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■ 弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場-1

お大師さまゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場には、主に八十八ヶ所と二十一ヶ所があります。
ご参考(「ニッポンの霊場」様)

八十八ヶ所はかなりの時間と根気を要し、結願までの道のりはなかなか困難です。
そこで生まれたのが簡易(ミニ)版である二十一ヶ所という説がみられます。

簡易(ミニ)版であれば八十八ヶ所の札所からダイジェスト的に選定すればいい筈ですが、そうはなっていないケースもみられます。

「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」(以下、御府内二十一ヶ所霊場)もそのひとつです。

「御府内二十一ヶ所霊場」は、『東都歳事記』(国書データベース)に霊場名「弘法大師二十一ヶ所参」と、第21番が湯島霊雲寺であることが記載されていますが、札所一覧は記載されていません。
(これは後述する「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

しかし、「ニッポンの霊場」様に札所リストが掲載されているので、こちらにもとづき巡拝しました。

『東都歳事記』の編纂は天保九年(1838年)ですから、それ以前の開創とみられます。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

第21番がふたつあるようで、札所数は22となります。
台東区内の札所が多く、御府内八十八ヶ所霊場よりも東(下町)寄りの霊場となっています。

当初は第20番の寛永寺 一乗院のみ天台宗で残りはすべて(広義の)新義真言宗でしたが、明治に一乗院が廃寺となったのちは根岸の時雨岡不動堂(西蔵院の境外仏堂)に承継されたといい、現在はすべて(広義の)新義真言宗寺院となっています。

【弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場】

1番 法輪山 法幢院 浄光寺
 真言宗豊山派 荒川区西日暮里3-4-3 /豊・荒
2番 補陀落山 観音院 養福寺
 真言宗豊山派 荒川区西日暮里3-3-8 /豊・荒
3番 蓮葉山 妙智院 観音寺
 真言宗豊山派 台東区谷中5-8-28 /御・江
4番 長谷山 元興寺 加納院
 新義真言宗 台東区谷中5-8-5 /御・江
5番 天瑞山 観福寺 明王院
 真言宗豊山派 台東区谷中5-4-2 /御・江
6番 初音山 東漸寺 観智院
 真言宗豊山派 台東区谷中5-2-4 /御・江
7番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20 /江
8番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16 /御・江
9番 宝塔山 龍門寺 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35 /御・江
10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8 /御・江
11番 圓明山 宝福寺 西蔵院
 真言宗智山派 台東区根岸3-12-38 /荒
12番 鐡砂山 観音院 世尊寺
 真言宗豊山派 台東区根岸3-13-22 /荒
13番 東光山 等印院 龍泉寺
 真言宗智山派 台東区竜泉2-17-15 /荒
14番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8 /荒
15番 瑞光山 如意寺 密厳院
 真言宗豊山派 荒川区荒川4-16-3 /豊
16番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16 /荒
17番 和光山 興源院 大龍寺
 真言宗霊雲寺派 北区田端4-18-4 /御・豊
18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2 /荒
19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
 真言宗豊山派 荒川区東尾久3-6-25 /豊
20番 東叡山 寛永寺 一乗院(廃寺)
 天台宗 台東区上野公園
→(20番) 時雨岡(御行の松)不動堂
 真言宗智山派 台東区根岸4-9-5
21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6 /御・江
21番-2* 大黒山 宝生院
 真言宗智山派 葛飾区柴又5-9-8 /南
※ 21番-2* 宝生院は池之端茅町から移転

〔八十八ヶ所霊場の略記凡例〕
 御:御府内八十八ヶ所霊場
 江:江戸八十八ヶ所霊場
 豊:豊島八十八ヶ所霊場
 荒:荒川辺八十八ヶ所霊場
 南:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)

↑をみると、22ヶ所のうち御府内八十八ヶ所霊場との重複札所はわずか9ですが、ほぼすべての札所が複数の八十八ヶ所弘法大師霊場と重複しています。
しかも第12番世尊寺は、荒川辺八十八ヶ所霊場の第1番を担われています。
ここからしても、御府内二十一ヶ所霊場は、単なる御府内八十八ヶ所霊場の簡易(ミニ)版とはいえないと思います。

上記のとおり、「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされ、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる「御府内八十八ヶ所霊場」より古い可能性があります。
同じく「ニッポンの霊場」様によると、「荒川辺八十八ヶ所霊場」は天保九年(1838年)年頃かそれ以前、「豊島八十八ヶ所霊場」は明治41年(1908年)の開創ですから、やはりこの霊場の方が古いとみられます。

「江戸八十八ヶ所霊場」「御府内八十八ヶ所霊場」の前身と仮定すると、むしろ「江戸八十八ヶ所霊場」をベースのひとつとして成立したのかもしれません。


  
【写真 上(左)】 第3番観音寺の札所板
【写真 下(右)】 第14番地蔵院の御朱印


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「御府内二十一ヶ所霊場」とは別に「弘法大師二十一ヶ寺」という霊場もあります。

【弘法大師二十一ヶ寺】 (八十八ヶ所霊場の略記凡例は同上)

1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2 /御・江
○2番 宝塔山 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35 /御・江
○3番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16 /荒
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
○5番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8 /荒
6番 阿遮山 円満寺 不動院
 真言宗智山派 台東区寿2-5-2 /御・江
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺
 真言宗智山派 台東区寿2-8-15 /荒
8番 高野山 金剛閣 大徳院
 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13 /御・江
9番 青林山 最勝寺 龍福院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2 /御・江
○10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8 /御・江
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14 /御・江
12番 神勝山 成就院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12 /御・江
13番 広幡山 観蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5 /御・荒
14番 望月山 般若寺 正福院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21 /御・江
○15番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20 /江
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院
 真言宗智山派 台東区寿2-6-8 /御・江
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院
 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転) /御・江
○18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2 /荒
○19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16 /御・江
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2 /御・荒
○21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6 /御・江

札所の出所は↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)です。


「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからこちらもかなり古い来歴をもちます。

「御府内二十一ヶ所霊場」と「弘法大師二十一ヶ寺」の重複札所は○を付した8ヶ所ですが、両者の関係についてはよくわかりません。
「弘法大師二十一ヶ寺」は「御府内二十一ヶ所霊場」よりも御府内八十八ヶ所霊場との重複が多く、こちらの方が「御府内八十八ヶ所霊場の簡易(ミニ)版」の性格が強いのでは。

筆者は「弘法大師二十一ヶ寺」も結願していますが、こちらは21札所のうち廃寺となった第4番清光院を除いてすべて御朱印を拝受しています。

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■ 「御府内二十一ヶ所霊場」と「弘法大師二十一ヶ寺」の関係について

『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊、以下「同書」)には下記の記載があります。

**********(引用)
当巡礼(弘法大師二十一ヶ寺)の開設は、御府内札所(御府内八十八ヶ所霊場)設定の宝暦年間(1751-1764年)より本版木開版の寛政二年(1790年)までの三〇数年の間のことと考えたい。
さらに『東都八十八ヶ所』は明治時代の二十一ヶ所を紹介している(巻末一覧表/註:同書『弘法大師御府内二十一所』項には「明治期の案内によったものである」というが、出典は明記されていない)。
これによれば、寛政二年と比べ十五ヶ寺の異動があり、他の六ヶ寺中の五ヶ寺は札所番号が変わっている。明治時代の札所中、第一一番西蔵院には(中略)江戸末期までに大きな改変があったと推定できる。
ところが、(御府内八十八ヶ所霊場)のように札所の改変は寺院の統・廃合に応じた場合が多いが、寛政二年当時の札所は明治一〇年までは確実に顕在していた。
このことから改変の理由は他にあったと思われ、あるいは、当巡礼(弘法大師二十一ヶ寺)は一時衰え、江戸末期に改めて編成されたとも考えられる。
**********(引用おわり)


上記の「明治時代の二十一ヶ所」は、「御府内二十一ヶ所霊場」と同一です。
「ニッポンの霊場」様によると「御府内二十一ヶ所霊場」の開創は元禄(1688年)から宝暦(1751年)。
これに対して同書による「弘法大師二十一ヶ寺」の開設は宝暦年間(1751-1764年)より寛政二年(1790年)の間で、「御府内二十一ヶ所霊場」の方が古い可能性があります。

さらに、同書でも「札所の改変は寺院の統・廃合に応じた場合が多い」と述べているとおり、神仏分離前の江戸期に全面改編に等しい札所改編があったとはどうしても考えられません。
「弘法大師二十一ヶ寺」の札所の多くが江戸時代に廃されたならばともかく、ほとんどの札所は現存しています。

となると、「弘法大師二十一ヶ寺」が改編されて「御府内二十一ヶ所霊場」(同書では「明治時代の二十一ヶ所」)になったのではなく、もともと江戸期から別個の霊場だったのでは?

なにぶん、弘法大師二十一ヶ寺の版木は発見されたばかり(おそらく平成に入ってからの発見と思われる)で、今後研究が進めば新たな関係がみえてくるのかもしれません。

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その他、近隣の墨田・葛飾両区をメインとする「弘法大師 隅田川二十一ヶ所霊場」という霊場もあり、下町エリアの二十一ヶ所の札所は錯綜気味です。

なお、「弘法大師 隅田川二十一ヶ所霊場」は「荒川辺八十八ヶ所霊場」あるいは「荒綾八十八ヶ所霊場」の簡易(ミニ)版とみる説もありますが詳細は不明です。


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「御府内二十一ヶ所霊場」の御朱印については、「御府内八十八ヶ所霊場」との重複札所では後者の御朱印の授与となるようです。
「豊島八十八ヶ所霊場」との重複札所でも同様の模様です。

この条件のもとですが、筆者は22ヶ所のうち20ヶ所で御朱印を拝受しています。

「御府内二十一ヶ所霊場」のみの札所の場合は御府内二十一ヶ所霊場での申告としましたが、この霊場を回る人は極めて希らしく、霊場名が通じない場合もありました。
むしろ、「お大師さまのお参り」あるいは「二十一大師のお参り」と申告した方が通りがいいかもしれません。

「御府内八十八ヶ所霊場」との重複札所以外では御朱印授与を想定されていない感じがあり、ご不在のケースもかなりあります。
御朱印目当てというより、荒綾霊場や荒川辺霊場と同様、往年の弘法大師霊場を辿るというスタンスが必要かもしれません。

御府内八十八ヶ所霊場は結願し、ご案内の記事もUP(→ こちら)していますが、御府内二十一ヶ所霊場は先日ようやく結願しましたので、御府内八十八ヶ所霊場の記事と同様のフォーマットでご紹介していきたいと思います。


それでは第1番から順にご紹介していきます。
なお、御朱印の授与については現在休廃止している可能性があります。


■ 第1番 法輪山 法幢院 浄光寺
(じょうこうじ)
荒川区西日暮里3-4-3
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来?
司元別当:諏方神社(荒川区西日暮里)
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第5番、荒川辺八十八ヶ所霊場第8番、東都六地蔵霊場第3番、豊島六地蔵霊場第3番

第1番札所は日暮里の浄光寺です。
谷中から日暮里につづく「諏訪台」にある真言宗豊山派の寺院です。

『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

創建年代は当山が諏方神社の別当であったため、諏方神社の創建(現地掲示によると元久二年(1205年))と同時期とみられています。
なお、諏方神社は豊嶋左衛門尉経泰の創建と伝わりますが、太田道灌(1432-1486年)とする説もあり、別当の浄光寺についても豊島左衛門尉経泰説と太田道灌説があるようです。

創建時から法輪山法幢院を号したとみられ、御本尊は薬師如来と伝わります。

諏方神社は三代将軍徳川家光公(1604-1651年)に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めたといい、その別当である当山も重要な役割を果たしていたとみられます。

元禄四年(1691年)には空無上人の勧化により「江戸六地蔵」(近郷六地蔵)のひとつが安置されています。
この「江戸六地蔵」は、現在まで伝わる「後の六地蔵」ではなく、下谷池之端影向山心行寺三世の(慈済庵)本誉空無(浄土木食)が元禄四年(1691年)に建立開眼した「はじめの六地蔵」です。

『江戸砂子温故名蹟誌 6巻3』(国立国会図書館DC)の醫王山 真性寺の項には以下の記載があります。

***************
地蔵坊正元法師建立唐銅六地蔵の三番也所謂六軀ハ
一番 品川 真言 品川寺
二番 四谷 浄土 大宗寺
三番 巣鴨 同(真言) 真性寺
四番 山谷 禅 東禅寺
五番 深川 浄土 霊巌寺
六番 深川 真言 永代寺

右六地蔵の●●元坊ハ俗名吉之郎とて八百屋の女お七●●もの●出家と云もの●●出家 ●六軀を造立●といひつ
されは宝永年中沙門正元坊か建立せし金銅丈六の六軀ハ世に後の六地藏といふと也

慈済庵空無上人勧化の助力を以 金銅立像八尺の地藏六軀を造立し江戶六ヶ所に安置す 元禄四年開眼供養を執行す これをはしめの六地藏といふ所謂六所ハ
一番 駒込 浄土 瑞泰寺
二番 千駄木 浄土 專念寺
三番 日暮里 諏訪 浄光寺
四番 池端 心行寺
五番 東叡山 大仏側 慈濟庵
六番 淺艸寺内 正智院
***************

下欄の「はし(じ)めの六地藏」の三番に浄光寺の記載があります。
「はじめの六地蔵」は毎月二十四日ないし十八日の縁日に多くの信者を集めたと伝わりますがいつしか衰退し、いくつかは廃寺となったこともあり、現在江戸六地蔵として知られているのは正元坊建立の「後の六地蔵」です。
「はじめの六地蔵」で現存するのは浄光寺と専念寺だけとみられています。

なお、「江戸六地蔵」については→ (こちらの記事)をご覧ください。

元文二年(1737年)有徳院殿(八代将軍徳川吉宗公)が御遊猟の折りに当山に立ち寄られて以降、将軍鷹狩りの際の御膳所に定められたという格式をもちます。
山内には、三代将軍徳川家光公が腰掛けたという「三代将軍御腰掛石」があります。

高台にあって眺望に優れた「諏訪台」は江戸時代、人気の景勝地で、諏訪台八景(筑波茂陰、黒髪晴雪、前畦落雁、後岳夜鹿、隅田秋月、利根遠帆、暮荘烟雨、神祠老松)が定められて詩歌にうたわれました。

とくに浄光寺の雪景色は有名で「雪見寺」と称されました。
近くの本行寺は「月見寺」、青雲寺は「花見寺」と呼ばれ、江戸の文人墨客を集めたことが記録に残っています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(新堀村)諏訪社
村内及谷中ノ惣鎮守トス 一寸許ナル薄黒キ圓石ヲ神躰トス 社領五石ノ御朱印ハ慶安二年(1649年)附ラル 元享年中(1321-1324年)豊嶋左衛門尉経泰信州ノ諏訪ヲ勧請セル由縁起ニ載タリ 例祭七月廿六日社邊東ノ方ヲ諏訪臺ト号シ眺望勝景ノ地ナリ 林信充カ浄光寺八景詩歌ハ則此処ニテノ作ナリ 所謂八景ハ筑波茂陰 黒髪晴雪 前畦落雁 後岳夜鹿 隅田秋月 利根遠帆 暮荘烟雨 神祠老松ナリ 皆望中ノ景色ナリ 末社 山王 稲荷
別当浄光寺
新義真言宗田端村与楽寺末 法輪山法幢院ト号ス 本尊薬師 元文二年四月十四日 有徳院殿御遊猟ノ時始テ当寺ヘ成セ給ヒ 同五年正月廿五日御膳所ニ命セラレシヨリ 今モ此邊放鷹ノ節ハ御膳所トナレリ
御腰掛石 庭前ニアリ 有徳院殿始テ渡御アリシ時憩セ給フ石ナリト云傳フ
人麿社 頓阿作ノ像ヲ安ス 享保年中起立ス
地蔵 銅像ニテ近郷六地蔵ノ一ナリ

『江戸名所図会 巻之五』(国立国会図書館)
同所(日暮里)北の方、諏訪の台にあり。信州諏訪の祭神におなじ。当社は元享の頃、豊島左衛門佐建立す。其後太田道灌、此地を江戸城の出張の砦とせしみぎり、修営して、郭内の鎮守となせしとぞ。社頭今も杉の木立生茂りて上久(かみさび)たり。当社別当は真言宗にして、法輪山浄光寺と号す。当寺の書院は、高崖に架して、眼下に千歩の田園を見下せり。風色尤も幽雅にして、四時の眺望たらずと云ふ事なし。中に雪のながめ勝れたれば、世に称して雪見寺とも名くとかや。
人麻呂の祠
当院庭中に安ず。頓阿法師の作にして、杉の白木をもって作り。是則ち播州住吉社へ奉納ありし三百体の其一なりといへり。
地蔵堂
同じく門のかたはらにあり。本尊は紫銅(カラカネ)にて、立像八尺の地蔵尊なり。慈済庵空無上人建立ありて、元禄四年に開眼供養す。六地蔵の一なり。

『荒川区史』(国立国会図書館)
法輪山浄光寺は法幢院とも号し新義真言宗豊山派に属し田端町與楽寺末、本尊は薬師如来である。
当寺の創立は不明であるが、古老の説に太田道灌の建立と云ふ。一説には元享年間(1321-1324年)豊島左衛門尉経泰の創建せし所とも云ふ。
寺は諏訪台の高処を占め、舊幕時代は諏方神社の別当職で、此の境内は展望開豁であって雪見に適していたので俗に之を雪見寺と称した。
元文二年(1737年)将軍吉宗(一説には三大将軍家光とも云ふ)が遊猟に際し当寺に休憩し、又同五年正月膳所に命ぜられしよりその事幕府の末に及んだ。(中略)
江戸六地蔵の内二體が当寺入口左側にある。
古記に、「地蔵堂 本尊は紫銅にて立像八尺の地蔵尊なり。慈済庵空無上人建立ありて元禄四年(1691年)に開眼供養す、六地蔵の一なり。」とある。
尚、地蔵の外不動、観音、厄除大師等も安置されている。古くは人麻呂祠があった。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691年)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(1737年)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 諏訪神社
信濃国上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。
当社の縁起によると、元久二年(1205年)豊嶋左衛門尉経泰の造営と伝える。
江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めた。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』 根岸谷中辺絵図,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ千代田線「西日暮里」駅で徒歩数分。
「西日暮里」駅は武蔵野台地の崖の下にあり、駅出口からすぐの歩道橋を兼ねた急な階段を上ると西日暮里公園です。


西日暮里公園

この公園の案内板には下記のとおりあります。

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道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。(中略)この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。
道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。
江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだことから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。(中略)
道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。

桃さくら 鯛より酒のさかなには みところ多き 日くらしの里
十返舎一九

雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺、修性院、青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が知られています。
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【写真 上(左)】 ■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
【写真 下(右)】 道灌山の虫聴き(現地掲示より)

西日暮里公園あたりは「虫聴き」の名所として知られていたようです。

公園を抜けて左手の社叢は諏方神社。
日暮里・谷中の総鎮守として人々の崇敬を集め、浄光寺はその別当でした。
諏方神社では、日暮里・谷中エリアでは貴重な神社の御朱印を授与されています。


【写真 上(左)】 諏方神社
【写真 下(右)】 諏方神社の御朱印

浄光寺は、諏方神社の鳥居のよこに山門を構えています。
いかにも別当然とした位置関係です。


【写真 上(左)】 諏方神社鳥居と浄光寺山門
【写真 下(右)】 浄光寺山門


【写真 上(左)】 山門の扁額
【写真 下(右)】 六地蔵三番目の石標

山門脇には「六地蔵三番目」の石標が置かれています。
山門は切妻屋根桟瓦葺の高麗門で、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 二体の地蔵尊
【写真 下(右)】 西村和泉守作の地蔵尊

山門をくぐって左手には座像と立像の二体の銅造地蔵尊が御座し、いずれも区の指定文化財。
手前の銅造地蔵菩薩座像は江戸の鋳物師として有名な西村和泉守の作で、文化六年(1809年)の造立。
奥の銅造地蔵菩薩立像は元禄四年(1691年)造立の江戸六地蔵三番目の尊像で、下谷心行寺二世空無上人の権化により元禄四年(1691年)に開眼されています。
もとは山門脇に奉じられていましたが、昭和初期に山内に遷されたとのことです。

江戸六地蔵はもとより、西村和泉守作の地蔵尊の台座にも多数の願主の名が刻まれていることから、浄光寺は江戸時代地蔵信仰の寺として知られていたとみられます。


【写真 上(左)】 江戸六地蔵の地蔵尊
【写真 下(右)】 土蔵造りの堂宇

地蔵尊のさらに奥に土蔵造りの堂宇がありますが、扁額がなく堂宇本尊は不明です。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝の扁額

山内左手奥の階段上に本堂。
入母屋造桟瓦葺で手前に向拝を附設しています。
身舎はコンクリ造で、水引虹梁は装飾少なく直線的ですが中備に蟇股を置いています。
向拝見上げには寺号扁額を掲げています。



【写真 上(左)】 山門と六地蔵
【写真 下(右)】 石佛群

山門右手の壁際には石佛群と六地蔵。
山内のどこかにおそらく「将軍の腰掛石」があると思いますが、超うかつにも撮りわすれました。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
先日(2024年4月)の参拝時には庫裏の扉に「御朱印対応自粛中です。」の張り紙があり、御朱印授与を休止している模様ですが、Web情報には「セルフ捺しの御朱印あり」の情報もあって、よくわかりません。



もし、御朱印授与休止中だとしたら、現時点では豊島八十八ヶ所霊場の御朱印はコンプリートできないことになります。


〔 浄光寺の御朱印 〕

中央に「薬師如来」の印判と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印。
左に山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。


■ 第2番 補陀落山 観音院 養福寺
(ようふくじ)
荒川区西日暮里3-3-8
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩?
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第7番、東京三十三観音霊場第28番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第27番、東都七観音霊場第5番、近世江戸三十三観音霊場第10番、東方三十三観音霊場第12番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第9番、豊島六地蔵霊場第6番

第2番札所は日暮里の養福寺です。
こちらも「諏訪台」にある真言宗豊山派の寺院です。

『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』、荒川区資料、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

Wikipediaには元和六年(1620年)、法印乗蓮によって開山とあります。
『江戸名所図会』には開山は木食義高上人とありますが、荒川区資料その他には湯島圓満寺の木食義高上人(享保三年(1718年)没)は中興とあります。

『江戸名所図会』によると、義高上人は初め高野山高臺院の住職でしたが当地に赴き、百番の観音札所を遷す事を企られたといいます。
当地にあった小庵を開いて寺とし、野山より遷し奉る霊像を礼拝しつつ修補して、ついに百體の尊像を安されたといいます。

『新編武蔵風土記稿』によれば新義真言宗田端村東覺寺門徒(末)、補院山観王院と号し、御本尊は阿弥陀如来。
仁王門、鐘楼を擁し、天神社、諏訪社が御鎮座とあります。
観音堂には春日作の如意輪観世音菩薩、弘法大師御作の十一面観世音菩薩、慈覚大師御作の正観世音菩薩を安置ともあります。
 
寺宝として台徳院殿(二代将軍徳川秀忠公)御筆の色紙ありと記されています。
仁王門は宝永年間(1704-1711年)に建立とされ、門中の仁王像は運慶作とも伝わります。

養福寺には、「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れた江戸時代の文人たちの遺蹟が残ります。
「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、自堕落先生こと山崎北華が自ら建立の「自堕落先生の墓」など、文学の香り高い寺院として知られています。

当山は、筆者にて確認できた範囲でじつに9もの霊場札所となっています。
『新編武蔵風土記稿』には「観音堂には春日作の如意輪観世音菩薩、弘法大師御作の十一面観世音菩薩、慈覚大師御作の正観世音菩薩を安置」とあり、おのおのの観音様が札所本尊となられていた可能性があります。

『江戸名所図会』の記事からすると、上野王子駒込辺三十三観音霊場は西國写しなので春日作の如意輪観音、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場は板東写しなので弘法大師御作の十一面観音、近世江戸三十三観音霊場ないし東方三十三観音霊場を秩父写しと見立てると慈覚大師御作の正観音がそれぞれ札所本尊であった可能性があります。

『江戸切絵図』では当山とおぼしき場所に「梅ノ天神」の記載があります。
『新編武蔵風土記稿』には山内に「天神社」とあるので、こちらの天神社は梅の名所だったのかもしれません。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(新堀村)養福寺
新義真言宗田端村東覺寺門徒 補院山観王院ト号ス 中興ハ湯嶋圓満寺住職木食義高ナリ 本尊彌陀 寺寶ニ台徳院殿御筆ノ色紙アリ 伝来詳ナラス左ノ如シ

~ いか●にむかし むすへる契にて こ乃世にかゝる 中乃隔り ~

天神社 諏訪社
観音堂 春日作ノ如意輪観音 弘法大師作ノ十一面観音 慈覚大師作ノ正観音ヲ安置ス
鐘楼 仁王門

『江戸名所図会 巻之五』(国立国会図書館)
観王院と号す。同所(日暮里)北の方にあり。本尊は三尊の彌陀佛、開山は木食義高上人なり。
観音堂
西國板東秩父百番の札所をうつせり。
本尊如意輪観音 佛工春日の作にして、西國札所第一番紀州那智山のうつしなり。
十一面観音 弘法大師の作にして、板東札所第一番鎌倉杉本のうつしなり。
正観音 慈覚大師の作にして、秩父札所第一番四萬部寺のうつしなり。

抑此百観音は、義高上人の建立なり。上人初め高野山の高臺院に住職たりしが、後彼寺を退去し、当地に赴き、百番の札所をうつさん事を企つ。是本土に至りがたき兒女等の結縁の為となり。拠て此地に小庵のありけるを、闢きて寺とし(往古太田道灌勧請ありし下諏訪明神の社地なり)、数千歩の地を寄付せられしとぞ。
本尊おほくは野山より遷し奉る霊像なりといへども、百體に充たざるを嘆き、これを修補し、一軆毎に佛舎利一顆を御首に籠め、竟に百體の尊像全からしむとなん。
二王門の額に補陀山とあるは、油小路隆貞卿の眞蹟なり。

『荒川区史』(国立国会図書館)
補陀落山養福寺は又観音院と称し新義真言宗豊山派に属し田端の與楽寺末である。
本尊は阿弥陀如来、開基並びに其の年代は不明であるが、中興開山は木食義高上人(湯島圓満寺)と云はれ享保三年(1718年)示寂。
今本堂の外に観音堂地蔵堂等がある。
観音堂は如意輪観音(帝都七観音の一)を本尊とし、其の他百軆観音像が安置されて居る。
西國第二十七番播磨國書寫山及び秩父第一番四萬部より移したものである。
又御府内二十一ヶ所第二番 豊島弘法大師 荒川辺八十八ヶ所第七十三の霊場である。
当寺の仁王門は寶永年間の建立で仁王尊二天王像が安置されて居る。二天王像は運慶の作と伝へる。
本堂の如意輪観音は春日作と伝へ、其の他弘法大師作の十一面観音、慈覚大師作の正観音と伝へられるものも安置されて居る。
境内の枝絲桜は古来有名。

【現地案内掲示/荒川区教育委員会】
■ 養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三年(1718年)没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』 根岸谷中辺絵図,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ千代田線「西日暮里」駅で徒歩約5分。
「西日暮里」駅方向から来ると「諏訪台通り」の浄光寺の並びにあります。



【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 門柱の寺号札
【写真 下(右)】 六地蔵

「諏訪台通り」からやや引きこんで、まずは門柱を構え、その先の朱塗りの仁王門が目を引きます。
切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で見上げに寺号扁額を掲げ、脇間に二王尊が御座します。


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 鐘楼

山内は緑が多く、しっとりと落ち着いた空気感。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂は入母屋造桟瓦葺で、前面すべてに向拝屋根が置かれているので、二重屋根風の意匠となっています。
身舎はコンクリ造ながら向拝正面に桟唐戸を置き、その両側に二つ引き紋を配して風格をたたえる堂前です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 御本尊の御真言

御本尊は如意輪観世音菩薩で、向拝柱には御真言が掲出されていました。
堂前には修行大師像が御座され、御府内弘法大師霊場の趣ゆたかです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 養福寺の御朱印 〕※豊島霊場の御朱印



中央に「如意輪観世音菩薩」のお種子「キリーク」&尊格と「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右上に「豊島第七十三番」の札所印。
左に山号・院号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-2


【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina


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■ 本当の音 [Hontou no Oto] (True Sound) - KOKIA
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