OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

リンド&リンダースと加藤ヒロシの鬼才

2012-10-26 15:21:32 | 日本のロック

燃えろサーキット / 加藤ヒロシとザ・リンド&リンダース (Philips)

日本で本当にロックが流行っていたのは昭和40年代のエレキ~GSブームの頃であり、当然ながら数多の優れた人材が登場しています。

例えば本日ご紹介のリンド&リンダースは、関西をメインに活躍していた事もあって、一般的に知られたヒットは昭和43(1968)年の「銀の鎖」という、これが哀愁ロックの極みつきだけでしょうが、しかし当時のリーダーであったギタリストの加藤ヒロシの才能はもっと認められるべき!

と、サイケおやじは思っていますが、しかし、もちろんリアルタイムでそれに気がついていたわけではありません。

実は毎度の事ではありますが、告白すればサイケおやじが加藤ヒロシの存在を認めたのは、ソングライターとしての力量の素晴らしさが最初であって、それは昭和46(1971)年、先輩がやっていたアマチュアロックバンドがライプで演奏した「母捨記」という、なかなかサイケデリックハードな曲を聞いた時でした。

で、それを書いたのが加藤ヒロシである事は言わずもがな、なんとっ! オリジナルは寺山修司がアングラ芝居の天井桟敷と組んで公演した「書を捨てよう、街へ出よう」の中で使われていた演目のひとつだったんですねぇ~~!?!

ちなみに同演劇は後に映画化もされ、「母捨記」はそこでも使われたほどの名曲であり、件の先輩が狂的な寺山信者であれば、自分のバンドでカパーしてしまうのも当然が必然というわけです。

こうしてサイケおやじは作曲を担当した加藤ヒロシの名前を確認したのですが、並行して様々に調べてみると、加藤ヒロシは本来はジャズ系のギタリスト兼作曲家であり、フォーク・クルセダーズの「戦争は知らない」や坂本スミ子のヒット曲「たそがれの御堂筋」等々を書き、さらには自らエレキバンドのザ・リンドを率いていたというキャリアを知ったのです。

そしてザ・リンドこそが、GSに発展し、リンド&リンダースになった!

これは温故知新というか、目からウロコというか、そうして思い返してみれば、決して大メジャーとは言えなかったものの、数回はテレビで接していたリンド&リンダースの上手いギタリストは、そういう人だったのかぁ~~~!?!

等々、極めて強い印象が蘇ってきましたですねぇ~♪

そうです、加藤ヒロシは本当にギタリストとしても超一流で、前述した「銀の鎖」における北欧スタイルの澄みきった泣きのメロディを聞かせてくれる腕前は流石の極みでしょう。

サイケおやじが以降、加藤ヒロシのギターと作曲が聴ける、リンド&リンダースのレコードを希求したのも自然の流れとご理解下さいませ♪

さて、そこで本日掲載のシングル盤は、おそらくリンド&リンダースの公式デビューから2枚目のレコードと思われますが、そのあたりの経緯が些か混迷しているようで、勉強不足のサイケおやじにはイマイチ把握出来ていません。

それはリンド&リンダースが既に述べたとおり、ザ・リンドと名乗っていたエレキバンド、つまり演奏セクションとリンダーズと称していたボーカルグループの集合体であった事に起因しています。

まあ、こうしたスタイルはシャープ・ホークスとシャープ・ファイヴの関係にも似ていますが、リンド&リンダースは地元大阪と東京、さらには地方を頻繁に往復していた営業形態ゆえに、メンバーの出入りも相当にあったとされていますし、レコードを出すにあたっても、リンダースの中で誰がリードを歌うのか、そんなこんなの諸問題も……。

で、このシングル盤リリース時の顔ぶれは加藤ヒロシ(g)、木和来(g,vo)、宇野山和夫(b)、島明男(ds)、加賀テツヤ(vo)、榊テルオ(vo)、迎修二(vo) とされているようですが、ここに収録の両面を歌っているのは木和来!?

しかも同時期には実質的なバンドのデビュー作にして、加賀テツヤのボーカルを全面的に前へ出した演歌系のシングル盤「ギター子守唄」も発売していたのですから、どうにも理解に苦しむわけですが……。

それでも一転!!?!

この「燃えろサーキット」はゴーゴースタイルのエレキ歌謡が全開した痛快な仕上がりで、典型的なテケテケサウンドは言わずもがな、何よりも凄いのが、こういうホットロッド物には絶対不可欠なエンジン排気音のSEをエレキギターで作ってしまうという剛腕テクニック!

特にイントロで、おそらくはギターの弦をピックで擦り、併せてボリュームコントロールも使っているであろう、その妙技は、これが発売された昭和42(1967)年にしては些か古い曲調をブッ飛ばすサイケデリックな感性だと思うばかりです♪♪~♪

だって、これまでサイケおやじには幾度も挑戦して、同じサウンドを得られないという現実がありますからねぇ~~。もちろん自分の技量の稚拙は自覚したうえでの断言と、ご理解願います。

ちなみにここでの作詞は寺山修司、作曲は加藤ヒロシとクレジットされていますから、前述した「書を捨てよう、街へ出よう」でのコラポレーションも既に所縁があったという事でしょう。

う~ん、加藤ヒロシは凄い!!

以前にご紹介した弟バンドのナポレオンが、加藤ヒロシの作編曲で幻の名シングル盤を出している事実も普遍でしょう。

ということで、結果的には売れなかった「燃えろサーキット」ではありますが、であればこそ、尚更にリンド&リンダースのレコードは愛おしくなります。おそらくはLPアルバムがリアルタイムで発売されなかった事情もあり、また加藤ヒロシのその後についても、知る由がありません……。

また残念ながら唯一のヒットであった前述「銀の鎖」が、何故か加藤ヒロシの作曲ではなかったという現実も皮肉でしょう。

しかしリンド&リンダースは、その存在の曖昧さとは逆に、なかなか本物のロック魂を持っていたように思います。

そして実質的には加藤ヒロシが抜けた後、加賀テツヤが同バンドを引き継いでの活動もありましたから、願わくば既発&未発表音源も纏めた復刻盤の登場を待っています。

皆様も、ぜひっ!

願わくば、既発&未発表音源を

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7 コメント

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実は… (milouchat)
2015-11-13 15:48:29
「母捨記」のことなんですが

オリジナルは寺山修司がアングラ芝居の天井桟敷と組んで公演した「書を捨てよう、街へ出よう」の中で使われていた演目のひとつだったんですねぇ~~!?!

というのは間違いです。といっても、ほとんど誰も知らない(?)ので、どうでもいいんですが…

1969年の秋頃、彼ら(のターゲット・プロ)が持っていた曾根崎のゴーゴー喫茶の入りが悪くなりGSも下火になってきて何か新しいことを…と当時はやっていたアングラ芝居をやることに、というのも加藤ヒロシも社長の古川も寺山修司と懇意だったから寺山の名前なら売れるかも、とヴィレッジ座という劇団を結成し寺山修司作・演出で「A列車で行こう」という芝居を年末頃から1ヶ月公演しました。団員はオーディションで集めた素人ばかり10名ほど。

芝居と言っても寺山ですから一般的な意味での台本はなく、10編ほどの詩に音楽をつけた寸劇のようなものです。入場料は500円ですが面白くなかったら投げつけろ、とあんパンが付いています。

話が脱線したが「母捨記」もその1編でした。
寺山は名前だけで実際には2回ほどしか顔を出さなかったが初日に(一応の?)完成舞台を初めて見て「母捨記」の音楽を非常に気に入り2日目の舞台を録音したテープを送ってくれ…

というわけで「書を捨てよ、街へ出よう」に採用したわけです。つまりオリジナルは天井桟敷ではなくヴィレッジ座の舞台でした。
まあ寺山のどの資料を見ても彼が “演出”したはずの、この舞台は記載されていません。
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感謝 (サイケおやじ)
2015-11-13 16:58:02
☆milouchat様
貴重なお話、ありがとうございます!

あらためて目からウロコ、真相に触れられた喜びは感激です。

アンパンの件、流石は当時のアングラ芝居という演出(?)で、実は昭和50年代にも似た様な試みをやっていた小劇団の公演に接したことがありましたが、寺山御大の影響が感じられた芝居でしたから、そこでのアンパンも、きっとそうだったんだなぁ~~とニヤリです。

これからも素敵なお話、楽しみにしていますので、よろしくお願い致します。
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なるほど (てつや)
2015-11-14 17:14:27
加藤ヒロシの作曲で坂本スミ子の歌う「たそがれの御堂筋」が妙に気にかかる歌で、 今日までずっと忘れる事が
ない歌でした、
あか抜けた曲の雰囲気が今までの演歌とは全く違うものを感じていました 
サイケ親父様の記事を読ませていただいて、なるほど凄い才能の持ち主なんだと納得しました。本当に勉強になります
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その後 (milouchat)
2015-11-14 22:05:19
昨日追加コメントを書いたはずなのに出ていないので、再度その後の加藤ヒロシについて補足。

加藤ヒロシと同じターゲット・プロに所属していた坂本スミ子やアイ・ジョージは人気が出ると当然本拠を東京に移した。
しかし加藤ヒロシには、ある事情があって大阪を離れられず誘いがあっても断った。
(“ある事情があって”って小林麻美だ…)

しかし、その問題が解消したとき彼は芸能界に未練はなく“東京”ではなくギタリストとして本場のロンドンに向かった。
そして確かSmall World というバンドを結成してバンド活動をしていた(レコードを出したかは知りません)。
その後、音楽事務所を立ち上げツトム・ヤマシタのプロデュースや日本から来るミュージシャンのコーディネイトなどもして結構広範な活動をしていたようです。

最近の情報は持っていませんが、元気であれば(現在70歳ぐらい)今もロンドンで活動しているはずです。15年ほど前に同じくロンドン在住のフランク・チキンズのカズコ・ホーキさんに聞いた話では精力的に活動していると言っていたが…

そうそう、題名は思い出せないが自動車レースにからむ映画に俳優(悪役)として出演していて偶然スクリーンで見つけて驚いたことがある。多分アメリカ映画です。
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再評価を望みたいです (サイケおやじ)
2015-11-17 15:45:15
☆てつや様
コメント、ありがとうございます。

加藤ヒロシの才能は今も不滅に輝いているはずで、後追いでも知るほどに感服されると思いますよ。

機会があれば、どんどんお楽しみくださいませ♪
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天才の存在価値 (サイケおやじ)
2015-11-17 15:50:00
☆milouchat様
貴重なお話し、本当にありがとうございます。

それがネットの世界であっても、いや、だからこそ大勢に読まれているであろう加藤ヒロシの諸々は、きっと次なる再評価に繋がるものと確信しております。

本当に近況が気になりますねぇ~。

今後とも、よろしくお願い致します。
返信する
近況が分かりました (milouchat)
2016-09-10 23:32:03
お久し振りです。
本名の加藤宏史で検索したらヒットし近況が分かりました。恐るべき(??)活躍振りです。
http://www.loe.uk.net/sites/default/files/LOE%20CV%20JPN_0.pdf

僕の過去のコメントから僕が関係者であったことは想像が付くでしょうが書いたように「A列車で行こう」は“演出:寺山修司・加藤ヒロシ”となっているが実質的には僕が演出しました。つまりアングラ劇団を立ち上げるのはいいが芝居の知識も経験もないので演劇経験のあるヒマな人間を探していた。
当時彼が付き合っていた女性と僕の義理の妹が同じ店でアルバイトをしていて今で言うフリーターだった僕に話が回ってきて面白そうだと手伝うことになったわけです。

寺山からは「母捨記」など10編ほど詩の原稿用紙を送ってきて部分的な演出指示のメモ書きはあったが、どう舞台化していいか見当も付かず相当難儀をしたが、さすがに寺山が来ると1回で骨組みが出来てサマになりました。ちなみに五つの赤い風船の西岡たかしも音楽担当の1人として楽曲を1つ提供し団員のオーディションにも立ち会いました。

余談ですが芝居の中で1人の男性が暗闇の中で全裸になり懐中電灯で客の顔を照す場面がある(つまり近くの人には見える)。ある日、どこから伝わったのか観客に私服刑事と思われる男性が2人。念のため僕はその日は全裸をやめました。案の定その場面が終わると彼らは途中で帰った。実は楽日にも救急車を呼ぶような“事件”があったりもしたが…
ついでに更新はされていないようだがリンダース関連のHPもありました。
http://lind-and-linders.com/index.html

なお巨大な(?)チケットが出てきて初日は70年1月7日だったが終わりの記載はなくいつまでだったか不明。少なくとも2月にかかったことは間違いない(期間中の1月31日に僕の長女が生まれた)。
公演が終わったあと僕にもターゲットプロからの誘いはあったが芸能界(?)に入る気(余裕)はなく、その後の付き合いは一切ない。加藤ヒロシや加賀テツヤとの個人的な想い出はあるが書くことは控えます。
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