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■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)

■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)から


鎌倉市の南東側(県道311号葉山鎌倉線、国道134号線)から入るルートで、若宮大路東側の大町、小町一丁目・二丁目、材木座の寺社をご紹介します。
まずはリストです。
日蓮宗と浄土宗の寺院が多いエリアです。


20.妙法華経山 安国論寺(あんこくろんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町4-4-18
日蓮宗
御本尊:十界未曾有大曼荼羅と日蓮聖人像
札所:東国花の寺百ヶ寺霊場第95番

大町、材木座は、日蓮宗寺院の名刹が集中しています。
こちらも日蓮宗の名刹です。

寺伝によると、日蓮聖人が建長五年(1253年)に房総の清澄寺で立教開宗された後、鎌倉での布教を志され、松葉ヶ谷の岩窟に草庵を結ばれたのが当山の始まりです。

日蓮聖人はこの地で約20年を過ごされ、『立正安国論』もここで執筆されました。
重要な内容なので、公式Webからそのまま引用します。

「(日蓮聖人は)『立正安国論』を奏進したことにより権力者や他宗派の人々の怒りを買い、同年(文応元年(1260年))8月27日に焼き討ちに遭いました。此処の地名を取って『松葉ヶ谷の法難』と呼びます。このような縁起により 当山は『松葉ヶ谷霊跡 妙法華経山 安国論寺』といいます。昔は『安国論窟寺』とも言いました。『松葉ヶ谷の法難』だけでなく『伊豆流罪』の時も『龍口法難』の時もこの地で捕縛されました。その意味で、日蓮聖人のご生涯中でもとりわけ重要な場所と言えます。また、この地で多くの人が弟子となり信者となりました。教団としての日蓮宗の始まりの地とも言え、安国論寺はとても大切なお寺です。」

「日蓮聖人の代表的著作である『立正安国論』は、文応元年(1260年)7月16日に前執権北条時頼に奏進されました。(中略)『立正安国論』という題名から非常に難しい内容のように思われますが(中略)簡潔に言うと、法華経(妙法蓮華経)は苦難に満ちたこの世に生きる私達を救う最高の教えです。その教えを信仰し、落ち着いた平和な国を作りましょうというのがその主題です。この日蓮聖人の主張は仏教の本義に基づき、現実の世界にも照らし、また理性的論理的判断としても合理的なものですが その舌鋒の鋭さから 特に他の宗教の僧侶や信者から大変な怒りをかうことになりました。『立正安国論』は幕府に無視されたばかりか、これにより日蓮聖人は数多くの攻撃や迫害を受けることになります。しかしその後、本書の警告通りに他国侵逼難(外国からの侵略)・自界叛逆難(内乱)が実際に起きたことからその正しさが明らかとなり、一方で日蓮聖人を信仰する人々も増えてゆくことになります。日蓮聖人は 最期の門弟への講義でも取り上げるなど 生涯に亘って本書を重んじました。」

引用が長くなりましたが、このように日蓮宗においてたいへん重要な寺院です。

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県道311号鎌倉葉山線が逆川を渡る二俣を左手の道に入ります。
この分岐にはすでに安国論寺の寺号標がありました。
ここから安国論寺の前まではほぼまっすぐで、参道的な趣き。


【写真 上(左)】 県道沿いの寺号標
【写真 下(右)】 県道からの道行き

ここ大町四丁目あたりは鎌倉市街から山側の名越切り通しへののぼり口で、あたりは閑静な住宅街です。
ここには当寺と、日蓮宗の名刹、妙法寺があり、日蓮宗にとっては聖域的な場所ですが、観光客のすがたはあまり多くはありません。
駐車場はないので、車の場合、材木座寄りのコインパーキングに停めることになります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

参道は道からすぐに階段で、脇に「日蓮上人草庵跡」の石碑があります。
「建長五年(1913年)日蓮上人房州小湊ヨリ来リ此地ニ小庵ヲ営ミ初メテ法華経ノ首題ヲ唱ヘ正嘉元年(1917年)ヨリ文應元年(1920年)ニ及ビ巌窟内ニ籠リ立正安國一巻ヲ編述セシハ則チ此所ナリト云フ」
その先には「松葉谷根本霊場 安國論寺」の寺号標。


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 山門

さらに進むと山門。
切妻屋根桟瓦葺の唐様四脚門で、延享三年(1746年)尾張徳川家によって再建されたもの。
「安國法窟」の扁額は、元禄四年(1691年)佐々木文山の揮毫によるものです


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 境内案内

その先に拝観料納所と、その奥に庫裡。御首題・御朱印は参拝後にこちらでいただけます。


【写真 上(左)】 早春の参道
【写真 下(右)】 晩秋の参道

その先の参道は石畳で両側に竹垣が結われ、左手には重厚な石灯籠と、引き出された縁台には緋毛氈がひかれて趣きがあります。
背後を山に囲まれた風情のある山内で、秋の紅葉も見事です。


【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂

参道正面の本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
正面格子扉の上には「立正安國」の扁額。
向拝軒から身舎まで四軒の垂木を並べ、名刹にふさわしい堂々たる構えです。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝-1


【写真 上(左)】 本堂向拝-2
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に進むと日朗聖人荼毘所。
当所で日蓮聖人に弟子入りした日朗聖人は本弟子六人の一人で、この地で荼毘に付して欲しいと御遺言されました。現在のお堂は昭和57年に建てられたものです。


【写真 上(左)】 日朗聖人荼毘所
【写真 下(右)】 日朗聖人荼毘所の扁額

本堂対面の熊王殿は、日蓮聖人に従った熊王丸が勧請した熊王大善神をお祀りするお堂で、厄除、眼病や歯痛などに霊験あらたかとされます。
切妻造ないし入母屋造の妻入りで、前面に大ふりな向拝が設えられています。
背後の岩盤に嵌め込むように建てられているので、間口の狭い妻入り様式なのかもしれません。


【写真 上(左)】 熊王殿
【写真 下(右)】 熊王殿扁額

水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
正面硝子格子扉の上には「熊王殿」の扁額。


【写真 上(左)】 富士見台への階段
【写真 下(右)】 富士見台からの眺望

熊王殿脇の急な階段をのぼると富士見台。
鎌倉駅付近から由比ガ浜まで一望でき、晴れた日には富士山や伊豆大島も望めるそうです。
そのまま尾根伝いに行くと「立正安国の鐘」、さらに進むと南面窟で15分ほどの巡拝コースとなっています。
南面窟は、松葉ヶ谷法難の際に日蓮聖人が白猿に導かれて難を逃れ一夜を明かされたところといわれます。



【写真 上(左)】 本堂側からの御小庵
【写真 下(右)】 御小庵

熊王殿の奥には御小庵と御法窟がありますが、現在非公開となっています。
御小庵はその奥にある御法窟の拝殿で、御法窟は御小庵の奥にある岩屋です。
この御法窟がかつて日蓮聖人がお住まいになられた御草庵跡で、こちらで『立正安国論』も執筆されたと伝わります。


【写真 上(左)】 御小庵の見事な彫刻
【写真 下(右)】 御小庵の扁額

御小庵は宝形造で本瓦葺、本堂は桟瓦葺なので、御小庵の堂格の高さがうかがわれます。
江戸時代末期、尾張徳川家の寄進によるもので総欅造り、屋根の照りが効いた均整のとれたお堂です。

軒下向拝の水引虹梁両端に獅子と貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
彫刻類はいずれも見事な仕上がりで、正面格子扉の上には「御小庵」の扁額が掲げられています。

当山は花の寺で、御小庵そばの樹齢760年ともいわれる山桜は「妙法桜」と呼ばれ、「日蓮上人が地面についた杖から根付いた」という伝説をもち鎌倉市天然記念物。
本堂手前左の山茶花も銘木として知られ、こちらも鎌倉市天然記念物に指定されています。
東国花の寺百ヶ寺霊場第95番の花種は「妙法桜」です。

こちらの御朱印は豪快な筆致で知られています。
御朱印は書置が用意されている模様ですが、御首題は御住職ご不在時はいただけないので、御首題拝受の際には事前TEL確認がベターかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 花の寺霊場の御朱印(御朱印帳書入)

 
【写真 上(左)】 御朱印(平成30年11月)
【写真 下(右)】 御朱印(令和3年12月)


21.楞厳山 妙法寺(みょうほうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市Web
鎌倉市大町4-7-4
日蓮宗
御本尊:釈迦三尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

鎌倉市資料(市史、Webなど)によると、妙法寺は房総から布教のため鎌倉に入った日蓮聖人が最初に結ばれた草庵(松葉ヶ谷御小庵)の地とされています。
鎌倉の僧や武士により焼き打ちされた松葉ヶ谷法難も、この地であるという伝承があります。

この草庵跡に日蓮聖人が建てられた法華堂が本圀(國)寺で、本圀寺が室町時代に京都へ移されたあと、延文二年(1357年)日叡上人が父・大塔宮護良親王の菩提のために寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれます。

「開山は日蓮と称し、中興開山を五世日叡とする。」(『鎌倉市史 社寺編』)
日蓮聖人は文永八年九月までこの地(御小庵)を布教伝道の拠点とされたと伝わります。

日叡上人は幼名を楞厳(りょうごん)丸といい、妙法房と称したのでこれを山号・寺号としたともいいます。

鎌倉市史には「塔頭として重善院、円蔵院、顕応坊、蓮乗坊、常縁坊など五院があって、南北朝から室町時代にかけては、なかなか盛んな寺であったことが想像できる。」とありますが、その後荒廃したと記されています。
しかし「十一代家斉が参拝し、明治三十年頃までお成の間があった。また現在の本堂は肥後の細川氏の建立」とあるので、江戸後期には相応の寺格を有していたものとみられます。

松葉ヶ谷(本國寺旧跡)は日蓮宗にとって大切な霊地ですが、その変遷については諸説あるようです。
『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「松葉ヶ谷 名越の内なり。長勝寺の境内を松葉ヶ谷と唱ふ。日蓮安房國小湊より当所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を経て此邊に庵室を結ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊跡の條を合せ見るへし。」

本國寺舊跡について、『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「本國寺舊跡 松葉が谷といふ。名越切通坂下、今の長勝寺の地なりといふ。安國寺も松葉の谷なり。最初日蓮居住の舊跡、貞和(1345-1350年)の初に本國寺を京都へ移さる。長勝寺、今は地名を石井と唱ふ。日蓮上人舊跡由緒を失ふにひとし。日蓮、松葉が谷本國寺を日朗へ与へ、日朗より日印・日靜と註し、日靜は貞和元年(1345年)の頃本國寺を京都へ移し、此所を日叡に授与せしむ。其後日叡本國寺を改め、妙法寺と号し、其後断絶せしを、再興の長勝寺と称する由。●京都へ移されし日靜といふは、尊氏将軍の御叔父なり。夫ゆへに、本國寺大伽藍建立せられ、大寺となれり。」

境内には美しい苔の石段があることから、「苔寺」とも呼ばれます。
鎌倉ゆかりの俳人・高浜虚子が俳句会を開いたとされ、虚子の次女・星野立子や門下の汾陽(かわみなみ)昌子などの句碑が残ります。

本堂向かって右手の仁王門の奥(奥の院エリア)には苔の階段、法華堂、松葉谷御小菴霊跡、伝・護良親王の御墓などの見どころがあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 石標
安国論寺の参道前を右手に行く道が、妙法寺への参道です。
この分岐に台座に「松葉谷」と刻まれたお題目塔、寺号標、「高祖御小菴之本土」と刻まれた石標が建っています。

少し進むと右手に山側に向かう道、その正面が山門です。
このあたり、来訪者はさして多くはないようですが、鎌倉らしい寂びた雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 石標と山門

山門手前に「松葉谷御小菴霊跡」と刻まれた石碑。
山門は切妻屋根銅板葺の四脚門で通常閉門のようです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 受付から本堂方向

山門右手をすすむと、拝観料受付です。
現在の状況は不明ですが、2019年春時点(新型コロナ禍前)では夏期(7-8月)、冬期(12-3月)は奥の院の参拝は土・日・祭日のみ可能で、本堂までは通年お参りできました。

筆者は奥の院参拝可能日に参拝していないため、こちらについての写真やご案内はありません。
後日参拝したうえで加筆したいと思います。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺で前面に均整のとれた唐破風を起こしています。
水引虹梁両端に獅子・貘雲の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には龍の彫刻、兎毛通の朱雀?の彫刻もなかなか見事なものです。
向拝正面桟唐戸のうえには山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 扁額

本堂は欅造りで、均整のとれた構えや彫刻類の精緻さからみても大名・細川氏の寄進を物語るものがあります。

御首題・御朱印は庫裡にて拝受しました。

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


22.法華山 本興寺(ほんこうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町2-5-32
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

日蓮聖人の直弟子で「九老僧」の一人・天目上人が延元元年(1336年)に開創した寺で、日蓮聖人が辻説法の途中に休息されたことから、当所は休息山 本興寺と称していました。
その後二世日什上人(明徳三年(1392年)寂)により山号を法華山と改め、開基を天目上人、開山は日什上人とされています。

日蓮聖人の辻説法ゆかりの寺院であることから、通称「辻の本興寺」とも呼ばれています。

『新編相模國風土記稿』の本興寺の項に「辻町ニアリ。法華山と号ス。本寺前ニ同じ(妙本寺?)。古ハ京妙満寺の末ナリシガ。中興ノ後今ノ末トナルト云フ。本尊三寶祖師ヲ安セリ。開山ヲ日什(明徳三年(1392年)二月廿八寂ス)。中興ヲ日逞ト云フ。延寶三年(1675年)五月十七日寂ス。」とあります。

鎌倉市観光協会Webには「1660年に幕府により取り潰しに遭いましたが、1670年(寛文十年)本山妙本寺日逞上人により再建され現在に至ります。」とあります。

日蓮系の諸宗派は一致派と勝劣派、さらに不受不施派など教義により複雑に分派しますが、このような教義により寺歴を変遷した寺院と伝わります。

その経緯については、横浜市泉区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)法華山 本興寺の公式Webに記載されているので、そちらをご覧ください。

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【写真 上(左)】 お題目塔
【写真 下(右)】 辻説法之舊地の碑

材木座海岸から雪ノ下に向かう小町大路がJR横須賀線の踏切を渡ったすぐ北側が参道入口。
参道入口に建つ「日蓮大聖人辻説法之舊地」の碑の文面はつぎのとおりです。
「本興寺縁起 日蓮大聖人鎌倉御弘通の当時 此の地点は若宮小路に至る辻なるにより今猶辻の本興寺と称す 御弟子天目上人聖躅を継いで又 此地に折伏説法あり 實に当山の開基なり 後年日什上人(顕本法華宗開祖)留錫せられ寺観大いに面目を改めむ 常楽日経上人も亦当寺の第廿七世なり」


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 聖徳太子堂
【写真 下(右)】 本堂

小町大路から石敷の参道。その先の山門は切妻屋根桟瓦葺、朱塗りの丸柱の四脚門です。
山内はさほど広くはないものの、よく整備されています。
「百日紅」と「しだれ桜」の寺としても知られています。
朱塗りの一間社流造の堂宇は、聖徳太子堂とみられます。


【写真 上(左)】 飾り瓦
【写真 下(右)】 向拝

正面の本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
向拝屋根の先端にいは存在感ある獅子の飾り瓦。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を置いています。

御首題は庫裡にて拝受しました。



23.法久山 大前院 上行寺(じょうぎょうじ)
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町2-8-17
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

鎌倉市資料によると、正和二年(1313年)日範上人の創建と伝わる日蓮宗の寺院です。
境内には御本尊の三宝祖師のほか、瘡守稲荷、鬼子母神が奉られています。
本堂左手には万延元年(1860年)に桜田門外で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士のひとり、広木松之助の墓があります。

『新編相模國風土記稿』の上行寺の項に「名越町ニアリ。法久山大前院ト号ス。本寺前ニ同じ(京都本國寺?)。正和二年(1313年)僧日範起立スト云フ。本尊宗法ノ諸尊及ヒ宗祖ノ像ヲ安ス。」
「稲荷社。瘡守稲荷ト号ス。正暦年中(990-995年)ノ勧請ト云伝フ。按スルニ。正暦ハ当寺起立ヨリ三百二十余年以前ナレバ。往昔ヨリ此所ニ在シ社ナルヤ。」とあります。

こちらは北条政子が源頼朝の「おでき」を治すために参拝したとも伝わり、そのゆかりからか癌封じのお寺として有名です。

山内には御利益が記された手書きの貼紙がたくさん貼られ、祈願寺の空気感。

現在の本堂は明治19年(1886年)に松葉ヶ谷の妙法寺の法華堂を移築したものといわれています。

こちらは、山内をあれこれご紹介する寺院ではないように思われますので、ご紹介はここまでです。

御首題、御朱印とも授与されていますが、御首題のみ拝受しています。
御首題授与にあたっては、ご親切な対応をいただきました。

 
【写真 上(左)】 上行寺全景
【写真 下(右)】 御首題


■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)へつづく。


【 BGM 】
■ Hero - David Crosby & Phil Collins


■ The Way It Is - Bruce Hornsby and the Range


■ All Of My Heart - ABC


■ If I Belive - Patti Austin



■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)
■ 鎌倉市の御朱印-8 (B.名越口-3)
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