10月16日(火) 天気:晴れ まだまだ暑い 室温:24.8℃
きょうは 公民館の 「歴史教室」 に行きました。 講師の先生は 播磨学研究所(地名研究家)の
田中早春先生です。 題目は 「郷土史 龍門寺 と 灘屋」。
”旭陽公民館だより10月号” には 歴史教室のご案内として = 講演要旨 = ”龍門寺の創
建にまつわる 灘屋の繁栄と終焉を 一通の書状が 語りかけます”
揖保川の支流を活かした広大な寺域に建つ 浜田の龍門寺(りょうもんじ)は 網干が誇る 寺院
の一つです。 網干小学校の校歌にも 歌われた 偉大な盤珪和尚もさることながら 創建に際し
忘れてならないのは 莫大な 喜捨(きしゃ)で 盤珪禅師を支えた 灘屋三兄弟ではないでしょうか。
早くから 商いにいそしみ 仏道に 深く帰依していた兄弟は 真偽のほどはともかく 播磨灘を舞
台に 千石船46艘を 持つ船主だったと 伝えられています。 しかし 播磨灘を席巻した灘屋にも 無
情の風が 吹きすさび あれほど 栄華を誇った灘屋が 突然 表舞台から 姿を消します・・・。
さて 何が 起こったのでしょうか? 地名研究 田中早春先生より
きょう 配布された資料は 「龍門寺の創建にまつわる灘屋の繁栄と終焉」 で
1】由緒ある領門寺は 網干が誇る寺院の一つです。
・浜田村 龍門寺の創始と自然環境を考えてみました。
・三角州によって生まれた網干です。
・川沿いに白壁の土塀に囲まれて建つ 龍門寺です。
2】揖保川支流を活かした広大な寺域の龍門寺です。
・明治初期の字限図からの情報を見てみましょう。
・古新田に意味を探ってみました。
・盤珪和尚抜きでは 語れない龍門寺です。
・龍門寺を支えた灘屋一族を忘れてはならないでしょう。
3】盤珪和尚を支えた灘屋三兄弟について
・灘屋繁栄のの時代の話です。
・元禄のころの当主は 道殊でした。
・網干は 福人の住む所・・『播磨鏡』 の記述です。
・灘屋の佐々木三兄弟は
信次(道弥)-通称 弥三左衛門 寛永二年(1625)~貞享三年(1686) 62歳歿
直守(正意)-通称 十郎右衛門 寛永五年(1628)~宝永五年(1708) 81歳歿
直重(道珠)-通称 甚左衛門 寛永17年(1640)~正徳四年(1714) 75歳歿
↓ → 息子・彦十郎 → 善淵
4】灘屋にも かげりのときが見え始めます。
・堺の商人(植下四郎兵衛)から 訴えられた灘屋・道殊と息子・彦十郎です。
・京都の池田屋からも 訴えられます。
・銀一貫目の値打ちは いかほどでしょうか。
5】網干興浜・陣屋に届けられた訴状を見てみましょう。
・何故か 訴状の受取を拒否した興浜陣屋でした。
6】やがて 灘屋に その日がやって来ました。
・身上潰れた 灘屋の後継者・彦十郎でした。
・非情な面を焙り出す 歴史の中の古記録です。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
きょうの もう一枚の資料は 『網干町史』 昭和年発行の初版(12000円)の 六、灘屋兄弟
(723、4ページ) も 配布されましたが それによると 灘屋のことは 前にも記したが その家
祖綱次は もと赤松の臣であったが 置塩城の赤松則房が 秀吉のために阿波・住吉城へ移さ
るるに当たり 浪人となって 網干に来たり住み 大覚寺中に 實津院を建てた。 網次の曽孫
直次には 八男二女があり 長を 信次(道弥)、次を 直守(正意)、末を 直重(道珠)といふ。
此三兄弟が 巨万の富を投じて 龍門寺の大伽藍を造立したのである。
灘屋道弥(佐々木氏) 幼にして 師(盤珪)と 硯席を大覚寺に同じくす。 曾て 師の手を握っ
て相契って曰く。 子 僧となって道を成せば 我 布金のならんと。 ・・・則ち 天徳山・龍門寺
を興造して 以って 其の宿約に酬ゆ ・・・・とあります。
三兄弟が生まれたのは 寛永年間で 徳川家光の時代です。 長男・信次は 盤珪と幼馴染
のようですが 末っ子・直重の子・彦十郎は 「網干町史」 には 登場しません・・・。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
網干は 縄文時代には まだ 海でしたが その後 揖保川から運ばれてくる土砂によって 三
角州が 形成され 現在の網干ができました。 浜田地区は 中川と揖保川に挟まれた 中州に
なっています。 現在は 中州を 浜田と興浜の境界が 入り組んでいて 爆発火災を起こした
日本触媒は 興浜(おきはま)です。
上の図は 明治時代の 「小字図集」 で 中央付近の古新田が 龍門寺のある場所です。
古新田とあるのは 江戸時代以前のもので 新田とあるのは 江戸時代以降のものです。
右下には 天保時代にできたと思われる 上天保新田があります。 現在 東西に走る国道
250号線(浜国道)辺りに ”浜田” の地名が見えます。
龍門寺は 赤松一族が 庵を結び 住んでいたのを 丸亀藩・京極家が 境内を広げ その後
灘屋三兄弟が 資材を投じて 伽藍を建立したのです。
灘屋は 千石船48艘(網干には 48艘もの船を泊める舟だまりはないので 疑問) を 持つ廻
船問屋で 赤穂の塩や 京阪神の古着などを運び 北国米やニシンの干物などを持ち帰った
ようです。 井原西鶴の 「日本永代蔵」 の那波屋は 灘屋がモデルとされています。
ところが 大坂で 商売をしていた 直重の子・彦十郎が 借金を重ね 堺の商人(金貸し)から
宝永二年(1705) 直重と彦十郎が 訴えられ 興浜の丸亀藩陣屋に 訴状がきますが
丸亀藩は お門違い と 訴状を送り返すのですが・・・。 京都の池田屋からも訴えられ・・。
借金は 銀218貫目、現在のお金にして 二億円以上・・。
返済不能になり 灘屋の後継者・彦十郎は 身上潰れてしまうのです。 封印、差し押さえ・・。
上の書状は 道珠が 宝永二年に書いた写しで 渡邊聡家にあった文書です。 渡邊家は
”網干まちなかあるき” で歩いた 丸亀藩陣屋跡の斜め向かいにある古民家・山本家の前に
ある質屋?さんだそうです。 灘屋から古文書を引き取り 必要と思われる書類を残している
そうで その中に この書状があったのだそうです。
龍門寺の近くの西方寺辺りに 灘屋の屋敷があったそうで 道祖神社もある。 また 近くの
義徳院は 盤珪禅師の生家だそうです。 これは 近いので 近いうちに 行かないわけには
行かない?
いやぁー 狭い網干にも まだまだ 面白いところが いろいろ ありそうです・・・。
11月の歴史教室は 欠席しますが 12月は また 田中先生です。 どんな内容なのでしょう。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
10月17日(水) 西方寺と義徳院へ行ってきました。 ついでに 龍門寺にも寄り 灘屋・佐々
木家の お墓を見てきました。 9:00 出発、9:10 着。 ここまで 5.3km。
龍門寺の不動堂に書かれている由緒に ”不動堂は 盤珪国師の念持仏であった 不動明王
の像を 祀るために建てられた お堂である。 この像は 盤珪国師が 15歳の頃 菩提寺の
西方寺の住職 寿欣上人が祀っている 空海が刻んだという 霊験あらたかな不動明王を 国師が
「明徳」 の疑念を解決するために 切望し 30日を期して 祈念した結果 諮らずも 与えられた
と伝わる。” とあります。 やはり 龍門寺と西方寺には 深いつながりがあったようです。
西方寺の住職さんのお話では 昔は この辺りには 龍門寺と西方寺のほかには 何もなか
った・・。 三兄弟と盤珪は 子どもの頃 大覚寺や 西方寺で 学んだり 遊んだりしたようです。
裏の墓に 三兄弟の兄の墓があるそうで 案内していただきました。 龍門寺より 古いお寺
なので 江戸時代の刻銘のある お墓もあります。
龍門寺の方が 大きいお寺ですが 西方寺と伽藍配置が 似ているのは 西方寺を 真似たの
では ないか? 鐘楼堂も 同じ構造だそうです。
八代将軍・吉宗と 縁があるそうで 寺紋は 三葉葵の紋だそうで 本堂の軒丸瓦は 三葉葵。
ただし 家康時代の単純な形状ではなく やや複雑な三葉葵になっています。 ちょうど 住職さ
んが 帰って来られ お話が聞けて 良かった・・。
道祖神社に 寄り道して お参り。 真新しい玉垣に囲まれた境内に なぜか 庚申神社
の石柱が・・。 義徳院は 路地の奥にあります。 門構えは 普通のお寺ですが 境内は
あまり 手入れされないようで やや荒れています。 小さいお堂の屋根も崩れそう・・。
本殿?も 普通の民家のような 建物です。 臨済宗妙心寺派の仁弘山義徳院は 盤珪
禅師の生誕地で 元和八年(1622) ここで 生まれました。 神童と言われた 禅師は 腕
白盛りの 11歳で 父親と死別し 出家します。 僧として 厳しい修行の後 「不生禅」 を説
き 龍門寺の開山となった。
この寺は 禅師の後を追って 出家し この地で 入寂した母公の妙節尼を 開基として
禅師の妹・寿清尼によって 貞享四年(1687) に 創建されました。
盤珪禅師の生誕地なので 左奥に 大きい誕生之地の石碑があり 手前に 小さい
産湯の井戸があります。 お寺には 盤珪禅師の遺品などが 保存されているそうです。
西方寺の車に戻り 前に行った 龍門寺へ 佐々木家のお墓を見に行きます。
龍門寺の地蔵堂と禅堂の間から 裏の墓地に行くと 奥の方に 佐々木家のお墓があり 説
明板があり お墓は すぐ分かります。 今は お参りする人も ほとんど いないようで・・・。
さらに奥には 田捨女(でんすてじょ 貞閑禅尼)のお墓もありました。 貞閑禅尼(1634~
1698)は 柏原出身の江戸時代の俳人で 「六歌仙」の一人。 六歳のとき 「雪の朝 二の字
二の字の 下駄のあと」 を詠んだ。 夫の没後 盤珪禅師に弟子入りし 浜田に 不徹寺を開き
禅師の法話の記録を残した。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
”龍門寺” は 3月8日に 「網干まちなかあるき」 で 歩きましたが 網干区浜田にある古刹です。
天徳山・龍門寺は 臨済宗妙心寺派のお寺で 盤珪禅師の開山です。 盤珪永琢(1622~93)
は 地元・浜田の出身で 17歳で 出家し 厳しい修行を重ねた後 「不生禅」 を説いた江戸時代
の禅僧です。 その間 長崎から 江戸まで 各地を行脚し 多くの人々の帰依を得て 開創した寺
は 47ヵ所に及ぶ。 寛文11年(1671) 妙心寺住職となり 後に 「禅師」 と 「国師」 の称号を
おくられた。
龍門寺は 盤珪国師の根本道場で 丸亀藩主・京極高豊と 地元網干の豪商・灘屋の三兄弟の
援助により 寛文元年(1661) に創建された 播磨屈指の禅宗寺院です。
主要伽藍は 江戸初期から 中期の建物で 創建当時の様子を 今に伝えています。
大方丈の拝観料は 500円。 今は 大門を修理中で足場が組まれています。
県指定文化財 : 木造千手観音像、木造釈迦如来坐像、木造聖観音立像。
市指定文化財 : 伽藍17棟、盤珪禅師関係資料、大方丈(本堂)襖絵43面。
大門の右は 鐘楼。 袴腰付き入母屋造りで 元禄五年(1691)の建立。 梵鐘は 寛政元年(17
89)の鋳造。 音色が 甚だ良く 「網干浜田の龍門寺の鐘は 一里聞こえて 二里ひびく」 の俗謡が
ある。 正面が 大方丈。 大方丈は 龍門寺の本堂に当たる建物で 現在の建物は 安永元年(17
72) に 再建されたものです。 禅寺なので 質実剛健、簡素な建物ですが 中には 狩野派の優れ
た襖絵が 43面あるそうです。 下の案内図のように 龍門寺の境内には 多くの伽藍があります。
禅堂は 寛文九年(1669) 以前の建立で かけられている額 「烹金爐」 は 丸亀藩主・京極
高朗の筆。 不生庭の立札には 「すべては不生の仏心で調いまするわいの」 盤珪禅師 と・・。
。。。。。。。。 。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。 。。。。。。。
きょうは 公民館の 「歴史教室」 に行きました。 講師の先生は 播磨学研究所(地名研究家)の
田中早春先生です。 題目は 「郷土史 龍門寺 と 灘屋」。
”旭陽公民館だより10月号” には 歴史教室のご案内として = 講演要旨 = ”龍門寺の創
建にまつわる 灘屋の繁栄と終焉を 一通の書状が 語りかけます”
揖保川の支流を活かした広大な寺域に建つ 浜田の龍門寺(りょうもんじ)は 網干が誇る 寺院
の一つです。 網干小学校の校歌にも 歌われた 偉大な盤珪和尚もさることながら 創建に際し
忘れてならないのは 莫大な 喜捨(きしゃ)で 盤珪禅師を支えた 灘屋三兄弟ではないでしょうか。
早くから 商いにいそしみ 仏道に 深く帰依していた兄弟は 真偽のほどはともかく 播磨灘を舞
台に 千石船46艘を 持つ船主だったと 伝えられています。 しかし 播磨灘を席巻した灘屋にも 無
情の風が 吹きすさび あれほど 栄華を誇った灘屋が 突然 表舞台から 姿を消します・・・。
さて 何が 起こったのでしょうか? 地名研究 田中早春先生より
きょう 配布された資料は 「龍門寺の創建にまつわる灘屋の繁栄と終焉」 で
1】由緒ある領門寺は 網干が誇る寺院の一つです。
・浜田村 龍門寺の創始と自然環境を考えてみました。
・三角州によって生まれた網干です。
・川沿いに白壁の土塀に囲まれて建つ 龍門寺です。
2】揖保川支流を活かした広大な寺域の龍門寺です。
・明治初期の字限図からの情報を見てみましょう。
・古新田に意味を探ってみました。
・盤珪和尚抜きでは 語れない龍門寺です。
・龍門寺を支えた灘屋一族を忘れてはならないでしょう。
3】盤珪和尚を支えた灘屋三兄弟について
・灘屋繁栄のの時代の話です。
・元禄のころの当主は 道殊でした。
・網干は 福人の住む所・・『播磨鏡』 の記述です。
・灘屋の佐々木三兄弟は
信次(道弥)-通称 弥三左衛門 寛永二年(1625)~貞享三年(1686) 62歳歿
直守(正意)-通称 十郎右衛門 寛永五年(1628)~宝永五年(1708) 81歳歿
直重(道珠)-通称 甚左衛門 寛永17年(1640)~正徳四年(1714) 75歳歿
↓ → 息子・彦十郎 → 善淵
4】灘屋にも かげりのときが見え始めます。
・堺の商人(植下四郎兵衛)から 訴えられた灘屋・道殊と息子・彦十郎です。
・京都の池田屋からも 訴えられます。
・銀一貫目の値打ちは いかほどでしょうか。
5】網干興浜・陣屋に届けられた訴状を見てみましょう。
・何故か 訴状の受取を拒否した興浜陣屋でした。
6】やがて 灘屋に その日がやって来ました。
・身上潰れた 灘屋の後継者・彦十郎でした。
・非情な面を焙り出す 歴史の中の古記録です。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
きょうの もう一枚の資料は 『網干町史』 昭和年発行の初版(12000円)の 六、灘屋兄弟
(723、4ページ) も 配布されましたが それによると 灘屋のことは 前にも記したが その家
祖綱次は もと赤松の臣であったが 置塩城の赤松則房が 秀吉のために阿波・住吉城へ移さ
るるに当たり 浪人となって 網干に来たり住み 大覚寺中に 實津院を建てた。 網次の曽孫
直次には 八男二女があり 長を 信次(道弥)、次を 直守(正意)、末を 直重(道珠)といふ。
此三兄弟が 巨万の富を投じて 龍門寺の大伽藍を造立したのである。
灘屋道弥(佐々木氏) 幼にして 師(盤珪)と 硯席を大覚寺に同じくす。 曾て 師の手を握っ
て相契って曰く。 子 僧となって道を成せば 我 布金のならんと。 ・・・則ち 天徳山・龍門寺
を興造して 以って 其の宿約に酬ゆ ・・・・とあります。
三兄弟が生まれたのは 寛永年間で 徳川家光の時代です。 長男・信次は 盤珪と幼馴染
のようですが 末っ子・直重の子・彦十郎は 「網干町史」 には 登場しません・・・。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
網干は 縄文時代には まだ 海でしたが その後 揖保川から運ばれてくる土砂によって 三
角州が 形成され 現在の網干ができました。 浜田地区は 中川と揖保川に挟まれた 中州に
なっています。 現在は 中州を 浜田と興浜の境界が 入り組んでいて 爆発火災を起こした
日本触媒は 興浜(おきはま)です。
上の図は 明治時代の 「小字図集」 で 中央付近の古新田が 龍門寺のある場所です。
古新田とあるのは 江戸時代以前のもので 新田とあるのは 江戸時代以降のものです。
右下には 天保時代にできたと思われる 上天保新田があります。 現在 東西に走る国道
250号線(浜国道)辺りに ”浜田” の地名が見えます。
龍門寺は 赤松一族が 庵を結び 住んでいたのを 丸亀藩・京極家が 境内を広げ その後
灘屋三兄弟が 資材を投じて 伽藍を建立したのです。
灘屋は 千石船48艘(網干には 48艘もの船を泊める舟だまりはないので 疑問) を 持つ廻
船問屋で 赤穂の塩や 京阪神の古着などを運び 北国米やニシンの干物などを持ち帰った
ようです。 井原西鶴の 「日本永代蔵」 の那波屋は 灘屋がモデルとされています。
ところが 大坂で 商売をしていた 直重の子・彦十郎が 借金を重ね 堺の商人(金貸し)から
宝永二年(1705) 直重と彦十郎が 訴えられ 興浜の丸亀藩陣屋に 訴状がきますが
丸亀藩は お門違い と 訴状を送り返すのですが・・・。 京都の池田屋からも訴えられ・・。
借金は 銀218貫目、現在のお金にして 二億円以上・・。
返済不能になり 灘屋の後継者・彦十郎は 身上潰れてしまうのです。 封印、差し押さえ・・。
上の書状は 道珠が 宝永二年に書いた写しで 渡邊聡家にあった文書です。 渡邊家は
”網干まちなかあるき” で歩いた 丸亀藩陣屋跡の斜め向かいにある古民家・山本家の前に
ある質屋?さんだそうです。 灘屋から古文書を引き取り 必要と思われる書類を残している
そうで その中に この書状があったのだそうです。
龍門寺の近くの西方寺辺りに 灘屋の屋敷があったそうで 道祖神社もある。 また 近くの
義徳院は 盤珪禅師の生家だそうです。 これは 近いので 近いうちに 行かないわけには
行かない?
いやぁー 狭い網干にも まだまだ 面白いところが いろいろ ありそうです・・・。
11月の歴史教室は 欠席しますが 12月は また 田中先生です。 どんな内容なのでしょう。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
10月17日(水) 西方寺と義徳院へ行ってきました。 ついでに 龍門寺にも寄り 灘屋・佐々
木家の お墓を見てきました。 9:00 出発、9:10 着。 ここまで 5.3km。
龍門寺の不動堂に書かれている由緒に ”不動堂は 盤珪国師の念持仏であった 不動明王
の像を 祀るために建てられた お堂である。 この像は 盤珪国師が 15歳の頃 菩提寺の
西方寺の住職 寿欣上人が祀っている 空海が刻んだという 霊験あらたかな不動明王を 国師が
「明徳」 の疑念を解決するために 切望し 30日を期して 祈念した結果 諮らずも 与えられた
と伝わる。” とあります。 やはり 龍門寺と西方寺には 深いつながりがあったようです。
西方寺の住職さんのお話では 昔は この辺りには 龍門寺と西方寺のほかには 何もなか
った・・。 三兄弟と盤珪は 子どもの頃 大覚寺や 西方寺で 学んだり 遊んだりしたようです。
裏の墓に 三兄弟の兄の墓があるそうで 案内していただきました。 龍門寺より 古いお寺
なので 江戸時代の刻銘のある お墓もあります。
龍門寺の方が 大きいお寺ですが 西方寺と伽藍配置が 似ているのは 西方寺を 真似たの
では ないか? 鐘楼堂も 同じ構造だそうです。
八代将軍・吉宗と 縁があるそうで 寺紋は 三葉葵の紋だそうで 本堂の軒丸瓦は 三葉葵。
ただし 家康時代の単純な形状ではなく やや複雑な三葉葵になっています。 ちょうど 住職さ
んが 帰って来られ お話が聞けて 良かった・・。
道祖神社に 寄り道して お参り。 真新しい玉垣に囲まれた境内に なぜか 庚申神社
の石柱が・・。 義徳院は 路地の奥にあります。 門構えは 普通のお寺ですが 境内は
あまり 手入れされないようで やや荒れています。 小さいお堂の屋根も崩れそう・・。
本殿?も 普通の民家のような 建物です。 臨済宗妙心寺派の仁弘山義徳院は 盤珪
禅師の生誕地で 元和八年(1622) ここで 生まれました。 神童と言われた 禅師は 腕
白盛りの 11歳で 父親と死別し 出家します。 僧として 厳しい修行の後 「不生禅」 を説
き 龍門寺の開山となった。
この寺は 禅師の後を追って 出家し この地で 入寂した母公の妙節尼を 開基として
禅師の妹・寿清尼によって 貞享四年(1687) に 創建されました。
盤珪禅師の生誕地なので 左奥に 大きい誕生之地の石碑があり 手前に 小さい
産湯の井戸があります。 お寺には 盤珪禅師の遺品などが 保存されているそうです。
西方寺の車に戻り 前に行った 龍門寺へ 佐々木家のお墓を見に行きます。
龍門寺の地蔵堂と禅堂の間から 裏の墓地に行くと 奥の方に 佐々木家のお墓があり 説
明板があり お墓は すぐ分かります。 今は お参りする人も ほとんど いないようで・・・。
さらに奥には 田捨女(でんすてじょ 貞閑禅尼)のお墓もありました。 貞閑禅尼(1634~
1698)は 柏原出身の江戸時代の俳人で 「六歌仙」の一人。 六歳のとき 「雪の朝 二の字
二の字の 下駄のあと」 を詠んだ。 夫の没後 盤珪禅師に弟子入りし 浜田に 不徹寺を開き
禅師の法話の記録を残した。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
”龍門寺” は 3月8日に 「網干まちなかあるき」 で 歩きましたが 網干区浜田にある古刹です。
天徳山・龍門寺は 臨済宗妙心寺派のお寺で 盤珪禅師の開山です。 盤珪永琢(1622~93)
は 地元・浜田の出身で 17歳で 出家し 厳しい修行を重ねた後 「不生禅」 を説いた江戸時代
の禅僧です。 その間 長崎から 江戸まで 各地を行脚し 多くの人々の帰依を得て 開創した寺
は 47ヵ所に及ぶ。 寛文11年(1671) 妙心寺住職となり 後に 「禅師」 と 「国師」 の称号を
おくられた。
龍門寺は 盤珪国師の根本道場で 丸亀藩主・京極高豊と 地元網干の豪商・灘屋の三兄弟の
援助により 寛文元年(1661) に創建された 播磨屈指の禅宗寺院です。
主要伽藍は 江戸初期から 中期の建物で 創建当時の様子を 今に伝えています。
大方丈の拝観料は 500円。 今は 大門を修理中で足場が組まれています。
県指定文化財 : 木造千手観音像、木造釈迦如来坐像、木造聖観音立像。
市指定文化財 : 伽藍17棟、盤珪禅師関係資料、大方丈(本堂)襖絵43面。
大門の右は 鐘楼。 袴腰付き入母屋造りで 元禄五年(1691)の建立。 梵鐘は 寛政元年(17
89)の鋳造。 音色が 甚だ良く 「網干浜田の龍門寺の鐘は 一里聞こえて 二里ひびく」 の俗謡が
ある。 正面が 大方丈。 大方丈は 龍門寺の本堂に当たる建物で 現在の建物は 安永元年(17
72) に 再建されたものです。 禅寺なので 質実剛健、簡素な建物ですが 中には 狩野派の優れ
た襖絵が 43面あるそうです。 下の案内図のように 龍門寺の境内には 多くの伽藍があります。
禅堂は 寛文九年(1669) 以前の建立で かけられている額 「烹金爐」 は 丸亀藩主・京極
高朗の筆。 不生庭の立札には 「すべては不生の仏心で調いまするわいの」 盤珪禅師 と・・。
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