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ぶらり帝都散歩 その2【2018/9/1~2】

2023-02-01 22:05:00 | 鉄道撮影記
「都電おもいで広場」へ来ました。前回荒川車庫へ着た時は閉園中で入れなかったので、ようやくという感じ。
都電の路面電車2台が静態保存されている公園です。


まずこれ、5500形5501号。アメリカの規格型高性能路面電車PCCカーを基にした車両です。1954(昭和29)年ナニワ工機製。いわば和製PCCカーで、ちゃんとライセンスを取って製造されたものです。パクリじゃないよ。
なんとなくの形状や体格はたしかに本家のPCCカーに近いものを感じますが、よく見ると似ているようで似ていない感じに仕上がっています。
形状はもちろん、走行機器から艤装に操作方法まで何もかも既存車とは違う作りをしていたので、都電1系統(品川~銀座~上野)のみで限定運用されていました。
とりあえず1台作って様子見しよう→既存車と大きく異なる車なので現場から不評→増備打ち切り、おしまい。っていう新技術導入時に時々よくあるオチによって1台だけの存在です。1967(昭和42)年に廃車となりました。でも嫌われていた割に珍しかったからか保存されて現在に至ります。


車内にも入れますけど、艤装部品が撤去されてドンガラです。噂ではめぼしい部品はマニアに売り払ってしまったとか。


運転席はフットペダルで加速と制動を操作する本家PCCカーに忠実な操作仕様になっています。操作系が従来車と全く異なるので、そりゃ現場からは不評でしょうなあ。


もうひとつはこれ、7500形7504号です。1962(昭和37)年日本車輌製の路面電車です。
当時の都電は将来的には全廃するつもりでいて、でもその時まで木造の旧型車を走らせるのは無理なので、約10年間の短期間使用を前提にした簡易設計の8000形が製造運用されました。しかし運用開始後8000形は簡易設計がたたって乗り心地は悪く、老朽化もすぐ発生しました。その頃には現在の荒川線の存続が検討されていたこともあって、まともな新型車を製造することになり、7500形が開発されて20台が製造されました。
製造から20年を超えたあたりで冷房化するために車体更新がされました。しかしこの7504号には施工されませんでした。しかし廃車は免れ、朝ラッシュ時に大塚駅前~町屋駅前を走る通学列車「学園号」として1998(平成10)年まで運用されました。


7500形はこの秀逸な顔つきが好きです。路面電車にあって前照灯と尾灯を縦に、それを左右2組配置するのは精悍さを感じます。また、車体更新後もイメージを一新した7000形とは対象的に7500形は更新前の前面の面影を強く残した車体設計なのが、これまた秀逸というか分かってらっしゃるというか、いい仕事をしてくれたと思います。


7504号の車内は原型をよく留めています。



これは路娘モーション(ろこもーしょん)という車両を擬人化したアレだそうです。この右にいる飛鳥山さくらは、IORI工房でよく見るやつですね~、なんて思っていました。



では荒川線でまた移動します。電停へ向かう途中で7700形(#7706)が通過していきました。やはり秀逸なデザインだと思います。


乗る電車を待っていたら、なんと車庫からにゅるんと出てきました。あ、出庫からの始発電車ですか。


8900形(#8902)に乗ります。


熊野前電停で降りました。ここで日暮里舎人ライナーに乗り換えるんですが、電停に着く直前の車窓から面白そうなものが見えたので、まずはそこへ寄ることに。


その前に昼ごはん。もも家でそばを食べました。これぞ立ち食いそばという趣でした。


面白そうなものはこれ。尾久消防署ふれあいデーです。近隣住民向けのイベントなのは明白なので、たまたま他所から来たオタクとしては、静かに騒がずこっそりと消防車だけ見学することにします。


消防車などが配備されています。かっくい~。


ニッサン・E25系キャラバン(Y21129)です。たぶん火災調査車だと思います。


ニッサン・T32系エクストレイルです。これは司令車かな?


いすゞ・フォワードの化学車(C23123)です。


日野・レンジャーの普通ポンプ車(P25011)です。


ホースですね。


蛇口(?)ですね。
消防車の世界には疎いのですわ・・・。


車庫の中にもマッチョな消防隊員が近所の子供を相手にしていました。


というところで今日はここまで。


その3へ→




ぶらり帝都散歩 その1【2018/9/1~2】

2023-01-29 19:46:00 | 鉄道撮影記
2018年9月1日。
9月2日にアメリカ型Nゲージ鉄道模型の運転会に参加させて頂くこととなり、せっかくなので前乗りして東京の街でもうろついてみようかと思った次第。その様子を軽く書いておこうと思います。
東京への移動は、急いでいないこともあるので高速バスを使いました。いつものように足柄SAで休憩です。


富士急シティバスのいすゞ・ガーラ(E4804)「みしまコロッケ号」です。


富士急静岡バスの日野・セレガR(W2401)です。富士か富士宮からの便だと思います。


ジェイアール東海バスの日野・セレガHD(#747-05955)「渋谷新宿ライナー」です。これは増車です。


京王バス東のふそう・エアロエース(#51311)「渋谷新宿ライナー」です。これは私の乗っていた1号車です。


10時30分にバスタ新宿へ到着。出口へ向けて歩いていると、小田急箱根高速バスのふそう・エアロエース(#1501)が乗り場に停車中でした。
注目すべきは車体塗装で、小田急から分離前に塗られていた小田急時代の赤い旧塗装を纏っています。正面と側面の小田急の文字は金属板の切り抜き文字になっているのが素晴らしいです。1台だけの存在のはずなので、珍しいものを見られました。

今日は都電荒川線を回ってみようと考えているので、新宿駅から山手線に乗って大塚駅まで行きます。


荒川線との乗換以外に必要性を感じない大塚駅に着きました。
荒川線の電車の顔ぶれも前回来たときから変わってきていますから、ちょっと撮影していきましょうか。


これは今回初めて見ることになる8900形(#8908)です。7000形を置き換えるために投入した新造車です。8800形とくらべて直線基調の車体となっていて、方針を変えたのか、製造費用の節約のためか、そこはよく分かりません。
8台が製造されていて、2台ずつ車体の色が異なっているという昨今ローカル線を中心に流行っている多色電車です。これは黄色ですな。
ちなみに8900形は淘汰するべき7000形の台数の半分しか製造しないまま投入を打ち切りました。


目当てにしていたヤツが来ました、7700形(#7706)です!
8900形が置き換えるはずだった7000形に大掛かりな改造をして延命を果たした路面電車です。
7000形が製造以来60年間備えていた吊り掛け駆動装置と台車は8900形と同様のVVVFインバータ制御へ一新しています。言及されていませんが、モーターも交流に交換しているはずです。こうなると最早新造時以来から残っている部品は1個も無い、テセウスの電車状態ではないでしょうか?
40年間使われている車体は、レトロ調に変更された塗装が目を引きますが、それ以外にも乗降扉を幅100cmに拡大(+10cm)、全面向かって右側に安全確認窓を追加、など切り刻む工事もやっています。社内も最新型に合わせて更新されています。この車体にレトロ調塗装は意外と似合っていて、登場時は軽快な趣もあった車体は40年を経て古めかしいデザインに熟成されていったのかもしれません。


反対からも7700形(#7702)。7700形も複数の塗色が用意されていて、緑、臙脂、青の3色が8台に振り分けられています。8900形と比べると暗く落ち着いた色味で、レトロっぽさを出しています。


8900形(#8807)。広告の無い電車です。意外と白の面積が多いんですね。


8800形(#8809)も来ました。凝った形状をしていて好みです。


そろそろ移動するために大塚駅前電停へ。電車を待っている間に反対から7700形(#7704)が来ました。
駅に貼ってある荒川線のポスターを見ると、荒川線の顔として7700形が使われているものが多かったです。まあ一応、最新型ですからね。でも8900形の立場は・・・。


7700形(#7708)に乗ります。


荒川車庫前電停で降りました。7500形の引退イベントで行ったとき以来かな?8900形と7700形が寝ていました。


架線柱がとても太いというか頑丈そうに見えませんか?自動車衝突対策でしょうかね。


ここでも軽く電車撮影です。8800形(#8803)。


8800形(#8810)。これで切り上げ。


では車庫の隣りにある都電おもいで広場へ寄ってみます。実はまだ行ったことなかったんです。

というところで今日はここまで。



山梨県の保存車両巡り 後編【2018/7/8】

2022-12-04 18:15:00 | 鉄道撮影記
野辺山で数か所の寄り道スポットに立ち寄った後は、ようやく「野辺山SLランド」へたどり着きました。施設名通り蒸気機関車を目玉にした小さな遊園地です。この蒸気機関車が台湾の製糖会社で走っていた軽便規格の産業用蒸気機関車というのがミソです。
近いうちに行ってみようと思っていた施設ですが、自ら出向くより先に施設の閉園が決まってしまったので慌てて行くことになったわけです。


これが362号機です。1948年アングロ・フランコ・ベルジ製です。聞いたことのない会社ですが、これはベルギーにある製造会社です。台湾製糖公司でサトウキビを運ぶ作業に従事していました。時期不明ですが台湾製糖で廃車後に当施設の所有者が機関車をここまで持ち込んできたそうな。


ベルギー製蒸気機関車というのは馴染みがないですが、なんとなくの印象はドイツ機っぽいものがあります。好ましい産業用Cタンク機関車です。


水槽に取り付けられている台湾製糖の銘板。その下には蒜(にんにく)の文字の銘板が。なんでしょうね、これ。聞いておけばよかった・・・。


アングロ・フランコ・ベルジ社の製造銘板。


シリンダーから蒸気が漏れています。これでこそ蒸気機関車です。


さて、362号機を語る上で欠かせないのは不相応に巨大な出っ張り。本来なら石炭庫(コールバンカー)がある位置ですが、ここには重油焚きの蒸気発生装置が増設されています。
機関車に本来備わっているボイラーは、日本の規制に適合せず使用が認められなかったと言われています。そこで外観が犠牲になりますがやむを得ない形で追加の蒸気発生装置を設置して走れるようにしています。なのでこの機体からは石炭の臭いがしません。なお、蒸気発生装置を動かすために発電機も積んでいます。
個人的にはこの異形の形状よりも後端にこんな構造物を追加しても重心が安定しているんだということに感心しました。重心が前寄りにあるのか、あんまり重心移動しなかったのか。


本物の鉄道の他に庭園鉄道もあります。スイスの電気機関車みたいな見た目をしています。園の方に冗談で譲り受けないか聞かれましたが謹んでお断りしました...。結構値段するんだぞー。


とりあえず走行中のところを撮影しましょうかね。


出発しました。


踏切を通過。警報機付きの本格的な物ですよ。


線路は周回式で、長さはざっと300mくらいでしょうかね。


人間が歩くのと同じくらいの速度で走るので、走り去ってもすぐに追いつくことができます。


高原っぽい。



お花畑。
周回線路ですが情景の多様さに富んでいるので、色々なシーンを切り取ることができます。


アウトカーブからの構図もいけまっせ。


下からのあおり。


園内には静態保存機もあります。これは7号蒸気機関車です。井笠鉄道のコッペルです。


うん、コッペルだね。1923(大正12)年製で、1961(昭和36)年まで井笠鉄道で使われました。井笠鉄道最後の蒸気機関車でした。


岐阜工事局の土車モ-200号。ようわからんですがJR東海の車両だった?保線車両ですね、これは。


反対側にはクレーンがあります。保線車両が保存されているのは珍しいです。

他に動態保存のディーゼル機関車2機が車庫にあるんですが、外にはなかったので見れずじまいです。見せてと頼むわけにもいかんし。


昔のデパートの屋上にありそうなお金を入れるタイプの遊具。古そうですが意外と綺麗です。


これも屋上にありそうなゴーカート。SL乗るのもいいけど自分で動かすのがいいですよね。


次の回の走行も撮影です。これは意外と力強そうな構図で撮影できたかしら。


煙突から煙は出ないですが、ブラスト音と漏れ出す蒸気は間違いなく蒸気機関車です。これは空気圧縮式との決定的な違いです。



この後ももう少し園内に滞在した後、ここを後にして帰路につきました。閉園前になんとか一度訪れることができてよかったです。
閉園後の機関車の行く末については関心事でした。貴重な動態保存機が3機もいるので、稼働状態を維持できるような譲渡先が望ましかったです。そんなところに鉄道模型メーカーの関水金属(KATO)が複数機を引き取って、新工場の敷地に庭園鉄道を建設してここの機関車を走らせる計画のようです。再始動する日が待ち遠しいです。


夕飯として清水SAで食べた伝説のすた丼で締めようと思います。
おしまい。




山梨県の保存車両巡り 中編【2018/7/8】

2022-12-01 21:28:52 | 鉄道撮影記
韮崎市から国道141号を北上して道の駅「南きよさと」で昼休憩。清里だからこういうロックなカレーが名物ですな。


ハローキティポップコーンの筐体。「できたてのポップコーンはいかが?」で有名な電波ソングが延々流れるやつです。ここの店員は四六時中この曲を聞かされているんだろうね。ようやく実機と出会えたのでちょっとうれしい。


昼ごはんを食べて保存車両巡りを再開。次は北杜市のJR清里駅前にあるC56形149号機です。たかね荘という清里の宿泊施設に保存されていましたが、2009(平成21)年に清里駅前に移設されてきました。
C56形はC12形の航続距離延長型で、雑に言えばC12に炭水車をくっつけたようなものです。小海線での運用が有名で、沿線に複数機が保存されています。


たかね荘にあった時は全身サビだらけでしたが清里駅へ移設を機に見違えたようにきれいに復元されました。しかし移設から10年近く経過して、さすがにくたびれてきています(ただし3年後に再訪した際は化粧直しされていました)。


たぶん移設してからの整備はあまりなされていないと思います。それでも劣化が少ないのは、内陸部にあるので塩害の影響が無いからでしょう。


清里駅駅舎。高原ブームで清里が活気づいた1976(昭和51)年に建て替えられたものです。
高原ブームも今や昔ですが、駅前の活気が無いのはなんとも。


ちょうどいい時にJR小海線の列車がやってきたので、手近なところから撮影。キハ110形2両編成の小淵沢行でした。夏季に臨時運行される「八ヶ岳高原列車」です。



清里に来たついでに、清泉寮へ寄っていきました。鉄道とは関係ないところですが昔訪れたことがあって懐かしかったのです。


名物ジャージー牛乳ソフトです。昔と変わらぬ美味しさでしたぞ。


酪農体験などをしたものです。


ポール・ラッシュ博士の胸像。アメリカ人。清泉寮を運営するキープ協会の創設者だそうな。
清里からはこれで撤収です。





清里から国道141号を再度北上して県境を通過、長野県南牧村野辺山まで来ました。目的地の野辺山SLランドまでもうすぐですが、その手前にある「JR鉄道最高地点」へ立ち寄ります。JR小海線の清里~野辺山間にある標高1375m地点がJR線で最も標高の高い位置にある線路です。
最高地点はちょうど両駅の中間にあることから、鉄道でここを訪ねようとすると野辺山駅から徒歩30分の行軍なので躊躇しがちです。ここに寄っている人のほとんどは車で来ていると思います。


最高地点には「鉄道最高地点神社」なる場所があります。JR最高地点を愛する会なる団体が2005(平成17)年に建立したんだそうな。割と最近なのね。
御神体はレールと車輪とのことです。この車輪がまた年代物で、明治期に多数製造された松葉スポーク車輪なのです。車輪のスポークが松葉の形に見えるのでそう呼ばれています。2005年建立なのに、どこから持ってきたんだよう。
ちなみに車軸の端(軸受座)にSKFの文字が見てとれますが、これはベアリング製造の最大手SKF社のロゴマークと見て相違ないと思います。鉄道車輪の軸受にころ軸受(ベアリング)が採用され始めたのは第二次世界大戦後と言われていて、松葉スポーク車輪全盛期の明治大正期にはころ軸受はまだ普及していなかったはずです。
なお、ころ軸受普及前は平軸受が主流で、車軸と軸受の間に潤滑油の膜を介することで転がるものです。戦前製台車の車軸を観察すると軸箱というものがあることがわかります。軸箱は蓋が開くようになっていて、中に潤滑油を含んだ布が入っています。
話を戻します。つまり松葉スポーク車輪にころ軸受は変な組み合わせなのです。推測するとすれば、この車輪が戦後も長いこと使われて、仕舞いには軸受をころ軸受に改造されたのです。それか、あるころ軸受の台車の車輪の交換用にこの松葉スポーク車輪が使われたのかもしれません。
この車輪の出どころや来歴は一度この愛する会の方に聞いてみたいですね。気になります。C56の先輪だという噂もありますけど、それはちょっと違うように思えます。


今度もたまたま小海線の列車が通過する時刻に居合わせたので、最高地点とからめた写真を撮影しました。
列車はキハE200形の下り列車です。たぶん八ヶ岳高原列車5号中込行です。キハE200形はこの時初めて見ました。世界初のシリーズハイブリッド式気動車です。日産のe-powerと同じような仕組みです。


程なくして上り小淵沢行も通過していきました。キハ110形(111+112)2両編成です。
密かな狙いとして当時小海線を走っていた気動車急行の復刻色が来るのを期待していましたが、叶わずじまいでした。


線路を渡った向こう側にも石碑が建っています。


払い下げられたワムの倉庫です。2台あって、片方には窓がついていて手が込んでいます。
JR最高地点はここまで。





まだ寄り道します。ここはJR最高地点にほど近いところにある「野辺山宇宙電波観測所」です。近年は国からの交付金が減らされて厳しい運営を強いられています。
波長が1~10mmのミリ波と呼ばれる電波を観測できる電波望遠鏡を有する電波天文台です。これにより宇宙から届く微弱な電波を観測できるのです。受信した電波を信号変換や分光計に通して観測データが出来上がります。
部外者でも見学のできる開かれた研究施設で、この日も普通に見学に立ち入ることができました。高原地帯に現れたパラボラアンテナの群れはなんだか不思議な光景ですよ。


これはミリ波干渉計。1基のアンテナ直径は10mですが野辺山にはこれが6基あって、これらを互いに接続することで最大直径600mに相当する電波望遠鏡と同じ解像度を得ることができるのです。


1982(昭和57)年に運用開始して以来、高解像度を生かした電波写真を捉えてきました。2010(平成22)年に運用終了しました。アンテナは残っていますが、近年の予算削減のことですから復活することはないんでしょうね。


なおこのミリ波干渉計アンテナは軌道を使って位置を移動することができます。敷地内にはこのような軌道が敷かれているのです。それにしてもインクライン並みの軌間の広さです。
アンテナ自体には車輪は付いていないので移動用の台車があるはずですが、姿は見当たりませんでした。


アンテナの後ろ姿。なんというかこのいい塩梅のくたびれ方はスターウォーズの世界のようです。


観測所らしく、百葉箱があります。百葉箱も最近は見る機会がないですね。今も小学校には置いてあるものなのでしょうか?


そしてあれが野辺山宇宙電波観測所の目玉、450m電波望遠鏡です。これも1982年製で、ミリ波観測電波望遠鏡としては世界最大級の大きさを誇ります。ですがなんだか大きさがイマイチ実感しにくいですな。


近くまで来るとうわでっか・・・となるのです。
ちなみに毎年6~9月は電波望遠鏡の整備期間でお休みになっています。夏場は大気中水蒸気量が多くて観測に適さないからです。空気の乾燥した冬場のほうが観測しやすいのです。夜空の星を見るのと同じことです。

450m電波望遠鏡まできたところで撤収です。宇宙について少しだけ詳しくなれましたぞ。





国道141号に復帰して、野辺山SLランドを一度通り越して最後に立ち寄るのがJR野辺山駅です。ここは、JR駅として最高地点にある駅です。


駅前の土産店。駅舎ともども、ここも高原ブームの名残がありますかね。


駅前ロータリーにあるSLの動輪。主連棒へ繋がるクランクが付いているのがちょっとめずらしいです。特に説明書きはありませんでしたが、後日調べたところC56形26号機が履いていた動輪のようです。
動輪にはたいてい機番が刻印されているので読み取ってみると、クランクにはC56形44号機の番号が刻まれていました。44号機といえば、太平洋戦争時にはタイへ出征し戦後しばらく経って帰国した後大井川鐵道で動態保存されるに至ったあの機体です。
蒸気機関車の部品は整備などで代わる代わる他の機体の物と交換されていたので、これもそうしてここへたどり着いたのでしょう。それにしてもここで44号機の痕跡と遭遇するなんて思いませんでした。


さらに駅前にはC56形96号機が1機まるごと保存されています。部品欠損無く美しく塗装されていて素晴らしいです。これは野辺山歴史民俗資料館の収蔵品という扱いだそうな。
この機体は1937(昭和12)年3月日本車輌製で、北海道岩見沢期間区に新製配置。1950(昭和25)年8月に中込機関区に転属し小海線で運用され、1973(昭和48)年に廃車。


1975(昭和50)年に国鉄から貸与という形で借りて野辺山高原にできた「高原列車SLホテル」という当時あちこちで流行ったSLホテルの目玉として余生を送ることに。しかしあちこちのSLホテルが一過性のものだったように野辺山のそれも1987(昭和62)年に廃業、1989(平成元)年に現在地へ移設され今に至ります。
SLホテルは一時のブームで終わりましたが、そのおかげで生き延びることのできた機関車もいるでしょうから、一言で悪し様にはいえませんなあ。できれば客車も残ってくれるとよかったんですけどね。

ではようやく野辺山SLランドへ行くというところで今日はここまで。


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山梨県の保存車両巡り 前編【2018/7/8】

2022-11-26 23:14:07 | 鉄道撮影記

2018年7月8日。
長野県南牧村に「野辺山SLランド」という小さな遊園地のような場所があります。名前の通り蒸気機関車を売りにした施設なのですが、そこで使われている蒸気機関車は台湾糖業鉄道の軽便規格の機関車で、日本では珍しい物でした。
しかし、2018(平成30)8月末をもって閉園することが決まりました。今まで存在は認知していたものの、野辺山の方に用事がなかったことと電車で行くにも駅から微妙に離れているので行けていませんでした。閉園直前に訪ねるのは私のポリシーには合わないんですが、それにしたって行ってみたいので友人たちと一緒に最初で最後の野辺山SLランドへ行ってきました。
自家用車を乗り合わせて行ってきたので、野辺山へ行くまでの間にある保存車両を見ていくこともしました。
写真はJR身延駅前のしょうにん通りです。


最初に立ち寄ったのは、山梨県富士川町の利根川公園です。ここには山梨交通電車線で活躍していたモハ7形8号が静態保存されています。
山梨交通電車線は1930(昭和5)年~1962(昭和37)年の間、甲府駅前~甲斐青柳で運行されていた鉄道路線です。通称ボロ電。身延線が富士川左岸に路線を伸ばしていたのに対してボロ電は富士川右岸を走っていました。
この8号が保存されている利根川公園は、電車線の路線跡のすぐ横にあるので縁のある土地に保存されていることになります。


この前面。どこか他所の会社で見たことありますね。
7号は山梨交通が廃止された後に上田丸子電鉄へ譲渡され、そこからさらに江ノ島電鉄へ渡っていきました。そして江ノ電時代に車体の大幅な改造が行われて、3扉化と同時に前照灯と尾灯を前面腰部へ取り付けました。この灯具配置は当時の江ノ電の電車の特徴と言えるものです。この灯具と3枚窓と行先板の取り付け方という各パーツによりかなり江ノ電色の強い印象となっています。3枚窓は原型から変わっていないんですけどね。
8号は江ノ電で廃車になった後に当地へやって来て保存されたわけですが、その時に原型への復元はされていないということです。車体は大改造されているので復元するのは大変なんですね。車番の801号も江ノ電時代のままです。


8号は1948(昭和23)年汽車製造製です。
連結器は密着自動連結器で、連結棒部分はあまり見たことのない形状ですね。


台車は汽車製造謹製の板台枠台車です。


連結面側。8号は元々単車でしたが江ノ電で改造された時に2両編成に組成されました。ですが乗務員扉の撤去はされなかったみたいです。こちら側の前面のほうが比較的原型を留めているかもしれないです。
ちなみに、側扉は原型は片側2扉だったのを江ノ電で3扉に改造されています。扉を原型に戻すのは一苦労でしょうね。


集電装置はパンタグラフ。PT52型らしく、これも江ノ電時代の物。


大昔の電車ですが屋根付きで保存されているので状態は良好に見えます。所有や管理は自治体が担当しているようです。


公園前の道路には山梨県名物の警察官人形が佇んでいます。これを見たのは初めてです。
人形の造形はリアルタイプで、経年劣化の影響でやけにリアルです。


こんな感じで路肩に突っ立っています。初見でこの道を走る人は一瞬ビックリするでしょうね。ただし最初だけで2回目以降は平気になってしまいますな。

利根川公園からはこれにて撤収です。




次にやって来たのは、南アルプス市役所若草支所(旧若草町)です。ここには鉄道省ED16形15号機が静態保存されています。いや、この記事の執筆時点では過去形で、2022(令和4)年4月に解体されて現存しません。
ED16形は老朽化によるものという説明がされていますが、ここの跡地に建設された施設の用地を確保するためにお払い箱にされたんだと邪推しています。というのも、いうほど老朽化しているとは思えなかったのです。今更何を言っても・・・ですが。
車両の周りに写真のようにのぼりや横断幕がでかでか覆ってあるような状態なので、訪問時から扱いは良くなかったのかもしれませんね。


横断幕が邪魔なので反対側に立ってみても、こっち側は立ち木が邪魔です。なんだかなぁ、という違和感を覚えたものです。
さてED16形は、1931(昭和6)年に18機が製造された直流電気機関車です。初めての国産電気機関車EF52形を縮めたような形態となっています。中央本線、上越線といった直流電化された勾配線区のある路線で運用されました。晩年は南武線・青梅線での貨物輸送が代表的です。最後の機体が廃車になったのは1984(昭和59)年で、50年以上活躍を続けた長寿機でした。
この15号機は1978(昭和53)年10月に廃車されています。その後の詳細の経緯は簡単に調べたところでは出てこなかったですが、廃車直後に当地へ移動されてきたのだと思います。SLブーム華やかし時期に電気機関車を保存したのは珍しい事例でしょう。旧若草町は中央本線と接しない自治体でしたが、地元に縁のある車両を選定したというのもグッドでした。


車体は見ただけでは腐食や目立つ部品の欠損などが無く、良い状態のように思えました。塗装が色褪せているのと薄い苔が生えたようにわずかに緑色に変色したような状態でした。その点では見た目はあまり良くなかったでしょう。


残念ながら車体ともども手入れはされていないようですが、台車も良好な状態を維持しているように見えました。やはり戦前製の鋼鉄は良質で丈夫ということでしょうか?


反対側から。やはり車体が苔っぽいですね。
少し調べた感じだと、機体を引き受けた当初の旧若草町時代には当然自治体にも担当部署があって、地元の保存会の手入れもされていたみたいです。それがこういう放置状態になったのは、保存会の消滅と自治体合併に伴う部署の統廃合による機関車の所管が宙に浮いたという、割とお決まりの結果じゃないかと推測しています。
保存会に関しては、機体の譲渡直後に結成されたとすると今日までに40年近く経過しています。これもおそらく保存会人員の世代交代や跡継ぎに失敗したのかもしれないです(これも確証無し)。この課題はこれからも全国の保存車両の保存会で起きるはずです。


ナンバープレートと製造銘板はどうやら本物っぽいですが。

ED16形15号機が解体されてしまったのは残念です。どう動いていれば解体を回避することができたのか、それを考えて今まだ残っている保存車両を少しでも長く生き延びさせることがこの機関車のためにもなるんだと思います。

南アルプス市からはこれで撤収して次へ行きます。




3箇所目は、韮崎市にある韮崎中央公園です。広い公園で、球場やライブスチーム(ミニSLや)なんかも備えています。そしてここには複数の車両が保存されています。


C12形5号機蒸気機関車です。閑散線区用のタンク機関車です。
1932(昭和8)年2月汽車製造製。新製配置は宇都宮機関区で、北海道の複数の機関区を転勤した後、1969(昭和44)年5月甲府機関区に転属して、翌年4月に廃車されました。廃車後は甲府城で静態保存されて、ある日韮崎中央公園へ移設されたそうな。


露天保存ですがきれいな外観です。手入れされているみたいです。


後部前照灯には破損防止用と思われる網が付けられています。前部前照灯には網が付いていないですが、レンズが原型ではないからでしょうか?


公園にはライブスチームの設備があります。春から秋の日曜日に運転しています。


今日はちょうど運転日でした。小さくても動くSLは見てても乗っていても楽しいものです。


韮崎中央公園にはもう1箇所保存車両が置かれています。しかも5台も。


EF15形198号機とトラ70000形4台、ヨ5000形が連結された状態で静態保存されています。


EF15形は1947(昭和22)年から202機が製造された直流電気機関車です。同時期に製造されたEF58形とは兄弟形式で、EF15は貨物用、EF58は旅客用と棲み分けされていました。
この198号機は、1958(昭和33)年10月東洋電機/汽車製造製です。直流電化区間各地の機関区を転々として、甲府や八王子の機関区にも所属していた時期がありました。1986(昭和61)年に廃車になりました。EF15形としては現役最後の1機でした。
車体の塗装は、色褪せているというよりそもそもぶどう色で塗られていないらしく、パンタグラフも同様に塗られていることから考証にやや難ありといったところです。重厚的なデッキ付き箱型電気機関車のスタイルは素晴らしいのですが。


同一形式が一箇所になんと3台も保存されている珍しい例のトラ70000形。それぞれ72379号、74778号、75013号です。


これらの保存車には足場が置かれていて、足場越しに機関車の室内をのぞけたり貨車の荷台に立ち入ることができます。


最後にヨ5000形14041号。
このように電気機関車、複数台の貨車、そして車掌車が連なっていることで貨物列車の様子が頭に浮かび上がってきます。これらを譲り受けた当時の担当者は、保存車両を車両単一で見ることをせずに1本の列車として保存したかったのだろうと考えられます。広い視野だと思います。


車掌車の車内。劣化は進んでいますが原型度は高いかもしれません。


韮崎中央公園を後にして、野辺山方面へ向かいます。

というところで今日はここまで。


中編へ→



 
 
 

電車急行の代走と静岡空港 後編【2018/6/16】

2022-11-20 21:16:08 | 鉄道撮影記
かわね路号を撮影後は電車急行代走のEL急行の復路を撮影するため新金谷駅まで降りてきました。
EL急行がやってくるまでの間、新金谷駅の車両基地を観察してみます。


7200系の赤帯無し。電車急行の常連選手ですがどうやらこれが検査中のようで、それでEL急行が代理を務めた、ということのようです。


留置線には、2018(平成30)年3月にやってきたばかりの12系客車がいました。JR西日本の「SLやまぐち号」で使用されていた客車です。2017(平成29)年にJR西日本で廃車されたあと、大井川鐵道のいつものクセである「出物が現れたらとりあえず確保しておく」が発動させてこの客車を取得しました。
この記事を書いている4年経った今も運用開始の予定は立っていないです。半ば放置状態とも言える状況に批判的な意見もありますが、こういうSL観光列車向けの中古車が放出される機会は滅多に無いので、確保できるうちに取っておいて使う機会が来るまで寝かしておくのはアリでしょう。
もっとも「やまぐち号」や「はまなす」の客車の出番が回ってくるということは、今使われている旧型客車の勢力が減少することを意味すると考えられるので、手放しでは喜べないですかね。



長いこと休車状態のいぶき501号。


7200系の赤帯が奥にいました。


3000系は倉庫代わりに使われています。車輪が付いているので線路上を行ったり来たりしているみたいです。


大代側線へ繋がる線路にはスイテ82形とオハ35形がいました。


展望デッキの柵の高さはこのくらいがいいですね~。やまぐち号のは柵というか檻です。


16000系の普通電車が通っていきました。


その折り返し列車はあじさいと一緒に撮影。


そして本命のEL急行です。何度も書いているように電車急行の代走なのですが、電車急行は金谷駅発着です。なので代走である以上客車列車でも金谷駅に乗り入れないとなりません。現在、SLやEL列車は原則新金谷駅発着と決まっているので、今回の代走ではその原則を外れることになります。昔はそれなりに見られる光景でしたが最近ではそれが珍しいことなので、復路の撮影は金谷~新金谷間を決めていたのでした。


後追い。後ろにもE31形E32号機がくっついています。
EL急行は単機で運転されますが、金谷駅の構内は機関車の機回しと付け替えができません。なので運行を終えて金谷駅から新金谷駅へ折り返し回送するために反対側にも機関車を連結しています。これは往路の金谷駅への送り込み回送の時にも順序を逆にしてやっています。つまりひと区間だけプッシュプル運転するわけです。プッシュしているのかただぶら下がっているだけか分かりませんけど。


そして、大代川橋梁でEL急行の返却回送を撮影します。編成が短いのが幸いして全車フレームに収められました。
これで今日の大井川鐵道の撮影は終わりです。



金谷を去った後は、静岡空港で旅客機の撮影へ出向きました。滑走路の海側の端の少し先にあるだいだらぼっち広場へ行きました。
ここで飛行機の撮影をすると、真正面から機体を捉えることができます。


着陸してきたのは、フジドリームエアラインズJH174便札幌丘珠発です。


機材はエンブラエルE175のJA08FJ(ティーグリーン)でした。
機材を引き寄せてから撮影すると割と迫力があります。


さらにFDAのJH185便出雲行が離陸。機材はE175のJA11FJ(グリーン)でした。
離陸機の撮影だと、ほぼ真下からの画角になってしまうんですね・・・。


さらに全日空NH1261便那覇行が離陸。


後追いだと最低限は様になるかなあ。ついでに海の方は雲が晴れてきました。
機材はボーイングB737-800のJA67ANでした。


最後にFDA JH134便鹿児島発が着陸してきます。


ちょっと横風に揺られているような感じでした。


機材はE175のJA05FJ(オレンジ)でした。


これの着陸の撮影を終えたら撤収して帰宅しました。

おしまい


電車急行の代走と静岡空港 前編【2018/6/16】

2022-11-16 07:41:00 | 鉄道撮影記
2018年6月16日。
この年も大井川鐵道のきかんしゃトーマス号の運転が始まって、それに伴う多客期の臨時電車急行も運行されます。ですが今季の序盤は通常とは異なる展開でした。
電車が検査入りしているため通常の普通電車に加えて急行電車まで走らせるだけの本数が不足していたのです。そのため電気機関車と客車を使った代走の電車急行、、、もといEL急行が走ることになりました。
あくまで電車急行の代走ということなのか、電気機関車1機と客車2台の3両編成。まるで昔の国鉄ローカル線の客車列車にも見えるようなこじんまりとした列車でしたが、長編成の客車列車の走ることが多い大井川鐵道では却って珍しい列車でした。
そういうわけで、これは記録しておこうと思い車で出掛けてきました。


当日の天気は曇りなので太陽光線はあまり考えなくてもよかったです。なので、下り列車はテキトーに家山~抜里の直線で待ち構えることにしました。
時間になると短い列車がやってきました。機関車はE31形E34号機、客車はナショナルトラストのスハフ43形2両です。プッシュプルでも重連でもない正統な客車列車で大変好ましいです。客車もスハフ43形が登板するのはやや珍しいことです。


後追い。後ろからでも様になるなあ。
ちなみにこの列車実質はEL急行ですがあくまでも電車急行の代走なので、EL急行では必要な急行料金が不要なオトクな列車でした。


代走急行撮影後は塩郷~下泉の区間まで北上。21001系の下り電車を撮影。


もう一発、16000系の上り電車も撮影。6月の茶畑は一番茶を刈ってからまだ日が経っていないので、茂り方が寂しく写真には今ひとつ。刈られる直前の青々としたところを撮影したいものです。


さらに青部駅まで北上。青部駅へは、2018(平成30)年3月20日に国道362号青部バイパスが全通したため容易に到達できるようになりました。バイパスされた旧道の隘路も通行しなくて済むようになりましたしね。


駅舎です。変わらずの姿。


バイパスを挟んだ向かいにあった旧青部小学校。廃校後も山間の合宿所なんかに使われていたようですが、ふと見てみると旧校舎を解体している様子でした。後日訪ねてみると更地になっていて今は跡形もありません。


老朽化で通行禁止になった青部吊り橋です。バリケードで通行できないようになっていますが、橋自体は残っています。


青部駅では特に撮影しないで、結局困った時の千頭駅手前の第四橋梁で構えることにしました。道の駅に駐車して歩いて橋へ。待っているとバスのバーディが通り過ぎていきました。どうやらバーディのほうが先着するそうです。


んで、トーマス号を迎撃。



駐車場へ戻ります。
遊覧列車のラスティ号が動いていたので柵越しから撮影。今までちゃんと見たことなかったのよ。


ラスティを動かしているのは本当はDD20形なんですけどね。旧塗装の6号機HIJIRI号でした。


千頭駅から南下して、田野口駅でSLかわね路号を撮影。C10形8号機でした。あじさいを絡めての撮影です。


後補機はE10形2号機でした。これもあじさいを一緒に。あじさい撮影といえば田口駅なのです。

というところで今日はここまで。


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東海project 2 ~with Noritetsu☆Tabi Kippu. 最終回【2018/6/9~10】

2022-10-23 22:57:26 | 鉄道撮影記
彦根城を後にして、彦根駅へ戻ってきました。


駅前で馬に乗って駆ける井伊直政の銅像。天突目立ちますよね。


滋賀県の東海道本線沿いの主要駅全ての駅前に建っていると噂の平和堂。当然彦根駅前にもあるんですな。


毎度の説明になりますが今回はJR東海の「乗り鉄☆旅きっぷ」を使っているので、彦根駅からは近江鉄道に乗ります。ゆえに駅の自由通路を通って近江鉄道側の駅前へ出ます。駅前は広い空間ですが、ここは近江鉄道の貨物操車場を転用したものです。駅前再開発あるあるです。


こちらは近江鉄道側の彦根駅駅舎。


回送される彦根駅止まりの800系。鉄道むすめの豊郷あかねヘッドマークが付いていますな。


側面を見ると、豊郷あかねが大きく描かれていました。あら、これも鉄道むすめラッピング電車でしたか。


第19走者:近江鉄道本線米原行(700系)彦根→米原
隣町の米原まで乗ります。そろそろお家に帰ります。乗ったのはまたもや700系でした。


米原駅へ着きました。そして途中下車します。
駅を出て線路沿いを彦根方面へ向けて歩いて行きます。JRの線路の方を見てみると、JR貨物のEF510形510号機が停車していました。銀釜は珍しいなあ、と思って撮影しました。


やってきたのは、ここ。ここはJR鉄道総研の風洞技術センターという鉄道の風洞実験施設があります。鉄道で風洞実験というと、新幹線を始めとした高速鉄道と関わりが深いわけですが、当地にはJR東海、JR東日本、JR西日本各社の新幹線の実験車両が静態保存されています。いずれも民営化後平成期の新幹線車両の性能向上に寄与した実験車ばかりです。この3社の車両が一同に並ぶ光景も全国でここだけじゃないでしょうか(強いて挙げればあとは東京駅くらい?)。
車両は風洞技術センターの敷地内で保存されているので、通常は金網越しからしか見ることが出来ませんが、道路沿いの見やすい位置に置いてくれているので遠目にはよく見ることが出来ます。JRと近江鉄道の車窓からも見れますよ。
自分の幼い時に触れた電車の図鑑や電車のビデオには必ず登場してくる常連で、実物を見たことはなくとも馴染みのある新幹線です。それが1箇所に3種とも保存されているなんていうのは、結構感動的なものなのです。


これはJR東海955形の先頭車955-1号。形式名よりも「300X」という愛称の方が知られていますね。300Xは東海道新幹線の最高速度を270km/hまで引き上げた300系の次世代車両開発のために純粋な実験車として1994(平成6)年に製造されました。鉄軌道の鉄道で日本最高速度記録443.0km/hを記録しています。
6両編成1本が製造されて、6台全部の車体構造がそれぞれ異なる実験車らしい新幹線です。現存するのは両先頭車の2台となっています。もう1台の先頭車は名古屋市のリニア・鉄道館に収蔵されています。



300Xの先頭車はそれぞれ形状が異なっていて、つまり2種類の形状がありました。この955-1号の先頭車はカスプ形という尖点型の形状です。反対側の先頭車はラウンドエッジ形という300系に近い形状です。
後に登場することになる700系の先頭形状からしてこのカスプ形の面影を見ることが出来ますので、こちらの形状の方が優れている判断だったのでしょう。
余談ですが、このカスプ形は見る角度によっては顎がしゃくれているように見えるので、子供の頃はかっこ悪いとかアントニオ猪木とか、そんなことを思っていました。


次はJR東日本952/953形952-1号。これも形式名よりも愛称の「STAR21」の方が馴染み深いです。愛称はSuperior Train for Advanced Railway toward the 21st century の頭文字らしいっす。なお形式名が2つあるのは台車構造の違いで、952形はボギー台車、953形は連接台車なのです。連接構造の新幹線・・・量産型を見てみたいかも。
これは1992(平成4)年に952形は4台、953形は5台が製造されました。実験車3兄弟の中ではこれが長男かな。高速性能を追求しつつ騒音を始めとした環境性能も高めていくという要求に応えるための車両なのでした。
1993(平成5)年には上越新幹線で車両最高速度425.0km/hを記録しました。



STAR21も両端の先頭車の形状が異なっていました。STAR21の顔というとこっちの方が馴染み深いですかね。もう片方の先頭車は宮城県の新幹線総合車両センターで保存されているそうな。
先頭形状は結構素直な造形をしているように思います。トンネルドン対策は考えられていなかったのかな。リトラクタブルライトが仕込まれていそうな形状ですけど、新幹線だからそれはない。あとは、排雪器が付いているのがやはりJR東日本の新幹線らしいです。


最後はJR西日本500系900番台500-901号。これも「WIN350」の愛称が浸透しています。これもWest Japan Railway's Innovation for the operation at 350km/h の頭文字らしいっす。1992(平成4)年製造でSTAR21とタメですが運用開始はSTAR21よりも遅いです。だから次男坊?
前者2車は純然たる実験車両なのだという形式名でしたが、WIN350は500系という営業用車両の試作番台という体を採っています。なんででしょうね。そうはいっても量産型の500系とは似ても似つかない風貌をしています。
来るべき対航空機用決戦兵器500系新幹線導入に向けたデータ取りの目的があり、他の2社よりも開発目的が具体的になっています。
1992(平成4)年には、愛称にもある最高速度350.4km/hを早々に達成。技術的には350km/h運転が可能なことが実証されました。しかし、環境性能や非常制動距離が基準を満たせないことから500系量産車の最高速度は300km/hに抑えられることになりました。


扁平な車体断面に見えますがこれは車高が他の新幹線よりも低いためです。断面積を抑えて空気抵抗を抑えようという狙いでしたが、天井も低いので車内の圧迫感があったようです。そこで量産型500系は車体断面を円形にすることで天井高さ確保と空気抵抗減を両立しようとしたのです。
先頭形状はやはり2種類あって、こっちの先頭車は風防部分の形状を極力平滑にしたもの、もうひとつの先頭車はくさび形の角度を少なくする代わりに風防部分は張り出した形状となっています。量産型500系に採用されたのは後者なんでしょうかね。ちなみにもう1台の先頭車は博多総合車両所に保存されています。
敷地外からの見学でしたが夢のようなひとときでした。


米原駅へ戻ります。帰り途中に223系2000番台新快速が米原駅から発車していきました。


さらに700系あかね号も!何かとあかね号と出会う一日でもありました。


第20走者:JR東海道本線特急「しらさぎ」12号名古屋行(681系)米原16:50→名古屋17:49
米原から名古屋まで一気に移動しますが、新幹線でも鈍行でもなく、あえて特急「しらさぎ」に乗ります。一度乗ってみたかったんですよ、ええ。特急に乗っても丸1時間乗車するんですね~。



名古屋駅へ着きました。東海道線のホームの一部はリニア新幹線の名古屋駅を建設するために閉鎖されていて、一部は線路を剥がされながら建設工事をしていました。


名古屋駅でインターバルを取っていたので、ここで夕飯にしました。手羽先とビールで軽く飲みましたで。


最終走者:JR東海道新幹線「こだま」750号東京行(N700系)名古屋19:38→静岡20:51
最後は新幹線でお家へ帰りました。

冒頭で説明した通り今回は「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」を使った旅行でした。使用範囲が広範なので使い勝手はとても良いです。滋賀県の近江鉄道まで乗れるんですから。それで静岡駅から切符を使い始める場合、名古屋駅との往復をする時点で切符の額面の半分以上は使ってしまうので、残りの額面の消化はそんなに難しくないです。またいずれ使いたいと思ったものです。
今回乗った私鉄も実りの多い収穫がありましたので満足度が高かったです。唯一、養老鉄道だけは色々見聞するつもりだったのに時間配分を失敗してただ通過するだけになってしまったのが心残りでした。

というところでこの話はおしまいです。


 
 
 

東海project 2 ~with Noritetsu☆Tabi Kippu. その13【2018/6/9~10】

2022-10-18 22:51:08 | 鉄道撮影記
彦根城の続きです。天秤櫓へ入ります。


天秤櫓は上から見るとコの字形になっていて荷物をぶら下げる天秤に見えることからそう呼ばれているそうな。


窓の柱は斜めになっています。銃の狭間の役割もありますね。


時報鐘と聴鐘庵です。さっき通ってきた鐘の丸にあった物がここに移築されています。時報鐘は6時、9時、12時、15時、18時の5回鳴らされました。聴鐘庵は時報鐘の管理棟みたいな物です。


これが時報鐘です。


そうしてやってきました、彦根城天守です。意外と小さいね。


足場が組まれていますね、おおん・・・。
滋賀県が行っている天守、附櫓、多聞櫓の保存修理工事事業なのでした。


YA ZA MA
天守の中に攻め入ると目に入るやつです。矢狭間です。


また入口が段差の上で狭いんですよね。ここでも1機死ぬのと思う。


天守の廊下。


最上階へ来ました。あー、現存天守だとバルコニーがないから外を一周できないか。


天守から北東方向を見る。少しすっきりしない空でした。


今度は南東方向を見る。正面には彦根駅があります。


天守からの景色を一通りみたところで、じゃあお城から脱出しましょう。


次に彦根城博物館へ。この真っ赤の甲冑は御存知、井伊の赤備えです。
彦根藩を治めていた井伊家は藩主から家臣に至るまでこの真っ赤な甲冑や旗指物などを赤で統一していました。もうひとつの特徴が兜の金の天突です。赤いし角だし、赤い彗星かよ・・・とは思ってしまうものです。


能面もありましたので。これは、増女です。細面で鼻筋が立った端正な顔立ちなので、女神役で使われるみたいっす。


翁の能面です。肉色尉とも言います。独特な柔和な表情が魅力的です。


庭園もありますで。


博物館は表御殿として復元されたもので、表御殿の部屋も復元されています。ここは藩主が日常生活を送るための奥向という区画です。ここはお次之間。


御座間です。
ここらへんはサラッと流しますね。


博物館を出たところで、彦根城からは退散します。またひとつ日本の名城を訪ねることが出来ました。
帰りに通った駐車場にはまた別の観光バスが止まっていました。これはラビット急行のいすゞ・ガーラHD。


名阪近鉄バスの日野・セレガHD。


大和観光バスの日野・セレガHD。

というところで今日はここまで。


最終回へ→


 
 
 

東海project 2 ~with Noritetsu☆Tabi Kippu. その12【2018/6/9~10】

2022-09-15 22:49:45 | 鉄道撮影記
彦根駅を去った時は昼時だったので、昼ごはんにしました。だいみょうかもんという寿司店で寿司ランチにいたしました。


食事を済ませた後は彦根城へ行きます。道中見たこの建物は彦根市役所です。解体中のようでした。



全部の窓に耐震ダンパーみたいなものが取り付けられてますな。


滋賀県護国神社がありました。あら、彦根市にあるんですか。護国神社はたまに県庁所在地以外の自治体に置かれていることがありますよね。


護国神社はざっと見物していきました。


彦根城へ来た観光バスを見物。これは日本交通の日野・セレガ(#320)。
日交の塗装とはちょっと違うなと思いました。これはビエント・プレミオ(Viento Premio)という上級クラスの観光バスだそうな。32席、36席、40席の3種類があって補助席は無しということでシートピッチと幅の広い座席なんだと思います。あとは、パウダールーム付きの大型トイレを備えています。


阪急観光バスのいすゞ・ガーラ(#760)。


出雲一畑交通のいすゞ・ガーラミオ(#657)。


新富観光サービスの日野・セレガ(#228)。


では彦根城の堀の内側へ入ります。佐和口多門櫓というところから入城します。もう敵対者殺す気満々の造りだよね。
ちなみに彦根城へは初めて来ました。


最初に見るのが厩ですか。それもいいでしょう。


この厩は21頭の馬を収容できたそうで、近世の厩にしては大規模なのが特徴です。建物は上から見た時にL字をしていましたが、この復元では全部は再現できていません。


おトイレを完備しています。


表門から入ると彦根城博物館の縁側みたいなところへ分岐できるんですが、人だかりができているんで行ってみるとそこにいたのは!
ひ、ひこにゃん閣下!
どうやら週末は毎週ここでアイドル活動をやってるみたいっす。活動開始から10年以上経ってるわけですがまだ人だかりができています。やっぱりひこにゃんとくまモンだけは別格ですわ。


こっちにも目線ください~!
2010年代後半登場のゆるキャラだったら埋没してそうなキャラ設計ですが、そこは先駆者の既得権益でしょうかぬ。
ひこにゃんは基本彦根市の外には出られないので、一方熊本県内を自由自在神出鬼没に顔を出せるくまモンとは、そこらへんで差をつけられたような気がします。しかたない。


では城へ。あ、彦根城って平城じゃないんですか。山登りかぁ・・・。


山を登ってさあ本丸だと思ったら、なんじゃこりゃ。橋が架かっていて、右の建物(天秤櫓と呼びます)に入るにはその橋からしか入れなさそうです。橋を渡るためには左へ回り込んでぐるりと一周しないといけませぬ。攻める側だとして、天秤櫓に突入するまでに何回キルされるんだろ、これ。というか守る側は橋を突破されそうと見るや橋を落とすね。防御力高いな。


橋を渡る途中にある鐘の丸。元々は名前通り鐘を鳴らす鐘楼が建っていましたが、鐘の音が城下全体に響かないということで太鼓丸に移設されたそうな。


橋をわたります。


本丸へは基本ここからしか攻められないみたいっす。また入口が狭いのが憎たらしい。


ここは太鼓丸というろころ。

というところで今日はここまで。


その13へ→