山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

2010韓国日記(6)

2010年09月04日 23時24分01秒 | Weblog
   2010韓国日記(6)
① 茅亭
 日本読みではぼうていとなるが、韓国の農村で目にした村の休憩所である。農作業の休憩、仮眠、そして雑談の場所である。村の道路の交差する中心地に建てられている。茅舎といえばかやぶきの粗末な小屋だが、これは小屋ではない。壁がないのだ。朝鮮風の立派な瓦屋根があり、高床式で、丸柱だ。だが壁がなく屋根だけがのっかっているという不思議な建物だ。四方から出入りできる。大きい庭園にある休憩所を想像すればいい。いや、寺の鐘楼だ。床があって鐘のない鐘楼というところか。屋根や柱の立派さからは庭の休憩所ではなく鐘楼だ。無名東学農民慰霊塔がある村の茅亭は最近建て替えたとおもわれる新しいものだった。広さは12畳くらいか。ちょうど人々がすわったり寝ころんだりして昼の談笑中だった。われわれが見学をおえて村の外へ出るとき、彼らも昼の休憩をおえて仕事に戻る時で、すわっていた床からひょいと降りて、三々五々別れていった。
 村の集会所よりもっと気軽な日々の交流の場なのだろう。歴史の重要な場面では、村落共同体の力を引き出す交差点であり決起の場にもなったであろう。
 村の周りの畑は、日本の自給用の畑と同じように、さまざまな野菜を育てていた。村の入り口の農家では、玄関の向かいに赤い唐辛子を一面に広げて干してあった。われわれが「わあ、唐辛子や」などといっていると、その家のおばあさんが何か説明をしてくれた。帰り際にあいさつをするとにこにこと返事してくれた。別の家には、なんとなつかしい青いナツメの実がなっていた。秋になると黄色から茶色になり、ほのかな甘みがでてくる。親指の第1関節くらいの大きさだ。昔は日本の農村では見かけたものだが、いまでは目にすることはない。

② 朝鮮人参
 忠清南道の大屯山は急峻な岩山に陣を張った農民軍が激戦をしたところだ。この岩山の途中までみんなハアハアいいながら登った。ただしコンクリで整備されている範囲だが。ガイドの韓さんは10歳も年上なのにすいすいと歩く。山は今は観光地なので、麓に食堂兼みやげ物店が並んでいる。ふと見ると天ぷらが山盛りになっている。さつまいもを細長く切って揚げたのかなとおもって近づくとそうでもなさそうだ。細い根っこもある。朝鮮人参だった。人参の天ぷらがひとつ1000ウオンだ。80円くらいだ。私が注文するとその場で揚げてくれた。珍しいのでみんなもつられて注文した。人参の香りがした。「これが朝鮮人参かあ」といいながら食べた。太さは親指か人差し指、長さは13センチくらいだった。別の店で食べた人はタレもついていた。
 韓国では、各地で朝鮮人参の栽培をしていた。最高6年まで育てるそうだ。そのあとは畑を替えるという。土地の養分を吸い尽くすからだ。繊細な野菜で、強い日光、雨には弱いそうで、ひと畝ごとに遮光用の黒い屋根をしつらえてある。遮光ネットのような感じだ。大事に大事に育てられる。だから色白だ。日本では安い中国吉林省産が多いと思われる。バスでの移動の途中、とにかく韓国各地で人参の日よけ屋根が目についた。

③ 土まんじゅう
 韓国の農村部では各地で里山の麓に土まんじゅうがあった。土葬の風習が残っているのだ。直径2メートルくらいの半円形の土饅頭だ。山すその木や雑草が刈り取られたところにぽつぽつとある。土まんじゅう自体の草もきれいに刈り込まれて草もちのようだ。日本ではすべて火葬にしなければいけないので、土葬を見ることはない。昔は農作業用の牛などが死んだ場合土葬にした。でもきれいな形の土まんじゅうは韓国のものだ。
そういえば、中国での南京大虐殺のあと南京の慈善団体が打ちすてられた死体を14万も埋葬していったのだが、そのときの写真を見ると同じような土まんじゅうを作って弔っている。ただし大量の急いだ作業ゆえ、形よく大きくは盛り上がってはいなかったが。
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2010韓国日記(5)

2010年09月04日 23時21分02秒 | Weblog
 韓国日記の(4)の最後に赤土のことを書いた。そのとき槇村浩の「間島パルチザンの歌」の一節を思い出して書こうとしたのだが、不正確になっては槇村に失礼なので途中で消した。
 あらためて、『槇村浩全集』(岡本正光・山崎小糸・井上泉編、高知平凡道書店取次、1984年刊)を読み返しながらこれを書いている。槇村浩(本名・吉田豊道)は、1912年高知生れの革命詩人である。1929年、軍事教練に反対して海南中学校4年生2組の生徒全員で教練の答案を白紙で出した。中心にあった吉田は、岡山の関西(かんぜい)中学校5年生への転校を余儀なくされた。1931年3月、故郷に帰り、プロレタリア作家同盟高知支部に加わり、槇村浩を名乗るようになる。10月には満州事変に抗議する反戦詩「生ける銃架」を発表。朝鮮北部間島(かんとう)で抗日パルチザンの活動が活発になり、高知でも「間島に不逞鮮人蜂起」などと連日のように報じられた。槇村は、これに心からの連帯の気持ちをもって1932年3月13日「間島(かんとう)パルチザンの歌」を書き上げた。全16連の長編詩である。槇村は朝鮮にいたことがあるのではないかと思われるほど、朝鮮北部の風景や生活が見事に描写されていた。地理や生産、生活を図書館で徹底調査した上でかかれたものだ。そこに赤土(赭土(あかつち))の表現がある。
 1932(昭和7)年4月21日、槇村は同志とともに検挙された。高岡警察署に留置され、1年後の公判で懲役3年の実刑をいいわたされた。警察はひどい拷問を加え、母が差し入れにきても面会はさせなかった。何の法にも基かない人権蹂躙の虐待、暴行障害の犯罪である。警察は、槇村が衰弱したのちに、畳を一枚留置場に敷いた。槇村は食物がのどを通らなくなり、食道狭窄の症状となった。高岡署、高知刑務所の3年2ヵ月間、権力はいっさいの治療を与えなかった。虐待、放置してもいいという法的根拠はどこにあるのか。当時においても、拷問虐待許可法などはありえない。出獄(1935年6月6日)後の診断では、拘禁性うつ病とされた。
 肉体的・精神的虐待にもかかわらず、槇村は獄中で、膨大な詩をよみ頭にきざみつけた。また刑務所が読ませる仏教書などを徹底的に研究した。出獄後、母のもとに帰った槇村は、数か月間で、頭の中の詩と構想していた研究を原稿用紙にたたきつけるように書いた。
 1937年には衰弱がひどくなり入院、翌年9月3日、死亡。26歳であった。槇村が警察に囚われる前に書いた詩は6編にすぎない。あとの膨大な作品群は出獄後、一気に書いたものだ。論文では「人文主義宣言」「華厳経と法華経」「アジアチッシェ・イデオロギー(上)」などがある。「アジアチッシェ・イデオロギー(上)」は、アジア的思惟とくに中国の『易経』『大乗起信論』をアジア的生産様式に位置づけて分析したものである。獄中で与えられた文献を頭の中で分析研究した成果だ。だが(下)は母が他の原稿とともに行李につめて大切にもっていたのだが、高知空襲で焼失した。
 槇村の代表作「間島パルチザンの歌」の一部を以下に紹介する。

「間島パルチザンの歌」

思ひ出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉(から)松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭茶けた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ

雪解けの小径を踏んで
チゲを負ひ、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に背負(しょひ)縄はいかにきびしく食ひ入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか

雲は南にちぎれ
熱風は田のくろに流れる
山から山に雨乞ひに行く村びとの中に
父のかついだ鍬先を凝視(みつ)めながら
眩暈(めま)ひのする空き腹をこらへて
姉と手をつないで越えて行った
あの長い坂路よ

( 中略 )

おゝ三月一日!
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとり
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!
その日
「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし
踏み躙(にじ)られた××旗に代へて                 注(××旗は日章旗)
母国の旗は家々の戸ごとに翻った

胸に迫る熱い涙をもっておれたちはその日を思ひ出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝はり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺(こだま)した
おゝ、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱいに万才をはるかの屋根に呼び交はす老人と
眼に涙を浮べて古い民衆の謡(うた)をうたふ女らと
草の根を齧(かじ)りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土(あかつち)の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない!

 ( 以下省略 )
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