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鶴彬―金沢衛戍監獄と軍法会議室 2018年1月15日
(1)鶴彬と金沢衛戍監獄
鶴彬は1930年に徴兵され、1931年『無産青年』を隊内に配布したことで、治安維持法違反に問われて、逮捕された。
鶴彬が何処に収監され、鶴彬を裁いた軍法会議室(法廷)が何処にあったのかが曖昧だったが、尹奉吉処刑前夜の拘禁場所調査から、その姿が明らかになってきた。
(2)金沢衛戍監獄の歴史
1975年、旧金沢城内に陸軍歩兵第七聯隊、1898年に第九師団が設置された。ウィキペディアによれば、1881年陸軍刑法、1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」、1908年「陸軍監獄令」が出され、軍事刑務所運用の基本規定となった。
大江志乃夫によれば、1922年からは「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれており、1932年に鶴彬が拘禁された場所の名称は「衛戍拘禁所」「衛戍刑務所」のいずれかになるが、旧金沢城内諸地図や石川県立歴史博物館(石川歴博)所蔵の「土地履歴表」には、「金沢衛戍拘禁所」(大手町1-1-内)と記載されている。
<1>『金沢市史通史3』には、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」と記載されているが、どこに作られたかについては明記されていない。1905年の金沢市街図には、玉泉院丸あたりに「衛戍拘務所」と記載されている。
<2>「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日」(注)には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸付近から第九師団司令部構内に移転した。(注)「国会図書館デジタルコレクション1932年4月19日 3213号」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955336)
1923年4月19日官報3213号
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/2b/0ab3e35775400b392cadb58b3aa84b7d.jpg)
<3>『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載され、移転跡の衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用されたようだ。
(3)金沢城地図上の記述
金沢市立図書館HPの「金沢市街図」などから検証すると、
<1>1905年の「金沢市街図」には玉泉院丸(尾山神社近く)に「金沢衛戍監獄(下右楕円)」、白鳥路付近に「金沢監獄拘置監」(上楕円)という記載がある。下左楕円は憲兵隊本部(敗戦までここに所在)である。
<2>『川柳人鬼才鶴彬の生涯』(岡田一杜著)には、1924年に上空から撮影した金沢城内の空中写真がある。
<3>「1945年以前の口座3号地図」(石川歴博)の衛戍拘禁所は1924年空撮写真と一致する。
<4>1937年「金沢市地図」には、第九師団構内にある各軍機関名が列挙されており、そのなかに司令部のなかには「軍法会議」があり、「金沢衛戍拘禁所」という文字も見える。
<5>1985年住宅地図の極楽橋南側に「動物実験室」と明記されている建物がある。
1905年地図 1924年空撮 口座3号地図(石川歴博資料)
1937年金沢市街図 1985年金沢住宅地図
(4)金沢衛戍拘禁所はここだ!
多くの地図(1905~1936年)には、玉泉院丸付近に「衛戍拘務所」「衛戍監獄」「拘禁所」の記載があるが、「官報第3213号」「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」によれば、玉泉院丸に設置された衛戍監獄は、1923年には第九師団司令部構内に移転た。
1930年に鶴彬は入隊し、3月に重営倉入りしている(<3>「口座3号地図」右上「警倉」)が、1931年に治安維持法で逮捕された鶴彬は同地図上の「衛戍拘禁所」に収監された。
「口座12号地図」(石川歴博)には衛戍拘禁所の平面図もあり、鶴彬が大阪衛戍監獄に送られるまでの間、板張りの監房で辛い獄中生活に耐えていたのである。
口座12号地図(石川歴博資料)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/56/4fc8690f9227abac926725ca2bd50868.jpg)
(5)軍法会議(法廷)は師団司令部のどこ?
今回の資料調査で、第九師団(第52師団)司令部の図面(石川歴博)が見つかり、「法廷・傍聴席」と書かれた部屋があったが、その位置はまだわかっていない。
ここで軍法会議が開かれ、鶴彬を懲役1年8カ月の判決を出し、大阪衛戍監獄に送ったのである。
第九師団司令部庁舎(石川歴博資料) 第九師団法廷・傍聴席(石川歴博資料)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/e5/28a7ce4d5c6404d1f62429d5e205457c.jpg)
(6)1990年代まで残されていたか
1993年までの金沢住宅地図には、元「金沢衛戍拘禁所」の建物に、「法文学部心理学研究室 動物実験室」と説明書きがあり、この頃まで衛戍拘禁所の建物が存在したようだ。1995年の住宅地図では空き地になっている。
また、『川柳人鬼才鶴彬の生涯』には、1924年空撮写真と一緒に「数年前に取り壊された旧七聯隊衛戍拘禁所跡」という写真が掲載されている。この本は1997年に発行されており、「数年前」といえば、1995年前後であり、住宅地図の変遷と岡田一杜さんの叙述が一致する。
金沢城公園には、治安維持法下で反戦・反軍活動を展開していた鶴彬の足跡は消し去られているが、金沢城公園を歩いて感じ取って欲しい。
(1)鶴彬と金沢衛戍監獄
鶴彬は1930年に徴兵され、1931年『無産青年』を隊内に配布したことで、治安維持法違反に問われて、逮捕された。
鶴彬が何処に収監され、鶴彬を裁いた軍法会議室(法廷)が何処にあったのかが曖昧だったが、尹奉吉処刑前夜の拘禁場所調査から、その姿が明らかになってきた。
(2)金沢衛戍監獄の歴史
1975年、旧金沢城内に陸軍歩兵第七聯隊、1898年に第九師団が設置された。ウィキペディアによれば、1881年陸軍刑法、1883年「陸軍監獄則」、1888年「衛戍条令」、1908年「陸軍監獄令」が出され、軍事刑務所運用の基本規定となった。
大江志乃夫によれば、1922年からは「衛戍刑務所」と「衛戍拘禁所」に分かれており、1932年に鶴彬が拘禁された場所の名称は「衛戍拘禁所」「衛戍刑務所」のいずれかになるが、旧金沢城内諸地図や石川県立歴史博物館(石川歴博)所蔵の「土地履歴表」には、「金沢衛戍拘禁所」(大手町1-1-内)と記載されている。
<1>『金沢市史通史3』には、「衛戍監獄は、明治31(1898)年末までに完成」と記載されているが、どこに作られたかについては明記されていない。1905年の金沢市街図には、玉泉院丸あたりに「衛戍拘務所」と記載されている。
<2>「官報第3213号 大正12(1923)年4月19日」(注)には、「陸海軍 金沢衛戍拘禁所移転 金沢衛戍拘禁所ハ本月十四日金沢市第九師団司令部構内ニ移転シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)」とあり、玉泉院丸付近から第九師団司令部構内に移転した。(注)「国会図書館デジタルコレクション1932年4月19日 3213号」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955336)
1923年4月19日官報3213号
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/2b/0ab3e35775400b392cadb58b3aa84b7d.jpg)
<3>『金沢市史資料編11近代1』所収の「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」には、「11の乙/馬糧庫」の「履歴」に、大正12(1923)年8月元金沢衛戍監獄より組棒」、「31/厩」の「履歴」に、大正12(1923)年8月陸軍普第3114号により同年10月元金沢衛戍監獄より整理替組入」と記載され、移転跡の衛戍監獄が馬糧庫や厩に再利用されたようだ。
(3)金沢城地図上の記述
金沢市立図書館HPの「金沢市街図」などから検証すると、
<1>1905年の「金沢市街図」には玉泉院丸(尾山神社近く)に「金沢衛戍監獄(下右楕円)」、白鳥路付近に「金沢監獄拘置監」(上楕円)という記載がある。下左楕円は憲兵隊本部(敗戦までここに所在)である。
<2>『川柳人鬼才鶴彬の生涯』(岡田一杜著)には、1924年に上空から撮影した金沢城内の空中写真がある。
<3>「1945年以前の口座3号地図」(石川歴博)の衛戍拘禁所は1924年空撮写真と一致する。
<4>1937年「金沢市地図」には、第九師団構内にある各軍機関名が列挙されており、そのなかに司令部のなかには「軍法会議」があり、「金沢衛戍拘禁所」という文字も見える。
<5>1985年住宅地図の極楽橋南側に「動物実験室」と明記されている建物がある。
1905年地図 1924年空撮 口座3号地図(石川歴博資料)
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1937年金沢市街図 1985年金沢住宅地図
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(4)金沢衛戍拘禁所はここだ!
多くの地図(1905~1936年)には、玉泉院丸付近に「衛戍拘務所」「衛戍監獄」「拘禁所」の記載があるが、「官報第3213号」「旧藩在来建造物一覧(昭和16年調)」によれば、玉泉院丸に設置された衛戍監獄は、1923年には第九師団司令部構内に移転た。
1930年に鶴彬は入隊し、3月に重営倉入りしている(<3>「口座3号地図」右上「警倉」)が、1931年に治安維持法で逮捕された鶴彬は同地図上の「衛戍拘禁所」に収監された。
「口座12号地図」(石川歴博)には衛戍拘禁所の平面図もあり、鶴彬が大阪衛戍監獄に送られるまでの間、板張りの監房で辛い獄中生活に耐えていたのである。
口座12号地図(石川歴博資料)
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(5)軍法会議(法廷)は師団司令部のどこ?
今回の資料調査で、第九師団(第52師団)司令部の図面(石川歴博)が見つかり、「法廷・傍聴席」と書かれた部屋があったが、その位置はまだわかっていない。
ここで軍法会議が開かれ、鶴彬を懲役1年8カ月の判決を出し、大阪衛戍監獄に送ったのである。
第九師団司令部庁舎(石川歴博資料) 第九師団法廷・傍聴席(石川歴博資料)
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(6)1990年代まで残されていたか
1993年までの金沢住宅地図には、元「金沢衛戍拘禁所」の建物に、「法文学部心理学研究室 動物実験室」と説明書きがあり、この頃まで衛戍拘禁所の建物が存在したようだ。1995年の住宅地図では空き地になっている。
また、『川柳人鬼才鶴彬の生涯』には、1924年空撮写真と一緒に「数年前に取り壊された旧七聯隊衛戍拘禁所跡」という写真が掲載されている。この本は1997年に発行されており、「数年前」といえば、1995年前後であり、住宅地図の変遷と岡田一杜さんの叙述が一致する。
金沢城公園には、治安維持法下で反戦・反軍活動を展開していた鶴彬の足跡は消し去られているが、金沢城公園を歩いて感じ取って欲しい。