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■ 鎌倉市の御朱印-11 (B.名越口-6)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)から。


ここから材木座エリアに入ります。

36.天照山 蓮華院 光明寺(こうみょうじ)
公式Web
「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」

鎌倉市材木座6-17-19
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:関東十八檀林10、鎌倉六阿弥陀霊場第3番、鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵霊場第22番、三浦半島四十八阿弥陀霊場第48番、東国花の寺百ヶ寺霊場鎌倉第2番、七観音霊場第3番、小田急沿線花の寺四季めぐり第25番


光明寺は材木座にある浄土宗の大本山です。

公式Web「新纂 浄土宗大辞典/光明寺」、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

光明寺の創立は寛元元年(1243年)、開山は浄土宗三祖然阿良忠上人(1199-1287年・記主禅師)といいます。
良忠上人は正治元年(1199年)石見国三隅庄に生まれ、38歳で聖光上人のお弟子となり、学究ののち法然上人の教えを受け継がれて浄土宗の三祖になられました。

浄土宗の宗祖は法然上人で、二祖は久留米善導寺を開かれた聖光上人(弁長)です。
法然上人の寂後、浄土教学は大きく以下の4流(浄土四流)に分かれました。

・三鈷寺証空の西山義(西山派)
・善導寺弁長の鎮西義(鎮西派)
・長楽寺隆寛の長楽寺義
・九品寺長西の九品寺義

うち、浄土宗主流は弁長(聖光上人)の鎮西義(鎮西派)となり、良忠上人はこの鎮西義(鎮西派)を継がれました。

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建暦元年(1211年)良忠上人は13歳のとき、出雲国の天台宗寺門派鰐淵寺の月珠房信暹門弟となり、16歳で出家受戒。
鰐淵寺では天台寺門派、同山門派等の天台密教を相承したといいます。

嘉禎二年(1236年)九州に下向、筑後国上妻の天福寺で浄土宗二祖の聖光上人に面謁、数々の教えを相伝。宗論を撰述し、聖光上人の印可を受けました。

暦仁元年(1238年)から約10年間石見国~安芸国を教化。
高野山明王院学頭の源朝阿闍梨が安芸国に左遷された折、良忠上人は源朝阿闍梨に師事して真言密教を学んだともいいます。

建長元年(1249年)頃、信濃善光寺を経て下総に向われ千葉氏一族の外護を受け、常陸、上総、下総三国の教化活動と浄土宗典の講述をなされました。

正元元年(1259年)頃鎌倉に移住。
ただし、仁治元年(1240年)鎌倉入り説もあります。

浄土宗の立教開宗の書ともされる『選択本願念仏集』(選択集/せんちゃくしゅう)、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経(観経)』『阿弥陀経』)、『観経疏』(『観経』の注釈書)などの講述を究められたといいます。

東密(真言密教)、台密(天台密教)と幅広く学ばれた良忠上人は、浄土宗論の撰述・講述でも卓越した才をあらわされたのではないでしょうか。

鎌倉では幕府の評定衆・大仏(北条)朝直の帰依を得て佐介ヶ谷に悟真寺を創建。
朝直は北条時政の子息・北条時房(鎌倉幕府初代連署)の子につき相応の権力を有していたとみられ、バックアップは安定していたのでは。

良忠上人は朝直の子時遠からも帰依を受け、専修念仏の指導的な立場を担われたといいます。
なお、寺伝では当山開基は鎌倉幕府第四代執権・北条経時公とされています。

悟真寺については後述しますが、悟真寺(蓮華寺)を光明寺の前身寺院とすることについては年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。

文永八年(1271年)、良忠上人は極楽寺の良観・理智光寺の道教・浄光明寺の行敏らとともに日蓮宗に対抗するとともに、比叡山修学中の良暁を鎌倉に呼び寄せ浄土の奥義を授けたといいます。

当時の鎌倉では法然門流のうち、長楽寺義の南無房智慶・願行円満、西山義西谷流の観智・行観、諸行本願義の念空道教・性仙道空らがそれぞれの浄土教を布教・展開していました。
したがって良忠上人は、独自の教学を強く打ち出す必要がありました。

建治二年(1276年)良忠上人は上洛され、宗祖法然上人の遺弟を尋ねて法然上人の遺文の収集に努めたといいます。
また、良忠上人の教学は、浄土教学(法然門流)の長楽寺義・九品寺義・西山義(東山義・深草義)との討論(教学論争)によって研ぎ澄まされたとみられています。

そして各種の教学講述や法然上人の遺文類をもとに、『決疑鈔』(五巻本)を完成されました。

良忠上人は弘安九年(1286年)の秋、鎌倉に再度下向されました。
その直後、弟子の良暁に授与された付法状で、法然—聖光—良忠の「三代相伝」をいい、「三代之義勢」を表明されたといいます。

弘安十年(1287年)89歳をもって入寂。
生前の功績が認められ、伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜りました。

良忠上人の寂後、その門流は以下の6派に分かれました。
 ・白旗派(良暁)
 ・藤田派(性心)
 ・名越派(尊観)
 ・三条派(道光)
 ・一条派(然空)
 ・木幡派(慈心)
うち白旗派が浄土宗(鎮西義)の主流となり、現在に至っています。

光明寺は白旗派を代表する名刹です。
名越派は尊観が鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいい、善導寺は大町の安養院(浄土宗)の前身のため、大町~材木座にかけては良忠上人の影響がとりわけ強いエリアです。

※ 善導寺および名越谷善導寺については、■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)の24.安養院を参照願います。


【 悟真寺・蓮華寺 】(ごしんじ・れんげじ)
正嘉元年(1257年)頃(仁治元年(1240年)説あり)、下総から鎌倉入りした良忠上人は、はじめ慈恩坊を頼って大仏勧進聖の浄光を尋ね、浄光は大仏谷に一宇を建てて良忠上人はここに住されたと伝えます。
間もなく大仏(北条)朝直の支援を得て、佐介ヶ谷に悟真寺を創建といいます。

寺号については、浄土第三祖・善導大師入山の終南山悟真寺由来との説があります。
のちに蓮華寺と改名され、材木座へ移転して浄土宗大本山光明寺となったため、光明寺の前身寺院とされます。

悟真寺から蓮華寺への改号の理由ははっきりせず、蓮華寺から光明寺への改号は北条経時の霊夢によるという伝承もありますが、こちらもはっきりしません。
また、佐介谷から材木座への移転の理由も時期も、多くの史料類は明示していません。

悟真寺については後述しますが、悟真寺・蓮華寺を光明寺の前身寺院とすることについては史料により年代的な不整合もみられ、異説もあるようです。

今回、史料・資料類を当たってみると2つの時系列説があることがわかります。
ひとつは『新纂 浄土宗大辞典』系のもの、もうひとつは『新編鎌倉志』系のものです。

【A.『新纂 浄土宗大辞典』系説】

正元元年(1259年)頃
 良忠上人 下総から鎌倉に移住
 佐介ヶ谷に建立された悟真寺に入る
建治二年(1276年)
 良忠上人 鎌倉から上洛
弘安九年(1286年)
 良忠上人 京から鎌倉へ下向
弘安十年(1287年)
 良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂
 後継者の良暁上人は悟真寺を中心に教線の拡張を計る
正中二年(1325年)頃
 良暁上人は悟真寺から蓮華寺と寺名を改めた
九世祐崇上人(1426-1509)のとき
佐介ヶ谷の蓮華寺を材木座の現在地に移し、光明寺と改称したともいわれる
明応四年(1495年)
 祐崇上人は後土御門天皇の勅命により浄土教を講説
 光明寺は勅願寺と関東総本山となる

【B.『新編鎌倉志』系説】

仁治元年(1240年)
 良忠上人鎌倉に入られる
寛元元年(1243年)
 北条経時、佐介谷に悟真寺を良忠上人を開山として開基
寛元三年(1247年)以前
 良忠上人、材木座の蓮乗院に入られ光明寺建立の準備をされる
寛元三年(1247年)
 悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改号
弘安十年(1287年)
 良忠上人 鎌倉にて八九歳で入寂

※ただし、蓮華寺跡(佐介谷)の項に「光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。」との記事があり、上記と整合しません。

A.『新纂 浄土宗大辞典』系説では、弘安十年(1287年)良忠上人が八九歳で入寂されたときには佐介谷悟真寺が存在し、光明寺(1426年以降の移転・改称)はまだありません。

B.『新編鎌倉志』系説では、良忠上人が材木座の蓮乗院に入ってみずから光明寺建立の準備をされ、寛元三年(1247年)悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺に改号という流れです。

以上、A説とB説では年代的に隔たりがあるので、この二説が混在すると時系列が不整合となります。
光明寺の前身寺院の沿革に諸説あるのは、このような背景があるためと思われます。

なお、光明寺公式Webや現地案内板では光明寺の創立を寛元元年(1243年)としているので、B.『新編鎌倉志』系説が定説として流布している模様です。


関連して、『新編鎌倉志』『新編相模国風土記稿』の「光明寺・善導堂」の項には気になる記述があります。

善導堂はもと光明寺の海側の総門内松葉林中にあったといいます。
御本尊の善導大師(613-681年)は、唐時代の中国の僧で「浄土五祖」の第三祖とされ、その教えは法然上人・親鸞上人に大きな影響を与えました。

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【善導堂縁起】
善導大師の霊像が唐船で筑紫に渡来したとき、鎮西善導寺の開山・聖光上人の夢に善導大師があらわれて「われ筥崎にあり、来り迎へよ」とお告げがありました。
聖光上人が筥崎に来てみると果して善導大師の霊像がみつかり、一宇を建立して霊像を安置し、その後善導寺に遷しました。

聖光上人はこの霊像を良忠上人に託しましたが、良忠上人が関東巡錫に出立される際、この霊像に向かい「わたしはこれから関東教化のため出立します。どうぞ願わくば教化有縁の地を示し給え」と念じて、尊像を筑紫の海中に投じたといいます。

良忠上人は鎌倉の佐介谷に住しましたが、あるとき由比の浜辺に光明が満ちて、かの霊像が忽然とお姿をあらわしました。
良忠上人は霊像漂着の地が浄土教学有縁の地と確信され、一宇を建立して霊像を安じました。
これが光明寺といいます。
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上の善導堂縁起によると、良忠上人は佐介谷の悟真寺(ないし蓮華寺)に住されていましたが、善導大師の霊像の霊験を目の当たりにして材木座の海岸に一宇を建立、これが光明寺(の前身)ということになります。

つまり、佐介谷に悟真寺(蓮華寺)が存在した時点で、すでに材木座の海岸にも一宇(善導堂)があったという見方です。

佐介谷の悟真寺(蓮華寺)が材木座に移り光明寺と改めたのは良忠上人寂後としても、上人が材木座に建立された善導堂の地に移ったという流れなのかもしれません。

寺号については史料に「光明赫奕して霊像が忽然と由比濱に着岸」とあるので、あるいはこの縁起から由来という想像も浮かびます。

なお、悟真寺→蓮華寺→光明寺の改号については、以前別記事(■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8/蓮花寺)にてとり上げています。興味のある方はご参照くださいませ。

光明寺は、その後も第五代執権・北条時頼公をはじめ歴代執権の帰依を受けました。
関東における念仏道場の中心となり、七堂伽藍を整え、後土御門天皇より「関東総本山」の称号を賜り勅願寺とされ、「関東総本山」ともされました。

後土御門天皇の帰依を受け、紫衣を許された八世観誉祐崇上人は中興開山とされています。
上記のA説によれば佐介谷の蓮華寺を現在地(材木座)に移し、光明寺と改めたのは祐崇上人ですから、この業績も認められてのことかもしれません。

徳川家康公は当山を「関東十八檀林」の筆頭に位置づけ、念仏信仰、仏教研鑽の根本道場の地位を固めました。(※檀林とは徳川幕府が定めた学問所です。)
同じ大本山の芝・増上寺は徳川家菩提寺で、当山とは役割を分けていたようです。

浄土宗公式Webによると、現在の主要寺院の格式は以下のとおりです。

総本山
・知恩院(京都市東山区)

大本山(7寺院)
・増上寺(港区芝公園)
・金戒光明寺(京都市左京区)
・百萬遍知恩寺(京都市左京区)
・清浄華院(京都市上京区)
・善導寺(福岡県久留米市)
・光明寺(神奈川県鎌倉市)
・善光寺大本願(長野県長野市)

光明寺は関東にふたつしかない浄土宗大本山で、たいへん高い寺格をもちます。

筆者は光明寺の御朱印帳をもって関東の浄土宗寺院を回ったことがあるのですが、いくつかの寺院で「光明寺様の御朱印帳に書き入れるのは畏れ多い。」とのご住職のお言葉をいただきました。
それだけ高い格式・権威をもたれているということかと。

当山は譜代大名・内藤家の菩提所です。

内藤氏はふるくから松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄で、上総佐貫藩主を経て陸奥磐城平藩主から日向延岡藩7万石の藩主に転じました。
磐城平藩第3代藩主・内藤義概(1619-1685年)の代まで、内藤家菩提寺は江戸霊厳寺でしたが、義概は位牌堂と石塔を光明寺に移し、寺領百五十石を寄進して光明寺の大旦那となりました。
別に新庄家などの墓所もあり、こうした武家の旦那衆が江戸期の当山の経営を支えたともみられています。

当山は「お十夜」発祥の寺でもあります。
お十夜法要は、第九世観譽祐崇上人の代(明応四年(1495年))に始まりました。
後土御門天皇の勅許を受け、引声阿弥陀経と引声念仏による十夜法要を勤めるようになり、いまも毎年十月の四日間盛大に法要が勤められています。

関東大震災で大きな被害を被りましたが復興し、いまも浄土宗大本山、鎌倉を代表する名刹としての存在感を放っています。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。(中略)
開山は記主禅師、諱は良忠、然阿と号す。石州三隅荘人なり。父は宰相藤原頼定、母は伴氏、正治元年(1199年)七月二十七日に生る。弘安十年(1287年)七月六日に示寂。年八十九。聖光上人の弟子なり。聖光は法然上人の弟子なり。

良忠弟子六人有て、今に六派相分る。
所謂六派は、京都の三箇は、一條ノ禮阿、三條ノ道光、小幡ノ慈心なり。
関東の三箇は、白旗ノ寂慧(光明寺二世)、名越尊観(大澤流義の祖)、藤田ノ持阿(藤田流義の祖)、是を六派と云ふ。
当寺は六派の本寺なり。六派の内、白旗・大澤の両派のみ今尚盛なり。四派は断絶す。
十七箇寺の檀林は白旗なり。(中略)
外門 昔佐介谷に有し時、平経時の弟時頼外門に額を掛て、佐介浄刹と号すと。今は額なし。
山門 額、天照山とあり。後花園帝の宸筆なり。
開山堂 開山木像を安ず。自作なり。勅諡記主禅師とある額を此堂に掛しとなり。
客殿 三尊を安ず。阿彌陀の像は運慶作。観音勢至像、作者不知。
方丈 蓮華院と号す。阿彌陀の像を安ず、此像も運慶が作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ。
祈祷堂 今は念佛堂と云ふ。本尊は阿彌陀、慧心の作と云ふ。左方に辯才天の像あり。昔江島辯才天の像、或時暴風吹来て、此寺前海濱に寄泊る。里民相議して彼島帰す。其後又来る。如此する事三度なり。因て寺僧御●を取に、永く此寺に止まるべき由なり。故に爰に安ずと云。右の方に善導像あり。自作と云。

寺寶
勅額 二枚
一枚は、後宇多帝の宸筆、勅諡記主禅師とあり。
一枚は、後土御門帝の宸筆、祈禱の二字なり。

善導塚  ※由緒は『新編相模国風土記稿』にほぼ同じにつき略。

蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(材木座村)光明寺
天照山蓮華院と号す、浄土宗、関東総本山と称し十八檀林の第一位にして六派の本寺なり、仁治元年(1240年)北條武蔵守経時佐介谷に於て浄刹を創立し蓮華寺と名つく時に僧良忠悟眞寺に在り経時延て開山初祖とし、武州足立郡箕田の地を寄附して寺領とす

寛元元年(1243年)今の地に移転して堂宇を修復す斯て経時夢兆に感じて光明寺と改む(中略)寶治二年(1248年)良忠洛の尼院にあり、後嵯峨上皇の戒師となり、香衣幷に上人号を賜ふ
建長元年(1249年)鎌倉に帰る、時頼由良の地を割て寄附せり、良忠弘安十年(1287年)七月六日寂す 永仁元年(1293年)勅謚ありて記主禅師と号す
建武二年九月當寺造營の爲修理田一町を寄附あり(注釈)
貞治二年二月足利基氏上總國湯井號觀應三年の例に任せ、寄附ある旨證状を授與す(注釈)
其後祐崇永正六年(1509年)寂す、当寺の住職たり、是を中興の祖とす

本堂 開山の像を置く
客殿 三尊の彌陀を安ず 中尊は運慶作余は作人知れず
方丈 彌陀を安ず 運慶作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ
【寺寶】(中略)
紫石硯一面 唐玄宗の松蔭の硯と称す、相伝て平重衡受戒の時、法然に与ふ、法然是を聖光に譲り、聖光又記主に譲ると云へど、背に永享(1429年)の年号あり、是法然記主の時代にあらず、是非詳ならず

二尊堂 善導大師 自作、衣に金泥にて、彌陀經を書たり
辨財天 江島奥院の分身と云ふ、昔江島辨財天の像、或時暴風吹来て、此の如する事三度なり、因て寺僧御●を取に、当寺に止まるべき由なり、故に爰に安ずといへり、及び聖徳太子の像を置く

善導堂 総門内松葉林中にあり、金銅の像を安ず【鎌倉志】には是を善導塚と挙げ、古伝を引て昔善導の像僧と化し唐船に乗て筑紫に渡来す、時に鎮西善導寺の開山聖光夢に善導来朝して筥崎にあり、来り迎へよと告ると見しかば頓て彼地に至る果して像あり、其地に一宇を建立す、其落善導寺に移す、後良忠鎮西にて(聖?)光より其像を附屬せらる(良?)忠霊像に向て吾是より関東の諸國に化を施さんと思ふ、其間何國にても有縁の地に蹟を留め給へと云て海中に投ず、其後(良?)忠鎌倉に至り佐介谷に居す、由比の澳に光明赫奕たり、漁父奇とする処霊像忽然として由比濱に着岸す、(良?)忠因て一宇を建立して彼像を安ず、光明寺是なり、漂泊の地を善導塚と名づくと載せたれど此霊像の為に(良?)忠当寺を創建せしと云ふは寺伝と齟齬せり、さて舶来せしは今二尊堂に安ずる像にて是なるは其模像なりとぞ

神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり
秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり、開山塔。山上にあり
内藤家祠堂。阿彌陀 定朝作 如意輪等の像を安じ、内藤備後守、同氏播磨守先世代々の霊牌を置く
鐘樓 正保四年鑄造の鐘を掛く 按ずるに当寺に、竹園山法泉寺の鐘ありしが、今は失へりと云ふ
記主水 寺の山麓にあり 開山の加持水なりと云ふ
総門 昔佐介谷に在し時は、経時の弟時頼、浄刹の額を掲げしと云ふ 今其額を伝へず
山門 天照山の額を扁す 後花園帝の宸筆なり

■ 山内掲示
・光明寺(鎌倉市)
宗派 浄土宗
山号寺号 天照山蓮華院光明寺
創建 寛元元年(1243)
開基 北条経時
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。
開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で仁治元年(一二四0)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元三年(一二四三)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄十一年(一六九八)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化四年(一八四七)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
十月十二日から十五日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市が立ち大勢の人で賑わいます。

・御案内
この寺は天照山蓮華院光明寺と称し、浄土宗の大本山で「お十夜さんの寺」として、多くの方々に親しまれております。
その十夜法要は明応四年(一四九五年)当山第九代観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅許によりつとめられたのを始めといたします。

創立 鎌倉時代・寛元元年(一二四三年)
開基 鎌倉幕府 執権第四代 北条経時公
法号は蓮華寺殿安樂大禅定門
開山 浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚
   御入滅 弘安十年(一二八七年)七月六日 八十九歳
御本尊 阿弥陀如来「伝 鎌倉中期作」(大殿中央)
札所 鎌倉三十三観音霊場第十八番如意輪観音(大殿右手)
   鎌倉二十四地蔵霊場第二十二番延命地蔵(境内右手)
鎮守 天照皇大神(天照山中腹)
秋葉大権現(天照山山頂)
繁栄稲荷大明神(境内右手)
建物 総門 承応四年(一六五五年)
山門 弘化四年(一八四七年)
大殿 元禄十一年(一六九八年)
開山堂 元禄十一年(一六九八年)
大聖閣 平成二十一年再建
施設 小堀遠州作「記主庭園」
昭和の名庭「三尊五祖の石庭」

・山門
弘化四年(一八四七)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。
建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。
「天照山」の扁額は永享八年(一四三六)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には次の諸尊が安置されています。
釈迦三尊
四天王像
十六羅漢像
(いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。)

・大殿
本尊阿弥陀如来、観音・勢至両菩薩を安置する当山の中心の御堂です。
元禄十一年(一六九八)、当山第五十一世洞譽上人の代に建立されたものです。
十四間四方の大建築で現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂です。
建物は数度の改修で一部建立当初の形を変えていますが、内部の円柱、格天井、欄間の彫刻など建立当初の荘厳さを今に伝えています。
大殿の左側には小堀遠州の流れをくむ蓮池として有名な記主庭園、右側は三尊五祖の石庭が配してあります。

大殿内の主な尊像
本尊阿弥陀三尊像 善導大師像 宗祖法然上人像
如意輪観音像 和賀江島弁財天僧

・開山堂
当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。
開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました。
上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉二年(一二五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。
また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られました。
毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。

・善導大師像
中国唐時代に活躍された浄土教の高僧で、宗祖法然上人はこの善導大師の教えに導かれて浄土宗を開かれました。
浄土宗では大師を高祖と崇拝しています。

当寺の御開山良忠上人も厚く大師を敬い鎌倉時代から深く心の結びつきを持たれていました。
良忠上人はこの地に光明寺を開かれて善導像を作り、大師を顕彰されました。
この銅像は寛文(一六六三年)当時第四十一代玄譽知鑑上人の建立です。

・繁栄稲荷大明神
当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。
この時上人は子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していったということです。
鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。
のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
浄土宗大本山 もと関東総本山と称し、良忠門下六派の総本山、十八檀林の第一位であった。
開山 然阿良忠
中興開山 八世観誉祐崇、三十一世深誉伝察
開基は北条経時と伝える。
本尊 阿弥陀三尊

従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠が仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。
しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。
『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)
『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)
現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。



原典:河井恒久 等著 ほか『新編鎌倉志,鎌倉攬勝考』,大日本地誌大系刊行会,大正4.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:雄山閣編輯局 編『大日本地誌大系』第40巻/ 第40巻 新編相模国風土記稿. 第1至5,雄山閣,昭7-8.国立国会図書館DC(保護期間満了)


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光明寺は材木座海岸にほとんど面してあります。
車の場合、海沿いの国道134号からは直接アプローチできず、小坪海岸トンネルか小町大路経由となるので要注意です。

材木座海岸には鎌倉時代に北条泰時公(1183-1242年)の命で築かれた「和賀江嶋」(わかえのしま)の遺蹟があります。

和賀江嶋は遠浅の相模湾で港の機能を強化するために築かれたもので、鎌倉時代から江戸時代まで使われたといいます。
南宋などから船が来港していた可能性もあり、光明寺は鎌倉の海の玄関口に位置していたことになります。

海岸から100mも離れず参道が始まります。
関東でも海に近い神社はけっこうありますが、海に至近の名刹はめずらしく、当山と安房鴨川の誕生寺くらいしか思いつきません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 総本山の石標

入口に「関東総本山」の立派な石標。参道の幅員も広くさすがに名刹の風格。
正面が総門、右手が支院の蓮乗院、左手も旧僧坊の千手院です。


【写真 上(左)】 総門(開門時)
【写真 下(右)】 総門(閉門時)


【写真 上(左)】 総門前寺号標
【写真 下(右)】 総門の寺号板


【写真 上(左)】 総門の扁額と彫刻
【写真 下(右)】 総門門扉の紋

総門は鎌倉市指定文化財。
切妻屋根本瓦葺の四脚門で、柱に「大本山光明寺」、見上げに精緻な彫刻を置き中央に扁額を掲げています。
建立は明応四年(1495年)で寛永年間(1624-1628年)に再興。
以前はもっと大きな門だったといいますが、上部には桃山時代の様式をいまも残すとされます。

門扉は格子、桟と菱格子を併用した意匠性の高いもので、五七桐紋と菊花紋を組み合わせた紋を置いています。
この格調高い御紋は、後土御門帝勅願所の格式をいまに伝えるものでは。
総門前には「浄土宗第三祖 記主禅師遺蹟 大本山光明寺」の石標。

総門をくぐると広大な駐車場。この広さは鎌倉屈指です。



【写真 上(左)】 六字御名号
【写真 下(右)】 山内案内図


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門

その先に弘化四年(1847年)再建の山門(県重要文化財)が聳え建ちます。
間口約16m、奥行約7m、高さ約20mで、鎌倉に現存する最大の山門です。
桟瓦葺、間数のある堂々たる二重門で、上下層軒下の複雑な斗栱組手が圧巻です。


【写真 上(左)】 山門の斗栱と扁額
【写真 下(右)】 山門扁額

和様唐様折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えるとされます。
折衷様式の代表例は、一層軒の平行繁垂木(和様)、二層軒の扇垂木(唐様/禅宗様)にも見られるといいます。

二層中央の「天照山」の扁額は、永享八年(1436年)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。
楼上には釈迦三尊像、四天王像、十六羅漢像(いずれも江戸時代後期作)が安置されています。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 参道から本堂

山門をくぐると参道正面が大殿(本堂)。
右手手前から合祀墓、鐘楼堂、繁栄稲荷大明神、延命地蔵尊、本堂右手奥に三尊五祖之石庭。
当山大旦那・内藤家墓所は右手墓域内にあり、宝筐印塔を中心に100以上の石塔を連ねています。

左手は手前から庫裏・本坊、書院、開山堂、本堂左手奥に記主庭園、大聖閣という構成です。

順にみていきます。

【鐘楼堂】
総欅瓦葺きの鐘楼堂は弘化四年(1847年)建立。
現梵鐘は昭和36年、法然上人七百五十年遠忌に鋳造された重量三百貫の巨鐘です。


【写真 上(左)】 鐘楼堂-1
【写真 下(右)】 鐘楼堂-2

【繁栄稲荷大明神】
良忠上人は佐介ヶ谷で子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐があらわれ、お礼とともに薬種袋を残していきました。
鎌倉で悪病が流行した折、上人はこの薬種を蒔くと三日の内に成長し、この薬草を服したものは薬効顕れ、病魔はたちまち退散したといいます。
のちに繁栄稲荷大明神として当山に勧請され、病魔退散、豊漁満般、家業繁栄に霊験あらたかといいます。


【写真 上(左)】 繁栄稲荷大明神
【写真 下(右)】 山内の石碑群

【延命地蔵尊】
稲荷大明神の本堂寄りに地蔵堂があります。
『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)等によると、こちらには正中二年(1325年)作銘のある石佛坐像・綱引延命地蔵尊が安置されています。
かつて以前光明寺裏山の小坪切通しの鎌倉側の入口のやぐらにあった御像を遷したものです。
こちらは鎌倉二十四地蔵霊場第22番札所(綱引延命地蔵尊)となっています。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 綱引延命地蔵尊

【三尊五祖之石庭】(本堂改修中は拝観不可)
本堂右手奥側にあります。
「三尊」とは、阿弥陀仏とその脇士観音・勢至の二菩薩。
「五祖」とは浄土教を説法流布された釈尊、善導大師、法然上人(浄土宗開祖)、鎮西上人(浄土第宗二祖・聖光)、記主禅師(良忠上人)の五大祖師を示します。
この三尊五祖が庭園中の石により表現され、庭園構図は此岸と彼岸をあらわしています。


【写真 上(左)】 三尊五祖之石庭
【写真 下(右)】 同 説明板

【庫裏・本坊】
前面の附属棟が授与所となっています。

【開山堂】
開山良忠上人(記主禅師)の尊像、および歴代法主(住職)を祀る御堂です。
令和2年春からの「大殿・令和の大改修」にともない、現在・大殿(本堂)にお祀りする阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られ、仮本堂となっています。

かつては現・本堂(大殿)を祖師堂と称していました。
関東大震災で倒潰した旧・阿弥陀堂の御本尊を旧・開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は大正13年新たに建てられ、平成14年老朽化のため再建されました。

入母屋造銅板葺流れ向拝の平入りですが、向拝上部に大がかりな千鳥破風を起こしているので、一見妻入りに見えます。
三間の向拝で、水引虹梁両端に獅子漠の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。

向拝見上げに「開山堂」、堂内に「勅諡記主禅師」の二重扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂扁額-1


【写真 上(左)】 開山堂扁額-2
【写真 下(右)】 開山堂堂内

本堂と開山堂のあいだには回廊が渡され、背後の庭園とあいまって見どころとなっています。
回廊前には善導大師像が安置されています。


【写真 上(左)】 庭園方向
【写真 下(右)】 善導大師像

【本堂(大殿)】
元禄十一年(1698年)建立の十四間四面の大堂で、現存する木造の古建築では鎌倉一の規模とされ「百本柱のお堂」として知られています。国指定の重要文化財です。

かつては開山良忠上人像を安置して「祖師堂」と称していましたが、祖師堂を中心伽藍に置く様式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例とされます。


【写真 上(左)】 本堂(改修前)
【写真 下(右)】 本堂(改修中)

入母屋造銅本棒葺流れ向拝で軒唐破風。大棟には菊花紋と五七桐紋を交互に置いています。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 向拝(閉扉時)
【写真 下(右)】 向拝(開扉時)

向拝は三間で水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝柱には「専修念佛根本道場」、見上げに寺号扁額、堂内にも扁額を置く二重扁額です。


【写真 上(左)】 「専修念佛根本道場」
【写真 下(右)】 向拝扁額


【写真 上(左)】 二重扁額
【写真 下(右)】 本堂内-1


【写真 上(左)】 本堂内-2
【写真 下(右)】 御本尊

浄土宗では本堂を開放する寺院が多いですが、こちらも通常開扉され堂内拝観できます。
華やかな欄間彫刻、精緻な天井絵、金色に輝く天蓋や瓔珞など、さすがに名刹にふさわしい空間です。

中央の御本尊阿弥陀三尊像は、伝・鎌倉中期作といいます。
右檀には善導大師等身大立像と弁財天像が安置されています。

善導大師立像は、かつて二尊堂にあって良忠上人が聖光上人より拝受の像といい、由比ヶ浜漂着の縁起が伝わります。
弁財天像は、江ノ島辯才天ゆかりの縁起が伝わります。

左檀上には、如意輪観世音菩薩像(鎌倉三十三観音霊場第18番・七観音霊場札所本尊)と宗祖法然上人像が安置されています。


【写真 上(左)】 如意輪観世音菩薩像
【写真 下(右)】 観音霊場札所板


【写真 上(左)】 法然上人像
【写真 下(右)】 天井絵

令和2年春から10 年計画で保存修理工事が始まり、御本尊阿弥陀如来および諸尊像は開山堂に遷られています。

■ 大殿 令和の大改修【令和5年度ダイジェスト】―重要文化財光明寺本堂修理工事―


【記主庭園・大聖閣】
背後に小山をおく風雅な浄土宗庭園で、小堀遠州作と伝わります。
蓮池の蓮は夏に色とりどりに開花します。

大聖閣は宗祖法然上人800年大御忌を期して建立。二層には阿弥陀三尊が安置されています。


【写真 上(左)】 記主庭園
【写真 下(右)】 大聖閣

本堂背後の天照山は、良忠上人が天照大神の尊像を感得せられたことからの命名といいます。
中腹に良忠上人をはじめ歴代の墓所と開基である北条経時公(法名:蓮華寺殿安楽大禅定門)の墓所があります。
鎮守社・神明社、秋葉大権現も天照山に祀られています。

【神明社】
天照・春日・八幡の三神を合祀しています。
『新編相模国風土記稿』には、「神明宮 八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり」とあります。

【秋葉社】
『新編相模国風土記稿』には、「秋葉社、九頭權現社、蔵王窟 後阜にあり」とあります。
寺伝には、当山三十三世深譽伝察上人が身を天狗に現じて当山を守護されたとあります。


御朱印は山内左手の庫裏・本坊附属棟にて拝受しました。

複数の御朱印を授与されていますが、↓ の注意書きがあります。

【写真 上(左)】 注意書き
【写真 下(右)】 御朱印見本(金額は変更の可能性あり。)


〔 光明寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 御名号の御朱印

 
【写真 上(左)】 開山 記主禅師の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺霊場の御朱印

 
【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印


七観音霊場の御朱印


以下、つづきます。



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