■Superbird / Neil Sedaka (Kirshner / 日本ビクター)
殊更洋楽に興味がなくとも、ニール・セダカの楽曲は必ずやどっかで聞いているのが現代人の証明だと思います。
平たく言えば、曲名は知らなくとも、メロディは絶対!
それほどの存在がニール・セダカという偉人ではありますが、しかし実質的に活動が輝いていたのは1950年代末頃からの所謂アメリカンポップスの全盛期、そして1970年代中頃の一時期だけというのが真相です。
それは皆様もご存じのとおり、1958年の「恋の日記 / The Diary」の大ヒットから続く「Oh! Carol」「Calendar Girl」「素敵な16歳 / Happy Birthday Sweet Sixteen」「ちいさな悪魔 / Little Devil」「悲しき慕情 / Breaking Up Is Hard To Do」「可愛いあの子 / Next Door to an Angel」等々は、それこそ前述の刷り込まれたメロディであり、しかも作曲は本人のニール・セダカ、そして作詞が名コンビを形成していたハワード・グリーンフィールドなんですから、その活躍は元祖シンガーソングライターと認定するのも吝かではないはずです。
そして当然ながら、それらの楽曲は我国の和製ポップスにも大きな影響を及ぼし、日本語の訳詞によるカパーバージョンのレコードがどっさり発売され、また各方面で歌いまくられたのですから、既にサイケおやじを含む中年者以上の皆様には自然体の懐メロであり、その明快なメロディラインと微妙な胸キュンフィーリングは忘れられるものではないでしょう。
またニール・セダカ本人の歌いっぷりには、妙な(?)説得感があって、実は日本だけでヒットした「恋の片道切符 / One Way Ticket」あたりは自作のメロディでないところを逆手に活かした上手さがニクイばかり! 歌手時代の平尾昌晃が得意になって演じていたのもムペなるかなです。
ところが、これまた皆様ご存じのとおり、流石のニール・セダカもビートルズがアメリカに来襲した1964年以降には精彩を欠き、極言すればオールディズ歌手としての扱いになってしまうのですから、時代の流れは非情……。
実はサイケおやじにしても、ニール・セダカは普通の歌手であって、もちろんシンガーソングライターなんて言葉も当時はありませんでしたから、とても偉大な作曲家という認識は全くありませんでした。
つまり売れなくなったら、それでお終いという芸能人のひとりがニール・セダカに対する認識だったのです。
こうして時が流れました。
既に高校生になっていたサイケおやじは、連夜の深夜放送漬けの日々の中、勉強よりは音楽やエロ本や成人映画やプロスポーツ等々、快楽優先主義を貫いていた事は言わずもがな、特に洋楽の素敵な歌や演奏をラジオから仕入れる作業にはエネルギーを惜しみません。
そして昭和47(1972)年早々のある夜、ラジオから流れてきた実に格調高く、厳かでありながら親しみ易いメロディに一発でKOされ、それが本日ご紹介の「Superbird」だったんですが、なんとっ! 歌っているのがニール・セダカという、全くの懐メロの人だったんですから、吃驚仰天! 思わず自分の耳を疑ったほどです。
う~ん、これはエルトン・ジョンじゃ~ねぇのかっ!?
なぁ~んて、不遜な事を思ってしまうほど、メロデイ及び曲の構成やアレンジが、モロにエルトンしているんですから、たまりません。
ところが後に知ったところでは、ニール・セダカは表舞台から実質的に消えていた間にも作曲活動は継続しており、また歌手としてもイギリスやオーストラリア等々では地味ながらも人気は続いていたそうで、おそらくは下積み時代のエルトン・ジョンがニール・セダカからの影響云々は否定出来るものではありません。
しかし、だからと言って、ここまで露骨にエルトン・ジョンをやってしまっては、例え本家という看板があったとしても、極言すれば失笑も免れないでしょう。
そして案の定、アメリカでは見事なカムバック等々の大宣伝とは逆に、全くヒットしていません。
それでもサイケおやじは大いに気に入り、ニール・セダカの昨日今日明日を探索する中で、この人がとてもつない偉人である事に気がつかされたのですから、この「Superbird」には感謝する他はありません。
また一方、特にイギリスのポップス系ミュージシャンやソングライターからのリスペクトも大きな反響であり、中でもデビューしたばかりの 10CC は自らバック演奏を申し出たと言われていますし、そうやって作られた以降のアルバムは秀逸の極み♪♪~♪
それらも追々にご紹介致しますが、その美しき流れが、ついにはエルトン・ジョンが自ら設立したロケットレーベルとの契約に至り、さらに素晴らしい楽曲を世界中でヒットさせるのですから、ここが前述した1970年代中頃の第二次全盛期というわけです。
ということで、すっかり過去の人と思われていたニール・セダカが息を吹きかえすきっかけが、このヒットしなかった「Superbird」だった事は皮肉です。
もちろんニール・セダカが駆け出し時代にお世話になったアルドン音楽出版社のドン・カシューナの誘いに応じ、シンガーソングライターが大ブーム期だった1971年に再デビューとも言える活動に入ったのは、その元祖のひとりとしての自負と自信があったからでしょうし、実際、そうやって作られた「Superbird」を含むLP「エマジェンシー」はポップスアルバムの裏金字塔!
なにしろ当時ヒットしていた楽曲や活躍していた同業者の元ネタばらし、あるいは本歌取りという趣が満載なんですからねぇ~♪ 既に述べたとおり、エルトン・ジョン云々だって、ニール・セダカの自意識過剰の産物と言えなくもありません。
それはサイケおやじの例によっての穿った視点ではありますが、そうした部分を「良」とするか、否かによって、ニール・セダカの聴き方もちょいとは変わってくるんじゃないでしょうか。
最後になりましたが、ニール・セダカの影響力としては、バート・バカラックやマイケル・マクドナルドあたりにも、そのリズムパターンの汎用度を鑑みたものが顕著と思っております。