文化8年(1811年)の3月中旬から6月4日にかけて、菅江真澄は金足から下新城、男鹿、潟上、五城目を歩き、紀行文と絵を残した。タイトルも「軒の山吹」となっている。
真澄は旧暦の3月24日に、家々で山吹の花を軒に葺く習わしを見て、その由来は定かではないが、風流である。と書いた。そしてそれは金足でのみ、行われていた。
ちょうど博物館の方が二人して山吹を飾ろうとしていた。それでJUST・タイミングと思ったら、しおれそうな花の取り換えだという。口を開いたのは、女性のほうだった。
しかしなんだね。マスク越しじゃ、顔かたちも分からんし、年齢も不詳。レイディと話をしている気分にもならん。日陰で距離もあったし、全くイメージが湧かない。どうにか、ならんもんかね。
ただ風流なこの習慣を、現代に再現してくれるところは素晴らしい。残念ながら、昭和30年代で廃れてしまったらしい。やっぱり茅葺きが無くなったことが大きいようだ。
真澄は1784年に象潟を訪れている。象潟地震で九十九島が干上がったのが1804年。佐竹の殿様から地誌の編纂を依頼されたのが1811年で、亡くなる1829年まで秋田に居た。
隆起した象潟の話は当然聞いていたはずだが、再び行った話はない。興味、無かったのかな。松島が干上がったってよ。と聞けば、オレなら確かめたくなるけどな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます