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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

【78,79,80,82】『大将 白川』、『川端貞次氏伝』、『隻脚記』など

2022年12月25日 | 尹奉吉関係資料編
【78,79,80,82】『大将 白川』、『川端貞次氏伝』、『隻脚記』など

【78】1933年『大将 白川』(桜井忠温著) 石川県立図書館
63 大人間の姿を
(前略)観兵式が終ると、官民合同の祝賀会が行はれた。
 一段高い壇の上には右より村井総領事、植田師団長、白川軍司令官、重光公使、友野民団長(注:民団事務局長)、河野(注:河端)行政委員長の順序に一列に並んでゐた。
 壇の手摺は紅白のきれで巻き、裾には、同じ色の鯨幕が張り廻してあった。マイクロホンが正面に据えてあった。壇は二米半もの高さがあり、壇がついてゐる。
 観兵式の終った後は、群衆が式場の方へ寄って来た。壇のうしろへも池を背にして一ぱいにつめかけて来た。
 壇の前だけが少しばかりすいてゐた。
 一同「君が代」を合唱し、二度目が終ろうとして ──「苔の蒸すまで」といふかいはない刹那、左うしろからコロコロと壇の上に小さい物がころがり出た。何者かのいたづらであらうくらゐに見えた ── といふのは、それが水筒であったからであった。
 白川大将の足もとにころがって来た水筒?からプスプスと煙草のやうなけむりを吐いた。
 アッと思ふ間もなく、それが物凄い音を立てて破裂した。──四月二十九日の午少し前であった。
 ゴーといふ音がつづいた。
 鉛で圧されたやうになった。
 粛とした壇上は、この一発の音響によって、忽ち火事場のやうな騒ぎになった。
 バタバタと崩れるやうに倒れた。黒い物と。カーキ色とが左に右に棒のやうに倒れた。
 「やられた! 大変だ!」
 群衆はざわめき立った。外に遁げるものと、壇に押し寄せるものとが、押し合い、へし合ひした。
 突き飛ばされる。踏まれる。
 あるものは叫び、あるものはうめき。
 どうしていいかわからなくなった。
 「又やられた!」と叫びながら走るものがあった。
 数千の獣を、池の中へ突き落としたやうになった。
 壇の下からはすぐに駆け上がって、倒れた人を助け起した。
 中に一人スクッと立ちはだかってゐる軍服の人があった。血が顔からしぶきのやうに散りながら、服に落ちては、玉となって流れ落ちてゐる。ところどころから血のすじが吹き出しては、それが広がって行った。
 それが白川軍司令官であった。
 壇の板間は、血で一つぱいになった。そこにうつ伏せになってゐるもの、横倒しになってゐるもの-そして、それを抱えてゐる人たちで、こね返した。
 幕僚は一度に夢中に駆け上がった。しかし、軍司令官は、「俺は大丈夫だ」と、身動きもしなかった。(以下略)

64 淋しきは人生
(略)爆弾犯人は朝鮮人の尹奉吉といふ奴で、その場で捕らへたが、調べると、そのうしろに大きいものがゐるらしいが、名前を明かさない。
 口が裂けてもいはぬといひ張った。
 ところが、突然上海のチャイナー・クレスといふ英文紙に、金といふ男が投書した。
 自分の来歴を記し、昭和六年一月八日桜田門爆弾事件は自分がやらしたのだ、などと書いた。
 日本に対する復讐の意志を述べた後ち、
 「余は最初李奉昌を東京に赴かしめ、一月八日の事件を起こさしめ、次いで四月二十九日、新公園に青年愛国員尹奉吉を派して、日本軍事領袖を爆撃せしめた。当日、余は早朝尹を招き、余の作成したる爆弾二個を与へた。一つは暗殺用とし、他は自殺用とした。彼は粛然として、余の訓令を実践する旨を答へ、涙を揮ひ握手して別れた。余とは何者か? 金九といひ、五十七歳、二十一歳の頃より韓国独立運動に奔走するものなり」と述べ、「余の武器は数丁の拳銃と、数百発の弾丸なり、これを以て余の目的実現までは奮闘する」と結んでゐる。(略)

【79】1933年『昭和七年 上海事変誌』(上海居留民団) 金沢市立玉川図書館
三七、爆弾犯人の逮捕(643P)
 昭和七年四月二十九日、新公園に於ける所謂爆弾事件に際し、折柄式場付近警戒中であった総領事館警察の高柳巡査は、不逞漢が第一弾を投じ更に第二弾を投ぜんとするを目撃するや、敢然身を挺して犯人に組み付き、海軍側の後本一等兵曹と共に之を取押へ、第二弾の投擲を阻止し得た。之と共に澤畠、迫田両巡査及花里警察署長も駆けつけ、犯人の身柄検査を行ふと共に、此実状を目撃して極度に激昂せる群衆の犯人に対する私刑を阻止し署長の指揮により犯人を自動車にて憲兵隊へ送致した。
 同巡査の敏捷果敢なる行動は、警察精神を遺憾なく発揮したものと称すべきであらう。

【80】1933年『河端貞次氏伝』(上海居留民団) 高知県立図書館
第二編 遭難 第一章 負傷より逝去まで
一、負傷前後の模様
 昭和七年四月廿九日、恒例による官民合同の天長節祝賀会は村井総領事を会長に、河端行政委員会長を委員長として新緑燃ゆる新公園に於て挙行せらるることとなった。之に先だちて上海派遣軍司令官白川大将またこの日統率する約一万の豼貅(ひきゅう:むじな)を集めて荘厳なる観兵式を行ふこととなった。朝来雲低く垂れたれども在留同胞は聖寿の無窮を寿き奉ると共に、上海に於ては実に空前絶後とも謂ふべきこの盛観に接せんと、早朝より会場たる新公園に押寄せた。
 観兵式は先づ午前十時、新公園門前道路上に於ける陸軍特科隊の閲兵に始り、次で十時半より園内に於て徒歩部隊観兵式が行はれ、嚠喨(りゅうりょう)たる喇叭の響きにつれ植田中将指揮の下に軍司令官白川大将により閲兵分列と、涙ぐましき荘厳さの裡に進行して十一時に終了した。更に十一時半よりいよいよ官民合同の祝賀会が開始せられた。定刻白川軍司令官、野村第三艦隊司令官、植田第九師団長、重光公使は祝賀会長村井総領事の先導にて、河端祝賀会委員長及友野民団書記長と共に会場正面に設けられた式壇に着席し、其他の会衆はそれぞれ壇下の所定席に就いた。
 其頃より朝来の曇天は更に降雨と化したが、儀式は十一時四十五分友野書記長の開会の辞により厳粛に開始せられた。開会の辞に次で河端委員長は徐にマイクロフォーンの前に進んで大要左の如き挨拶を述べた。(中略)
 次に村井会長の祝辞朗読あり、最後に君が代の二唱の将に終らんとする刹那、式壇に向かって左後方約三米の距離より参列の一般民衆に混入せる一鮮人不逞漢の投げつけた爆弾が、壇上に起立せる野村司令官と重光公使との中間辺にて爆発せしため、壇上の七氏は一斉に負傷するの一大不祥事が勃発した。乃ちこの兇行のため河端行政委員会長は、白川派遣軍司令官、植田師団長、野村第三艦隊司令長官、重光公使、村井総領事、友野書記長らと共に負傷したのであったが、不幸にも会長は右側胸部に致命的な重傷を負い、其他全身に百数ケ所に爆傷を受け、最も重傷を蒙ったのである。

二、応急手当より逝去まで
 負傷と同時に氏は自身で壇下に降り、其所に居合せた学校職員等に右手首の負傷に対する応急手当を受くる間に昏倒したので、軍人や学校職員等に擁せられ直に場内の救護班室に運び込まれた。何分全く夢想だにしなかった不慮の椿事であり、救護班に於ても之等に対する応急処置の用意が整へてなかった為大に困惑したが、幸いにも草島、秋田の両医師が駈けつけ先づカンフル注射を施した。殆んど之等と同時に第四野戦病院の医官連も駈けつけ、前記両医師と共に腹部を検したが、只全身に無数の爆傷を認めるのみで左程の出血もなく、然も意識明瞭を欠き、殊に心臓部の機能も殆んど停止してゐるの状態に在った。之が為引続き二三筒のカンフル注射を行ひ、軍医は三角巾を以つて圧迫包帯をなしつつある中、微かながら脈搏も出で来りたる為め、多数軍医官及び両医師に擁せられて福民病院に運び込まれたのであった。
 所が頭部を除ける全身に二百七ケ所の爆傷を受けた重傷の上に、祝賀会場に於ける災禍のこととて、院長頓宮博士は直ちに上海派遣陸海軍軍医部、及上海日本医師会総動員の下に、治療に就ては最善を尽し万遺憾なきを期することとした。
 此時福民病院には同時に負傷せし重光公使、村井総領事も共に入院したので変報に接せる内外諸名士が多数見舞に押しかけたが、軍部、総領事館及民団当局により警備や接客は遺憾なく行はれた。
 かくて応急処置後、多数軍医官及び医師会員協力の下に鮮血に汚染されたフロックコート其他の着衣を除去し、綿密なる検診が行はれたが、何分多量の内外出血により貧血の症状にある為め、カンフル、ヂガーレン等の強心剤の反復注射を行ひ、引続いて血液三〇〇グラム、リンゲル氏液五〇グラム全量三五〇グラムの輸血を行った結果脈搏も稍佳良となって来た。然し各部の爆傷により疼痛甚しく、為めに鎮痛剤を注射する一方酸素吸入などを行ひ、人事の能ふ限りを尽したが其効なく、遂に翌三十日午前三時十分、母堂知己等多数の人々に見守られながら死亡したのであった。尚屍体は三十日午後三時半より、上海派遣軍軍医長田川軍医官、遣外艦隊軍医長豊田軍医大佐、居留民団代表池田重雄、医師会長秋山康世、其他故人の親友等立会、福民医院院長頓宮博士執刀の下に解剖に付せられたが、死因は右肺損傷による急性貧血と決定せられた。
 かくて遺骸は同日夕刻海甯路の自宅に運ばれたが此悲報一度伝はるや駐屯陸海軍関係者及在留官民多数の弔問客引きも切らず、殊に民団関係の人々は同家に詰切り之等弔問客の応接に遑(いとま)なく大混乱を呈した。又兇変の報一度新聞号外ラヂオ放送等により母国に報ぜらるるや、忽ち多数の見舞電報に次いで、弔電が民団及遺族宛に寄せられた。(以下略)

【82】1937年『隻脚記』(重光 蔟著) 石川県立図書館
爆弾破裂(略)
意見上申
(略)自分は考えた。犯人は朝鮮人であっても、いかなる背景があって事が重大化せぬとも限らぬ。しかし日本は満州問題の将来を控えている。上海事件はこの辺で名誉の終局を告げることが国家将来の大局上絶対に必要である。遠く離れている東京政府は或は判断に苦しむことがあるかもしれぬ。東京の事情は複雑であろう。国家の安危の分かれるところである。この際自分のなすべき職務で何か残っていることはないだろうか、と考慮に考慮を巡らした。その結果この事件によって起った新形勢について政府に意見を上申するのが刻下の急務であると思った。…そして自分の意向を告げて至急芳沢外相宛に意見を電報するようにと電文をとぎれとぎれに口述した。もうすっかり夜になって悽惨の気があたりにこめていた。
 「本使今回の負傷は致命傷に非ずとするも頗る重傷と判断せらる。ついては今後当分公務を見ること能わざるを遺憾とす。しかるところ今回の事件にかかわらず停戦協定はこのまま成立せしむること国家の大局上より見て絶対必要と愚考す。この際一歩誤らば国家の前途に取り返しのつかざる羽目に陥るべし。もし対内外の連絡等のため必要ならば至急松岡氏を再び上海にわずらわし、右停戦交渉成立に努力せしむることとしたし」というような趣旨であった。(略)
 四月二十九日の正午近くに起った新公園の爆弾事件は九月一日の正午近く起った東京大震災のように上海人の神経に響いた。日本人一般は電気にでも打たれたようであった。新公園内の天長節の催し物は雨と共にお流れとなり、その夜の祝宴もみな取り止めとなった。総領事官邸には午前十一時半頃から外国人関係の祝賀レセプションが催されることになっており、…。その時新公園に参列していたある国の武官が駆けつけて事件を報告した。一同の驚きは大変なものだった。シナ側の市長やその他の人々はまず姿を消した。これは第二のサラエヴォ事件だと叫ぶ人もいた。責任をもつ英、米、仏、伊の公使はすぐその場で善後策について意見を交換した。
 日本側首脳部全部が洩れなくやられたのはなんと言っても世界を震駭させた。この事件がどうなるかは、大変な不安と憂鬱をもって世界の人から見られた。特にジュネーヴの軍縮会議中、東亜問題で集まっていた各国の政治家の神経をも痛く刺激した。直ちに世界戦争を連想した人もあった。その時に自分の最後の意見として、爆弾事件は爆弾事件として取り扱い、停戦協定はあくまで成立せしむべしという趣旨の電報がジュネーヴにも、またその他の都にも到着した。上海のランプソン英公使は状況を詳細にジュネーヴにいるサイモン英外相に電報で報告、日本公使の爆弾事件に対する態度及び意見も間接に探知して電報した模様である。各国の代表ももちろん詳細の状況を報告したに違いない。ジュネーヴの空気は上海における重傷の日本公使の意見を知って俄然緩和するとともに多大の同情を表すようになったとのことだった。日本政府も停戦交渉を成立させる決意をすぐ表明したので一時世界をおおった迷雲も間もなく晴れ、交渉は急テンポで成立に導かれた。

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