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為になるかも知れない本(その239-1)

2007-12-17 09:29:32 | Weblog
(西田病院月報昭和60年8月掲載、ほぼ原文のまま)
 「ここに偉大な医者がいた」
                     田原 正英

 理事長先生が亡くなられた。先生にはとてもかわいがってもらい、亡くなられたことが今でも信じ難く、日増しにそれが本当であることを認識しつつある。
 先生が佐伯で開業された当初、私の母は先生のもとで看護婦をしており、当時の理事長先生のことを母は、「あの頃はすごく厳しかった」と言う。
 私が浪人して医学部受験を断念しようと思った時、初心通り医学部を受ける様に勧めてくれたのは他ならぬ理事長先生であり、今の良き姿になれたのも理事長先生のお陰である。
 医道の道は三つしかない。大学に残って研究するか、勤務医になるか、開業するかである。ここに就職する半年前に、大学に残って先天性心疾患の研究ばかりするよりも、もっと自分にはするべき事があるのではないだろうかと考える様になり、いつかは佐伯に帰ろうと決めた。
 将来、恐らく南海病院に就職するだろうと思っていた(医学生の時に南海病院の循環器内科で研修した)。西田は個人病院だし、小児科は採算が合わないし、子どもはうるさいし、病気の子どもを持った親はもっと難しいし、その他にもいろいろ難しい問題もあるから、西田病院には小児科を置かないだろうと思い込んでいた。(個人病院で小児科を置き、新生児を含めた小児の救急医療を小児科医により毎日し、しかも入院も出来る小児科設備を持った所は、極めて少ないと思われる。当院では、私が就職してからは、小児の患者さんは小児科医が必ず診てきている)
 父は、「南海には今、小児科の先生がいる。(やる気満々で個性の強い)お前が行って二人で小児科をするとなると、それなりに難しいかも知れない」と言い、母は、「とにかく小児科を将来置く予定があるのかどうか聞いている」と言い、その結果、「南海には何も言わんでくれ、うちに是非来て(くれんかのう)」との理事長先生(当時院長も兼用)の返事であった。
 (徳州会病院がしていることよりもはるか前から)24時間365日の救急医療を県南で続けていて、時間外の救急に小児がしばしば来て、又、お産で異常児が生まれた時などは非常に困っていて、喉から手が出るほど小児科医が欲しかったのであるが、半ば諦めてもいたのである。
 大がかりな45周年増改築工事に紛れて小児科を途中から新設させてもらった(周囲からの要望の強い脳外科は前々より新設する予定になっていたが、小児科の予定はその時まで全くなく、こちらからの打診で初めて理事長先生が小児科も予定に入れてくれたのである。理事長先生は、私のことをてっきり大学に残って研究ばかりする医者になるものと思っていた様であった)。
 宮崎医科大学の小児科学教室にわざわざ来られ、早川教授が、「小児科は決してドル箱ではありません。採算の合わない科ですので、それを充分承知の上で田原君を大切にしてもらいたい」と言った時、「そのことは、前々からよく存じています」とニコニコしながら理事長先生は言われた(西田病院は、採算の合わない病理医まで置いて、しばしば病理解剖までしているが)。
 (続く)

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