ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

ユーモア、笑い

2013-03-01 14:29:33 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ヤコブの手紙」 3章4節~10節です。

神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。
世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。

それとも、聖書に次のようにかかれているのは意味がないと思うのですか。
「神はわたしたちの内に住まわせた霊をねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」
それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
だから神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げてゆきます。
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。
心の定まらない者たち、心を清めなさい。
悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。
主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。


上の聖句の下線部分が私には理解できません。
「笑いを悲しみに変え・・・」と読んだとき『薔薇の名前』という本を思い出しました。
「薔薇の名前」は 記号論学者で中世思想史家ウンベルト・エーコが書いた、
14 世紀の修道院を舞台にした連続殺人事件を扱ったミステリーです。


中世の修道院は文化の担い手であり, 書物を製作し 保管するのも重要な役割でした。
そこの修道院には、 長い間秘蔵されてきたある書物がありました。
当時もっとも尊敬されていた古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『詩学・第二部喜劇論』です。
この書物の存在を秘密にしておかねばならないという使命感が殺人の動機だったのです。 
何故たかが書物の存在が殺人の動機になったのでしょうか。
実はそれは笑いに関係しているのです。 
喜劇とは笑いのための演劇です。
当時の修道院にあっては, 笑いは抑制され, 軽蔑され, 禁止され, 畏れられてすらいました。
それにもかかわらず, あの偉大なアリストテレスが笑いを評価する喜劇論を書いていたとなれば、
それは自分たちの教えの正当性にかかわる重大問題です。
笑いを拒絶する立場からすれば、アリストテレスの『喜劇論』は絶対秘密にしなくてはならないものだったのです。
**********  うろ覚えですが、そんな内容のミステリーです。



そういえば、笑うという行為は優越感であり、民が憂さ晴らしのために自分を笑うかもしれない
という恐れから、民に笑いを禁じた為政者がいたという話を聞いたことがあります。

たかが笑い、されど笑い、朗らかな和やかな笑いもあれば、「薄ら笑い、嘲笑い、ほくそ笑む」など
マイナスのイメージも笑いにはありますね~


上智大学で「死生学」を教えていらしたアルフォンス・デーケン先生は、死を前向きにとらえ、
限りある生をより充実したものとするために「ユーモア感覚」を薦めています。

ユーモアによって生み出されるのは穏やかな笑いです。
相手に対する思いやりがユーモアの原点です。
私たちが相手に対して思いやりや愛を示したいなら、相手が何を期待するか、何を希望するかを考えることが
出発点になります。
思いやりに満ちたユーモアによって、どんなところでも和やかな雰囲気を作り出せると思います。
*********  「よく生き、よく笑い、よき死と出会う」より抜書き


デーケン先生は人生の潤滑油としてのユーモアの役割を見直してみては、と私たちに勧めます。 
人生の潤滑油がなぜ必要なのか、それは私たちが「世の人の友となりたい」からだと思います。

そうすると、上の聖句の下線部分「世の友となることが神の敵となる・・・・・」が私には
分からなくなります。

ということで、今日の聖句はストンとは理解できないものでした。
日常生活に埋没した中で読む聖書、そんな中で深い考察も洞察も無く思いつきを書いている私のブログです。 m(_ _)m
読んでくださる方がいるとしたら、ただただ、その方の信仰の妨げにならないことを祈るのみです。





<ミヤマホオジロ(♂)>を見ました。
立てた冠羽が恰好いいです。 
止まったのが有刺鉄線・・・・ (T__T)



3月31日(日)午前10時半からイースター礼拝です。
美竹教会でご一緒に、主の復活を感謝し、お祝いいたしましょう!
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