作と伝わる尊像を幾軆も安し、対馬の宗氏、赤松円心という名族とのゆかりをもつことからみても、相応の寺格を有していたとみられます。

荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺という3つの弘法大師霊場の札所を務められることについては、寺格の高さもさることながら、複数の弘法大師御作の尊像を安するという所以によるのではないでしょうか。

明暦年間(1655-1658年)に焼失後、浅草(不唱小名)に移転といいます。
『江戸切絵図』には、浅草新寺町の仙蔵寺と玉宗寺の間に「本智院」とみえるので、現在の台東区寿二丁目あたりとみられます。

大正になされたという滝野川への移転の経緯は、当然下記史料には記載がありません。
「猫のあしあと」様記載の『北区史』には「もと浅草区(現台東区)栄久町一三二にあつた。幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた程の由緒ある寺で、元和年中(1615-1624年)開基、大正六年五月区内の滝野川町四八都電飛鳥山終点の所に移転の許可を得て新築し、大正十年五月に移転をおえた。滝野川の不動として知られ本尊は不動明王である。」とあります。

『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた」という記載が気になるので、いささか長くなりますが鳥越神社(鳥越大明神)について辿ってみます。。

鳥越神社の別当は御府内八十八ヶ所霊場第51番であった鳥越の長樂寺だった筈です。
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17

鳥越大明神(鳥越神社)は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。

永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。

社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。

徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。

別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。

鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。

本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。

鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。

鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。

明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。

例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。

以上、鳥越神社の沿革を辿ると、別当として長樂寺の名は出てきますが、本智院との関係は明示されていません。
結局のところ、『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあった」という記載の根拠についてはよくわかりませんでした。


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【史料・資料】

『寺社書上 [77] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.33』
京都智積院末 浅草不唱小名
象頭山観音密寺本地院 境内古跡拝領地六百七拾二坪
当寺往古八丁堀辺に起立之由申伝候得● 明暦年中(1655-1658年)類焼之節記録焼失仕相知不申候
中興開山 権大僧都法印明實(元禄二年(1689年)寂)
仮本堂 間口六間奥行三間
 本尊 大日金剛界木像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 阿弥陀木立像 正観音木立像
聖天堂 土蔵造方三間 拝殿 二間四方宗対馬守建立
 聖天銅立像 長七寸五分弘法大師作 赤松円心所持
 甲宵聖天像 同作同人所持
 本地十一面観音木立像 長一尺七寸五分恵心僧都作
 辨財天并十五童子 各長七寸八分弘法大師作
  右ハ江の嶋にて十万座護摩修行 其灰を以て作り裏に手判●●
  天長七年(830年)七月七日と●●
 正観音立像 長九分弘法大師作
 大黒天立像 俵千十三俵其上ニ安置長一寸三分
鎮守十二所権現
末社稲荷木立像
 右十二所権現稲荷合社ニ有之候所 先年類焼之節焼失仕 当時聖天堂二安置
寺中長珠院不動院と号し候 二ケ院有之候処退廃仕候 年代は相知不申候得共 延享年中(1744-1748年)御改之節 二ケ院共書上候由申伝候得ハ 其比ハ相続仕有之候義ニ御座



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅至近。「王子」駅からも歩けます。

滝野川は寺社が集まる御朱印エリアですが、その多くは明治通り北側の滝野川沿いに立地しています。
明治通りの南側に位置する本智院周辺は、一種のエアポケット的なエリアとなっており、筆者もこの界隈は初訪でした。

都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅のお隣りですが、フェンスがあったりして、やや複雑なアプローチです。


【写真 上(左)】 すぐ横が飛鳥山駅
【写真 下(右)】 外観

山内入口には門柱。院号と「滝野川不動尊」が刻字されています。
入口向かって右脇には身代地蔵堂。堂前の石碑には「江戸三大身代地蔵尊」とあるので、有名な地蔵尊なのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 身代地蔵尊


【写真 上(左)】 狛犬と大日堂
【写真 下(右)】 大日堂

山内右手に狛犬と大日堂。
堂内には法界定印を結ばれる胎蔵大日如来が御座します。
Wikipediaに「境内には、1667年(寛文7年)製の石像の大日如来坐像があるが、これは移転時に一緒に移したものである。(出所:『北区史跡散歩』 (東京史跡ガイド17))」とあるので、こちらの大日如来はおそらく浅草時代に造立され、こちらに遷られたとみられます。

参道右手が庫裏で、その先が本堂です。
3階建の建物の右手1階が向拝となっているかたちです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

タイル壁に木造の千鳥破風の向拝が填め込まれたような、個性的な意匠です。
左右の向拝柱に木札が掛けられていますが、読みとれませんでした。
向拝上部に「阿遮羅尊」の扁額。
「阿遮羅」とは不動明王の梵名「acalanātha(アチャラナータ)」の漢字表記で、不動堂を
阿遮羅殿と記す場合があります。

【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 本堂側からの大師堂

本堂から駅寄りに進むと大師堂です。
こちらは通常閉門されていますが、毎月二十一日(お大師さまのご縁日)には解放され、中のお砂踏み場にて巡拝することができます。


【写真 上(左)】 大師堂門前
【写真 下(右)】 札所標


【写真 上(左)】 大師堂よこのお砂踏み場
【写真 下(右)】 御砂踏心得

堂前の門柱は「荒川辺八十番、御府内十八番、北豊島二十八番」の3つの霊場の札所標となっています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御府内十八番の御詠歌

大師堂は切妻屋根銅板葺でシックな黒色系の格子扉。
見上には御府内二十一ヶ所第18番の御詠歌が掲げられています。

弘法大師霊場を巡拝していて、このようなしっかりとした大師堂に出会うのはやはり嬉しいものです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
お不動様のご縁日(28日)に、事前にTELの上お伺いしました。
常時授与かはわからず、ご不在のこともありそうなので事前確認をおすすめします。


〔 本智院の御朱印 〕
〔 荒川辺霊場・御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の印判と三寶印。
右上に「御府内十八番 荒川辺八十番」の札所印。
左に「瀧野川不動尊」の印判と寺院印が捺されています。


■ 第19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
(あしゃいん)
荒川区東尾久3-6-25
真言宗豊山派
御本尊:阿遮羅明王(不動明王)
札所本尊:阿遮羅明王(不動明王)
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第63番、荒川辺八十八ヶ所霊場第10番

第19番札所は荒川区東尾久の阿遮院です。

下記資料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

阿遮院の開基創立等は不明ですが、延元三年(1338年)銘の板碑が所蔵されています。
尾久に於ける最古の寺院と伝えられ、「尾久町字大門」の地名は当院の大門があった事によるとの説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗で田端村與楽寺の末とあります。

『江戸切絵図』には、東尾久とおぼしきところに「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)

旧本堂は中興の巌永上人により天保二年(1831年)建立といいますが、震災により失いました。

御本尊の阿遮羅明王(不動明王)は、良辨僧都(689-774年)の作と伝えます。
『荒川区史』には「境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。」と記されています。

本尊は阿遮羅明王(不動尊、梵名アシャラナータ)で、こちらが山号・院号の由来といいます。

山内には延元三年(1338)の板碑が所蔵され、元禄十四年(1701年)の光明真言供養塔があります。

『新編武蔵風土記稿』には、東尾久の華蔵院、町屋の慈眼寺は阿遮院の末寺・門徒とあります。

当山についての史料類は多くはありませんが、末寺をもっていたこと、豊島八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場の3つの弘法大師霊場の札所を兼務されていること、また、現在の寺容からみても相当の名刹と思われます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(下尾久村)阿遮院
新義真言宗、田端村與楽寺ノ末 阿遮山蓮葉寺ト号ス 本尊不動
稲荷社

『荒川区史』(国立国会図書館)
阿遮院(尾久町一丁目八九七番地)
新義真言宗豊山派に属し、田端與楽寺末である。
開基創立等は不明であるが、尾久に於ける最古の寺院と伝へられている。
尾久町字大門は、昔そこに当院の大門があった事により出たものとの説がある。
境内地は八百五十六坪である。
震災前の本堂は、中興巌永上人によって天保二年(1831年)に建立されたものであった。
本尊阿遮羅明王即ち不動尊は良辨僧都の作と伝える。
境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)


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最寄りは都営荒川線(東京さくらトラム)京成線「東尾久三丁目」駅。
まわりに寺社は少なく御朱印エリアではないですが、阿遮院は豊島八十八ヶ所霊場の札所なので一定の参拝客はいるのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の院号標

山内入口の門柱に院号標とその手前に御府内二十一ヶ所の札所標。
反対側には院号サイン。「出世石尊 子育(授)地蔵様 弘法大師霊場」とあります。
「弘法大師霊場」として「武蔵國 豊島八十八箇所第六十三番 荒川邊八十八箇所第十番 御府内二十一箇所第十九番」の掲示も出ています。


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 弘法大師霊場案内

荒川区教育委員会の説明板には「山号・寺号は本尊不動明王の梵名阿遮羅囊他(アシャラナータ)にちなむもの」とあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

ブロック塀に沿って参道を進むと、正面に山門。
切妻屋根桟瓦葺でおそらく薬医門と思われます。
見上げには山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 石仏群


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

山内は予想以上に広く、緑もゆたかです。
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。均整のとれた堂々たる堂宇です。
向拝柱はなく、開けた印象の向拝で、硝子扉の上に院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

現地案内板には、文化財として江戸時代、百万遍念仏講で使用した鐘と数珠、建武三年(1338年)銘の板碑、元禄十四年(1701年)建立の光明真言三百六十万遍供養塔などが記されています、

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 阿遮院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「不動明王」のお種子「カンマン」と尊格の揮毫と「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
右上に「武蔵國豊島六十三番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

記事リスト



【 BGM 】
■ Ring Your Bell - LiSA x Kalafina LisAni! LIVE 2017 Complete Ver CROSS STAGE 2017/01/27


■ 名もない花 - 遥海


■ 千年の恋 - ANRI/杏里
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■ 鎌倉市の御朱印-21 (C.極楽寺口-4)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)から。


57.明鏡山 円満院 星井寺(虚空蔵堂)(ほしいでら)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市坂ノ下18-28
真言宗大覚寺派
御本尊:虚空蔵菩薩
司元別当:
札所:鎌倉十三仏霊場第13番(虚空蔵菩薩)
※現在は普明山成就院の境外仏堂

星井寺(虚空蔵堂)は虚空蔵菩薩を御本尊とする密寺で、現在は普明山成就院の境外仏堂となっています。
鎌倉十三仏霊場第13番の札所として知られています。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

星井寺(虚空蔵堂)は、天平年間(729-749年)、古井戸「星月井」のなかに虚空蔵菩薩の御影を見い出した行基菩薩が、自ら虚空蔵菩薩像を彫刻し建立した堂宇と伝わります。

「星月井」は鎌倉十井(かまくらじっせい)の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれます。
極楽寺坂ののぼり口にあたるこのあたりは、木々が生い茂り昼なお暗かったため「星月夜」(ほしづきよ)と呼ばれ、ここにある井戸なので「星月夜の井」と呼ばれたといいます。
あるいは、暗い井戸のなかに昼でも星の影が見えたことから、この名がついたとも。

源頼朝公はこちらの虚空蔵尊を内陣仏として崇敬し、仏師運慶に外陣仏を刻させて御前立としたといいます。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、無限の智恵と大慈大悲を持たれる菩薩とされます。

梵語はアーカーシャガルバ。明星天子、大明星天王などの別名があります。
御真言はノウボウ・アキャシャキャラバヤ・オンアリキャ・マリボリソワカ。
種子はタラーク。三昧耶形は宝剣、如意宝珠、ご縁日は毎月13日です。

高野山霊宝館WebWikipediaによると、虚空蔵菩薩は大日如来の福智の二徳を司る仏で、とくに「智恵を授ける仏さま」「頭脳明晰となり記憶力が高まる功徳」として信仰を集めています。

虚空蔵尊信仰はすでに奈良時代からあったといい、若かりし弘法大師も虚空蔵尊を御本尊とする「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を阿波太龍岳や土佐室戸崎などで修行されたと伝わります。
また、虚空蔵尊に礼するものは、三世十方一切の諸仏を礼することと同じともされる強力な尊格です。

虚空蔵菩薩の誓願に「人には三期の厄あり。その厄災のうち、とりわけて変体の厄を除き、智徳を与え、二世の願いを成就せしめん。」という項目があり、「変体」とは子供から大人に変わる年頃をいいます。

虚空蔵尊は「十三詣り」の御本尊として知られます。
「十三詣り」とは旧暦の3月13日前後に、数え年13歳でおこなう寺院詣でで、とくに虚空蔵尊にお参りします。

京都嵯峨の虚空蔵法輪寺が有名ですが、各地でみられる風習で星井寺でも「十三詣り」がおこなわれます。
この「十三詣り」はおそらく「変体(子供から大人に変わる年頃)の厄払い」から来ているものと思われます。

虚空蔵信仰は星宿、日月などの星神信仰と深い関係をもち、「星月井」とのゆかりも、この信仰からきているのでは。

一見なじみのない尊格にも思えますが、弘法大師とのゆかりもあって、真言密教ではことに重要な尊格とされ、禅刹でもしばしば御本尊となられます。

虚空蔵尊は「十三仏詣で」の一尊です。
「十三仏詣で」とは室町時代に日本で成立した信仰で、十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏尊を供養ないし詣でるものです。

虚空蔵尊は三十三回忌の尊格で、札番13番の結願尊となります。
星井寺の虚空蔵尊も鎌倉十三仏霊場第13番の札所本尊となっています。
(詳細は→こちら。)

また、十二支守り本尊参りでは、虚空蔵尊は丑歳、寅歳の守り本尊となっています。

虚空蔵尊の像容は、右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つタイプ、法界定印の掌中に五輪塔を持つタイプ、与願印を結ぶタイプなどがみられ多彩です。

かつて、「星月井」(星月夜の井)は鎌倉を代表する名所でした。

慶長五年(1600年)6月、徳川家康公は京・伏見城から上杉氏征伐のため江戸に向かう途中、「星月井」に立ち寄っています。(6月29日とみられる)
「慶長五年(1600年)六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ」(「星月井」碑文)

神奈川県Webによると、「星月夜の井」は「鎌倉」を導く枕詞とされています。

 我ひとり鎌倉山を越へ行けば 星月夜こそうれしかりけれ (後堀川百首)

鎌倉市の旧徽章は「星月夜」がモチーフにされていたともいいます。
鎌倉宮近くの通りに、この旧徽章を描いたマンホールが一枚だけ残っています。

鉄道唱歌にも「星月井」(星月夜の井)は下記のとおり歌われ、鎌倉を代表する名所であったことを裏付けています。

「北は円覚建長寺 南は大仏星月夜 片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし」

こぢんまりとした山内ですが、上記のようにさまざまな由緒沿革をもち、鎌倉を代表する虚空蔵尊霊場として重要な堂宇です。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
星月夜井
極楽寺の切通へ上る坂の下、右の方にあり。里老云、昔は此井の中に、昼も星の影見ゆる故に名く。此邊の奴碑、此井を汲に来り、誤て菜刀を井中へ落したり。爾しより来星影不見と。
又此井の西に、虚空蔵堂あり。星月山星井寺と号す。極楽寺村の、成就院の持ち分なり。成就院は、真言宗。虚空蔵は、行基作、長二尺五寸。縁起一巻あり。其略に云、聖武帝の天平中(729-749年)に、此井に光りあり。里民不思議の思をなし、これを見れば、井の邊に、虚空蔵の像現じ給。此由を奏しければ、行基に勅し、此像を作らしめ、爰に安置し給ふとあり。
【後堀河百首】に常陸が歌に
 「我ひとり 鎌倉山を越行ば、星月夜こそ うれしかりけれ」

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
虚空蔵堂
極楽寺村のうち、星月夜の井の西にあり。この堂を星月山星井寺と号す。
村内成就院の持なり。これは真言宗。
虚空蔵は行基作、長二尺五寸。縁起の略に、聖武天皇の天平年中(729-749年)、此寺井に光有。里民不思議のおもひをなし、是を見れば井の邊に虚空蔵の像現じ給ふと。此よしを奏しければ、行基に勅し此像を造らしめ、爰に安置し給ふと云云。【堯恵法印紀行】に、星の御堂と書しは、この堂のことなり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(坂之下村)虚空蔵堂
明鏡山(【鎌倉志】には星月山に作る)星井寺と号す、極楽寺村成就院持なり
本尊は行基の作像なり 木佛立像長三尺
縁起に拠るに聖武帝の天平年中(729-749年)此寺の井に光あり、村民奇として是を見るに井の邊に虚空蔵の形出現す、此由天聴に達しければ行基に勅ありて此像を造らせられ、即爰に安置ありしと云へり、堯惠が紀行に星の御堂とあるは此堂なり
【什寶】
明星石一顆 星ノ井より出し物と云ふ
独鈷 行基所持の物と云ふ、下同じ
唐錢六文 是も照天姫、所持せし物と云ふ、祟寧通寶二文、祟寧重寶四文とあり
駒爪 小栗判官の乗馬、鬼鹿毛の爪なりと伝ふ

■ 山内掲示(虚空蔵堂護持会)
明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)
天平年間(729-749年)、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた
行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。
かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。
以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた これが前立尊であるという。
秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。
これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。
即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。
又、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。
秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。
近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。
正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣に集まります。

■ 山内掲示(虚空蔵堂護持会)
舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)
いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。
また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだ(ママ)ける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。

■ 現地掲示((社)鎌倉青年会議所)
星の井(ほしのい)
この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。
昔、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。
奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。
井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたそうです。

■ 現地掲示(「星月井」碑文、昭和二年三月建 鎌倉青年団)
星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ言フ鎌倉十井ノ一ナリ
坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ
星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク里老言フ古昔此井中昼モ星ノ影見ユ故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来星影復タ見エサルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ慶長五年(1600年)六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ
其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ


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長谷と極楽寺のあいだにある極楽寺切通の長谷側ののぼり口にあります。
ちょうど鎌倉・長谷の市街から極楽寺切通の山手にさしかかるところで、周囲は木々に覆われています。

極楽寺切通は、新田義貞勢がついに攻め落とすことができなかった要衝です。
極楽寺坂切通は極楽寺開山の忍性(1217-1303年)により拓かれたという説があるので、新田義貞の時代はもっと厳しい道のりだったのかもしれません。


【写真 上(左)】 極楽寺坂
【写真 下(右)】 極楽寺坂の碑

長谷から行くと、極楽寺坂の右手手前に宝形の屋根が掛かった「星月井」とその石碑。
そのおくが虚空蔵堂の参道です。


【写真 上(左)】 星月井と虚空蔵堂の参道
【写真 下(右)】 星月井


【写真 上(左)】 星月井の碑
【写真 下(右)】 参道-1

筆者の参拝時に建てられていた「初護摩供」の看板には「日本三虚空蔵」とありましたが詳細は不明です。
こちらの御本尊(虚空蔵尊)はもともと秘仏でしたが、35年に一度御開帳されるようになり、いまは毎年1月13日の初縁日にご開帳されています。(毎年1月、5月、9月の13日とも)


【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 狛犬と虚空蔵堂

「南無虚空蔵菩薩」の奉納幟がはためく急な石段を登ると左右に立派な狛犬。
正面が本堂で、向かって左手前に舟守地蔵尊の堂宇があります。


【写真 上(左)】 本堂(虚空蔵堂)
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

本堂(虚空蔵堂)はおそらく入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 虚空蔵菩薩の御真言

右手身舎には虚空蔵菩薩の御真言。
向拝見上には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 舟守地蔵尊

舟型地蔵尊の堂宇は切妻造銅板葺の妻入りで、舟形台座のうえに御座する地蔵尊を間近で拝せます。
開眼の時期は不明ですが、海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係する業に従事する人々に功徳をお授けくださるお地蔵様とのこと。
願主の心が清く、精進すれば願い事を数日で成就いただけるともいいます。

もともと虚空蔵尊と地蔵尊とは対になっていたという説があります。
星井寺で虚空蔵尊と地蔵尊(舟守地蔵尊)が奉安されているのは、この流れによるものかもしれません。


御朱印は、極楽寺坂を3分ほど登った成就院で拝受できます。

なお、星井寺から成就院へ向かう極楽寺坂の途中に、日限六地蔵尊のお堂があります。
説明板によると、道行く人々をお守り下さり、願いを期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様とのことです。


【写真 上(左)】 日限六地蔵尊
【写真 下(右)】 日限六地蔵尊の説明板


〔 星井寺の御朱印 〕




58.普明山 法立寺 成就院(じょうじゅいん)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市極楽寺1-1-5
真言宗大覚寺派
御本尊:不動明王
司元別当:御霊神社(坂の下)、星井寺虚空蔵堂(坂の下)
札所:鎌倉三十三観音霊場第21番、相州二十一ヶ所霊場第13番、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番

成就院は弘法大師空海とのゆかりを伝え、鎌倉幕府第3代執権北条泰時公が創建という古刹です。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

弘法大師が相州江島に留錫されたとき、この地で数日間護摩供を修されたといいます。
Wikipediaによると、伝承によれば弘法大師が江ノ島の金窟(現・岩屋)に参拝し国土守護・万民救済を祈願、社殿(岩屋本宮)を創建されたのは、弘仁五年(814年)とあるので、成就院の護摩供伝説もおそらくその頃とみられます。

弘法大師は成就院の裏山で虚空蔵求聞持法を修されたと伝わります。
であれば、成就院よりも虚空蔵菩薩を御本尊とする星井寺の由緒にこの伝承がでてきそうですが、調べた限りでは星井寺の由緒には弘法大師の虚空蔵求聞持法は記されていないようです。

弘法大師は相模湾や富士山を望む高台で護摩を焚かれ、その煙は海風にのってたなびき、厳修の鈴の音は里々に響き渡り、その煙や鈴の音が届いた里は作物がよく実り、人々は安心して暮らすことができたといいます。

この伝承を聞いた鎌倉幕府第3代執権北条泰時公は、高僧を請して承久元年(1219年)不動明王を御本尊として堂宇を建立、普明山願成就院と号したといいます。

元弘三年(1333年)、新田義貞鎌倉攻めの際に伽藍を焼失し、西谷に遁れたものの願成就院はひきつづき鎌倉幕府で重んじられ、第5代鎌倉公方足利成氏公(1449-1455年)は、毎年正月に願成就院の住持を招いて饗待したと伝わります。

元禄年中(1688-1704年)、祐尊和尚のときに旧地に還って再興したため、祐尊和尚を中興とします。
元寇の役の供養のために植えられたという、262株(般若心経の文字数と同じ)の紫陽花が有名で、花の寺としても知られています。

こちらの御本尊・不動明王は古来から「縁結び不動明王」と崇められ、良縁成就の寺としても知られています。

成就院の寺宝として、真言僧・文覚(1139-1203年)が自ら彫ったとされる「文覚上人荒行像」が伝わります。
日本の近代彫刻の大家・荻原碌山(おぎわらろくざん/守衛)の代表作「文覚」は、この像に触発されて作られたといいます。


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【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(極楽寺村)成就院
普明山法立寺と号す、古義真言宗 手廣村青蓮寺末 北條泰時開基すと云ふ
縁起に拠に空海江島に錫を駐めし時此地に於て数日護摩供を修す、此時泰時高僧を請して承久元年(1219年)一宇を建立し願成就院と称し大師護摩の靈場なるを以て普明山と号すとなり、管領成氏が時は毎年正月住持を営中に饗待あり(中略)
永禄五年(1562年)十月大道寺駿河守政繁寺内制札の副状を出せり(中略)
当寺元弘の乱(1331-1333年)に寺地を蹂踐せられ、西谷に遁れて星霜を送りけるが元禄年中(1688-1704年)現住祐尊が時舊地に還住し再興せり、故に祐尊を中興とす(元禄十四年(1701年)十月十一日寂す)本尊不動を置く
稲荷社 境内の鎮守とす

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
普明山法立寺成就院と号する。
古義真言宗。もと青蓮寺末、いま京都大覚寺末。
縁起によれば、承久元年(1219年)十一月廿一日、北条泰時の創建で、空海が護摩供を修した跡に建立したという。
本尊、不動明王。
境内地596坪。本堂・山門・庫裏等あり。
『風土記稿』には元文六年二月二十一日岩沢重●の作った縁起により、元弘の乱に寺地を蹂踐され、西谷に移っていたのを元禄年中(1688-1704年)に祐尊が旧地に還って再興した。とあるが、現在寺にはこのことを証すべき史料がない。
ただし、極楽寺の奥に西方寺屋敷とよんでいるところがあり、ここが成就院の持地であるから、もとここに移っていたのかもしれない。(中略)
明鏡山円満院星井寺と号する虚空蔵堂を管理している。


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長谷から星井寺(虚空蔵堂)を過ぎて極楽寺坂を登ると極楽寺切通
成就院は、極楽寺切通の上方にあります。


【写真 上(左)】 極楽寺切通
【写真 下(右)】 東参道


【写真 上(左)】 東参道からの由比ヶ浜
【写真 下(右)】 山内からの由比ヶ浜

参道・山内からは由比ヶ浜の海岸が、思いがけないアングルで見下ろせます。
こういう景色は山が海に迫る鎌倉ならでは。


【写真 上(左)】 東参道の山門
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 西参道
【写真 下(右)】 西参道の山門

長谷方向からの参道の山門には「東結界」の扁額と傍らには院号標。
極楽寺方向からの参道登り口には山号標、その先の山門には「西結界」の扁額が掲げられています。
東参道の石段は108段あるそうで、なかなか登りごたえがあります。


【写真 上(左)】 山号標
【写真 下(右)】 山門

東西の参道が合わさって正面階段うえに切妻屋根銅板葺の山門。四脚門とも思いますが、山内側から撮影し忘れたので薬医門かもしれません。
桁行一間、梁間二間の禅宗様で、江戸時代後期のものとのこと。
二軒の繁垂木、四連の中備と脇塀を備えた立派な山門で、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 秋の山内
【写真 下(右)】 なで蛙

高台にある山内はさほど広くないものの見どころ多数。
いつも観光客で賑わい、明るい雰囲気のお寺さまです。

向かって左手には庫裏と授与所。


【写真 上(左)】 手水鉢
【写真 下(右)】 修行大師像


【写真 上(左)】 御分身不動明王
【写真 下(右)】 御朱印案内

右手には手前から立派な龍をおいた手水鉢と修行大師像。
その先の矜羯羅・制多伽の二童子を従えた「御分身不動明王」は、パワースポット「縁結び不動明王」として有名なようです。

そのおくに子授け・安産・子育ての功徳のある子安地蔵菩薩と子生み石がある筈ですが、なぜか写真が残っていません。


【写真 上(左)】 聖徳太子堂
【写真 下(右)】 チベット招来仏(レプリカ)

さらにそのおくに聖徳太子1300年御忌を記念して造立された多角堂がおかれ、覆堂には「和貴」の扁額が掲げられています。

河口慧海釈迦菩行像は、河口慧海師(1866-1945年)がチベットから持ち帰られた像のレプリカです。

さらに文覚上人荒行像のブロンズ像がある筈ですが、なぜかこちらも写真がありません。
こちらは3回お参りしているのですが、すみません、なぜか撮影忘れが目立ちます。
文覚上人荒行像は「日本のロダン」と称された明治時代の彫刻家、荻原碌山の作品に大きな影響を与えたとされるものです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺でボリューム感のある堂宇。
向拝柱はなく、堂前はすっきりとしています。
向拝見上げに院号扁額。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂内には、御本尊の不動明王、大日如来、地蔵菩薩が御座します。
不動明王は、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番の札所本尊です。
鎌倉三十三観音霊場第21番の札所本尊・聖観世音菩薩と相州二十一ヶ所霊場第13番の札所本尊・弘法大師座像も本堂内に奉安で、こちらが拝所となります。


〔 成就院の御朱印 〕

こちらは鎌倉三十三観音霊場第21番、相州二十一ヶ所霊場第13番、新四国東国八十八ヶ所霊場第83番の札所です。
新四国東国八十八ヶ所霊場は、川崎から横浜、そして逗子、鎌倉、藤沢と巡拝する神奈川県の弘法大師霊場(八十八ヶ所)で、鎌倉市内では、補陀洛寺(材木座)、浄光明寺(扇ヶ谷)、成就院(極楽寺)、満福寺、浄泉寺、宝善院(以上腰越)、青蓮寺(手広)の7寺院が札所で、結願は手広の青蓮寺です。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
新四国東国八十八ヶ所霊場については、こちらの記事をご覧ください。

なお、新四国東国八十八ヶ所霊場の御朱印については申告して拝受した記憶がありますが、札所印は捺されていません。あるいは札所印つき御朱印を拝受できるかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印(専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳)
※相州二十一ヶ所霊場の御朱印は、専用納経帳では「弘法大師」、御朱印帳では「遍照金剛」の揮毫をいただいています。


59.月影地蔵堂(つきかげじぞうどう)

鎌倉市極楽寺3-1
真言律宗西大寺派?
御本尊:地蔵菩薩(月影地蔵尊)
司元別当:
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第21番

月影地蔵堂は、鎌倉二十四地蔵霊場第21番の札所です。

下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

月影地蔵尊には、以下のような哀しい逸話が伝わっています。

昔、このあたりに鎌倉幕府第8代執権時宗公の連署・北条業時邸に仕える母娘が住んでいました。
母親は悪女でしたが、娘の「露」は気立てのよい孝行娘でした。
ある時、母親が業時愛用の白磁の皿を割ってしまい、これを咎められるとその罪を娘の露になすりつけ、露も自分が割ったと申し述べました。
業時は露の罪ではないと見抜いたものの、行きがかり上やむなく母娘に暇を出しましたが、その折に露には「梅小紋の小袖」を与えました。

その後、母親は露の「梅小紋の小袖」を奪って姿を消しました。

業時は露を屋敷で保護しましたが、露は追放された母の身をいとうあまり病に倒れついにこの世を去りました。
人々は露を哀れにおもい、露の生まれた「月影ヶ谷」に墓を立てました。
いつしかその墓には「梅の木苔」がびっしりと生え、人々は「梅小紋の小袖」に袖を通すこともなく亡くなった不憫な露のために、月影地蔵尊が「梅の木苔」を着せたのだと噂したといいいます。

露の墓所はいまは不明ですが、月影地蔵堂境内にある石像は露を祀ったともいわれます。

月影地蔵尊は極楽寺建立(正元元年(1259年))以前から「月影ヶ谷」に御座し、江戸時代に稲村ケ崎小学校の奥の西ヶ谷(現在地)に遷されたといいます。

「月影ヶ谷」は鎌倉時代中期に成立し、中世三大紀行文のひとつに数えられる『十六夜日記』(いざよいにっき)ゆかりの地です。
『十六夜日記』は藤原為家の側室・阿仏尼によって書かれた名作です。

藤原為家(1198-1275年)は、歌道の本流ともいわれる御子左家(みこひだりけ)・藤原定家の嫡男として生まれ、鞠道や歌道の大家として名を馳せ、政治的手腕も備えていたため、後嵯峨院のもとで正二位・権大納言までのぼりました。

阿仏尼(あぶつに、1222?-1283年)は、平維茂の子孫である奥山度繁の娘ないし養女で、後堀河帝の准母・安嘉門院(邦子内親王)に仕え、失恋の失意から一旦尼となりましたが、30歳の頃藤原為家の側室となり、冷泉為相を産みました。

為家の没後、播磨国細川荘(現・兵庫県三木市)の相続をめぐって正妻の子二条為氏と争い、弘安二年(1279年)幕府に訴えるため鎌倉へ下りました。
鎌倉下向時のことどもを紀行として著したのが『十六夜日記』です。

阿仏尼は当時の女流文人にはめずらしく紀行文をものしたこと、領地返還の訴訟をおこしたことなどから、かなり現実的な行動をする女性とみられています。

『十六夜日記』は当初無題で『阿仏日記』などと呼ばれていましたが、書き出しが10月16日であることから後世に『十六夜日記』と題されたといいます。

阿仏尼の訴訟は最終的に勝訴したといい、子の為相は冷泉家をおこして正二位・権中納言までのぼり、晩年は母親ゆかりの鎌倉にあって鎌倉歌壇を指導したといいます。

「鎌倉と(旧)鎌倉郡の歴史をたずねて」様によると、江ノ電「極楽寺」駅と「七里ヶ浜」駅の中間にある江ノ島車庫の南側の線路沿いに「阿陀邸旧蹟」があり、そこから西北に伸びる谷筋が「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)です。

弘安二年(1279年)(建治三年(1277年)とも)、訴訟のため京を発ち鎌倉へ下った阿仏尼は、翌年秋まで(数年間とも)「月影ヶ谷」に滞在したと伝わります。



「月影ヶ谷」という風流な地名は、『十六夜日記』に「すむところは月影の谷」と記されているゆえんともいいます。

 東にてすむ所は月影の谷とぞいふなる、浦近き山もとにて風いと荒し
 山寺の傍らなればのどかに凄くて 波の音松風絶えず

阿仏尼の没地は鎌倉ではないといいますが、英勝寺墓地の崖下には阿仏尼の墓と伝わる供養塔があります。

「鎌倉市中央図書館資料」(PDF)によると、近所の人は月影地蔵尊に「こどもがじょうぶに育ちますように。」とお祈りするそうですが、これは若くしてなくなった娘(露)を供養された月影地蔵尊の逸話によるものと思われます。

観光客もまばらな山際の目立たない地蔵堂ですが、鎌倉二十四地蔵霊場第21番の札所なので参拝者はそれなりにいると思われます。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
月影谷附阿佛屋敷
月影谷は、極楽寺の境内、西の方なり。昔は暦を作る者居住せしとなり。此所に阿佛屋敷あり。【十六夜日記】に、東にて住む所は月影谷とぞ云なる。浦近き山本にて、風いとあらし、山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風たへずとあり。
英勝寺の境内に阿佛屋敷と云有。彼こは葬たる所故に、阿佛卵塔屋敷と云有。
住し所は此谷なり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
月影の谷
此谷は極楽寺より西寄、阿佛尼の故居なり。
【十六夜日記】に、あつまにてすむ所は月影のやつとそいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし、山寺のかたはらなれはのとかにすこくて、浪の音松の風たへずと云々。
此日記は下向の時の紀行なり。此阿佛尼と申は定家卿の室にて、公達五人ましましける。
播磨の國細川の庄を為家卿よりゆすりおかれるを、為氏卿は他腹たるによりて横領し給ひしを、そしゆうのために鎌倉え下られける。
為相卿もちんぢやうのため、両人ともにかまくらにて死去せられし。
そしやうは為氏卿のかたへはつけらすとかや。
此阿佛は安嘉門院四條と申人なり。為相卿の母堂なり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
阿佛尼第蹟
月影谷にあり今阿佛屋鋪と唱へ陸田の寺に残れり
阿佛は為家の室にて為相の母なり
【十六夜日記】にも当所に在しと記せり
曰、東にて住む所は月影谷とぞ云なる浦近き山にて、風いとあらし、山寺の傍なればのどかに凄くて浪の音松風絶えず云々
母子ともに鎌倉に在て死せしと云ふ、今も扇ヶ谷村に為相の墓あり
又同村英勝寺域内に阿佛卵塔屋鋪と云あり是尼が葬地なり

■ 山内掲示(文学案内板)
鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相とのあいだにおこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。
その間のことを記したのが「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。鎌倉では月影ヶ谷に滞在した。

為家の没後、播磨国細川荘(現・兵庫県三木市)の相続をめぐって正妻の子二条為氏と争い、弘安二年(1279年)幕府に訴えるため鎌倉へ下りました。
「十六夜日記」には次のように記されている。
 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し、山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。


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江ノ電「極楽寺」駅から徒歩約5分。
導地蔵を通り過ぎ、北の山側に道なりにいくと稲村ヶ崎小学校があり、その先の小路を左に入り右に折れてすぐです。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 尊格碑

道が二股になるところ、数段高く置かれた参道の向こうに地蔵堂がみえます。
参道右手には「月影地蔵」の石標とそのおくに数基の墓石。
右手には数体の石仏が並び、そのうちのいずれかが露を祀った像とされています。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 地蔵堂

地蔵堂はおそらく寄棟造銅板葺で、前面に小屋根を置き軒下が向拝となっています。
向拝柱はなく、柱と見上げに「月影地蔵」の板と扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 尊格標

御内陣に御座す月影地蔵尊は木造の立像で、赤い衣を着て頭巾をかぶられています。
ふっしらとした面立ちでやさしい印象のお地蔵さまです。
「子供が丈夫に育ちますように」と祈願される地蔵尊で、堂内には千羽鶴が奉納されています。


御朱印は極楽寺でいただけますが、当然先にお参りしてからの拝受となります。


〔 月影地蔵堂の御朱印 〕




■ 鎌倉市の御朱印-22 (C.極楽寺口-5)へつづく。



【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-1)
■ シャ・ラ・ラ (1982年)


■ 海 (『人気者で行こう』1984年)


■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド (『KAMAKURA』(1985年))
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■ 鎌倉市の御朱印-20 (C.極楽寺口-3)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)から。


55.四条山 収玄寺(しゅうげんじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷2-15-12
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人・四条金吾夫妻(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:

収玄寺は、「龍口法難」ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

収玄寺は、鎌倉武士で日蓮聖人の有力檀越でもあった四条金吾頼基(1229-1296年)の屋敷跡に建てられたという日蓮宗寺院です。

四条金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。

鎌倉幕府第2代執権・北条義時公次男の朝時は名越(なごえ)氏を称し、朝時の嫡男、光時は江間氏を称しました。

寛元四年(1246年)第4代執権北条経時公が早世すると、光時は前将軍藤原頼経卿と共謀して新執権の時頼公を廃する謀反を企図して発覚しました。これを宮騒動といいます。
光時は義時公の孫であり、自身の出自に矜持を抱いていたといわれます。

しかし頼経・光時一派は敗北、光時は出家して降伏し、所領を没収されて伊豆國江間郷へ配流となり江間氏を称しました。

四条金吾は名越朝時、江間光時の執事だったといいます。

Wikipediaによると、四条金吾は建長五年(1253年)から日蓮聖人の説法に深く帰依し、文永八年(1271年)の龍口法難では日蓮聖人への殉死を覚悟したとも。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機を迎えましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れられたと伝わります。(龍口法難)

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

龍口法難の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受け、四条金吾は日朗上人とともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込められたと伝わります。

その後四条金吾は赦されて、現在の収玄寺にあったという屋敷に住み、主君江間光時に仕えていたといいます。(光則寺を四条金吾の屋敷跡とする資料もみられます。)

日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から四条金吾に送られ、門下に広められたとも。

日蓮宗Web資料には、甲斐身延の内船寺は四条金吾が建治三年(1277年)、内船の邸内に三間四面の持仏堂を建立したのが草創とあります。

同資料によると、四条金吾は夫婦そろって篤く日蓮聖人に帰依し、鎌倉では「法華宗の四条金吾」と名高く、常に日蓮聖人の庇護につとめていたと伝わります。
医薬の道にも通じ、主君江間光時の大病を平癒させた功によって身延内船の地を与えられたといいます。

日蓮聖人の晩年の看護もつとめ、日蓮聖人入滅後は内船に住んで身延の祖師の霊廟に仕えたといいます。
四条金吾は、これらの業績から日蓮聖人四大檀越の一人として数えられます。
なお、日蓮聖人四大檀越とは四条金吾、富木常忍、池上兄弟(宗仲、宗長)をさすようです。

正安二年(1300年)3月、71歳(文仁四年(1296年)、67歳とも)で没し、室の日眼女は嘉元元年(1303年)3月に亡くなり、夫妻の廟石はいまも内船寺山内にあって、夫妻の木像が寺宝として収蔵されています。


【写真 上(左)】 内船寺
【写真 下(右)】 内船寺の御首題

身延東谷の端場坊(はばのぼう)も四条金吾の開基といいます。

端場坊公式Webには、日蓮聖人佐渡御配流の折には、四条金吾みずからが佐渡を訪れたとあり、弘安三年(1280年)日蓮聖人のお側近くでお給仕するために庵を構えたのが創始とあります。

また、「(四条金吾)は日蓮聖人の主治医」とあり、「日蓮聖人の信頼もことに篤く『身のことは一切あなたにお任せし、他の薬は用いない』とまで仰せられました。」と掲載され、日蓮聖人の信任の篤さがうかがわれます。
日蓮聖人はまた、金吾夫婦の子を月満御前と命名されたともいいます。

御草庵と端場坊の位置関係


【写真 上(左)】 端場坊
【写真 下(右)】 端場坊の御首題

天保十二年(1841年)成立の『新編相模國風土記稿』の「四條金吾頼基宅蹟」條には「今田畝となる」(=寺院はない)とありますが、複数の資料に収玄庵創立は文永年間(1818-1830年)と考えられるとあるので、ぎりぎりで掲載が間に合わなかったのでは。

文永年間(1818-1830年)に妙詣尼が四条金吾の法名・収玄院日頼上人から収玄庵と号した堂宇を建立、明治初頭の廃仏毀釈で荒廃しましたが、大正期に収玄寺住職を兼務していた光則寺の日慈上人が再建し、後に収玄寺と改めたといいます。

山内には東郷平八郎元帥揮毫の「四條金吾邸址」と刻まれた石碑が建ち、花の寺としても知られています。
レファレンス共同データベースには、この邸址碑に関して「東郷平八郎は日蓮宗の信者でした。」とあります。

また、府中市の日蓮宗聖将山東郷寺の公式Webによると、「法華経に説かれる『仏子』の自覚を以て信仰を続けられた元帥は、自らの没後に法華経の道場を建立することと、寺号を『東郷寺』とする事を承諾」され、東郷元帥を開基として誕生とあります。
収玄寺も東郷元帥となんらかのゆかりがあって、この邸址碑が建立されたものと思われます。

大寺が並ぶ長谷エリアでは地味な寺院ですが、日蓮聖人四大檀越ゆかりの聖地として、熱心な信者の巡拝先になっているのかもしれません。


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【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
四條金吾頼基宅蹟
入地に在り今田畝となる。頼基其父祖詳ならず、日蓮帰依の俗弟子たり
文永八年(1271年)九月日蓮既に擒となり由比濱に至り、童子熊王をして此由を頼基に告ぐ、頼基兄弟四人徒跣して馳到り、日蓮に謁し其場にて自殺せんと契約す(中略)
日朗も師と同罪たらんと望けれども、是も許されず、遂に頼基日朗等六人宿屋光則に預られ、土牢に入らる(中略)
十年(1273年)閏五月赦免あり 按ずるに是月日朗赦免あり、さては頼基等も赦免ありしなるべし今推考して記す
是より又当所に還住せしや、事蹟の伝ふるものなければ詳ならず

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
四条山収玄寺と号する。日蓮宗。もと光則寺末。
開山、未詳。
本尊、日蓮聖人・四条金吾夫妻
境内地131.16坪
本堂・庫裏・門あり
『(新編相模國)風土記稿』には、四条金吾頼基宅蹟として、今田畝となるとある。
もと妙詣尼のたてた収玄庵というお堂があったのを、大正十二年光則寺の三十一世日慈が本堂を再建、戦後寺としたという。

■ 山内掲示
四條金吾頼基公(北條氏の一族、江間光時の臣)
鎌倉時代 1229年(寛喜元年)生 - 1296年(文仁四年)没 67歳
宗祖日蓮聖人に篤く帰依し、聖人四大法難の一つである1271年(文永八年)の龍口法難の際には、殉死の覚悟を決して日蓮に随従した鎌倉武士、四條金吾頼基の屋敷跡。
聖人四大檀越の一人とされる。金吾の滅後、「捨身護法」「法華色読」の霊地として一寺が建立されたものである。文永年間(1818-1830年)の創立。
当所収玄庵と称したが、大正初期の本堂改築を機に寺号も収玄寺と改称した。


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江ノ電「長谷」駅から長谷寺~鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットで、収玄寺はそのメインロードに面していますが参詣者はさほど多くないのでは。

ただし、古民家カフェ「蕪珈琲」(カブラコーヒー)が山内にあるので、こちら目当てで参内する人はそれなりにいるかと思います。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号板

県道に面して青銅葺の屋根を置いた冠木門を置き、門柱には寺号板、門の右手にお題目碑。
この冠木門がけっこう威圧的(?)で、観光客の乱入(笑)を防いでいる感じがあります。

門の左手奥に建つ「四條金吾邸址」の石碑は東郷平八郎元帥の揮毫になるもの。
別に「四條金吾屋鋪」の石碑もあります。


【写真 上(左)】 お題目碑
【写真 下(右)】 東郷平八郎元帥揮毫の邸址碑


【写真 上(左)】 「四條金吾屋鋪」の石碑
【写真 下(右)】 山内

山内はこぢんまりとしていますが、緑濃く落ち着いた風情があります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 庵号扁額

青銅板本瓦棒葺の本堂は、おそらく宝形造流れ向拝と思われます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、桟扉の上に庵号の扁額を掲げています。
シンプルシックに整ったいい向拝です。


庫裏にて御首題と御朱印を授与いただきました。


〔 収玄寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


56.御霊神社(ごりょうじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市坂の下3-17
主祭神:鎌倉権五郎景政公
旧社格:村社、坂ノ下区鎮守
元別当:成就院(鎌倉市極楽寺、真言宗大覚寺末)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(福禄寿)

御霊神社は権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)とも呼ばれます。
紫陽花の名所で、花の時季には多くの参拝客で賑わいます。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

神奈川県神社庁Webによると、当社の御祭神は鎌倉権五郎景政(景正)公で、平安末期には存立していたものと掲載されています。

しかし、『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』『新編相模國風土記稿』などにはそれぞれ異説が掲載され、複雑な由緒をもたれる可能性があります。
それぞれの掲載概要は以下のとおりです。

『新編鎌倉志』
社号:御霊宮
御祭神:鎌倉権五郎景政
勧請・御遷座関連:梶原村の御霊宮を当地にも勧請

『鎌倉攬勝考』(「五霊ノ社」の項)
社号:五霊ノ社
御祭神:権五郎景政と【保元物語】にあるが「其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。」
勧請・御遷座関連:もと梶原村にあり当地に勧請

『鎌倉攬勝考』(「葛原岡」の項)
社号・称号:葛原の宮、御霊の社、くづはらの御霊社、御霊権現
御祭神:葛原親王
勧請・御遷座関連:もとは葛原岡に御鎮座、後梶原村へ遷して後、鎌倉権八郎景経の代に権五郎景政の霊を御霊社に合祀し、景政公を配祀。

『新編相模國風土記稿』
社号:御霊社、五霊社、五流宮
御祭神:鎌倉権五郎景政公(村岡五郎忠通の霊を祀る、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇む)
勧請・御遷座関連:葛原岡及び梶原村にも古昔此社あり
「(葛原)親王氏神に崇め奉り」「梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり」「鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れり(中略)景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」

上記すべての説を包摂すると、
葛原岡葛原の宮(御霊の社)→ 梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)ということになります。

資料掲載の御祭神は
・葛原親王(786-853年) 桓武天皇の皇子。桓武平氏の祖。
・村岡(平)五郎忠通公(1000年前後?) 伝・三浦氏・鎌倉氏の祖。
・村岡忠通公の五子 (大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉各氏「関東平氏五家」の祖)
・鎌倉権五郎景政公(1069年-)

鎌倉各氏「関東平氏五家」の系譜は諸説あって錯綜気味につきここでは触れませんが、鎌倉氏を桓武平氏とすると、いずれも鎌倉氏の系譜に連なる人物となります。

『鎌倉攬勝考』では葛原岡→梶原村→坂ノ下説をとり、御祭神葛原親王の御霊社に鎌倉権五郎景政公を合祀(配祀)と力説しています。

一方、『新編相模國風土記稿』では、葛原岡、梶原村にも(御霊)社ありと云うと記すものの、「景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」として、坂ノ下御霊社は古くからあり、御祭神は鎌倉権五郎景政公という説を展開しています。

『神奈川県神社誌』および境内掲示では、当地に大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家の先祖を祀る五霊神社が建てられ、いつしか祭神も景政公一柱になったとしています。

『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)では、上記の各説を紹介しつつ、当社は鎌倉幕府成立以前からの旧社とし、「各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。」と記してまとめています。

『鎌倉市史 社寺編』ではこのようなあいまいともとれる書きぶりは少なく、御霊神社の創祀沿革がそれだけ辿りにくいことを物語っています。

なお、梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)の論拠として、当社祭礼に梶原村御霊社の神主が出合して神事を修すということがあるようです。


【写真 上(左)】 (梶原)御霊神社
【写真 下(右)】 同御朱印

現在の主祭神である鎌倉権五郎景政公は、景正公とも記され、平安時代後期の武将です。
16歳の頃、後三年の役(1083-1087年)に従軍し、金沢の柵で敵に片目を射られながらも矢を抜くこともなく、答の矢を放って敵を倒した武勇の士として広く知られています。

景政公は陣に戻り兜をぬいで「景政手負いたり」と発して倒れました。
味方の三浦の平太為次という武士が景政公の眼の矢を抜こうと軍靴をはいたまま景政公の面部に足をかけると、景政公は「弓矢に当り死するは武士の本望。しかれど土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と、刀を構えてその無礼を叱咤したといいます。
為次は無礼を詫び、膝で丁寧に面部を押さえて矢を抜き、一命をとりとめた景政公の功名はいよいよ高まったといい、鎌倉武士の鑑として崇められるようにもなりました。

したがって、御霊神社の主祭神が景政公であることは、諸人に違和感なく受け入れられ、実際のちの幕府や武士を中心に篤い尊崇を受けたといいます。
また、眼の病に霊験あらたかといい、坂ノ下の鎮守ということもあって、庶民からも「権五郎さま」と呼ばれて尊崇を集め現在に至ります。

例祭は、景政公のご命日である9月18日に催され、「面掛(めんかけ)行列」とも「はらみっと」とも呼ばれる奇妙な行列が出ます。
もとは鶴岡八幡宮の神幸に出ていたものが、明治になって御霊神社にうつされました。
舞楽や田楽の流れを汲むとされる十面のグロテスクな面をかぶった行列が練り歩くもので、県の無形文化財に指定されています。

このなかに福禄寿の面があり、普段は宝蔵庫に祀られているため、こちらは鎌倉・江ノ島七福神の福禄寿の札所となっています。

元別当は極楽寺村の普明山成就院(古義真言宗大覚寺末)、明治に旧村社に列格しています。

長谷~極楽寺に向かう散策コースに位置し、江ノ電や紫陽花の撮影スポットとして知られ、鎌倉・江ノ島七福神の札所でもあることから参拝客の多い神社です。

境内社の石上神社は、海難防除の霊験で知られているようです。

資料に創祀として記されている葛原親王について、すこしく調べてみました。
Wikipediaによると、葛原親王(786-853年、かずらわらしんのう)は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖とされます。
式部卿、大宰帥などを歴任され、天長八年(831年)には一品(律令制で皇親に対して叙せられる最も高い品位)に叙せられています。

承和二年(835年)に甲斐国巨麻郡(現・山梨県南アルプス市)の牧を領されていますが、関東下向の正式な記録は確認されていないようです。

『六国史』で、政務に熟達し朝廷で重んじられていたと記されている葛原親王が、東国に下向されたとは考えにくいですが、じつは神奈川県内には葛原親王ゆかりの地がいくつか伝わります。

ひとつは、横浜市栄区公田町にある上臈塚です。
この塚は、葛原親王の妃・照玉姫を弔う塚と伝わります。
Wikipediaによると、葛原親王は朝廷の争いの多い京都を離れ、妃の照玉姫と共に旅に出られたものの、照玉姫は公田の地で病気にかかり進めなくなったため公田の地に滞留されました。
姫は一旦回復され里の人々から慕われていたものの、天長元年(824年)に再び病を発してこの地で没したといいます。
里の人々は塚を建て照玉姫とふたりの侍女(相模の局・大和の局)を弔ったといいます。

文禄元年(1592年)、旅の僧・信永は照玉姫の遺徳に感じ、読経供養をしたうえで塚の近くに祠を建てたのが皇女御前神社の前身ともいいます。
「猫の足あと」様の皇女御前神社の記事に詳細が紹介されています。

藤沢市北部の「葛原」も葛原親王ゆかりの地といいます。
藤沢市Web等によると、葛原の名は、この地に葛原親王の御所(垂木御所(たるきのごしょ))があり「高倉郡葛原村」となったという説や、葛原親王の子孫・垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望が、平安時代この地の領主となったという説があるようです。
この地に御鎮座の皇子大神は、葛原親王と素盞嗚尊を御祭神としています。

上記のとおり、鎌倉の葛原岡も葛原親王ゆかりの地とされ、この地に御鎮座とされる葛原の宮(御霊の社)の御祭神は葛原親王とも伝わります。
上臈塚(横浜市栄区公田町)は鎌倉の北東、「葛原」は鎌倉の北西に位置することからも、葛原親王と鎌倉は何らかのゆかりがあったのかもしれません。

なお現在、葛原岡には葛原岡神社が御鎮座されますが、こちらの御祭神は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿です。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
御霊宮
長谷村より西南の方にあり。鎌倉権五郎景政が祠なり。景政が事、【奥羽軍記】に詳になり。【東鏡】に、建久五年(1194年)正月、御霊社御奉弊、八田知家御使たり。御霊社の事往々見たり。
【保元物語】に、後三年の御合戦に、鳥海城を落されし時、生年十六歳にて、右の眼をいさせて、其矢を不抜して答の矢を射て敵を打、名を後代に揚、今は神といははれたる、鎌倉権五郎景政と有。
神主は、小坂氏なり。景政が家臣の末也と云ふ。
梶原村にも、御霊宮あり。里老云、当社は、本梶原村に有しを、後に此地にも勧請す。故に今祭礼の時は、彼所の神主合て勤と也。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
五霊ノ社
長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別当は極楽寺村にて、普明山成就院、古義真言宗、同國手廣村青蓮寺末なり。例祭九月十八日、権五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の称する社号なり。
されど其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。合せ見るべし。(中略)
当社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勧請しける。祭礼の時は、梶原村より神主出合して神事を修す。
神主小坂氏も。景政か家従の末孫といふ。されは古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事にりしと、里老語れりといふ。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
葛原岡
(前略)
むかし梶原景時が先祖、鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは名もなき葦はらにて有しが、権守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも御霊の社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱を替てくづはらの御霊社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人称しれけば、竟に地名とは成にける。
其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御霊の社とのみ唱ふ。
されば社号は御霊権現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。
又其後、鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりといふ。
是平氏の祖神なり。然るを、御霊の社といへば、権五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御霊社へ景政を配しまつれる事をしるべし。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
御霊社
鎌倉権五郎景政公が霊を祀ると云ふ。土人は五霊社と唱ふ
按ずるに此神主小池氏の𦾔記に拠るに、桓武天皇の後胤、平良兼四世の孫を、村岡五郎忠通と云ふ、忠通五人の子あり、一男為通、二男景成、三男景村、四男景通、五男景政と号し、五人五家に別る
忠通卒して、五家々門栄盛の為に、鎌倉に一宇を草創して、忠通の霊を祀る、故に五流宮と唱へ、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇むとなり、土人の五霊と唱るは、此によれり

又扇谷葛原岡、及び梶原村にも、古昔此社ありと云ふ、葛原岡の里老の話に、昔梶原景時が先祖鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しける頃、此葛原カ岡も、梶原村の地にして、其頃迄し名もなき軍原にて有しが、権守景成は桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王菅氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも、御霊社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり、文字は同じけれど、唱を替て、くつは方の御霊社と申せしなり
梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり

又其後鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりと云へど、今葛原岡・梶原村共に其蹤を伝へず、且神主の𦾔記、里老の口碑、其拠どころ無に非ざれど、【保元物語】を閲するに、義朝白河殿夜討の條に、大橋平太、同三郎懸出名のりけるは、御先祖八幡殿、後三年の御合戦に、鳥海城を落とされし時、生年十六歳にて、右の眼を射させ、其矢を抜ずして、答の矢に敵を射て、名を後代に揚ぐ、今は神といはれたる、鎌倉権五郎景政口、五代の末葉にて候云々、と見ゆれば、景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし

景政は奥州の役に義家に従ひ、敵に左の眼を射られしが遂に其矢を抜かずして其敵を討て高名を顕はす
故に眼を患る者此社に祈誓するは往々其験ありと伝ふ
【海道記】にも当社の名見えたり(中略)
別当は極楽寺村成就院なり 神主は鶴岡の小池新大夫兼職す(中略)
末社 石上 金比羅 地神
稲荷社 極楽寺村成就院持

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 鎌倉権五郎景政公
境内社 石神神社 地神社 金刀比羅社 秋葉神社 祖霊社 稲荷社
社殿 本殿 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風向拝付)以上権現造瓦葺 三棟一宇
境内坪数 639.22坪

由緒沿革
当社の創立については詳らかではないが、御霊信仰の思想と鎌倉地方開発の跡を考えあわすと、平安末期には存在していたものと思われる。
祭神・鎌倉権五郎景政公は桓武天皇の子孫で平氏一門であるが、当時関東には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家があって、これら先祖を祀る神社として五霊神社が建てられ、その五霊が御霊にかわり、いつしか祭神も景政公一柱になったものと考えられる。

権五郎景政公の事は『奥州後三年記』(南北朝時代に書かれた絵巻物)書かれて居り、その武勇、廉恥の物語は有名である。景政公の領地は大庭の御厨(現在の藤沢市鵠沼あたり)を中心にして、その飛地は坂ノ下から長谷の一部にまで及び、当社の祭神が景政公一柱になったのも当地の領主であったからであろうと思われる。
鎌倉時代には幕府の崇敬も厚く、『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の条には、御社殿が鳴動して頼朝の参詣があり、願書を奉納し、巫子等面々に賜物があったという。(中略)
現在の社殿は明治四十五年改築されたものである。(中略)
別当は成就院であった事が『相模風土記』に見える。元村社で坂ノ下区の氏神社である。
(以下略)

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
御霊神社
祭神、鎌倉権五郎景政。
例祭九月十八日。
元村社。坂ノ下の鎮守。
境内地639.98坪
本殿・幣殿・拝殿
境内無格社石上神社・末社四(地主神、金刀比羅、秋葉・祖霊)
勧請年月未詳。鎌倉幕府成立以前からの旧社としてよいであろう。
境内の石上神社は堅石一箇あり、もとこの石は由比ヶ浜の沖にあった。
毎年溺死するものが多かったが、寛政三年(1791年)九月の或夜、海面が光り輝いたので、村民挙ってこの石を引上げ、石上神社に奉納した。それ以来ここで溺死するものがなくなったと伝えている。
もと極楽寺の成就院持。

『新編鎌倉志』は、御霊宮を「鎌倉権五郎景政ノ祠ナリ」とし「梶原村ニモ、御霊宮アリ。里老云、当社ハ、本梶原村ニ有シヲ、後ニ此地ニモ勧請す。故ニ今祭礼ノ時ハ、彼所ノ神主合テ勤ト也」といっている。
『鎌倉攬勝考』五霊ノ社の項では、祭神を景政とすることは誤りとし、葛原岡の項では、里老の話により、祭神は葛原親王で、景政を合祀したとする。
『風土記稿』所引の神主小池氏の『旧記』には村岡五郎忠通を祭り、忠通の子五人も合祀したといい、五流宮といったのを土地のものは五霊社というと書いている。
また『鎌倉攬勝考』は鎌倉権守景成がいまの葛原ヶ岡に先祖葛原親王をまつり、葛原の宮とも、御霊社とも称した。後それを梶原村に移して御霊社と称し、その後鎌倉権八郎景経の代に景政を合祀した。といい、また『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の記事は梶原村の御霊社をさす。という里老の言を無批判にのせているが、これが梶原村としなければならぬ明証はなく(中略)この説に従うことはできない。

各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。

■ 境内掲示
鎌倉・江の島七福神 面掛福禄寿 御霊神社
御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として御霊神社が建てられこれが御霊神社となり祭神●、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。
この権五郎景政公の命日が九月十八日でこの例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です。此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。

■ 境内掲示(鎌倉市)(抜粋)
御霊とは、強く尊い祖先の御霊(みたま)の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景正(ママ)を祀っています。
景政は、後三年の役(一〇八三年〜)に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。
毎年九月に行われる「面掛行列」は、伎楽や舞楽、田楽などの古い面をつけた面掛衆が練り歩く珍しい祭事です。


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長谷の収玄寺脇から極楽寺方向へ向かう小路は「御霊小路」と呼ばれます。
観光客はそれなりにいるものの、長谷大仏前の雑踏から逃れてほっとする道です。


【写真 上(左)】 御霊小路
【写真 下(右)】 御霊小路の碑


【写真 上(左)】 案内板-1
【写真 下(右)】 案内板-2

南側に江ノ電の踏切があり、境内はこの踏切に面し、線路脇には紫陽花が咲くという撮り鉄や花の写真愛好家には絶好の撮影スポットとなっています。


【写真 上(左)】 鎌倉源五郎神社の社号標
【写真 下(右)】 踏切下からの参道

しかしながら、あまりにカメラマンが殺到して危険なためか、一部の紫陽花は現在鉢植えとなっている模様です。(Web情報)
また、境内は現在撮影禁止となっています。


【写真 上(左)】 踏切と鳥居
【写真 下(右)】 鳥居と江ノ電


【写真 上(左)】 社頭の桜
【写真 下(右)】 境内撮影です

筆者は撮影禁止前に境内の撮影をしていますが、なぜかあまり枚数を撮っておらず境内の様子もはっきりしないので、境内の詳細な紹介は控えます。

また、写真についても境外の数枚の写真掲載にとどめます。

おそらく踏切手前から参道になっており、遮断機のすぐ向こうに石造の明神鳥居。
江ノ電は単線ながら本数が多いので、参拝中少なくとも1本は江ノ電を見れると思います。

かながわ名木100選のタブノキや樹齢約四百年の夫婦銀杏が茂り、緑濃い境内。
鳥居をくぐって左手に社号標。右手に手水舎と授与所。

正面は参道で基壇の上に石灯籠一対、石段を登ると正面が入母屋造銅板葺流れ向拝の拝殿です。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。

たしか拝殿向かって右手の宝蔵庫前には鎌倉・江ノ島七福神の幟が立ち、福禄寿の札所となっています。


御朱印は境内右手の授与所で授与されており、鎌倉・江ノ島七福神の御朱印も拝受できます。
江ノ電とマスコットのおネコちゃんをモチーフとした、人気のオリジナル御朱印帳も頒布されています。


〔 御霊神社の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 社号の御朱印
【写真 下(右)】 御祭神の御朱印


御朱印帳


■ 鎌倉市の御朱印-21 (C.極楽寺口-4)へつづく。



【 BGM 】
■ Christopher Cross - Sailing


■ Whitney Houston - Where You Are


■ James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-0(導入編)

この記事、アクセスしにくくなっていたのでアゲてみます。

なお、現在、札所0番の愛鷹山 三明寺(さんみょうじ)様(沼津市大岡4051)が実質的な事務局対応(専用納経帳の頒布など)をされていますので、発願にトライされる方はまずはこちらの参拝をおすすめします。
→ 詳細はこちら

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2022/02/13に記事は一応完結していますが、札所の追加・変更があったのでリニューアルUPします。


伊豆八十八ヶ所霊場は、江戸時代開創と伝わる伊豆全域に広がる弘法大師霊場です。
ながらく巡拝者は途絶えていたものとみられますが、昭和50年に伊豆霊場振興会が設立され復興が始まりました。

初番発願所は伊豆の国市四日町の長徳寺(以前は伊豆市田沢の嶺松院)、八十八番結願所は修禅寺および修禅寺奥の院。
全行程は460㎞で札所は伊豆半島全域に及びますが、とくに南伊豆町に多く立地しています。

この霊場の巡拝ガイドブック『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(監修:伊豆霊場振興会)を参考に、歴史をたどってみます。

伊豆八十八ヶ所霊場は、江戸時代から明治初期にかけて多くの巡拝者を迎えたとみられる歴史ある霊場です。
伊豆には弘法大師の逸話が多く伝わります。
弘法大師が唐に渡られる前後14年の間に訪れた「桂山の山寺」は修禅寺であったともいわれ、この地で弘法大師霊場が隆盛する素地は、往古からすでにあったとみることができます。

結願所の修禅寺(福地山修禅萬安禅寺)は、大同二年(807年)弘法大師による開創と伝わり、その後約470年間は真言宗寺院として栄えました。
鎌倉時代、中国から蘭渓道隆禅師が入山して臨済宗に改宗。
さらに室町時代の応永九年(1489年)には、韮山城主北条早雲が遠州から隆渓繁紹禅師を招いて曹洞宗に改宗しています。

修禅寺の影響が強いとみられるこの霊場では、当初真言宗で、のちに禅宗に改めた寺院が多くあります。
禅宗メインでありながら御本尊は多彩で、札所によっては密寺の雰囲気を色濃く残していることも、この霊場の個性であり魅力であるかと思います。

昭和に入って霊場は衰退し無住の札所も増えましたが、昭和40年代頃、伊豆在住の田上東平氏が第28番札所「大江院」に霊場の納経帳が残されていることを知り、昭和50年に伊豆霊場振興会を設立されて霊場の復興が始まりました。

田上氏は第6番札所「金剛寺」でも明治22年の日付の木版を発見、平成に入って第21番「龍澤寺」で天保十五年(1844年)と彫られた巡拝祈念碑がみつかり、少なくとも江戸時代には巡拝されていたという裏付けがなされました。

温泉地や観光地にある札所も多く、公式WebもUPされ、このところの御朱印ブームもあって近年、巡拝者が増えている模様。

~ 江戸時代より巡礼されていた伊豆八十八ヶ所霊場 長い沈黙から 今、まさに蘇る ~
(巡拝ガイド表紙より)

さらに2021年6月、伊豆八十八ヶ所霊場を熱海を起点として回る「熱海御朱印物語」が企画され、詳細なガイドが紹介されています。

「神社仏閣に参拝した証に頂くのが『御朱印』で、お遍路の様に、お経を納める事で頂くのが『納経印』と言います。御朱印という姿形は一緒でも意味は違います。まずは気軽に『御朱印』を集めながら、伊豆半島を楽しんでみませんか。」(同Webより)という趣意で、「御朱印」を納経や読経から切り離し、参加者を広げようという試みは賛否両論あるのかもしれませんが、時代に見合ったかたちなのかもしれません。(→ リリース紹介の記事

巡拝はマイカー利用が楽ですが、伊豆半島全域をカバーしている東海バスで、公共交通機関を利用した巡拝コースが設定されています。
〔 東海バスのパンフ掲載地図 〕
※ 一部現況と異なる内容があります。


〔 札所一覧 〕
※ 一部現況と異なる内容あり。追って修正します。



2020年秋、数年がかりで結願しましたので、拝受した御朱印をご紹介します。
この霊場はほぼ2巡しており、専用納経帳のほか、ほとんどの札所で書入・印判の御朱印をいただいていますので両方ご紹介します。

伊豆八十八ヶ所霊場の専用納経帳は、デフォルトで揮毫の札所本尊、山号寺号などの揮毫が印刷されており、これに主印(三寶印、御寶印)と札所印、寺院印などの捺印をいただいて完成します。
ご不在の場合でも堂内に印が備えてあればセルフで捺印し、完成することができます。

霊場振興会では専用納経帳での巡拝を推奨されている模様で(詳細は→こちら)、専用納経帳巡拝の場合、印があるところは自分で捺せ、ご不在の場合、条件によっては後日授与対応していただけるので、御朱印をコンプリートされたい向きには専用納経帳がおすすめです。

筆者は専用納経帳を松崎で入手し、修善寺でも入手できる可能性がありますが、確実に入手するには通販での購入をおすすめします。(詳細は→こちら)、


【写真 上(左)】 霊場ガイド-1
【写真 下(右)】 霊場ガイド-2


【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 専用納経帳


【写真 上(左)】 パンフ類
【写真 下(右)】 チラシ

また、伊豆には伊豆横道(よこどお)三十三観音霊場という観音霊場もあります。
こちらは、伊豆に流されていた源頼朝公が源氏再興を決意し、その成就を祈りつつ「三十三観音」を巡ったのが始まりと伝わる古い霊場です。
いくつかの札所は伊豆八十八ヶ所と重複していますので、こちらについても御朱印をご紹介します。
また、札所で拝受したその他の御朱印についても併せてご紹介していきます。

せっかくなので、伊豆半島の霊場・札所について、その概要をみてみます。

【伊豆半島と霊場・札所】
伊豆半島は人口密度が高く、寺院も多かったためか複数の霊場が開創されています。
口伊豆(三島・沼津)方面では駿河一国観音霊場(駿河三十三観音)が現役。
古い霊場では御厨観音横道札所、駿豆両国横道三十三観音霊場、また、静岡梅花観音霊場、駿河一国百地蔵尊霊場などの札所も点在し、一部札所で御朱印を授与されています。
中伊豆には伊豆中道三十三観音霊場、中伊豆観音札所、伊豆長岡温泉七福神、伊豆天城七福神などの札所があり、こちらも一部ですが御朱印が授与されています。

西・南・東伊豆では、現役霊場として伊豆横道三十三観音霊場、円覚寺百観音霊場、伊豆国(下田南伊豆)七福神、稲取八ヶ寺めぐり、伊東温泉七福神などがあり、多くの札所で御朱印が授与されています。
とくに稲取や松崎エリアは御朱印にちなんだ観光振興に積極的で、御朱印関連イベントがしばしば企画されている模様。

〔稲取・松崎の御朱印企画のパンフ〕


現況不明の霊場に、熱海三弘法大師霊場、伊豆二十一ヶ所霊場、熱海六観音霊場、伊豆伊東六阿弥陀霊場などがあり、熱海三弘法大師霊場と熱海六観音霊場の札所はだいたい伊豆八十八ヶ所と重複していますが、伊豆二十一ヶ所霊場と伊豆伊東六阿弥陀霊場は伊東市内の地域霊場的な性格で、伊豆八十八ヶ所との札所重複は少なくなっています。

伊豆は日蓮宗・法華宗寺院も多く、多くの寺院で御首題あるいは御朱印を授与されています。

伊豆は、御朱印授与神社は比較的少ないエリアですが、それでも↑のとおり授与寺院多数で目移りします。
とくに南伊豆は東京方面からの交通の便がよくないので、せっかく来たのだからと、ついつい無理をしがちです。
しかし、伊豆八十八ヶ所霊場の巡拝じたいがかなりハードなので、他札所御朱印も一気にゲットとなるとおそらく時間切れ再訪という状況に陥ります(笑)

伊豆八十八ヶ所霊場の札所はしみじみと落ち着いたいいお寺さまが多いので、ここは欲張らずに八十八ヶ所に的を絞って回るのがベターかもしれません。

無住のお寺も多くなかなか手ごわいですが、伊豆の温泉めぐりと併せ、数年がかりでじっくり回っていくのも面白いかと思います。
なお、温泉レポをUPしているお湯については、適宜リンクを貼るかたちでこちらもご案内していきます。(休業中・廃業の施設を含みます。ご注意願います。)

ボリュームがあるので、時間をかけて連載でUPしていきます。

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第0番 愛鷹山 三明寺(沼津市大岡)
(旧)第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第1番 瑞応山 長徳寺(伊豆の国市四日町)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12
(旧)第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)



【 BGM 】
■ by your side - Wise feat. Nishino Kana


■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子


■ SWEET MEMORIES 松田 聖子
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■ 鎌倉市の御朱印-19 (C.極楽寺口-2)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)から。


53.行時山 光則寺(こうそくじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷3-9-7
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:山王社(長谷)
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第33番

光則寺は、日蓮聖人、日朗上人ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

文応元年(1260年)7月、日蓮聖人は『立正安国論』を幕臣の宿屋光則を通じて前執権北条時頼に提出しました。
しかし、この論は幕府に異見するものとされ、他宗からも反感を買い、日蓮聖人は数々の法難を受けられました。

「龍口(たつのくち)法難」もそのひとつです。
Wikipediaを参考にその経緯を追ってみます。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機となりましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れたと伝わります。

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

「龍口法難」の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受けました。
日朗上人(1245-1320年)は下総國海上郡能手郷に生まれたといい、父は平賀氏(平賀有国)、母は姓印東氏と伝わります。
建長六年(1254年)に鎌倉松葉ヶ谷で日蓮聖人の弟子となったといいます。
日蓮六老僧の一人で筑後房、大国阿闍梨とも称され、日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖となりました。

文永八年(1271年)の「龍口法難」の際には、日蓮上人の有力檀越・四条金吾頼基らとともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込みとなりました。

四條金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。
日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から頼基に送られ、門下に広められたとも。
屋敷は光則寺のそば、長谷の収玄寺にあったといい、法名を収玄院日頼上人といいます。

なお、光則寺を四條金吾の屋敷跡とする資料もみられます。

宿屋光則(やどやみつのり)は、北条得宗家の被官で鎌倉幕府5代執権・北条時頼の家臣でした。
『吾妻鏡』(弘長3年11月22日條)は、時頼の臨終の際に看病を許された得宗被官7人の一人に挙げているので、時頼側近とみられます。
文応元年(1260年)7月、日蓮聖人の『立正安国論』は光則を経て時頼に提出されたといいい、日蓮聖人は『立正安国論』を光則邸(現・光則寺)で光則に委ねたともいいます。

「龍口法難」の際には日朗上人、四条金吾頼基らを自邸裏山の土牢に押し込みましたが、次第に日蓮聖人の教えに感化し、のちに自邸を日朗聖人を開山として寺となし、光則寺と号しました。

『新編相模國風土記稿』には、日朗上人が獄卒に訴え度々土牢を抜け出し佐渡の日蓮聖人のもとに向かったとありますが、主人の許可を得ずして獄卒が因人を逃すとは考えにくいので、光則は日朗上人の佐渡出向を許したか、あるいは黙認していたとみられます。

なお、日蓮聖人の佐渡配流赦免状も日朗上人がもたらしたという説がありますが、異論もあるようです。

光則寺の開山は日蓮聖人の佐渡からのご帰還(文永十一年(1274年)3月)後とみられます。

江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺とも呼ばれます。

樹齢約150年のカイドウをはじめ花の寺として知られ、小田急沿線花の寺四季めぐり第33番の札所にもなっています。

境内には大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳もあります。
「歴史資料としての日蓮聖人遺文について」(小西日遶氏/PDF)等によると、大橋太郎通貞(貞経とも)は九州・豊後国の平家方の武将で、頼朝公の勘気を蒙り、領地を没収され鎌倉由比浜の土牢(光則寺山内の土牢?)に十二年間捕らえられていたといいます。

その妻は懐妊して豊後国(肥後国とも)におりましたが、無事男の子を産み落としました。

妻は夫は戦乱のなかすでに命を落としたと考え、夫の供養を子に託すため幼くして山寺に預けました。
子は昼夜に怠りなく法華経を読誦したので、ついに法華経一部を暗誦できるようになりました。

ある日その子は豊後を出て、鎌倉に至りました。
その子は八幡神の本地は霊山で法華経を説いた教主釈尊と信じ、父の生死を知る願いをかけつつ鶴岡八幡宮の宮前で法華経を誦したところ、読経の声は殿中に切々と響きわたり、
涙を流す人さえいたそうです。
ちょうど八幡宮を詣でていた頼朝公の奥方はその読経の声に尊さを感じ、その子を保護しました。

法華経を信じていた頼朝公は、その子を召し出して法華経の内で不審に思う経文について逐一尋ねたところ、その子はよどみなくこれに応えたそうです。
頼朝公は感じ入り、その子を持仏堂の読経僧としました。

ある日、囚人の首が切られると聞いてその子が涙を流したので、頼朝公がその理由を尋ねると、その子は自分は大橋太郎通貞の子で、父親は鎌倉で捕らえられているかもしれぬという懸念を話しました。

おりしも、その日に斬られることとなっていた囚人はかの大橋太郎通貞で、これを知った頼朝公は急ぎ梶原景時を刑場につかわして、刑の執行をとりやめました。
頼朝公は法華経の功徳に感じ入り、その子に様々な布施を与え、大橋太郎通貞にはもとの領地を安堵したといいます。

また、山内の稲荷社は鎮守で、建長四年(1252年)宿屋光則が上京の折、感得した木像の神躰を勧請して山内に建立と伝わります。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
光則寺は、行時山と号す。大佛へ行道左にあり。此所を宿屋とも云ふ。相伝ふ、平時頼家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりと。昔日蓮、龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾、父子四人、安國寺にて召捕て、光則に預け給ひ、土籠に入らる。日蓮不思議の奇瑞有て害を免る。因て光則信を起し、宅地に草庵を結び、日朗を開山祖とす。光則が父の名を行時と云。近年、古田兵衛少輔重恆が後室、大梅院再興す。故に今大梅寺とも云なり。堂に、日蓮・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像もあり。
妙本寺の末寺なり。
日朗土籠 寺の北の方、山上にあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
大佛へ行道の左の方、執権北條時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりといふ。昔日蓮上人、龍の口にて刑に臨首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子四人、安國寺にて召捕、光則に預け給ひ土牢に入らる。日蓮、不思議の奇瑞有て害を遁る。因て光則も信を起し、宅地を以て草庵とし、日朗を開山となし、光則が父の名を行時といふゆえ、父の名を山号とし、我名を寺号とす。
中古以来、古田兵衛少輔重恆が後室大梅院、再興すといふ。故に今は大梅寺とも号するよし。
堂内に、日蓮上人・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像も有。
妙本寺末なり。
日朗が土牢、寺の北の方なる山上にあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
光則寺
行時山と号す。法華宗大町妙本寺末
寺域はもともと北條時頼が臣宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり。故に今も域内ばかりを宿屋と号す。
昔日蓮龍の口にて刑に臨し時弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人を光則に預られ、
土の牢に入らる然るに日蓮不思議の奇瑞有て害を免れしかば是より光則深く渇仰し、宅地に一宇を営み、光則が父の名を行時と云ひしが故其名を山号とし、我名を寺号とし、日朗(元應二年(1320年)正月廿一日寂す)を開山始祖とすと云へり、其後、古田兵衛少輔重恒が室、堂宇を再興せり、故に或は大梅院とも唱ふ
本尊三寶を安ず 日蓮坐長一尺日法作の像あり(略)

稲荷社
境内の鎮守なり、愛敬稲荷と云ふ、縁起に拠るに往昔鍛冶宗近一條帝の勅により一振の劔を鍛し時、藤森の稲荷に祈誓しけるに神其懇誠を感じ、合鎚を助け給ひしとぞ、かくて其劔を捧げしに叡慮ありて宗近を賞し給ふ、かゝりしかば宗近崇敬の余り神躰を彫刻し、宅地に安じて合鎚稲荷と号しけり、其後建長四年(1252年)宿屋光則、北條時頼の旨を受け京に到て宗尊親王を迎まいらせし時我君守護の為宗近の劔を求けるに或夜此神霊童子に現じて一振の劔を授くと夢みしに覚て後枕上に小祠あり、開き見れば木像の神躰なり、光則奇異の思をなし鎌倉に帰り当社を造立せしと云ふ

開山堂
日朗・日眞、及四條金吾頼基、同左衛門・南條平七郎・中務三郎左衛門等の木像を置く

土牢
寺後の山上にあり文永八年(1271年)九月日蓮囚はれし時、日朗・日眞、及四條金吾頼基等四人を宿屋光則に預られ、此に繋累せらる(中略)かくて日蓮不思議の奇瑞ありて戮を宥められ、愛甲郡依智郷本間六郎左衛門重連が許にあり、十月三日依智より日朗等に書状を贈る(中略)同九日再窟中に離別の書翰を投ず 同九日、別送日朗状云日蓮波明日、佐渡國江罷也(中略)日朗窟中に在て吾師患難の惨に堪ず、獄吏に対ひ一度師の謫居を訪ひ再獄所に帰らん事を請けるに獄吏も其心の切なるに感じて是を許す、日朗殊に喜び潜に遁れ出て佐州の配所に至る事数度に及ぶ(中略)同十年(1273年)閏五月赦免あり
今窟内に日朗の像及び五輪塔あり
宿屋左衛門光則墓
寺後の山腹にあり 当時のものとは見えず 中古冥福のために建しなるべし、光則は北條時頼の臣なり

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
行時山光則寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日朗。開基、宿屋光則。
本尊、十界曼荼羅。
境内地1370坪
本堂・庫裏・山門等あり
寺伝に、宿屋光則は北条の被官、その父の名を行時といった。山号・寺号はこれによる。
文応元年(1264年)七月十六日、日蓮は立正安国論を宿屋光則の手を経て前執権時頼に上った。
光則は大覚禅師に参禅もしている。
文応八年(1271年)九月、日蓮佐渡に配流となったとき、日朗等を預って寺の後山にある土牢に入れた。後入信して宅を寺としたという。いまも寺のあるところを宿屋と呼んでいる。
江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺ともよぶという。
今の本堂は慶安三年(1650年)の建立と伝え、大震災後修理を加えた。
境内に大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳がある。

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 行時山光則寺
建立 文永11年(1274)頃
開山 日朗上人
開基 宿谷光則
『立正安国論』などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕らえられました。
やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。
境内の裏山には日朗上人が捕らえられていたと伝わる土牢が残っています。
境内には法華教の信者だった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩碑があり、樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。

■ 山内掲示(日朗上人の土の牢)
文永十一年(1274年)頃に建立された光則寺は、もともとは北条時頼の側近・宿屋光則の屋敷であったが、日蓮聖人が佐渡へ流された時、高弟・日朗上人も捕らえられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。
その後、光則は次第に日蓮聖人に帰依し、日蓮赦免後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。
この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。


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江ノ電「長谷」駅から鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットです。
しかし観光客が向かうのは鎌倉大仏が長谷観音(長谷寺)で、鎌倉大仏と長谷観音のあいだに位置する光則寺へ向かう人は多くはありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 霊跡碑-1

「長谷観音前」交差点の1つ北側の信号から、西側の山寄りに向かって参道が伸びています。
参道入口に「日蓮聖人 立正安国論 上書 霊跡」の碑が建っています。


【写真 上(左)】 霊跡碑-2
【写真 下(右)】 宿屋氏邸址碑

数百mの長い参道で、光則寺の山内の懐は、南の長谷寺よりもふかくなっています。
参道途中に「日蓮聖人立正安國論進献霊跡」の碑とお題目碑。
また、「宿谷左衛門 宿屋?光則 邸址」の石碑も建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門上部
【写真 下(右)】 山門扁額

さらに進むとやや開けて門柱があり、左右の門柱は山号・寺号の標となっています。
古木の先にある山門は、切妻屋根青銅本瓦棒葺でおそらく四脚門。
朱塗りで上部に精緻な龍つきの本蟇股を設え、「宿谷」の扁額を掲げています。
山門脇には「日蓮聖人 第七百遠忌報恩」の石碑。


【写真 上(左)】 遠忌報恩碑
【写真 下(右)】 山内-1

山門をくぐった山内は緑濃く、背後に山肌をみせて趣があります。
数基の石碑の向こうに本堂が見えます。


【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝正面桟唐戸のうえに「師孝第一」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 日朗上人土牢への石段
【写真 下(右)】 土牢

本堂向かって右手の階段のうえに日朗上人の土牢があり、説明板もあります。

山内には宿屋光則の墓と大橋太郎通貞の土牢もあり、歴史の香りゆたかです。


〔 光則寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


54.海光山 慈照院 長谷寺(はせでら)
公式Web
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷3-11-2
浄土宗系単立
御本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第4番、鎌倉三十三観音霊場第4番、相州二十一ヶ所霊場第12番、鎌倉六阿弥陀霊場第2番、鎌倉・江ノ島七福神(大黒天)

長谷寺は鎌倉有数の古刹で、長谷観音として広く知られています。

公式Web鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

開創は奈良時代の天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた鎌倉有数の古刹です。本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ)の尊像で、坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる当山は、東国を代表する観音霊場の象徴としてその法灯を今の世に伝えています。

創建の時期や経緯については関連史料が少ないですが、天平八年(736年)、大和長谷寺の開基・德道上人を藤原房前が招いて十一面観世音菩薩像を御本尊として開山といいます。

海光山新長谷寺と号す、本尊十一面観音は長二丈六尺、和州長谷の観音と同木同作なりと

元正天皇の御宇(715-724年)、德道上人が大和長谷の山中に楠の巨木が倒れ香と瑞光を発しているのを見て、この霊木に観世音菩薩像を彫刻し、末世の衆生に結縁せしめるべく誦経礼念されました。
すると、老翁二人が来て我等で尊像を彫刻しようと云われたので、德道上人は歓喜しました。
德道上人は十一面大悲の尊像の彫刻を依頼すると二翁はわずか三日で尊像を彫り上げたといいます。
あるいは、かの二翁は「天照大神・春日明神なり、衆生利益の大願を成就せしめん為にここに来たりて彫刻せり」と告げ忽然と姿を消されたとも。
ときに養老五年(721年)三月のことといいます。

藤原北家の祖・房前卿は勅を奉じて長谷に下向し、僧行基(668-749年)を導師としてこの霊像の開眼供養の法会を修したといいます。

一説には霊像は二軀彫られ、一軀は長谷にとどめて長谷寺の御本尊となりました。
もう一軀は有縁の地に出現して衆生を済度し給へと海中に流され、十六年のちの天平八年(736年)6月三浦郡長井村の海上に現出されたといいます。
この吉祥は聖武帝の叡聞に達し、房前卿は德道上人を鎌倉に遣わして開山とし、海光山新長谷寺を号しました。

あるいは、尊像は馬入に流れ寄せ、いっときは飯山にあったのを、忍性(1217-1303年)と大江広元(1148-1225年)が鎌倉・長谷に移したともありますが、年代が合わないという説もあります。

康永元年(1342年)、足利尊氏公が御本尊を修飾、明徳三年(1392年)には足利義満公が後光を造立し、伝・行基作の御像をお前立として安置と伝わります。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの前に徳川家康公の御参あり 同十二年(1607年)には堂宇を修整、これを期に浄土宗に改宗し当時の住持・住持玉誉春宗を中興開山としています。
正保二年(1645年)酒井讃岐守忠勝が再修復し、再中興を辨秋(元禄七年(1694年)寂)としています。

以降も鎌倉を代表する名刹として参詣者を集め、坂東三十三箇所(観音霊場)第4番の札所にもなっています。

最近ではアート・音楽・食を融合した期間・人数限定イベント「長谷寺 NIGHT TABLE」を開催されるなど、新たな取り組みが注目を集めています。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
長谷観音堂
海光山と号す。額に、長谷寺、子純筆とあり。子純筆、在杉本寺下。板東巡礼札所第四番なり。光明寺の末寺なり。相伝、此観音大和長谷より流木に流され、馬入へ流れ寄たるを上て、飯山に有しを、忍性と、大江廣元と謀て、此所に移すと、按ずるに忍性伝に健保後年に生、十六にて出家すとあり。廣元は、嘉禄元年(1225年)に卒す。時に忍性漸九 なり。旦【釋書】に、弘長の始、相陽に入とあれば、此事不審。又云、和州長谷の観音と此観音とは、一木の楠にて作れり。和州の観音は木本、此像は木末也。十一面観音にて、長二丈六尺二分、春日作。
按ずるに、春日と云は佛師の名なり。佛像のみにあらず。●の假面にも春日が作数多あり。(中略)
阿彌陀 作者不知
十一面像 詫間法眼作
如意輪像 安阿彌作
勢至像 安阿彌作 此像も畠山重忠が、持佛堂の本尊と云伝ふ。
聖徳太子像 作者不知
和州長谷開山徳道上人像 自作
毎年六月十七日、当寺の会にて貴賤老少参詣多し、寺領二貫文あり。
鶴岡一鳥居より十八町許あり。 
慈照院 本堂の北東にあり。
慈眼院 本堂の東にあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
観音堂
海光山新長谷寺と号す、本尊十一面観音は長二丈六尺、和州長谷の観音と同木同作なりとぞ、縁起に拠に元正天皇の御宇(715-724年)德道上人和州長谷の山中に巨木の倒れ臥たるより異香常に薫と瑞光の現するを見て是を怪み其所に往て視るに十丈余の楠なり(中略)德道殊に悦び、かゝる霊木にて観音菩薩の像を彫刻し、末世の衆生に結縁せしめ普く救世の大悲を蒙らしめん事を志願して霊木に向ひ誦経礼念す(中略)
玆(ここ)に老翁二人来たりて我等尊像を彫刻しまいらせんと云ふ、德道歓喜し、二翁の姓名を尋るに稽文會稽首勳と云へる佛工なりと答ふ、德道卽十一面大悲の尊像を彫刻せんと請けるに二翁承諾して彼木を両斷となし纔(わずか)に三日を経て二躰を成就し、或は
天照大神・春日明神なり、衆生利益の大願を成就せしめん為に爰(ここ)に来たりて彫刻せりと告て忽雲中に化し去ぬ、時に養老五年(721年)三月なり(中略)
藤原房前勅を奉じて和州長谷に下向し、僧行基を導師として開眼供養の法会を修す(中略)
斯て一軀は其地にとゞめ、一軀は有縁の地に出現し、衆生を済度し給へと海中の波濤に泛(うか)ぶ、後十六年を経て天平八年(736年)六月十八日当國三浦郡長井村の海上に現出す、此事叡聞に達し藤原房前再僧德道を迎て開山とし、海光山新長谷寺と称すと云へり

按ずるに、佛像二軀を彫刻せしと云ふこと、菅公の長谷寺縁起に記されず、其他にも所見なければ、疑なきにあらざれど、其頃模造して此地に霊場を開きし、古刹なる事は知るべし、今姑く本文は、爰の縁起に従ふ、又或説に、此観音大和の長谷より、洪水に流され、馬入に流れ寄たるを上て、飯山に有しを、忍性(1217-1303年)と大江廣元と謀て此所に移すと云ふ、忍性が行状略頌に合考するに、年代合せず謬なり
康永元年(1342年)三月尊氏佛躰を修飾し箔を彩り、玅相を修治して荘厳を加へ、明徳三年(1392年)十二月義満後光を造立す、

行基作の同像(長八尺)を前立とし傍に勢至(座像長五尺、安阿彌作、畠山重忠が、持佛堂の本尊と云伝ふ)、如意輪(座像長二尺五寸作同上)、大黒(長三尺五寸弘法作)、恵比寿(運慶作)及び三十三身の観音像(各長三尺五寸義政の寄附と云ふ)、愛敬地蔵(座像長三尺、二位禅尼の寄附と云ふ)、大日(座像金佛、長三尺五寸八分)、彌勒(座像長二尺)並に開山德道(長三尺自作)等の像を置く(中略)

慶長五年(1600年)関原役の前東照宮御参あり 同十二年(1607年)更に命ありて堂宇を修整せらる
正保二年(1645年)酒井讃岐守忠勝資財を抛て再修復せり
中興を春宗(慶安元年(1648年)正月七日寂)、再中興を辨秋と云ふ 元禄七年(1694年)三月十七日寂す、当山七世中興、本尊並諸尊佛具等再建せしとぞ
板東札所第四なり(中略)

彌陀堂 本尊坐像長一尺 元は大町村内に建しを元禄年間(1688-704年)当寺寂譽が時此に移すと云ふ
五社明神社 神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀す、村の鎮守なり
荒神社 神躰は運慶作観音の尊像、海中より出現の時佛躰に蝕せしめ、社を勧請すと伝へ貝柄荒神と唱ふ
辨天社 巌窟の内に安ず 長一尺五寸、弘法作、或は運慶作とも云ふ(中略)
別当二院
慈照院 浄土宗材木座光明寺末 本尊彌陀を安ず
慈照(眼?)院 本寺前に同じ 本尊は彌陀 開山を明譽と云ふ

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
海光山慈照院長谷寺と号する。浄土宗。もと光明寺末。いま単立宗教法人。
開山、德道。開基、藤原前房。天平八年(736年)の草創と云う。
中興、玉譽春宗、再中興、弁秋。
本尊、十一面観世音菩薩。
境内地2026.77坪
観音堂・拝観所・阿弥陀堂・大黒堂・鐘楼・客殿・庫裏・寺務所等あり
板東巡礼札所第四番。大和の長谷寺を本とすることは明らかである。
正治二年(1200年)に大江広元が重ねて寺を建てたという。
ともかく鎌倉末期にかなり大きな堂があったことは想像してよいと思う。

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 単立(浄土宗)
山号寺号 海光山慈照院長谷寺
建立 天平8年(736)
開山 徳道上人

本尊の十一面観音像は日本最大級の木造の仏像です。
寺伝によると。開山の徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた樟の巨大な霊木から、二体の観音像が造られました。
一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷し、建立されたのが長谷寺です。
境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、二千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の花木を楽しめます。

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長谷周辺では、鎌倉大仏高徳院とならぶメジャーな観光スポットです。
駐車場はありますが、常時混雑気味で夕方は閉山時間の30分前に営業終了となり翌朝まで出庫できなくなるので要注意です。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 参道-2

山内は三段構成で、登るにしたがい変化のある景色を堪能できる美しい寺院です。
山内案内はこちら


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 長谷大観音の石標


【写真 上(左)】 出世開運大黒天の石標と山門
【写真 下(右)】 門前の観音様と地蔵尊

県道から相当の幅員で引きこんだ山門前は、門前に伸びる松の木の存在感もあいまって、さすがに名刹の風格があります。
山門前には寺号標、長谷大観音の石標、出世開運大黒天の石標と観音様&地蔵尊が御座します。


【写真 上(左)】 山門-1
【写真 下(右)】 山門-2


【写真 上(左)】 山門見上げ
【写真 下(右)】 山門妻部

山門は切妻屋根青銅本瓦棒葺の堂々たる四脚門で常閉。妻部に大瓶束を置くしっかりとした意匠です。
山内口は左手通用門でこちらが拝観受付となっています。

受付を抜けると左手が以前の授与所。(現在、御朱印授与は本堂(観音堂)となっている模様。)
その脇に明治の文芸評論家・高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の碑は、樗牛がこの地に居住したゆかりによるもの。

正面に妙智池、放生池を配した緑濃い庭園は四季折々の風情が楽しめ、花の寺としても知られています。
寺務所から右手方向に、和み地蔵、大黒堂、書院、辨天窟(堂)と露仏や堂宇が並び、こちらが一段目(下境内)となっています。


【写真 上(左)】 早春の下境内-1
【写真 下(右)】 早春の下境内-2


【写真 上(左)】 秋の山内
【写真 下(右)】 上境内への階段

寺務所は旧別当の慈照院と思われますが詳細不明。
その横に御座の「和み地蔵」はかわいい表情で、人気の撮影スポットです。
良縁地蔵、ふれ愛観音、梶山観音など多彩な露仏が御座し、稀少な相州二十一ヶ所霊場の札所標もありました。


【写真 上(左)】 寺務所
【写真 下(右)】 良縁地蔵


【写真 上(左)】 ふれ愛観音・梶山観音
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標


【写真 上(左)】 大黒堂
【写真 下(右)】 大黒堂の扁額

大黒堂は、もともと応永十九年(1412年)銘の尊像が堂宇本尊でしたが、いまは観音ミュージアムに収蔵されています。
現在の堂宇本尊は「出世・開運授け大黒天」、「さわり大黒天」で、鎌倉・江の島七福神巡り(大黒天霊場)の札所となっています。


【写真 上(左)】 辨天堂と弁天窟入口
【写真 下(右)】 辨天堂の扁額

大黒堂の対面には辨天堂と辨天窟。
弘法大師御参籠と伝わる弁天窟の内壁には弁財天、十六童子が彫られ、宇賀神も安置されています。
『新編相模國風土記稿』に「辨天社 巌窟の内に安ず 長一尺五寸、弘法作、或は運慶作とも云ふ」とある八臂辨財天ゆかりの窟とみられますが、こちらの尊像は現在観音ミュージアムに収蔵されています。(通常非公開)


【写真 上(左)】 辨天窟
【写真 下(右)】 卍池


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂の扁額

庭園を抜けて斜め右手上方に進むと地蔵堂で、このあたりが二段目(上境内)の入口になります。
木々がうっそうと繁り、パワスポ的イメージのある一画です。
宝形造の地蔵堂には子孫繁栄ご利益の「福徳地蔵尊」が御座し、堂宇を囲むように地蔵尊が安置されています。


【写真 上(左)】 かきがら稲荷の鳥居
【写真 下(右)】 かきがら稲荷

さらに上方に進むとかきがら稲荷。
寺伝によると、御本尊の十一面観世音菩薩像が海上を流れている際、御尊体をお守りするためにかきがらが付着し、尊像をお導きしたといわれています。
その「かきがら」をお祀りしているお社で、「かきがら絵馬」は人気の絵馬となっています。

なお、かつて山内に御鎮座で長谷村の鎮守であった五社明神社(神明・春日・白山・稲荷・天神を合祀)は明治20年、甘縄神明宮境内に御遷座されています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 阿弥陀三尊碑

鐘楼の梵鐘は、文永元年(1264年)銘の鎌倉で3 番目に古い作例とされ国の重要文化財に指定、現在は観音ミュージアムで収蔵・展示されています。
現在の梵鐘は昭和59 年に新鋳されたもので、毎朝時を告げる鐘として鎌倉市民に親しまれています。

さて、いよいよ長谷寺の核心部です。


【写真 上(左)】 阿弥陀堂
【写真 下(右)】 阿弥陀堂の扁額

二層の楼閣の阿弥陀堂。
こちらに奉安の阿弥陀如来坐像は、源頼朝公が42 歳の厄除け祈願のために造立と伝わり「厄除阿弥陀」とも呼ばれます。
本像は近隣に所在した旧誓願寺の御本尊だったとされ、鎌倉六阿弥陀霊場の札所本尊となっています。


【写真 上(左)】 阿弥陀仏
【写真 下(右)】 本堂(観音堂)


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂(観音堂)入口

本堂(観音堂)も二層楼閣の堂々たる堂宇で、堂内にて参拝できます。
御本尊の十一面観音菩薩立像は像高9.18m、台座を数えると12mにも及び、木造では最大級の仏像とされます。

頭上に十一の尊顔、右手に錫杖、左手に花瓶を執られ、磐座に立たれる「長谷寺式十一面観音菩薩」です。
堂内右手には、弘法大師坐像が御座され、おそらくこちらが相州二十一ヶ所霊場札所本尊とみられます。

観音堂は幾度となく再建され、関東大震災でも甚大な被害を受けましたが、昭和61年再建がなっています。


【写真 上(左)】 長谷観音の扁額
【写真 下(右)】 観音ミュージアム

観音ミュージアムでは、数々の寺宝が観音菩薩信仰の教義とあわせ展示されています。
十一面観音菩薩立像(前立観音)は御本尊の前に祀られていた尊像で、江戸時代の造立と
されますが、行基作とも伝わる旧像の再興仏のようです。

三十三応現身像は室町時代造立とみられ、足利義政公の寄附とも伝わり鎌倉市指定文化財です。
長谷寺縁起絵巻は制作年(弘治三年(1557年)が判明する唯一の資料として神奈川県指定文化財となっています。

開山徳道上人坐像、「長谷寺」の寺号が確認できる最古(文永元年(1264年))の梵鐘や十一面観音懸仏なども展示されています。
観音ミュージアムサイトについては、→ こちらをご覧ください。


【写真 上(左)】 見晴台からの眺望-1
【写真 下(右)】 見晴台からの眺望-2

海側にせり出すようにある見晴台からは鎌倉の街並みと由比ガ浜、三浦半島から伊豆大島まで見渡せる眺望が楽しめ、その隣にある飲食所「海光庵」とともに人気スポットとなっています。


【写真 上(左)】 海光庵
【写真 下(右)】 上境内

山際に寄ったところに経蔵(輪蔵)。
輪蔵とは堂内の回転式書架で、中には一切経(大蔵経)が収められており、書架を一回転することで一切経をすべて読誦した功徳が得られるとされます。
輪蔵は正月三が日、8月10日(四萬六阡日)など特定の日のみ回すことができます。


【写真 上(左)】 経蔵
【写真 下(右)】 経蔵の向拝


【写真 上(左)】 経蔵の扁額
【写真 下(右)】 輪蔵

なお、観音ミュージアム前には四天王が御座しますが、主尊は複雑な印相につき不明です。


【写真 上(左)】 四天王と主尊
【写真 下(右)】 眺望散策路入口

経蔵からさらに登ると三段目の眺望散策路です。
平成のはじめに紫陽花が植栽され、いまでは40種類以上、約2500株の紫陽花が咲く鎌倉有数の紫陽花スポットとなっています。
ここからは見晴台を凌ぐ眺望が楽しめます。


【写真 上(左)】 散策路からの眺望-1
【写真 下(右)】 散策路からの眺望-2


御朱印は本堂(観音堂)で拝受できます。
混雑するので、前に御朱印帳をお預けし番号札をいただいて参拝後に受け取るのがベターかと思います。
また、複数の霊場札所を兼ねておられるので、霊場御朱印の申告は必須となります。


〔 長谷寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印(造立千三百年記念)
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印

 
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉六阿弥陀霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉・江ノ島七福神(大黒天)の御朱印


■ 鎌倉市の御朱印-20 (C.極楽寺口-3)へつづく。



【 BGM 】
■ 空が凪いだら/After Calm - 凪葵(Nagi)


■ Sign - 幾田りら


■ おはよう、僕の歌姫 -Happy End Ver. - Covered by Cereus
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