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■ 鎌倉市の御朱印-15 (B.名越口-10)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)から。


※字数制限の関係上、44.円龍山 向福寺の記事は後ほどUPします。


45.内裏山 霊獄院 九品寺(くほんじ)
鎌倉市観光協会Web

鎌倉市材木座5-13-14
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:(乱橋材木座)三島明神
札所:鎌倉三十三観音霊場第16番、相州二十一ヶ所霊場第9番、小田急沿線花の寺四季めぐり第18番

九品寺は、新田義貞公開基と伝わる浄土宗の古刹です。

鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

元弘三年(1333年)新田義貞公の鎌倉攻めの際、本陣をかまえたという場所で、義貞公が京から招いた風航順西和尚を開山に、北条方の戦死者の霊を弔うため創建と伝わります。

創建年は建武三年/延元元年(1336年)と建武四年/延元二年(1337年)の2説あります。
こちら(「鎌倉史跡・寺社データベース」様)には、「もともとは別の場所にあり、かつて乱橋材木座にあった三島明神の別当であったが、荒廃し、後に現在地に移ったという。」とあり、草創が1336年、当地での開山が1337年かもしれません。

当山は鎌倉では数少ない新田義貞公ゆかりの寺院です。
義貞公は『太平記』前半の主役といってもいいほど登場回数が多いですが、『太平記』のみ記載の事跡も多く、史実が辿りにくい人物です。

Wikipediaなどから義貞公の略歴を追ってみます。

新田氏の開祖は、八幡太郎源義家公の三男(諸説あり)源義国公です。
義国公は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠とし、足利荘は次子・義康公が継いで足利氏を名乗り、異母兄の義重公は上野国八幡荘を継承し、新田荘を立荘して新田氏を称しました。

新田義貞公(1301-1338年)は、新田朝氏公(新田氏宗家7代当主)の嫡男として 正安三年(1301年)頃に生まれました。(里見氏からの養子説あり)

新田荘がある大間々扇状地は、ふるくは「笠懸野」(かさかけの)と呼ばれたとおり、広大な平地が広がり馬掛けに適した土地柄で、義貞公とその郎党はこの「笠懸野」で弓馬の術を磨きました。

新田氏は河内源氏の名族で鎌倉御家人でしたが、頼朝公の親族として優遇され北条氏とも婚姻関係にあった足利氏にくらべ、幕府内の地位や家格は高いものではありませんでした。

新田宗家4代当主政義公の妻は足利宗家3代当主義氏公の息女で、その子政氏公が新田家嫡流を継ぎ、以降足利氏は新田氏の代々の烏帽子親であったという説があります。
実際、義貞公の烏帽子親は足利氏嫡流で早世した足利高義公で、義貞の「義」は高義の「義」の偏諱とするとされ、鎌倉末期の両氏は対立関係にはなかったとみられています。

文保二年(1318年)、義貞公は新田氏宗家の家督を継承、8代当主となりました。
しかし、その頃の義貞公は無位無官だったとみられ、とくに北条得宗家との関係が悪く鎌倉幕府から冷遇されていたとも。

世良田氏や大舘氏など新田一門も、幕府内で高い地位を得たという記録はありません。
義貞公は得宗被官の安東聖秀の姪を妻として迎えたとされ、北条得宗家への接近もみられますが、鎌倉幕府内で重きをなすことはありませんでした。

一方、足利尊氏公は得宗・北条高時公の偏諱を受けて「高氏」を名乗り、わずか15歳にして官位は従五位下治部大輔でした。
Wikipediaには「15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた」とあり、幕府内で格別の地位にあったことがわかります。

元弘元年(1331年)8月、倒幕をめざす後醍醐帝と幕府・北条得宗家の間で、いわゆる「元弘の乱」が起こりました。
後醍醐帝は笠置山の戦いで幕府方の大軍に破れ逃亡しました。

幕府は帝が京から逃れるとただちに廃位し、光厳帝を即位させ、捕虜とした後醍醐帝を隠岐に流しました。

元弘二年(1332年)大番役として在京していた義貞公は、幕府の動員令に応じて他の御家人らと後醍醐帝方の楠木正成討伐に向かい 千早城の戦いに参加しています。

元弘三年(1333年)3月、義貞公は病気を理由に河内を退去し新田荘に帰参しました。
『太平記』には元弘の乱の出兵中、義貞公が護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受けたとありますが、真偽について諸説あるようです。

義貞公の新田荘帰還後、幕府は軍資金として新田氏に膨大な額の納税(有徳銭)を命じ、徴税人(金沢出雲介親連と黒沼彦四郎)を差し向けました。
法外な金額と強引な徴税に憤激した義貞公は、金沢を幽閉し黒沼を斬殺しました。

これを咎めた幕府が新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入り、同年5月、ついに義貞公は倒幕の兵を挙げました。

生品明神社(生品神社)での義貞公決起の名場面は、『太平記』でよく知られています。
この時点の新田軍主力は、義貞公に弟の脇屋義助、大舘宗氏とその一族、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義などとみられています。


【写真 上(左)】 生品明神社(生品神社)
【写真 下(右)】 生品明神社(生品神社)の御朱印

新田勢は新田を発して上野国八幡荘に入り、越後勢、甲斐源氏、信濃源氏の一派と合流して9,000余の軍勢に膨れ上がったといいます。

5月9日、新田勢は武蔵国に向けて出撃、足利尊氏公(1305-1358年、当初は「高氏」ですが「尊氏」で統一します)の嫡男・千寿王(後の足利義詮公)と久米川付近で合流しました。
これを受けてさらに兵士が集まり、『太平記』では20万7,000騎と記しています。

千寿王の参陣は政治的に大きく、鎌倉攻めの軍勢には義貞公と千寿王の二人の大将がいたとする説があり、千寿王挙兵に義貞公が参陣という説さえあります。

義貞公挙兵の報を受けた幕府方は、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍約5万で入間川へと向かい、別働隊として金沢貞将を大将とする上総・下総勢2万が下総の下河辺郷に集結しました。

新田勢は鎌倉街道を南下し、5月11日に小手指原(所沢市小手指)で幕府軍と衝突しました。(小手指原の戦い)
翌12日、義貞公の奇襲により幕府方の長崎・加治軍は撃破され、南方の分倍河原まで退却しました。(久米川の戦い)

分倍河原の幕府軍に北条泰家(得宗北条高時公の弟)を大将とする援軍が加わり15万にもなったといい、幕府方の士気は上がりました。
5月15日、義貞公はこの援軍を知らずに1万の軍で急襲したところ、反撃を受けかろうじて北方の堀兼(所沢市堀兼)まで退却したといいます。(分倍河原の戦い)

しかし、三浦氏一族の大多和義勝、河村・土肥・渋谷・本間らの相模の軍勢8000騎が駆けつけ義貞公に加勢。
勢いをとりもどした義貞勢は5月16日分倍河原に押し出し、北条泰家以下幕府軍は敗走しました。

新田勢の勢いはとまらず、多摩川を渡り霞ノ関(多摩市関戸)で幕府軍に総攻撃をかけ、幕府方は新田勢の猛攻に耐えきれず総崩れとなって鎌倉に潰走しました。(関戸の戦い)

ここに常陸、下野、上総の豪族たちが続々と新田勢に合流、その勢いを駆って一気に鎌倉まで攻め上がりました。

対する幕府方は各切通しと市街要所に軍勢をおき、鎌倉の防備を固めました。

義貞公は軍勢を三手に分け、義貞本隊が金沢貞将守る化粧坂、大舘宗氏・江田行義が大仏貞直守る極楽寺坂、堀口貞満・大島守之が北条守時守る巨福呂坂を攻撃することとしました。

5月18日、新田勢は三方から鎌倉に攻め入りましたが、守りに強い鎌倉ゆえ三方とも攻略はならず、極楽寺坂口の大舘宗氏は討ち死にしました。

義貞公は化粧坂攻撃の指揮を脇屋義助に託し、大舘宗氏を失った極楽寺坂の援軍に向かいました。

5月20日夜半、義貞公は極楽寺坂の海側にあたる稲村ヶ崎へ駆け付けました。
稲村ヶ崎は海が迫る難所ですが、ここを突破されると一気に鎌倉市街まで侵入されます。
稲村ヶ崎進撃を予想していた幕府方は、稲村ヶ崎の断崖下に逆茂木をたて、海には軍船を浮かべて義貞勢の来襲に備えていました。

5月21未明、義貞公率いる軍勢は潮が沖に引いた隙を狙って、稲村ヶ崎の突破に見事成功しました。
この稲村ヶ崎の突破は『太平記』をはじめとする物語や絵画などによって広く知られています。

稲村ヶ崎突破については、干潮を利用したという説が有力ですが、『太平記』では義貞公が黄金作りの太刀を海に投じたところ、龍神が呼応して潮を引かせたというドラマティックな展開が描かれています。

ともあれ難所・稲村ヶ崎を突破した新田勢は由比ヶ浜で幕府軍を撃破し、一気に鎌倉市内に攻め入りました。
このとき新田勢が本陣をおいたのが、現在の九品寺の場所ともいいます。

5月22日、小町葛西谷の北条一族菩提寺・東勝寺で、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、北条得宗家当主・北条高時公らは自害し鎌倉幕府はここに滅亡しました。(東勝寺合戦)
義貞公の生品明神挙兵からわずか半月という怒濤の進撃でした。

鎌倉を陥落させた義貞公は雪ノ下の勝長寿院に本陣を敷き、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣しました。

元弘三年/正慶二年(1333年)、後醍醐帝は隠岐から脱出、伯耆船上山で挙兵されました。帝追討のため幕府から派遣された尊氏公は上洛の途中幕府謀反を決意、船上山の後醍醐帝より討幕の密勅を受け取り、すぐさま六波羅探題を攻めて京を制圧しました。

尊氏公はこの密勅を根拠に、諸国の武将に向けて軍勢催促状を発しました。
新田勢に実子の千寿王を加勢させたことといい、将来への布石を着々と置いていることがわかります。

幕府滅亡後、後醍醐帝は建武の新政を開始
尊氏公は後醍醐帝から「勲功第一」と賞され鎮守府将軍となり、8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねて尊氏と改名しています。

この時点で、後醍醐帝が鎌倉陥落の功労者、義貞公よりも尊氏公を優遇していたことがわかります。

義貞公に付き従っていた武将達は論功行賞のためつぎつぎと上洛し、鎌倉に残った武将たちも尊氏公の子千寿王のもとに集ったといいます。

そのなかで義貞公は千寿王補佐役の細川三兄弟(和氏、頼春、師氏)と諍いを起こし、6月に鎌倉を去って上洛したといい、以降の鎌倉は足利氏が統治したともいいます。

8月5日、義貞公は従四位上に叙され、左馬助に任ぜらて上野守、越後守となり、武者所の長である頭人となりました。
弟の脇屋義助は駿河守、長男の義顕も越後守に任ぜられ、尊氏公には及ばないものの恩賞を手にしました。

後醍醐帝の建武政権では尊氏公と護良親王の争いが起こり、護良親王は失脚しました。
この頃新田一族の昇進が目立ちますが、これは尊氏公の台頭を牽制するために、後醍醐帝が義貞公を対抗馬として取り立てたという見方があります。

建武二年(1335年)7月、信濃国で北条高時公の遺児・時行公を擁立し鎌倉を占領する事件(中先代の乱)が起こりました。

尊氏公は勅許を得ずに鎌倉に下り乱を鎮圧すると、新田一族の所領を他氏に分与し「義貞と公家達が自分を讒訴している」と主張して鎌倉に居座り、10月には細川和氏を使者に立てて後醍醐帝に義貞誅伐の奏状を提出しました。

おそらく、後醍醐帝が自身の対抗馬として義貞公を取り立てた時点で、義貞公と袂を分かったものとみられます。
これに対して義貞公はすぐさま反論の奏状を提出し、尊氏・直義兄弟の誅伐許可を求めたといいます。

義貞奏状で訴えられた足利直義による護良親王殺害が改めて問題となり、11月8日帝は義貞公に尊氏・直義追討の宣旨を発しました。
義貞公は政争に拙いという見方がありますが、このあたりの迅速な対応と要所を衝いた指摘は優れた政治力を感じさせます。

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ここからの義貞公の事跡戦歴は変転をきわめるので、略しつついきます。

官軍(足利討伐軍)の大将となった義貞公は尊良親王を奉じ、大軍を率いて東海道・東山道の二手から鎌倉に進軍、奥州の北畠顕家公も鎌倉へと進軍を開始しました。

官軍は三河国矢作、箱根・竹下で足利勢と戦い軍を進めましたが、鎌倉の手前で尊氏公指揮する足利勢に敗れて西へと逃れ京に戻りました。

尊氏公は躁鬱の気があったとされ、鬱のときはまったく弱気になるものの、躁に転じたときは俄然覇気にあふれて、これに従わない武将はなかったといいます。
今回の鎌倉防衛でも尊氏公が躁をあらわし、一気に劣勢を覆したと伝えます。

その後京に攻め上った足利勢は淀川で官軍を破り、後醍醐帝は西に遷幸、義貞公もこれに供奉しました。
京は尊氏勢に一旦占拠されたものの、奥州から北畠顕家軍、鎌倉から尊良親王軍が京に迫ると形勢は逆転。

義貞公は北畠軍、楠木正成、名和長年、千種忠顕らとともに京に総攻撃を仕掛け、尊氏公を九州へと追い落としました。

建武三年(1336年)2月、義貞公は足利勢を破った功績により正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し播磨守を兼任しました。

しかし義貞勢が尊氏方の播磨の赤松則村(円心)を攻めあぐねているうちに、尊氏勢は九州で勢力を盛り返し、再び東に攻め上ってきました。
尊氏公は、光厳院から得た義貞討伐の院宣をかざしていたともいいます。

5月25日、楠木正成と合流した義貞勢は摂津国湊川で尊氏勢と激突しました。(湊川の戦い)
尊氏勢の猛攻に新田、楠木両軍は分断され、楠木正成は奮戦むなしく湊川で自害しました。
義貞公も奮闘しましたが次第に劣勢となり、近江東坂本まで引きました。

6月14日尊氏公は光厳院を奉じて京に入り、光厳院の院宣を仰いで光明帝を即位させました。
比叡山から吉野に入られた後醍醐帝は自らの退位を否認され、光明帝の即位も認めなかったため、京(北朝)と吉野(南朝)に二帝並立する南北朝体制となりました。

諸戦で多くの配下を失い、楠木正成はすでに亡く、名和長年、千種忠顕らの友将も戦死して、もはや義貞公に以前の勢いはありませんでした。
加えて後醍醐帝と尊氏公で和平交渉が進み、義貞公は後醍醐帝の後ろ盾も失うこととなりました。

和平交渉を知り比叡山に駆け上がった義貞公が、涙ながらに後醍醐帝の変心を責める場面は、多くの物語で語られています。
義貞公は妥協策として恒良親王、尊良親王を推戴のうえ北国への下向を望むと、後醍醐帝はこれを許したといいます。

10月13日、義貞公は両親王を奉戴して越前敦賀の金ヶ崎城に入りました。
両親王は各地の武士へ尊氏討伐の綸旨を送り兵を募ったものの応じる武将は少なく、まもなく足利軍の攻撃を受けました。

義貞勢は奮戦し一度は足利軍を迎撃したものの、建武四年(1337年)1月足利軍の総攻撃を受けて籠城戦となり、兵糧尽きて3月6日ついに金ヶ崎城は陥落しました。

落城にあたり義貞公は越前・杣山城に遁れたとされますが、この時点で義貞公はすでに杣山城に移っていたという説もあります。

8月になると奥州の北畠顕家公が義良親王を奉じて鎌倉攻略の途につき、義貞公の次男新田義興公と、南朝に帰参した北条時行公が合流して12月には鎌倉を落としました。

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九品寺は、建武四年(1337年)に義貞公が北条方の戦死者の霊を慰めるため京より招いた風航順西和尚を開山として創建と伝わります。

しかし、この年義貞公は越前の金ヶ崎城ないし杣山城で足利勢を相手に戦闘・雌伏中で、とても「北条方の戦死者の霊を慰めるため鎌倉に寺院を建立」できる状況ではなかったように思われます。

もし北条氏菩提の目的で寺院を建立するとしたら、元弘三年(1333年)5月22日の北条氏滅亡後が考えられますが、義貞公は同年6月に上洛して以降、戦つづきでそのような余裕はないようにも思えます。

そもそも義貞公はほとんど鎌倉に腰を落ち着けたことはなく、「京より風航順西を招いて開山とし、寺院を創建する」という時間的余裕はないように思われます。
それに元弘三年(1333年)時点では義貞公はまだ上洛も果たしておらず、京・東山の風航順西和尚に知己を得て帰依とは考えにくいです。

などと考えつつ開山の風航順西(暦応四年(1341年)寂)をWeb検索したら、思いがけない記事がヒットしました。(→ 「鎌倉シニア通信」様「九品寺の縁起」

無断転載不可につき、要旨のみ引用させていただきます。

-------------------(引用はじめ)
建武三年(1337年)に至り新田家戦死の霊魂を吊らはしか為、京都東山に「風航順西和尚」という浄家の僧、義貞公帰依により命じて共に下向し霊魂の得脱回向を懇望し則ちこの地に一宇を創建あり、内裏山霊嶽院九品寺と号す。

千時延文三丙申歳三月 為後代記置之
当寺三世 順妙

-------------------(引用おわり)

ここには当山創建は、(北条一族ではなく)新田家戦死者菩提の為とあります。
そうなると、義貞公が京・東山で浄土宗の風航順西和尚に帰依し、戦で失った新田一族の武将の菩提を懇請したということになるのかもしれません。

『太平記』は、京を舞台に義貞公と勾当内侍(こうとうのないし)との恋物語を伝えます。
であれば、東山の僧に帰依して一族の菩提を依頼するくらいの余裕はあったやもしれません。

ただし上記の「(建武三年(1337年))共に(鎌倉に?)下向し この地に一宇を創建」という記述は、同年の義貞公の事跡と符合しません。

もしも金ヶ崎城の戦いに破れ、落魄の義貞公がいっとき越前杣山城を離れ、鎌倉に入って寺院(九品寺)を建立したとしたら、歴史の一大スクープになるかと思いますが、これを伝える史料類は他に見当たりません。

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建武五年(1338年)1月北畠軍は上洛の途につき、後醍醐帝も各地の南朝勢力に対し顕家公への加勢を促しました。

越前鯖江(もしくは美濃大垣)まできた北畠勢は、しかし杣山城の義貞勢と合流することなく伊勢から奈良へと向かいました。

このとき北畠勢と義貞勢が合流しなかった理由については諸説ありますが、以前から北畠勢と義貞勢の連携はうまくいっていたとはいえず、顕家公と義貞公の間になんらかの確執があったのかもしれません。

その後の北畠勢は苦戦つづきで、5月22日和泉堺浦・石津で足利軍に敗北し顕家公は戦死しました。

建武五年(1338年)閏7月、義貞公は越前国藤島(福井市)の灯明寺畏畷で斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に戦死しました。
享年38と伝わります。

義貞公は南朝復権のため再度の上洛を企図して藤島の戦いに臨んだといい、『太平記』には義貞公の凄絶な戦いぶりが描かれています。

義貞公の死は南朝方に大きな痛手となりましたが、年月日不明ながら義貞公は南朝側から正二位を贈位され、大納言の贈官を受けたという記録が残ります。

義貞公の墓所は「牛久沼ドットコム」様によると、当初称念寺(福井県坂井市)にあり、文明年間(1469-1486年)、義貞公の三男・新田義宗の子とされる横瀬貞氏(上州太田金山城主・岩松家純の重臣)が、義貞公の遺骨を称念寺から城内に移して墓を建てました。
この「城内の墓」は金山山麓の金龍寺(金山城主横瀬氏の菩提寺)ともみられ、金龍寺には義貞公の供養塔があります。

戦国中期、横瀬氏6代目の横瀬泰繁の代に横瀬氏は由良氏と名乗り、泰繁の子由良成繁は小田原北条軍に金山城を攻められ降服、嫡男国繁は小田原城に人質となり、由良一族は金山城を明け渡して桐生城へ移り、金龍寺も桐生へと移りました。

天正十八年(1590年)秀吉軍が小田原城を攻撃したとき、由良成繁の未亡人・赤井氏(妙尼印)は城主のごとく活躍したといいます。
北条氏滅亡後、秀吉は妙尼印の器量を称えて赤井氏に常陸国牛久の地と牛久城を与え、妙尼印は領地を子の国繁に相伝、前城主の菩提寺・東林寺に桐生の金龍寺を移して号を改めたといいます。

国繁没後、理由は不明ですが領地は没収となりますが、牛久の金龍寺と義貞公の墓は、幕府の庇護を受けて、寛文六年(1666年)牛久沼の対岸、龍ケ崎若柴の古寺を改修してここに移されたといい、以降、義貞公の墓所は龍ケ崎若柴の金龍寺とされているようです。

 
【写真 上(左)】 太田金山金龍寺の御朱印
【写真 下(右)】 龍ケ崎若柴金龍寺の御朱印

↑に「幕府の庇護を受けて」とありますが、この根拠とみられるのは神君・徳川家康公の出自です。
家康公は、新田氏の祖・新田義重公の四男得川義季(世良田義季)の末裔を称しました。
(→ 太田市観光物産協会Web

足利氏の室町幕府で、草創時に敵対した新田一族は冷遇されました。
しかし、家康公が新田一門を公称したことからも、源氏名流たる新田氏の譽れは戦国末期に至ってなお健在だったとみられます。

征夷大将軍の座は源氏の統領のみに許されるという慣例に則り、源姓新田氏流の統領・家康公は征夷大将軍の座につき徳川幕府を開きました。
征夷大将軍の座は、公的には足利氏から新田氏(徳川氏)に移ったことになります。

徳川将軍家は新田氏(得川氏/世良田氏)ゆかりの上州世良田の地に東照宮を勧請して別格扱いとし、租税を軽くするなど住民までも優遇したと伝わります。

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義貞公の死から500年以上のちの明治の世に、義貞公は朝廷に尽しつづけた「忠臣」として顕彰され、明治15年には正一位を贈位されています。
数々の書物で義貞公の義勇忠節ぶりが描かれ、義貞公の「忠臣」としての評価は定まりました。

明治6年発行の国立銀行紙幣二円券の表面には、稲村ヶ崎で太刀を海中に投じる義貞公の姿が描かれています。

九品寺の義貞公ゆかりの事物として、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の扁額の文字は、義貞公の揮毫を写したものと伝わります。

当山の御本尊は阿弥陀三尊。
寺号の「九品」とは九パターンの極楽往生のあり様をいい、上品、中品、下品それぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品(九軆)の阿弥陀仏がおわし、救われないものはないといいます。

義貞公が人々の菩提を祈り創ったとされる九品寺。
衆生を極楽往生に導く九品(阿弥陀仏)の寺号は、ふさわしいものといえましょうか。


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【史料・資料】

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)九品寺
内裏山靈嶽院と号す、浄土宗 材木座村、光明寺末、三尊の彌陀を本尊とす、中興を卓辨と云へり

■ 山内掲示(鎌倉市)
九品(くほん)とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。極楽往生を願う人々の生前の行いによって定められます。上品、中品、下品のそれぞれに、上生、中生、下生があり、合わせて九品とされます。
鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。
山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。
本尊は阿弥陀三尊です。

■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
内裏山靈嶽院九品寺と号する。浄土宗、もと光明寺末、新田義貞の草創で、風航順西を開山と伝える。中興開山は二十一世鏡誉岌故、二十五世台誉卓弁、三十二世楽誉浄阿良澄の三人。
本尊、阿弥陀三尊。
境内地311.95坪。本堂・庫裏・山門あり。
神奈川県重要文化財、石造薬師如来坐像。
寺の『過去帳』によれば、風航順西は暦応四年(1341年)十月十八日に寂している。
岌故は慶安二年(1649年)二月十五日、本尊の御身を再興した。願主は戸塚の吉田四良兵衛とみえている。良澄は弘化二年(1846年)二月、本堂及び三尊像を再興した。(略)
関東大震災にて全潰した。


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小町大路に面してあり、光明寺とならんで材木座海岸にもっとも近い寺院です。
鎌倉のメイン通り、若宮大路の材木座口にもほど近く、稲村ヶ崎から侵入し由比ヶ浜で北条勢を破った義貞公が一旦軍勢を落ち着かせ、本陣をおいたという縁起にふさわしい立地です。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 お地蔵さまと寺号標

小町大路に面して参道入口。
手前に地蔵尊立像をおいた寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

正面は脇塀付き切妻屋根桟瓦葺四脚の山門。
向拝見上げに掲げられている山号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。


【写真 上(左)】 鎌倉三十三観音霊場札所標
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場札所標

山門手前に鎌倉三十三観音霊場と相州二十一ヶ所霊場の札所標が置かれています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵と不動尊

緑ゆたかな山内で、参道沿いには古色を帯びた一体型の六地蔵と不動尊立像が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 扁額と龍の彫刻

参道正面が本堂。
本堂は入母屋造銅本棒葺流れ向拝。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。

御本尊の阿弥陀如来立像は、玉眼を填め込んだ宗元風彫刻として鎌倉市の文化財に指定されています。

本堂のほかに堂宇は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場札所本尊・聖観世音菩薩像、相州二十一ヶ所霊場札所本尊・弘法大師尊像、鎌倉時代作とされ県指定重要文化財の石造薬師如来像はいずれも本堂内に奉安とみられます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 天水鉢

向拝見上げに掲げられている寺号扁額は、義貞公の揮毫を移したものと伝わります。
堂前の天水鉢にはしっかり新田氏の家紋、「新田一つ引き紋」が描かれていました。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊、鎌倉三十三観音霊場、相州二十一ヶ所霊場の御朱印を授与されています。


〔 九品寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


相州二十一ヶ所霊場の御朱印


以下、つづきます。



【 BGM 】
■ Angel - Change


■ Hero - David Crosby & Phil Collins


■ Don't Call My Name - King of Hearts -
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