私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

西播磨の戦国時代~赤松氏の興亡~

2012-01-16 21:59:23 | 日記
 1月16日(月)  天気:曇り  室温:13.7℃

 1月13日(金) 新宮へ行き 新宮・宮内遺跡、梅岳寺、天神神社を訪れ 大寺山へ登りましたが この
日 新宮へ行った目的は たつの市立埋蔵文化財センターで 行われている 特別展 「西播磨の戦国時
代~赤松氏の興亡~」を 見ることです。 秋の 「龍野城物語」 を見て 疑問に思うことがありました。
数日前の新聞に 特別展が行われる ということが 載っていて いつか 行こうと 思っていました。
特別展は たつの市教育委員会の主催で 入館料は 200円です。 展示室は 常設展示と 特別展示の
二つの部屋があります。
 たつの市埋蔵文化財センターでは 開館以来 「城山城と赤松氏」を 展示テ-マのひとつに掲げ 日頃
から 調査・研究に 取り組んでまいりました。 開館5周年にあたる本年は これらの調査・研究成果を基
に 赤松氏を中心に 西播磨の戦国時代を紹介する特別展を開催します。
 赤松氏は 下剋上の始まりとも言われた 嘉吉の乱で 衰退しますが 応仁の乱に乗じて 山名氏より 播
磨を奪回します。 その後 数々の侵略や内乱の耐えながら 戦国期の播磨を守り抜きますが 秀吉の侵攻
により 播磨を追われました。
 本展では この赤松氏の興亡を中心に 中世城郭の出土遺物・復原図や 貴重な古文書・肖像画などの
資料を展示し 昨今の戦国ブームの中 西播磨の戦国時代について わかりやすく 紹介して参ります。

 赤松則村(円心)(1277-1350)は 村上源氏の流れを汲む 赤松家4代の当主で 南北朝の頃
朝廷(後醍醐天皇)側に 付いていましたが 後に 北朝の足利尊氏側に付き 室町幕府の成立に 係
わり 後醍醐天皇側の新田義貞の 尊氏追討軍6万を迎え撃つため 建武三年(1333)頃 白旗城
を築き 湊川の戦での 尊氏軍勝利に 貢献し 白旗城を 居城とした。 また 元弘三年(1333) 姫山
に縄張りを定め(砦を築いた?) 赤松貞範が 貞和二年(1346)城を築き これが 姫路城の始まり
です。  次男の貞範は 相模川の合戦、竹下の合戦などで 戦功を挙げ 播磨国を 宛がわれた。

 その後 嘉吉元年(1441) 赤松満祐が 6代将軍 足利義教を 暗殺。 これが 嘉吉の乱です。 追わ
れる身となった満祐は 城山城で 大軍に囲まれ 自害。 赤松家は 滅亡の危機にさらされますが 弟の
義雅が 落城寸前の城山城から 脱出し 室津の赤松満政の陣に 落ち延び 自分の命と引き換えに 一
子 千代丸の助命を依頼し 自害する。 千代丸は 天隠龍澤(千本出身)に引き取られ 養育され 成長
し 時勝と名乗るが 20歳で亡くなる。 しかし 亡くなる直前に 男児をもうけており それが 後の赤松
政則である。 長禄の挙における 赤松遺臣の活躍で 政則には 加賀半国が 与えられ 赤松家の再興
が叶う。 その後 政則は 応仁の乱で 浦上則宗と共に 東軍に属して 活躍し 西軍の山名氏から 播磨
を取り戻すことにも 成功する。 その後 赤松家は 五代100年 続くのです。

 赤松満政は 嘉吉の乱のときには 幕府の大手軍として 合戦に 参加し 室津に上陸し 室山城に 陣
取ります。 合戦後は 東播磨の三郡(飾東、飾西、神東)を 支配することが 認められた。 しかし 山
名持豊により 東播磨三郡は 奪われ これに 反感をもった 満政は 三草山城にて 蜂起するが 破れ
赤松持家(有馬家)を頼るが 攻め殺される。
 赤松氏内部では 惣領家と 春日部、七条家などの庶子家が 対立していたようです。

 置塩城は 文明元年(1469) 赤松政則が 築城。 赤松氏の居城として 政則ー義村ー晴政ー義祐ー
則房と 五代に渡って続きますが 天正五年(1577) 則房のとき 秀吉に降伏。 天正八年 秀吉の
城割令により 廃城となります。
 赤松政則は 室山城(室津城)を 浦上則宗に与えていましたが その後 浦上氏と対立。 永禄七年
(1564) 赤松政秀は 室山城を攻め 浦上政宗、清宗を殺害。 室山城は 落城し 以後 廃城となります。
 龍野城(古城)は 文亀元年(1501) 赤松村秀が 築城。 村秀-政秀ー広貞ー広英 と四代続きます
が 秀吉の侵攻により 開城。 その後 四人の豊臣大名が 城主となり 関ヶ原の合戦 以降は・・・。

 赤松義村(七条家 赤松政資の二男で 政則の養子になる)は 浦上氏の拠点 備前・三石城や 美作・
岩屋城を 攻めるが 破れ 端谷城(神戸)へ逃亡する。 その後 浦上氏に捕えられ 長福寺に幽閉さ
れ 室津で 暗殺される。 なお 義村が 養育していた亀王丸は 後に 12代将軍 足利義晴となる。

 赤松義祐は 永禄元年(1558) 父 晴政を 龍野城へ移し 置塩城に入城し 実権を握る。 龍野城主・
赤松政秀は 永禄12年に 姫路城を攻めるも 青山で 黒田官兵衛に敗れています。(青山合戦)
 その後 織田軍が 播磨へ 侵攻を開始してきたことにより 播磨国内は 混乱する。
 天正元年(1573) 信長により 備前・浦上宗景に 播磨を支給する 旨の朱印状が 与えられるが 宗景
は 家臣の宇喜多直家に 攻められ 天正三年に 居城の天神山城は 落城する。 一方 義祐の置塩城
は 元亀二年(1571) に 別所氏、天正三年に 恒屋氏の攻撃を受けているが 撃退している。

 天正九年(1581) 秀吉は 播磨の九城に 破城令を出す。 この中に 赤松則房の 「置塩城」 も含ま
れていた。 その後 則房は 賎ヶ岳の合戦で 功を挙げ 四国平定戦後の 天正13年に 阿波国へ移封
され 1万石の大名となる。 文禄元年(1592) 則房、広英は 秀吉とともに 朝鮮の役に参加する。
 龍野城主・赤松広英は 秀吉の播磨侵攻の際に 龍野城から 佐江村に蟄居し その後の賎ヶ岳の合
戦で 功を挙げ 天正13年 但馬・竹田城を与えられる。 現存する竹田城の石垣遺構は 広英の築城?
と言われる。 しかし 広英は 慶長5年の関ヶ原の戦の際 鳥取城を焼き払い その責任を 問われ 切
腹させられるのです。

 昨年の10月14日の夕刊に 歴ナビ 旅する日本史 ゆかりを訪ねて という記事があり 赤松広秀が
取り上げてありました。 疑問に思ったのは 広英と広秀 のどちらが 正しいのか?ということです。
新聞では 広秀 です。 調べると どちらも 使われていたようです。
 龍野城主・赤松政秀の次男・広秀(1562~1600)は 秀吉に攻められ 配下となり 賎ヶ岳の合戦な
どの功績で 竹田城主に。 鳥取の大火は 無実で 宇喜多秀家の義弟ゆえに 切腹させられたという説
も・・。 竹田城は 廃城となる・・。 一方で 学問を重んじた経世済民の大名の顔をも持つ。 資料も 少
なく 墓も見つからず 謎多き最後の城主・・・。 赤松家の家系図も 広秀で 終わっています。

 ・・・・・         ・・・・
 展示を見ていると 地元の朝日山の写真がありました。 係りの人に尋ねると 朝日山で 合戦が
あったそうです。 そう言えば 朝日山にある法道仙人開基の大日寺には 戦火で焼けたということ
が 書かれていました。 天文三年(1534) 赤松晴政は 朝日山で 浦上政宗と戦ったそうです。
また 隣町の高田の安田公園には 赤松塚があるそうです。 これは 知りませんでした。 きょう
(1月17日) 行ってきました。 公園の南東隅に フェンスに囲まれ 赤松塚が ありました。

真新しい 「赤松塚」 の碑には 以下のように 彫ってあります。
 天正元年(1532) 頃より 播磨を支配していた赤松一族の勢力紛争で 二度、三度と
 朝日山の合戦が続き 討死や恨みをのんで 自刃(じじん)した将兵は 数十名と伝えられる。
 爾来 この地に鍬入れしたり 犯したりすると 祟りがあり 病気や災難を受けると いわれ
 原野のまま 今日に至っている。
 往時の播磨の雄 赤松一族に係る地 と伝えられるから 前述の合戦に関係のある土地かも知れない。

 碑の後ろに 赤松塚整備記念碑があり 日付は 平成23年8月吉日とあります。 なんーだ 出来た
ばかりじゃないの・・。 丸い石で固められた 盛り土があり 太い枯れ木と 小さい祠もあります。
   。。。。。。。。。                        。。。。。。。。。

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