日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

宇佐→別府・・・

2010-04-03 08:28:54 | Weblog
 朝、早くホテルを出て、普通車で、「中津駅」から「宇佐駅」に行った。「宇佐神宮」って、大分県ではしばしば耳にするけど、どんな所か、サッパリイメージが掴めない状態でいた。
 宇佐駅は、中津駅から7つ目の駅だった。駅から歩こうと思ったが、宇佐駅の駅員さんに尋ねると、「1時間掛かりますよ!」と驚いた感じで言われた。で、仕方なく、バスで行った。バスだと、10分足らずで着いた。
 自分としたことが、(海外に行くには、かなり予習して行くのに)何も下調べをしなくて、全く無知の状態で、由緒ある「宇佐神宮」に参ることになった。まず、「宇佐神宮」の境内の広さに驚いた。
 ドンドン歩いて行った。で、やたらとその中に神社が多い。黒男神社から始まって、木祖神社、八坂神社、春宮神社、若宮神社、亀山神社など、・・・。何か、トロント大学と言うのに似ているなあと思った(トロント大学って、いろんな単科大学の寄せ集めの総称)。
 で、やたらと参る所が多くて、お金もコインで手ごろなのがなくなってしまった。こんなに賽銭箱が多くては。
 で、帰る時、タクシーに乗って、タクシーの運転手さんから教えてもらって、やっと気が付いたのだが、・・・→「宇佐神宮」には、3つの神様が祭られている。一之御殿は、「八幡大神」、二之御殿は、「比売(ひめ)大神」、三之御殿は、「神功(じんぐう)皇后」、で、少なくとも、どんなに省略しても、一番奥にある「上宮」と帰りの「下宮」で、6回参ることになると。
 で、賽銭の額も、初めに合わせて、皆、平等の額にすべきとか(後で、知って、冷や汗、・・・?!)。で、2礼2拍手1礼が、ここでは、2礼4拍手1礼。これ、後で気が付いて、・・・大変だあ!神様から許してもらえるかなあ、御免なさい・・・。
 心苦しい、沈痛な思いで、又、宇佐駅から又普通車に乗り、亀川駅で降りた。自分としては、別府駅で降りる予定にしていたのだが、亀川駅に着く直前に、家内が突如、「ここで降りる!」と言い出して、そうしたのだ。
 「海の地獄」から見るのと全く逆の道順で、「血の池獄」と「龍巻地獄」から見た(普通は、番号順に、海地獄から見て行く)。多くが、売店を通ってそれを見る感じになっている(地獄の沙汰も金次第?!)。
 初めの2つを見た後に、「地獄めぐり」案内図の見方を誤解していたことに気が付いた、・・・→つまり、「地獄めぐり」の地図(パンフレットには、「地獄地帯」何て、はっきりと書かれているが・・・)には、地獄が8つも書かれているが、歩ける距離でひとつにまとめると、2つのグループに分けられるに過ぎないのだ。
 2つのグループ間は、ちょっと遠いので、亀川駅からは26番線のバスで、鉄輪(かんなわ)からは、16番線のバスで行けばいい。
 「血の池地獄」→「龍巻地獄」→(その後、バスに乗り、鉄輪で降りて)→「白池地獄」→「鬼山地獄」→「かまど地獄」→「山地地獄」→「海地獄」→「鬼石坊主地獄」で終わった。
 (インターネットで1割引きの紙を出していたので、二人で400円割引してもらった。昨日1日だと、4月1日~4日までの「温泉まつり」の関係で、60歳以上は、地獄めぐり料金が無料だったが・・・。こんなこと、年に1回だけなのかな?)
 「鬼山地獄」では、ワニが沢山いた。どうも、ワニはとても無精者で、殆ど動かず寝てばかりで、獲物が来たら襲って食べるだけの毎日って感じだ。ここでは、1週間に1羽の鶏を食べるだけで事足りている様だ。
 この日も、宇佐神宮で冷や汗をかきながらも、いい思い出が出来た。人間、長い人生の中では、一回は、地獄に落ちる感じのことを経験した方がいいのかなあ。どん底まで落ちれば、後は、上がるだけだからして。それも、出来れば、若い時の方がいいなあ。
 生まれ変わった気持ちになって、新たに生きるって感じになることも、長い人生では、大切なことだなあ、・・・?!

(4月2日、記載)

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中津・・・

2010-04-03 08:27:43 | Weblog
 朝、病棟の患者さん(一昨日の4:00過ぎに入院)を診察して退院させた後に、バタバタしながら、9時にタクシーで龍ケ岳を出て、9:28松島発のバスにかろうじて間に合い(既に、バスは、バス停に着いていて、トイレ休憩をしていた)、それで熊本駅に10時58分に着いた。
 JR九州の「MY WAY CLUB」に家内と一緒に入った(男60歳以上、女50歳以上、200kmだと、4割安くなる。新幹線をちょっとでも使うと、3割だけ安くなる。1年間有効で、夫婦一緒だと、会費が二人で2000円)。
 11時10分発の「有明」に走り込んで乗り(乗り込むと、直ぐに走り出した)、博多駅に行き、そこで「ソニック」に乗り換えて、中津駅で降りた。自分は、大分県人なのに(いままの人生60年の3分の2以上を、佐伯市で過ごしているのに)、中津市に来たこと、初めてだった。駅の前のホテルでは、14時過ぎなのに、チェックインしてもらえた。荷物を部屋に入れて、直ぐに、中津散策に出発した。
 (無料の自転車が中津駅にずらっと並べられていたが)運動にらないと家内が強く言うので、テクシー(歩く)にした。駅前は、正に、城下町だった。
 まず、学問の神様である福沢諭吉氏をよく知ろうと思った(頭がこれで少しは良くなるかなと期待して、・・・?)。「福沢記念旧居」とその隣にある「福沢記念館」に行った。記念館でのビデオの時間が50分間もあった。今の一万円札の初めの番号1が、そこに飾られていた(造幣局から送られてきたとのこと)。
 どうして、彼の様な人間が中津から誕生したのか、ずっと不思議に思っていた。謎が解けた。諭吉は、実にいろんな人の影響を強く受けていたのだ。又、彼の天性の才能と努力も確かにあったが、その時代が、そんな人間を要求していたのだ。
 諭吉は、1歳で父親を亡くしている。母は、その父親のことを常に話していて、諭吉が最も影響を受ける存在となっている。
 15歳の頃から、亡き父の影響でか、中津で漢学を始めている。諭吉は、又、5人兄弟の末っ子で、一番上の兄の影響を強く受けていた(男女女女男)。長崎で蘭学を勉強することになったのも、その後、大阪で緒方洪庵の元で蘭学を学ぶことになったのも、兄の影響だった。
 蘭学でオランダ語を勉強し、漢学の基礎がしっかりしているせいか、そこで才能を開花させる。オランダ語が堪能であった。しかし、横浜見学で、それが通じないことから、英語の大切さを身を持って知る。そして持ち前の才能と努力で、英語も堪能になって行く。 
 諭吉は、今までの価値観に囚われることなく、欧米の目からも日本を客観的に見て、日本の遅れた姿を啓蒙することに生涯を捧げつ漢字となる。アチコチ海外に行って、「西洋事情」の10冊からなる本を出版して、当時の日本人に大きな影響を与えている。
 諭吉は、背が高く、居合切りの達人であったが、(もちろん)人を切ることは、なかった。情愛の人であったし、知っての通り、慶応義塾大学の創始者でもあった。諭吉の子どもは男4人(海外留学をさせている)女5人で、全て女でも一向に構わなかったとのこと(生まれる子は、男女平等であるべき!)。
 16時過ぎになって、慌てて、「中津城」に行った。ちょうど行く道に桜が咲いていて、それと城が実によくマッチしていたかな。
 夕食は、ホテルの前の老舗の店で、「ハモ料理」を食べた。中津のハモ料理は有名みたいで(大川では、エツ料理が有名だったなあ、・・・)、この店、NHKでも紹介されいた。
 満足、満足。明日は、宇佐に行って(宇佐に行くのも、自分は初めて)、「宇佐神宮」に行くことになっている。
(以上、4月1日、VAIOを使って、ホテルの宿泊部屋で記載)

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