私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 西国街道篇4

2017-04-09 12:05:35 | 歴史探索
 4月 9日(日)   天気:曇り   室温;22.6℃

 先日 イーグレひめじで FMゲンキのフリーマガジン ”春号” を入手しました。 それによると
気まぐれ途中下車 ”姫路の旧街道を歩く” は 西国街道篇4(大手前通り~市川橋西詰) です。
私の住んでいるところから 遠くなるので 実際に歩くのは やめにして 内容のみを紹介します。
 見どころは 1.スタート:大手前通りから 19.市川の渡し まであります。
       

1:宿駅(本陣)
  姫路は 古くは 国府のあった場所ですが 城下町としては 秀吉時代わ始点に 池田輝政の時代
 に 本格的な発展を遂げました。 宿駅や 人馬継ぎ送り制度も 輝政入封直後から 姫路を起点に
 再整備され 結果 姫路は 上方や山陽のみならず 美作、鳥取、但馬、飾磨、室津などを 様々な
 地域への結節点となりました。
  江戸時代の中期からは 西国大名の参勤交代の宿泊地としても栄え 城下町である姫路町には
 本陣だけで 三軒もありました。 その中でも 最も有力な町衆であった国富寺氏の屋敷(本陣)は
 現在の大手前通りにあったそうです。
  スタート地点は 参勤交代時代の本陣・国府寺氏の屋敷があったとされる 現在の大手前通り。



2:切手会所・国富木綿会所跡
  1749年 前橋から姫路に転封された譜代大名の酒井家は 前橋時代から 財政が ひっ迫して
 おり 姫路転封時点で 藩の歳入の4倍を超える債務を 抱えていました。
  三代藩主・忠道から 藩政改革を命じられた家老・河合道臣(寸翁)は 商品作物の栽培奨励の
 ほか 大規模な新田開発、木綿や塩・皮革などの専売化など 倹約だけに頼らない財政再建を
 主導しました。 切手(藩札)は 木綿製品の生産・流通の拡大に欠かせない手段として 寸翁に
 より 採り入れられたもので 藩札を発行した切手会所は 領内の木綿を 木綿商人から買い上げ
 た国産開所として 併設されていました。

3:本町遺跡(播磨国衙)
  姫路郵便局経周辺は もともと広範囲に 古代瓦が 出土していた事もあり 播磨国衙(播磨国
 国司の役所の建物) の存在を確認されていたそうですが 昭和56年の郵便経庁舎の建て替え
 に伴う発掘調査によって得られた数々の出土品や 遺構から 播磨国衙の跡の一部であることが
 ほぼ確実視されています。 (平成27年にも 瓦や柱跡を発掘)

4:総社門(播磨国総社・射楯兵主神社)
  8世紀以前から 飾磨郡因達里 因達山に祀られていた射楯神と 8世紀後半に 飾磨郡伊和の里
 水尾山から 飾磨郡国衙小野江にされた兵主神が 9世紀後半に 合座され 入たて兵主神社になり
 その後 播磨国16郡の174の大小明神を 合祀し 総社を呼ばれるようになります。


5:血の池跡
  平安時代 播磨守の平井保昌が 鬼退治のために 射楯兵主神に祈願したところ 一夜にして
 神池ができたという伝承があるそうですが 現地には かって 市街地を東北から 南西に流れて
 いた藍染川の跡と伝えられ 池田輝政の築城の際 城下の中堀に取り込まれてできた・・・。

6:好古堂(旧位置)
  現イーグレひめじの辺り 酒井家は 前任地の前橋で 既に 藩校「好古堂」を開いており 姫路移封
 にあたって 藩校も移転しました。 その後 桜町への移転、さらに 河合寸翁が開いた私塾「仁寿山校」
 との合併にあたり 現在の好古園入口付近に移転されました。

7:茶町町名碑(旧町名)
  現 古二階町・北条口に 相当。 茶町というのは 江戸時代からの町名で それ以前は 高尾宿と
 呼ばれ もともと遊女を置いた料理屋が 40軒ほどあったそうです。 城下町の建設は 輝政の時代・・

8:中濠(埋め立て事情)
  姫路城の中堀は 都市再編に伴い 明治末から徐々に埋め立てられました。 姫路を象徴する城郭を
 破壊する工事には 当時の市民は 複雑な感情を持ったのではないかと思います。

9:内京口門跡
  現 賢明女子学院裏門。 中曲輪南東に設けられた枡形門。 この門から東へ折れた西国街道は
 彼方の京へと続きます。 なので 京口門。 周辺では かって 幅12間、深さ六尺五寸といわれた
 中堀の雰囲気を楽しむことができます。 泳いでいるのは 鯉ではなく ソウギョのようです。

10:生野道分岐
  姫路と生野(銀山)を結ぶ 「生野道」 との分岐点です。 ここから北が 生野道。 
11:寺町筋
  城下町建設にあたっては 寺は 出城的な役割を付与されるケースが多く 姫路の場合 東の京口門
 の後ろに控える防御線として 五軒邸、坂田町、平野町に 寺が集められました。
12:久長門跡
  久長町(現 五軒邸)にあったので 久長門。 秀吉時代の姫路城の大手門は 裏口となる喜斎門の辺りに
 あったと言われており この二門を結ぶ東西の道路は 秀吉時代の大手通りだったと 推測されています。


13:外京口門跡
  姫路城外曲輪の東の玄関口となる重要な門。 三方を堀で囲んだ カギ型の枡形門構造に 二重櫓や
 櫓門など 厳重な防御が施してありました。 維新後 解体され明治8年に 姫路警察署が置かれ・・。
14:銀の馬車道(外堀川)
  銀鉱石の高速輸送路として 明治9年に 生の鉱山と飾磨港を結んで 竣工した 全長49kmの官設
 の馬車道。 正式名称は 「生野鉱山寮馬車道」。 日本初の高速道路とも呼ばれる。
15:河合橋(姫路空襲)
  幕末の姫路藩の尊王攘夷派のリーダー河合惣兵衛の記念碑が建つ河合橋。 昭和20年6月の姫路空襲
 では川西航空機を標的に B29爆撃機52機による爆撃を受け 340人以上が 犠牲になりました。
16:五国橋(エドウィン・ベーカー)
  五軒邸と国府寺町の間に 架かるので 五国橋です。 米国生まれのエドウィン・ベーカーは 五国橋を
 自費を投じて 修復したそうです。
17:九所御霊天神社
  創立年代は 不詳。 天平年間(729~749年)には 天人衣を着た天神を祀る天神社があり
 不付近一帯の総鎮守であったとも伝えられ 地域の人からも 「神屋の天神」などと親しまれた。
18:地蔵院の辺り
  1656年 創建。 長持型の石棺に 地蔵菩薩立像が刻まれた 室町時代のものと推定される石棺仏。
19:市川の渡し(ゴール地点)
  市川越にあたっては 古代は 松瀬の渡し(現 保城ー高木辺り)を渡り 中世は 小川の辺り、江戸
 時代は 一本松(現在の市川橋の北辺り)を渡っていたと言われています。 地元では 「昔の渡し の
 跡なのか 分からないが それらしき円形状の構造物が 市川橋の北100mぐらいのところにあった」と
 いうお話を聞きました。
 。。。。  。。  。。  。。。。。。  。。  。。  。。。。。。  。。。。。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アクアホールで 名村仁 組み... | トップ | 藤田佳三 シルクロード 心象... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事