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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17

Vol.-16からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第50番 高野山 金剛閣 大徳院
(だいとくいん)
墨田区両国2-7-13
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第46番、弘法大師二十一ヶ寺第8番、坂東写東都三十三観音霊場第7番、大東京百観音霊場33番

※院号は川家(徳川家の正式表記)からとったとすると、「大院」が正式名と思われますがここでは通称の「大院」を使います。

第50番は両国の大徳院です。
第46番弥勒寺の記事でも書きましたが、第50番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場では本所立川の弥勒寺(現御府内霊場・第46番札所)となっています。
よって、江戸時代に第46番札所の大徳院と第50番札所の弥勒寺とが入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、大徳院は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。

下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

大徳院は高野山金剛峯寺の江戸宿寺(宿寺居屋敷/江戸の拠点)で、寛永年間(1624-1644年)に拝領した神田紺屋町の屋敷地にありましたが、寛文六年(1666年)替地により本所猿江に移転、貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)の現在地に二万廿坪余を拝領し移転したといいます。

神田紺屋町での建立 or 貞享元年(1684年)現在地に移転時の住職は本山中興の宥雅法印とされます。

江戸時代、高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の「高野三方(三派)」から成り立っていました。
聖方の頭寺院は蓮華(花)院(光徳院とも)で、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結ばれた草庵が草創とされます。

文禄三年(1594年)家康公が秀吉公に随従して高野山に参り蓮華院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられたといいます。
以降、徳川家との親交を深め、寛永年間(1624-1644年)大徳院の後山に東照宮(家康公)、台徳院殿(秀忠公)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となりました。

「高野山霊宝館」公式Webには「徳川家霊台とは、徳川家康と秀忠をまつる東照宮をいいます。この場所は本来、聖派の代表寺院である大徳院の境内だったのですが、大徳院自体は明治になって他の寺院と合併して現存しませんので、霊台だけが残りました。大徳院は、代々徳川家との関係が深い寺院で、後に家康によって、それまで蓮華院と呼んでいたのを、『大徳院』と改められたともいわれています。造営に着工したのは寛永10年(1633)頃で、同16年には、正式に将軍家光より認可され、同20年に竣工」とあります。

「ぐるりん関西」には、蓮華(花)院の沿革や徳川家との関係が載っていますので抜粋引用します。

-------------------------(引用はじめ)
・蓮花院は、和歌山県高野山の小田原谷にある真言宗の準別格本山
・寺伝によると、弘法大師が悪魔降伏のため軍荼利明王の秘法を修し、結界を結んだ時の草庵が寺の起こりとされる。
・古くは聖方に属し、五之室谷の徳川家霊台の前に位置し、室町時代には光徳院、江戸時代は大徳院と号した。
・徳川将軍家の菩提寺として、歴代宗家の位牌と家康、秀忠の尊像が祀られている。
・水戸光圀の位牌や家康の念持仏といわれる薬師瑠璃光如来を奉安。

〔徳川家との関係〕
・永享十一年(1439年) 当院主が相模の藤沢寺(現・清浄光寺)に止宿し、家康公の祖先松平太郎左衛門親氏入道徳阿弥と師檀関係を結ぶ
・天文四年(1535年) 家康公の祖父松平清康公の遺骨が当院に納められ光徳院と改号
・文禄三年(1594年) 家康公が豊臣秀吉公に随従して高野山に参り、光徳院に止宿した際、家康公から大徳院の院号が与えられる
・寛永年間(1624-1644年) 大徳院の後山に東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋(徳川家霊台)が建立され、徳川家菩提所となる
・奥の院の松平秀康及び同母霊屋、徳川秀忠夫人崇源院供養塔は当院が管理している
-------------------------(引用おわり)

御府内霊場札所のなかでもとくに徳川将軍家とのかかわりが深い寺院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「東照宮御本地」「寅の神」という記載があります。

江戸時代は高野山大徳院の江戸在番所(出張所)として宗務伝達所兼高野山諸末寺(聖方)総觸頭の地位にあり、江戸の弘法大師信仰あるいは「高野聖」(高野山を本拠とした遊行者)の活動の中心にあったともいいますが、明治18年にその機能を長寿寺(現・高野山東京別院)に移し現在に至っています。

御本尊の薬師瑠璃光如来は「本所一つ目寅薬師」と称され、とくに眼病治癒に霊験あらたかとされ信仰を集めています。
日光山輪王寺の公式Webによると、東照大権現の本地仏は薬師如来で、日光東照宮の本地堂(薬師堂)には薬師如来が奉安されています。

また、家康公は寅年、寅の日、寅の刻生まれともいわれ、家康公とゆかりのふかい寺院として、御本尊=寅薬師如来は自然に受け入れられたと思われます。

『御府内八十八ケ所道しるべ』に憚りなく「東照宮御本地」と書かれているので、おそらく公認されていたのでは。
このあたりは高野山の徳川家霊台を護持される、(高野山)大徳院の威光があったのかも。

 
【写真 上(左)】 日光東照宮本地堂の御朱印
【写真 下(右)】 上野・パゴダ大仏殿の薬師如来の御朱印

なお、上野の東照宮境内にもしっかり本地堂(薬師堂)はありましたが、明治初期の神仏分離令により御本尊の薬師三尊は寛永寺に移管され、現在は「パゴダ大仏殿」内に奉安されています。
あるいは天台宗(比叡山)系の御本地(=東照宮本地堂)、真言宗(高野山)系の御本地(=大徳院)という色分けが意図的になされていたのかもしれません。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十番
本所一ッ目元町南
東照宮御本地 大德院
どくれい(独礼)せ● 古義
本尊:薬師如来 寅の神 弘法大師

『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.18』
御尊牌所
南本所 本所一ツ目
高野山金剛峯寺 大徳院宿寺
高野山聖方法国末寺 御尊牌所ニ候
古義真言宗高野山聖方諸国本寺惣触頭ニ候

●●年月不知
神田紺屋町辺● 宿寺居屋敷拝領仕●立
右●其所を諸人薬師堂前と呼び●●町の名となり
右之薬師(尊)像は弘法大師の作
寛文六年(1666年)右屋敷替地仰付 本所猿江に●●ひて寺地拝領仕
神田より猿江に引移り
貞享元年(1684年)南本所元町(本所一ツ目)にて●●の寺地二万廿坪余拝領仕候

開山 弘法大師
中興 宥雅法印 俗姓不知 寛文十四年(1673年?)寂
俗姓波多野●● ●永二年高野山●●●蓮花院(大徳院と御号)
任●●●寺代奉所

本堂
 本尊 薬師如来座像 弘法大師作
 脇立 日光菩薩立像 月光菩薩立像 十二神将立像
●雲院様(家光公とも)七回御忌御追福之● 竹千代君様(4代将軍家綱公)絵巻当御寄附(略)
有候薬師如来之尊像一体●●当院に奉納 是を寅薬師と称し御本地佛と崇敬して永く御武運長久を祈
台徳院様(2代将軍徳川秀忠公)御代、寛永年中(1624-1644年)、高野山より江戸神田の宿寺に右の尊像を移
 弘法大師座像
 同前佛座像
 不動明王立像
社壇
 稲荷立像
 天満宮座像
 高野四社明神繪像
 辨財天座像 弘法大師作
寺寶
 太政官符 嵯峨天皇より弘法大師●高野山を賜ふ御公御手判●
 般若心経 弘法大師御真筆
 大威徳明王像 弘法大師作
 香合之内 愛染明王像一体 虚空蔵菩薩像一体 作人同前


「大德院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR総武線「両国」駅で徒歩約5分。
都営大江戸線「両国」駅からも歩けます。

下町らしい低平な土地。オフィスと住宅の混在地にあります。
第23番、日本橋の薬研堀不動院とは隅田川を挟んで相対する立地で、すぐ北隣りは回向院です。



【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 札所標

平成25年に完成した地上5階地下1階建のビルで、一般的には「両国陵苑」のほうが通りがいいかもしれません。


【写真 上(左)】 延命地蔵尊
【写真 下(右)】 エントランス

エントランス前に延命地蔵菩薩が御座し、ビル前に札所碑、エントランスに唐破風を配しているので、近代的なビルながら寺院とすぐにわかります。

1階総合受付で参拝&御朱印の受付。
上層階の本堂のお参りもできますが、1階の弘法大師坐像も御府内霊場の拝所となっています。


【写真 上(左)】 1階弘法大師坐像横の札所札
【写真 下(右)】 1階弘法大師坐像

中段に弘法大師座像。
背後の壁面には智拳印を結ばれた金剛界大日如来の画像が掲げられています。

完璧なビル内参拝で、都会の霊場・御府内霊場らしい札所といえましょう。

御朱印は1階総合受付にて拝受しました。
いくつかの霊場札所を兼務されていますが、現況、御朱印を授与されているのは御府内霊場のみの模様です。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に薬師如来のお種子「バイ」「薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用集印帳の御朱印には「寅薬師」の揮毫もありました。


■ 第51番 玉龍山 弘憲寺 延命院
(えんめいいん)
台東区元浅草4-5-2
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第82番、弘法大師二十一ヶ寺第20番、弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番、奥の細道関東路三十三所霊場第3番

第51番は元浅草の延命院です。
御府内霊場には「延命院」を号する札所寺院がふたつ(第5番金剛山 延命院(南麻布)、第51番玉龍山 延命院(元浅草))ありますが、第5番の延命院を「麻布延命院」と呼んで区別しているようです。

第51番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに浅草鳥越の長樂寺となっています。
よって、第51番札所は明治以降に浅草鳥越の長樂寺から元浅草の延命院に変更されたとみられます。

まずは鳥越の長樂寺について、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

長樂寺は鳥越に御鎮座の鳥越大明神(現・鳥越神社)の別当でした。
まずは、主に鳥越神社の境内掲示類から縁起・来歴を追ってみます。

鳥越大明神は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。

永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。

社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。

徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。

別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。

鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。

本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。

鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。

鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。

明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。


【写真 上(左)】 鳥越神社
【写真 下(右)】 鳥越神社の御朱印

なお、相殿の東照宮の前身は、寛永十一年(1634年)、蔵前(南元町)の松平西福寺そばに江戸城の鬼門除けとして3代将軍家光公が祀られた松平神社(御祭神:徳川家康公)で、大正14年に鳥越神社の相殿に御遷座されました。


■ 松平西福寺(蔵前)

例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。

つぎに元浅草の延命院について、下記史料、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

延命院は当初谷野(矢ノ蔵)に創建されたという新義真言宗寺院です。
東日本橋の矢之庫稲荷神社の由緒書には「当地に隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、幕府が米蔵を建て谷野蔵・矢之倉と称されていました。」とあるので、現在の東日本橋一丁目あたりとみられます。

『寺社書上』では開闢年代知不としながらも、奉安佛・水晶辨財天の縁起書に開山義観法師が文安年間(1444-1449年)に夢告を受け、武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立して安置とあるので、その頃の創建とみられます。

現在の御本尊は大日如来ですが、寺院の草創は水晶辨財天の奉安によるものとあるので、当初の御本尊は辨財天だったのかもしれません。

当初は延寿院と号しましたが、元和年中(1615-1624年)頃、典薬頭延寿院道三と同号となったため、台徳尊公(徳川秀忠公)の上意により延命院と改めたといいます。

江戸時代は大塚の護持院末でありました。
『寺社書上』には「弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番」とありますが、これは御府内霊場ではなく、おそらく荒川辺八十八ヶ所霊場を指すとみられます。

荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。

札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

当山は第82番札所で、『寺社書上』の記載と符合します。
 
本堂に御座の御本尊大日如来、弘法大師御像が荒川辺霊場の拝所であったとみられます。
別に弘法大師の御作と伝わる水晶辨財天を奉安していました。
水晶辨財天は天長五年(828年)、弘法大師が琵琶湖の竹生島に参籠された折、二体の辨財天尊像を製作され、一体は竹生島の御本尊とし、一体はこの霊像と伝わります。

文安年間(1444-1449年)、讃岐國におられた開山義観法師の夢中にこの尊像があらわれ、お告げを受けた義観法師が東国へ下って武蔵国矢の蔵(倉)に一寺を建立してこの尊像を安置したのが当山草創とも伝わります。

竹生島辨財天は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」のひとつで、こちらの辨財天と同作の尊像とあれば、江戸庶民の信仰を集めたことは想像に難くありません。
実際、当山の水晶辨財天は弁財天百社参り第67番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第6番の札所となっていました。

当山の水晶辨財天は関東大震災、東京大空襲の災禍により消失し、現存はしていないとのこと。(出典:Wikipedia

なお、弘法大師御作、義觀上人ゆかりとされる辨財天は鶴見の一至山 安養寺にも奉安され、こちらは鶴見七福神の一尊となっています。
(→ 安養寺公式Web

明暦三年(1657年)火災(おそらく明暦の大火)に遭い、浅草新寺町(現・元浅草)に移転といいます。

鳥越神社は明治期に郷社に列格したほどの名社で、その別当・長樂寺が神仏分離で廃されたのは避けられない流れだったのかもしれません。

長樂寺は高野山金剛三昧院末の古義真言宗、延命院は大塚護持院末の新義真言宗で、宗派からすると御府内霊場札所(第51番)の承継はやや不自然な感じもします。

しかし第45番観蔵院と同様、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所(第82番)で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、成増青蓮寺(第19番)、観蔵院(第45番)と延命院(当山)の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、浅草鳥越に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。

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【史料】
【長樂寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
五十一番
浅草鳥越明神 門前町あり
鳥越山 轉輪院 長樂寺
高野山金剛三昧院末 古義
本尊:不動明王 本社鳥越明神 弘法大師

『寺社書上 [73] 浅草寺社書上 甲一』(国立国会図書館)
別当・長樂寺についてはこちらから記載されていますが、あまりに豪快な筆致につき解読不能が多いです。
抜粋引用します。

鳥越大明神 御本地馬頭観音
本尊 不動明王
弘法大師厨子入
金毘羅大権現
星供養曼荼羅厨子入
正観音像厨子入
●佛不動明王
●佛十一面観音厨子入
十三佛尊像厨子入
●大師像厨子入
聖天堂●●
 聖天厨子入
 銅佛十一面●殿入

別当 長樂寺
古義真言宗 本寺●●高野山金剛三昧院末
山号 鳥越山 ●●院
開山 法印(不明) 遷化之年月寛永廿年(1643年)四月十三日
中興開山 法印良長 遷化之年月●和二年

『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
鳥越明神社
元鳥越町にあり此辺の産土神とす 祭神日本武尊 相殿天児屋根命なり 昔ハ第六天神 熱田明神を合わせて鳥越三所明神と号けし● 正保二年(1645年)此地公用の為に召上られ 三谷に●く替地を給ひけり 小社の地にかりを残さる その頃より熱田ハ三谷の地へうつし第六天ハ●田町へうつせりといへり
当社ハ最古跡なれとも 舊記等散失して勧請の年暦来由等詳ならすといへり 

【延命院関連】
『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.59』
浅草新寺町
新義真言宗 大塚護持院末 
玉龍山弘憲寺延命院
開闢年代知不●●
開山 義観法師 遷化ノ年月相不知申候

本堂
 本尊 大日如来木坐像
 弘法大師 八十八所写第八十弐(?)番

水晶●辨財天 弘法大師之作
聖天 但厨子入
地蔵尊石立像
稲荷社

拙寺往矢(?)野倉浜町ニ有(略)延寿院与申候処
元和年中(1615-1624年)頃典薬頭延寿院道三与同号ニ付 台徳尊公(徳川秀忠公)上意ヲ以延命ニ改
開山義観法師 生国讃岐差田村 遷化ノ年月相不知申候

水晶●辨財天縁起云 天長五年(828年)弘法大師江州竹生島に来●し 二体の尊像を製作し給ひ 一体ハ竹生島の本尊とし、一体ハ●●此霊像なり
文安年間(1444-1449年)讃岐國●●山●●●当院の開山義観法師の夢中●像●して(略)武蔵国矢の蔵(倉)●町に一寺建立して安置せり
明暦三年(1657年)火災に●●て今の浅草新寺町に移●ると云ふ



「長樂寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。

住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入ってひとつ目の信号を左(東)に入ったところです。

この界隈は田の字の区画で南参道の寺院はさほど多くはありませんが、延命院は完全な南参道南向きで、ビルの谷間ながらどことなく明るい雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札



【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 参道

門柱に院号札、門柱手前には御府内霊場の札所標。
参道右手には赤地の御寶号幟を献ぜられた修行大師像が御座され、弘法大師御忌供養碑もあって御府内霊場札所の趣きゆたかです。
参道左寄り正面に本堂、その向かって左には延命地蔵尊。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 延命地蔵尊


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。

向拝硝子格子戸で扁額はなく、賽銭箱には丸に揚羽紋。

通りから引き込んでいるので、落ち着いて参拝ができます。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。

辨財天についてお伺いしたところ、戦災に遭って失われ、代佛も御座されていないとの由。
また、御朱印は御府内霊場のみで、荒川辺八十八ヶ所霊場第82番などの御朱印は授与されていないとのことでした。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」の揮毫と「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右に「第五十一番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第52番 慈雲山 蓮華院 観音寺
(かんのんじ)
新宿区西早稲田1-7-1
真言宗豊山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第52番、豊島八十八ヶ所霊場第52番、山の手三十三観音霊場第14番、近世江戸三十三観音霊場第15番

第52番は早稲田の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。

第52番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに観音寺で、第52番札所は開創当初から早稲田の観音寺であったとみられます。

この寺院については史料がほとんど見当たらないので、『ルートガイド』をメインに縁起・沿革を追ってみます。

観音寺は寛文十三年(1673年)開山・賢栄和尚による創建といい、住民の発願により菩薩寺として建立とも伝わります。

御本尊の十一面観世音菩薩は智證大師円珍(814-891年)の御作といわれています。
円珍は入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人で、讃岐国に豪族佐伯氏の一門として生誕され、弘法大師空海の甥(もしくは姪の息子)とも伝わります。

15歳で比叡山に登られ12年間の籠山行ののち、承和十二年(845年)には大峯、葛城、熊野諸山を巡礼し、修験道の発展にも寄与されたといいます。
仁寿三年(853年)入唐。天台山国清寺で求法され、斉衡二年(855年)には長安にて真言密教をも伝授されたといいます。

天安二年(858年)帰国。貞観十年(868年)比叡山延暦寺第5代座主となりました。
すでに貞観元年(859年)には大津の園城寺(三井寺)の長吏に補任。
園城寺は伝法灌頂の道場として隆盛し、寺門派(天台寺門宗)の拠点となりました。

円(法華経)、密(密教)、修験を極められ、天台宗の教義を広げられた傑僧として知られ、円珍を宗祖とする寺門派(天台寺門宗)はのちに円・密・禅・戒・修験の五法門をもって教義としています。

当山の縁起沿革については、寺伝類を焼失しているため詳細不明です。
よって、住民発願の真言密寺に寺門派(天台寺門宗)宗祖御作の御本尊が奉安された経緯についてもよくわかりません。

『ルートガイド』には「八十七番札所護国寺の隠居寺であったり、無住時代があったといわれています。」とあります。

護国寺の創建は天和元年(1681年)。当山創建は寛文十三年(1673年)で護国寺よりも早いですが、護国寺創建後に隠居寺となったのかもしれません。

御府内霊場の開創は宝暦五年(1755年)頃と伝わるので護国寺・当山創建の後になります。
観音寺は「護国寺の隠居寺」の流れから御府内霊場札所に定められたのではないでしょうか。

江戸期に複数の霊場札所に定められているので、相当の参詣者を集めたとみられますが、その様子は史料ではほとんど確認できませんでした。

貴重な史料である『御府内八十八ケ所道しるべ』の「本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮」の記述が気になります。

歓喜天(大聖歓喜天)は強大なお力をもたれるとされる天部の尊格で、十一面観世音菩薩によって仏教の守護神となられたとされることから、十一面観世音菩薩とあわせて奉安されることが多く、ほとんどが秘佛です。
歓喜天の修法(聖天供(歓喜天供))は密教の奥義に属するとされるので、ここでは深くふれませんが、歓喜天(大聖歓喜天)を奉安する寺院の多くは霊験あらたかな祈願寺として知られ人々の信仰を集めています。

当山は早稲田大学の至近にあり、本堂も元早稲田大学の教授が設計されています。

早稲田大学周辺には寺院が多く、天台宗の宝泉寺は早稲田大学合格祈願寺として知られ、御朱印も授与されています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十二番
下戸塚村
慈雲山 蓮華院 観音寺
牛込南蔵院末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社歓喜天宮 弘法大師


「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ東西線「早稲田」駅で徒歩約10分。
都電荒川線「早稲田」駅からも歩けます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

ほとんど早稲田大学の構内といえる立地にあり、あたりは学生であふれています。
本堂は斬新な近代建築で、手前の寺号標がなければとても寺院とは思えません。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内

山内入口に寺号標。側面には御府内霊場札所の旨が刻まれています。
その横には古色を帯びた御府内霊場の札所標。
参道右手には恵比寿さまと大黒さまが仲良く並んで御座されています。


【写真 上(左)】 恵比寿尊・大黒尊
【写真 下(右)】 庚申塔

その先右手に御座する舟形光背の地蔵尊石像は珍しい地蔵菩薩像を主尊とする庚申塔(寛文四年(1664年)の銘)で、新宿区の有形民族文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 向拝前のお砂踏み場
【写真 下(右)】 扁額

2階建の本堂は建築家・石山修武氏による設計。
石山氏は「伊豆の長八美術館」(1985年)、日本建築学会賞受賞の「リアス・アーク美術館」(1995年)などの設計で知られ、平成26年まで早稲田大学の教授として教鞭をとられていました。
当本堂の竣工は平成8年(1996年)で30年近く経っていますが、いまでも斬新性を失っていません。

筆者は近代建築についてまったくのトーシロなので、詳細は→こちら(「建築とアートを巡る」様)をご覧くださいませ。

御朱印は本堂向かって右手に回り込んだ事務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十二番」の札所印。左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 愛の季節 - アンジェラ・アキ


■ サイレント・イヴ - ClariS(Covered)


■ ebb and flow - LaLa(Covered)
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