入試って、一体なんなんだろうか?入れる数は、決まっている。どんなに頑張っても、もっと頑張る人がいれば、入れない。そこでは、相手のことを考えて優しく生きる生き方よりも、競争で生き残る生き方を学ぶ。
大学入試の問題、はっきり言って、あまり質が良くないのが多い。模擬試験の方が、良質な問題が多い。土台、大学の先生が中心になって、高校の授業内容をあまり熟知せずして作成する訳であるからして、いい問題は、作成しにくいと思う(大学で、たまたま、教養部の教授の部屋に入った時、旺文社が毎年出している大学入試問題集が置かれていたのには、ビックリした。大学の教官が大学受験の予備校に行ってバイトしている・・・今も、行われているのかな?)。
東大や九大の入試問題は、良問が多い(作成するスタッフも、それなりに多いのであろう)。しかし、地方の大学入試の問題では、周期的に、内容のパターンの変化が見られること、多々ある(少ない作成者が、周期的に変わっている為と思われる)。受ける大学にどうしても入りたい場合、まず、入試問題を徹底的に研究しておくべきだと思う。九大を受けるには、九大に沢山合格者を出している予備校に、長崎大を受けるには、長崎大に沢山合格者を出している予備校に通うことである。
いい成績を上げる受験生のタイプには、2つあると思う。本当に、実力があって、それなりに出来る人(この場合、受験では、時間不足になることが多いと思うが)。もう一つのタイプは、短い時間で、能率良く解ける様に訓練されていて、その為に、多くの問題のパターンを予め解いて熟知していて、それをきっかけに類似であることに気付いて、解いて行ける人である。つまり、受験テクニックに秀でている人である。
こんなことを、幼稚園に入る前から、子どもに強いたり、中学受験や高校受験の段階で、既に、強いられている子ども達がいるかと思うと、ゾッとする(それで失っているものの方がはるかに大きかったと言うことに気が付くまでに、30年以上掛かるかな?)
つい最近、団塊の世代で、○○大学医学部を現役で合格した人と話して、入試のことで花が咲いた。現役で合格していたその先生は、言った、「○○大学の今までの問題を解いていたら、殆ど、毎年同じ感じの問題が出ていて、私の時は、ほんとそっくりの問題が出ていて、ビックリした。」と。英数学館に教えに来ていた○○大学の数学の先生が、次の様に言ったのを、今でも覚えている、「今年の○○大学の数学の問題は、ちょっと変な問題で、難し過ぎた。来年は、そんことは、ありませんから・・・(こんなこと、大学の先生が予備校で言ってもいいのかなあ?!)」。
ノーベル賞を日本で初めてもらった湯川秀樹氏は、高校の時、同級生に物理の授業をしていて、その教え方は、その学校の物理の先生よりも上手だったとか。京大受験の数学の試験で、湯川氏しか解けない問題があった。しかし、彼は、それでも受験に失敗して、一浪してしまった。
マスコミによく出る京大の森名誉教授が、ある時、京大の数学の問題を作成する時の裏話を、次の様に言われていた、「まあ、この問題だと、8通りぐらいの解き方があるだろう、と思って、出題すると、何と、京大を受ける受験生だと、20通り以上の解き方が出てくる。で、ある解き方だと、途中で、行き止まって解けなくなってしまう。それでは、解けないんだよと思って、何人も採点して行っていると、数百人チェックし終えた所で、その方法でちゃんと筋道を立てて、解いている答案用紙に出くわす。こうなると、数学は、途中の経過が大切なので、多くの答案用紙から、前の途中の経過で終わっていた人の答案用紙を探し出して、それなりに点を上げることになる。」と。(試験の解答用紙って、大分県の教員採用試験みたいに、直ぐに廃棄処分になるのかなあ?後で途中まで正解だったと分かることなんてホントにないのかなあ・・・)
受験勉強していて、面白いと思った教科は、自分の場合、数学だけだった。実際は、点数や順位を上げることが楽しみで、その結果として入試に合格することが楽しみで、頑張れた。2浪の時は、点数を上げる為に、古文も漢文も、英語と同じ様に、全訳して行き、授業中にそれを訂正していた。
国語は、1年間や2年間では、本当の実力は伸びない。その基礎は、小学校時代であり、その中でも、読書力の差である。(私の場合は、小さい時からの読書力不足で、国語力は、今も、ない)
英語は、結局は、最後は、国語力となる。英語の試験で最も要求される読みこなす力は、ただ、内容が英語で書かれているだけで、国語と同じ能力を見ていることになる。
数学は、基礎である。公式の出し方など、教科書で、基礎を完全に叩き込んでおくことである(私はそうした)。本当の数学としての学問は、いろんな解き方を時間を掛けて考え出し、今まで考えつかなかった感じの方法で解けた時の喜びを感じることである。しかし、受験では、それは、許されない。速答出来る様に、側頭葉を使い、前頭葉を余り使わないで解く様に強いられるが・・・。
社会や理科は、基礎をしっかりと理解して、楽しく勉強して行けば、そして、時間をたっぷりと掛けて勉強して行けば、誰でも、ある程度までのいい点数は、取れるはず。学校の方針で、主要三科目で時間を取られて、選択の社会理科に時間を沢山掛けられない状態では、現役では、消化不良で受験することになるだろう。
いやいやながらしたことは、医学的にみても、受験が終われば、忘れてしまう傾向にある(大脳基底核の喜びを感じる扁桃体と短期記憶中枢の海馬が、強固に結び付いているからして)。人間は、大脳生理学的に、よく休み、よく寝、それに、よく運動すると、記憶力が良くなる(眠っている時に、記憶が脳で整理されて行く)。しかし、多くの県立の進学高校の様に、朝から晩までの詰め込み主義と睡眠不足では、非能率の状態となり、学問の真の面白さや、深く勉強していくことの楽しさや、やる気など、確実に喪失して行ってしまうだろう。
ある一点で、全ての勝ち組と負け組を分けてしまう今のやり方には、どうしても、賛成しかねる。年に、2回の大学入試があってもいい。社会人がどんどん参加出来る大学になって欲しい。学問は、元々、面白いもの。その面白さを知らずして、学校を巣立ってしまう現実を、多くの関係者が、まず、反省してもらいた。
その内、(アメリカの様に)大学を卒業して、教育学部や医学部や法学部に進学する様になるだろう。そうなれば、(日本の旧帝大を全てなくして、研究機関にして)大学間の差がない状態になるだろう(今のドイツの様に)。出来れば、自分の瞳がまだ黒い内にそうなって欲しいものだ。
大学入試の問題、はっきり言って、あまり質が良くないのが多い。模擬試験の方が、良質な問題が多い。土台、大学の先生が中心になって、高校の授業内容をあまり熟知せずして作成する訳であるからして、いい問題は、作成しにくいと思う(大学で、たまたま、教養部の教授の部屋に入った時、旺文社が毎年出している大学入試問題集が置かれていたのには、ビックリした。大学の教官が大学受験の予備校に行ってバイトしている・・・今も、行われているのかな?)。
東大や九大の入試問題は、良問が多い(作成するスタッフも、それなりに多いのであろう)。しかし、地方の大学入試の問題では、周期的に、内容のパターンの変化が見られること、多々ある(少ない作成者が、周期的に変わっている為と思われる)。受ける大学にどうしても入りたい場合、まず、入試問題を徹底的に研究しておくべきだと思う。九大を受けるには、九大に沢山合格者を出している予備校に、長崎大を受けるには、長崎大に沢山合格者を出している予備校に通うことである。
いい成績を上げる受験生のタイプには、2つあると思う。本当に、実力があって、それなりに出来る人(この場合、受験では、時間不足になることが多いと思うが)。もう一つのタイプは、短い時間で、能率良く解ける様に訓練されていて、その為に、多くの問題のパターンを予め解いて熟知していて、それをきっかけに類似であることに気付いて、解いて行ける人である。つまり、受験テクニックに秀でている人である。
こんなことを、幼稚園に入る前から、子どもに強いたり、中学受験や高校受験の段階で、既に、強いられている子ども達がいるかと思うと、ゾッとする(それで失っているものの方がはるかに大きかったと言うことに気が付くまでに、30年以上掛かるかな?)
つい最近、団塊の世代で、○○大学医学部を現役で合格した人と話して、入試のことで花が咲いた。現役で合格していたその先生は、言った、「○○大学の今までの問題を解いていたら、殆ど、毎年同じ感じの問題が出ていて、私の時は、ほんとそっくりの問題が出ていて、ビックリした。」と。英数学館に教えに来ていた○○大学の数学の先生が、次の様に言ったのを、今でも覚えている、「今年の○○大学の数学の問題は、ちょっと変な問題で、難し過ぎた。来年は、そんことは、ありませんから・・・(こんなこと、大学の先生が予備校で言ってもいいのかなあ?!)」。
ノーベル賞を日本で初めてもらった湯川秀樹氏は、高校の時、同級生に物理の授業をしていて、その教え方は、その学校の物理の先生よりも上手だったとか。京大受験の数学の試験で、湯川氏しか解けない問題があった。しかし、彼は、それでも受験に失敗して、一浪してしまった。
マスコミによく出る京大の森名誉教授が、ある時、京大の数学の問題を作成する時の裏話を、次の様に言われていた、「まあ、この問題だと、8通りぐらいの解き方があるだろう、と思って、出題すると、何と、京大を受ける受験生だと、20通り以上の解き方が出てくる。で、ある解き方だと、途中で、行き止まって解けなくなってしまう。それでは、解けないんだよと思って、何人も採点して行っていると、数百人チェックし終えた所で、その方法でちゃんと筋道を立てて、解いている答案用紙に出くわす。こうなると、数学は、途中の経過が大切なので、多くの答案用紙から、前の途中の経過で終わっていた人の答案用紙を探し出して、それなりに点を上げることになる。」と。(試験の解答用紙って、大分県の教員採用試験みたいに、直ぐに廃棄処分になるのかなあ?後で途中まで正解だったと分かることなんてホントにないのかなあ・・・)
受験勉強していて、面白いと思った教科は、自分の場合、数学だけだった。実際は、点数や順位を上げることが楽しみで、その結果として入試に合格することが楽しみで、頑張れた。2浪の時は、点数を上げる為に、古文も漢文も、英語と同じ様に、全訳して行き、授業中にそれを訂正していた。
国語は、1年間や2年間では、本当の実力は伸びない。その基礎は、小学校時代であり、その中でも、読書力の差である。(私の場合は、小さい時からの読書力不足で、国語力は、今も、ない)
英語は、結局は、最後は、国語力となる。英語の試験で最も要求される読みこなす力は、ただ、内容が英語で書かれているだけで、国語と同じ能力を見ていることになる。
数学は、基礎である。公式の出し方など、教科書で、基礎を完全に叩き込んでおくことである(私はそうした)。本当の数学としての学問は、いろんな解き方を時間を掛けて考え出し、今まで考えつかなかった感じの方法で解けた時の喜びを感じることである。しかし、受験では、それは、許されない。速答出来る様に、側頭葉を使い、前頭葉を余り使わないで解く様に強いられるが・・・。
社会や理科は、基礎をしっかりと理解して、楽しく勉強して行けば、そして、時間をたっぷりと掛けて勉強して行けば、誰でも、ある程度までのいい点数は、取れるはず。学校の方針で、主要三科目で時間を取られて、選択の社会理科に時間を沢山掛けられない状態では、現役では、消化不良で受験することになるだろう。
いやいやながらしたことは、医学的にみても、受験が終われば、忘れてしまう傾向にある(大脳基底核の喜びを感じる扁桃体と短期記憶中枢の海馬が、強固に結び付いているからして)。人間は、大脳生理学的に、よく休み、よく寝、それに、よく運動すると、記憶力が良くなる(眠っている時に、記憶が脳で整理されて行く)。しかし、多くの県立の進学高校の様に、朝から晩までの詰め込み主義と睡眠不足では、非能率の状態となり、学問の真の面白さや、深く勉強していくことの楽しさや、やる気など、確実に喪失して行ってしまうだろう。
ある一点で、全ての勝ち組と負け組を分けてしまう今のやり方には、どうしても、賛成しかねる。年に、2回の大学入試があってもいい。社会人がどんどん参加出来る大学になって欲しい。学問は、元々、面白いもの。その面白さを知らずして、学校を巣立ってしまう現実を、多くの関係者が、まず、反省してもらいた。
その内、(アメリカの様に)大学を卒業して、教育学部や医学部や法学部に進学する様になるだろう。そうなれば、(日本の旧帝大を全てなくして、研究機関にして)大学間の差がない状態になるだろう(今のドイツの様に)。出来れば、自分の瞳がまだ黒い内にそうなって欲しいものだ。