アジアと小松

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小松基地問題研究会

20171021シンポジウム「今、鶴彬から学ぶこと」

2017年10月23日 | 川柳
10・21シンポジウム「今、鶴彬から学ぶこと」に参加して

 10月21日、シンポジウム「今、鶴彬から学ぶこと」が開かれ、参加してきました。4人のパネラー(盛岡市から佐藤さん、大阪から川柳作家の岩佐さん、石川県高松から平野さん、映画監督の神山征二郎さん)と司会の寺内さんが紹介され、壇上にならんでシンポジウムが始まった。

鶴彬の価値はどこに
 佐藤さんは鶴彬のお墓を10年かけて捜し出し、1972年に松園町に句碑(手と足をもいだ丸太にしてかへし)を建てたいきさつについて話した。岩佐さんは鶴彬が大阪に働きに来ていったん故郷に戻ったが、弾圧でふたたび大阪の衛戍監獄に送られてきたこと、さまざまな努力を重ねて、2008年衛戍監獄の跡地に顕彰碑(暁を抱いて闇にゐる蕾)を建てることができたことについて話した。

 平野さんは1956年から鶴彬の顕彰活動を開始し、1965年に卯辰山公園に句碑(暁を抱いて闇にゐる蕾)を建て、1972年に高松児童公園に句碑(枯れ芝よ団結をして春を待つ)を建て、その後高松歴史公園に移転したことについて話した。また、澤地久枝さんが一叩人の全集をまとめ、2009年には映画「鶴彬―こころの軌跡」を制作し、全国展開が始まったことを話した。

 最後に神山さんは映画「鶴彬―こころの軌跡」制作の経緯について話した。

今、我々に何ができるか
 休憩を挟んで、パート2が始まり、同じ順で鶴彬の生き方をいかに今日に引き継いでいくのかについて話した。ここでは作品ではなく生き方が対象化された。

 佐藤さんは、川柳とは厳粛な現実批判であり、烈しい矛盾にぶつかって生まれる。反戦川柳人とは言わず、死ぬまでポリシーを持って生きていく詩人と言うべき。サラリーマン川柳は、大口を開けて笑っておしまいで、川柳ではない。

 岩佐さんは、マスコミはなっていないと思うが、そのマスコミへの働きかけを必要としている。いまでも、天皇批判の川柳を投稿するとき、猛烈な批判を受けとめる勇気が必要だ。

 平野さんは、鶴彬は反戦川柳人であり、平和的に、非暴力的に戦争を批判した。構造的暴力を否定した川柳人だ。権力を恐れずに反戦の思いを表現した。共謀罪の成立で、萎縮効果が生まれているが、鶴彬は肌で考え、最も苦しんでいる者の立場に立って考えた。国家暴力とどう対抗するか―鶴彬は川柳という武器で対抗した。

 神山さんは、映画「ひめゆりの塔」制作をとおして、戦時教育の果たした役割を強調した。日本は創氏改名など無茶なことをやって、朝鮮人を日本人化し、世界に例を見ない苛酷な植民地支配だった。これにたいして、鶴彬は朝鮮にかんする句を書いている。帝国主義とは植民地支配であり、アジアだけではなく、オーストラリアまで侵略し、世界中を日本の支配下に置こうとしていた。

鶴彬とは何ものか?
 閉会後、尹奉吉共の会から12月2、3日に予定している「韓日(日韓)共同学術会議:尹奉吉義士と世界平和運動」が紹介された。石川県で生まれ・獄死した鶴彬と石川県で処刑された尹奉吉―両者を顕彰する団体が85年の時を超えて結びついた。

 侵略戦争と治安維持法が支配する1930年代に、真っ正面から日帝にたたかいを挑んだふたり―侵略する側の民族と植民地支配下の民族。コムニスト鶴彬と独立戦士尹奉吉。両者の共通項は天皇制軍隊を内側と外側から解体することであった。そしてふたりは軍法会議にかけられ、同時期に大阪衛戍監獄に収監されていた。

 シンポジウムでは、鶴彬を「反戦川柳人」と呼ぶ(平野)べきか、「詩人」と呼ぶ(佐藤)べきかで意見が分かれたが、この論争は、鶴彬の全身像を川柳という文学の狭い範囲でしか評価していないのではないか。鶴彬は川柳人である前に、コムニスト・革命家であったことを忘れてはならない。資本主義に反対し、民衆(自ら)の貧困に同情し、侵略戦争(軍隊)と植民地支配に反対した―その強固な思想と行動が鶴彬の川柳を構築しているのである。

コムニスト・革命家として顕彰したい
 一叩人の『評伝 反戦川柳人・鶴彬』によれば、鶴彬は1930年に徴兵検査を受け、第九師団に入隊し、「質問事件」で重営倉にされた。1931年には「無産青年」を隊内に持ち込み配布した廉で、治安維持法違反で軍法会議にかけられ、1年8カ月の判決を受けて大阪衛戍監獄に移送された。この時(1932年11月18~12月18日)に尹奉吉と同じ釜の飯を食べていた。

 多くの「共産主義者」が転向していくなかで、1937年に「反軍反戦平和のピストルを撃ち続けて止まぬ鶴彬の口を封じよう」(一叩人)と、治安維持法容疑で特高警察に逮捕された。「この時権力を最も恐れさせた鶴彬の作品は、『重税の外に献金すすめられ』『人間にはめる轡を持って来い』『手と足をもいだ丸太にしてかへし』の3つであった」と、一叩人書いている。

 私たちが鶴彬に学ぶべきは、川柳に表現された鶴彬の人生観である。わたしは鶴彬をコムニスト・革命家と呼び、そしてそのままの姿で顕彰したい。鶴彬の夢が果たされないまま80年を過ぎ、いまも日帝の姿はかつてと何も変わっていない。鶴彬の前に立つとき、自らの人生を日帝と対峙する存在として貫きたいと思っている。

    
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