ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「罪」について (続)

2013-03-09 20:45:51 | その他
「新共同訳 聖書事典」からの抜書きです。


旧約聖書における「罪」

古代イスラエルの人々が罪の問題を比較的深く考えていたと言うことはできるかもしれない。 
さまざまな厳しい集団的体験を自らの罪の結果と見なして受け入れざるをえなかった歴史の中で、
罪に関する彼らの理解が幅広く展開されていったのだろう。
罪概念に集約されていくヘブライ語の主なものは、」日本語では「的をはずす」「悪を行う」「背く」と
訳されていて、単なる過失から意図的な反逆にいたるまで意味の振幅が見られる。
古代イスラエルではこのような事態は人間と人間の間のみでなく、人間と神の間にも想定されている。
しかし罪の現実は本質的には人間本性の問題としてとらえられなければならないことが次第に明らかになる。
旧約聖書における罪の具体相をみてみると、まず単純な過失があるが、これも神との関係のうちにおかれる
ことによって一段と重みを増す。
そこからして罪の心情的・倫理的意味合いが現れる。
集団的罪理解は、神と民との契約と言う思想と結びついている。
罪にかかわる概念は、古代イスラエルにおいては、おしなべて実体的概念と言うよりも、人間と神の関係を示す
概念としてとらえられたように見える。
それは結局、神から離反する人間のあり方に集約されることによって、新約聖書における罪概念につながっていく。


新約聖書における「罪」

キリスト教的な罪理解は、新約聖書に表されたキリスト論、なかんずくパウロの思想と結びつく形で組織化されていった。
その過程を通して罪概念は、他力宗教的救済論の一環として、普遍的色彩を帯びることになる。
ギリシア語の「罪」を表す語も多数あるが、その中心はヘブライ語と同様に「的をはずす」という意味の言葉であったが、
「70人訳聖書」をとおして道徳的意味合いが強くなり、旧約聖書に見られる多数の用語を吸収しつつキリスト教的罪概念を形成していった。

① 共観福音書と使徒言行録
福音書記者の描くイエスは、罪について真正面から語らず、山上の説教に代表される言葉伝承や放蕩息子のたとえなどにおいて、
人間の罪の現実を示唆する。
その主なる意味は神と律法からの離反であるが、イエスは「罪びとを招く」ことにより、その克服を志向する。
それにならって使徒たちも、悔い改めと罪の赦しを宣べ伝えたのである。
罪は人間にとって避けられない現実であるとともに、乗り越えられるべきものとしてとらえ直されている。
その可能性を開くのがイエスキリストである。

(共観福音書とは:キリスト教の新約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネ伝を除くマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝のことを指します。)

② ヨハネ文書
ヨハネによる福音書では、イエスを啓示者と認めないことが罪と考えられている。
したがって「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」(ヨハネ15:22)と言われる。
換言すれば「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。
だから、あなたたちの罪は残る。」ということになる。
罪は「悪魔」という表象にむすびつけられ、「罪を犯すものは悪魔に属します」と述べられる。

③ パウロ書簡
パウロにおいて罪理解ははじめて、救済論の重要な契機として進化することになる。
彼の救済論はまず、人間における罪の普遍性を説くところから出発する。
すなわち「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」のである。
「一人の人によって罪が世にはいり、罪によって死が入り込んだ」ためである。
罪の起源をアダムに帰するこの原罪思想は、新約聖書それ自体においてはさほど広く展開されなかったが、
ある意味で人間の真実をついていたがゆえに、のちの時代に大きな影響を与えた。

パウロの思想の最重要点は、この罪が同じく一人の人イエス・キリストによって贖われるというところにある。
「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの
恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」(ロマ5:15)という言葉が彼の救済論の骨格を語る。
パウロの罪理解が、一歩進んでいる点は、人間の罪を単なる律法違反としてとらえるのではなく、律法の要求を
自力で満たそうとする人間の自己正当化の努力を最大の罪としてとらえたところにある。

「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ロマ7:7)と彼は言う。
こうした自己矛盾におちいっている人間がそこから救い出されるためには、イエス・キリストの十字架の贖いに示された
「神の義」を、信仰をもってうけいれるしかない。
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」 (ロマ3:28)からである。
パウロの神学(信仰義認論)は自力によらず他力による救済を説く論理の典型と言えよう。

④ そのほかの文書
ヘブライ人への手紙では、持続する教会における生活規範の問題が現れている。
真正なパウロ書簡の一部にもうかがわれるが、牧会書簡にいたると、まさにそれが中心問題となる。
しかしそうなると今度は、罪認識が再びパウロ以前の状態にもどってしまうことにもなりかねない。
ここにはまさに、救済論をめぐる永遠のジレンマがあると言えよう。


↓ 私の理解した範囲でまとめてみると・・・・・

キリスト教の「罪」とは神を信頼しきれないこと、にある。
それは最初の人間、アダムとエバがまず犯した罪で、原罪という。
人間の神を信頼しきれない罪は、イエスの十字架の犠牲によって贖われ、罪びとの私たちは救いに与っている。
「ヘブライ人への手紙」などの牧会書簡では生活規範の問題も重視している。
クリスチャンは聖書を読み祈り、神のみ言葉にフィードバックして自らを律する生活を擂るべきである。
しかし、そうだとすると、行いでなく信仰によってのみ神から義とされる、というパウロの教え以前にもどってしまう。
ここにはまさに、救済論をめぐる永遠のジレンマがあると言えよう。


以上が聖書事典で私が理解した範囲です。 
「罪」に関して少し分かりましたが、私が抱いている疑問はもっと別のもののようです。
まあ、しかし、一夕にしてわかる事柄ではないのでしょう。 特に私には難しい (^^;)
これからも祈り、考え続けてみましょう。





今日の野鳥は<緋連雀(ひれんじゃく)>です。
これから4月頃まで、都市公園でも見られます。




東京、渋谷の美竹教会の明日の礼拝は午前10時半からです。 ぜひいらしてください。 
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