今日、3月10日(日)の説教 テキストは「マタイによる福音書」26章36節~48節
タイトルは「ゲッセマネの祈り」でした。
物語は・・・・・・・・
最後の晩餐の後、イエスは3人の弟子を連れてゲッセマネの園で祈られました。
イエスは弟子たちに「私は死ぬばかりに悲しい。私と共に目を覚ましていなさい」と言われ、
それから、うつ伏せになり「父よ、できることならこの杯(苦しみ)をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました。
イエスが祈っている間、目を覚ましているようにと言われたにもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいました。
イエスは苦しい祈りを三度なさいましたが、三度とも弟子たちは眠ってしまいました。
祈りを終えた主は「時は近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」と言われ、
裏切り者の十二弟子の一人ユダが先導する人々に捕らえられました。 ・・・・・・・・・・
ここでは、イエスは神の子であると同時に人間として祈られました。
神の子イエスが、弱い人間である弟子たちに頼るほど、ここでは一人の人でもありました。
〇 イエスの負われた苦痛は十字架上で磔にされるという人間としての苦痛と、神なればこそ耐えられる
苦痛の二種類でした。
十字架にかけられ人間の(罪ひとの)死を死ぬということは神から見捨てられて死ぬことでした。
これは私たちの想像を超えての苦痛です。
しかしイエスは、私たち人間(罪びと)の救いのためにご自分の死が必要だと考えました。
心血を注いで私たち人間(罪びと)のために祈ってくださり、神に捨てられる、見放されると言う
恐ろしさを知った上で、神の御心である十字架の死を選ばれました。
〇 この時、イエスは、明日には自分を裏切るとわかっている弟子に目を覚まして自分と一緒に祈ってほしいと言いました。
私たちは祈りの友が欲しいと思うことがありますが、一緒に祈ること、祈りを合わせる事はとても大切です。
イエスは眠ってしまった弟子たちに「心が燃えても肉体は弱い」と労りの言葉をかけられましたが、実際は弟子たちの心は
燃えていなかったのではないでしょうか
イエス様が弱い私たちを頼ってくださる、これは本当に有難く勿体ないことです。
イエスは、神の救いの進展を目指して、これからの教会の歩みのために祈ってほしいと言われたのですが、
十字架の真の意味が解っていなかった弟子たちは真剣に祈っていませんでした。
2000年後の今日の私たちにもイエスは一緒に祈ってほしいと言われているのです。
自身の救い、同胞の救いのために祈りたいものです。
〇 ゲッセマネでイエスは神様に三度も祈られています。
(別のところでは、同じことをクドクドと祈るな、とイエスは言われていますが・・・・)
私たちの毎日の祈りは同じことの繰り返しになることが多いいのですが、このイエスの
三度の祈りは私たちを励まします。
しかし、本当の祈りは最後には「御心がなされますように」という祈りに集約されてくるはずです。
毎日の私たちの祈りは内容が薄くなりがちですが、最後にはイエスがゲッセマネで祈られたように「御心がなされますように」
という御霊に導かれた真剣な祈りになるはずです。
祈ることによって神の救いが確信でき、平安を得られるようになります。
〇 それでは「御心がなされる」というのはどういうことでしょうか。
御心とは神の御計画、我々一人一人を救うという永遠の御計画です
イエスの祈りにもかかわらず、ここではイエスに十字架を負わせた神ですが(そしてこれは神の御計画でした)
神は決して私たちの祈りに無関心な神ではありません。
わたし達が祈ると、キリストが私たちのために祈っていて下さることが見えてきます。
〇 この後、イエスは十字架に向かって進み苦しみの杯を飲み干し、世界は一変しました。
ゲッセマネの祈りが自分たちのための祈りであるとわかっていなかった弟子たち、何が大切なのか分かっていなかった弟子たち、
私たちのために祈り苦しむ神がここにいられることがわかっていなかった弟子たちですが、イエスの十字架と復活のあと、
この救いに気づき、命を懸けて祈り、伝道するようになりました。
主は今も祈っていてくださり、すべてを委ねる平安に私たちを導い下さいます。
(以上、文責はゆうゆうにあります。 今回も大脚色かな? (^^;)
公園の白梅古木です。
3月31日(日) 美竹教会のイースター礼拝です。 お出かけください。
タイトルは「ゲッセマネの祈り」でした。
物語は・・・・・・・・
最後の晩餐の後、イエスは3人の弟子を連れてゲッセマネの園で祈られました。
イエスは弟子たちに「私は死ぬばかりに悲しい。私と共に目を覚ましていなさい」と言われ、
それから、うつ伏せになり「父よ、できることならこの杯(苦しみ)をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました。
イエスが祈っている間、目を覚ましているようにと言われたにもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいました。
イエスは苦しい祈りを三度なさいましたが、三度とも弟子たちは眠ってしまいました。
祈りを終えた主は「時は近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」と言われ、
裏切り者の十二弟子の一人ユダが先導する人々に捕らえられました。 ・・・・・・・・・・
ここでは、イエスは神の子であると同時に人間として祈られました。
神の子イエスが、弱い人間である弟子たちに頼るほど、ここでは一人の人でもありました。
〇 イエスの負われた苦痛は十字架上で磔にされるという人間としての苦痛と、神なればこそ耐えられる
苦痛の二種類でした。
十字架にかけられ人間の(罪ひとの)死を死ぬということは神から見捨てられて死ぬことでした。
これは私たちの想像を超えての苦痛です。
しかしイエスは、私たち人間(罪びと)の救いのためにご自分の死が必要だと考えました。
心血を注いで私たち人間(罪びと)のために祈ってくださり、神に捨てられる、見放されると言う
恐ろしさを知った上で、神の御心である十字架の死を選ばれました。
〇 この時、イエスは、明日には自分を裏切るとわかっている弟子に目を覚まして自分と一緒に祈ってほしいと言いました。
私たちは祈りの友が欲しいと思うことがありますが、一緒に祈ること、祈りを合わせる事はとても大切です。
イエスは眠ってしまった弟子たちに「心が燃えても肉体は弱い」と労りの言葉をかけられましたが、実際は弟子たちの心は
燃えていなかったのではないでしょうか
イエス様が弱い私たちを頼ってくださる、これは本当に有難く勿体ないことです。
イエスは、神の救いの進展を目指して、これからの教会の歩みのために祈ってほしいと言われたのですが、
十字架の真の意味が解っていなかった弟子たちは真剣に祈っていませんでした。
2000年後の今日の私たちにもイエスは一緒に祈ってほしいと言われているのです。
自身の救い、同胞の救いのために祈りたいものです。
〇 ゲッセマネでイエスは神様に三度も祈られています。
(別のところでは、同じことをクドクドと祈るな、とイエスは言われていますが・・・・)
私たちの毎日の祈りは同じことの繰り返しになることが多いいのですが、このイエスの
三度の祈りは私たちを励まします。
しかし、本当の祈りは最後には「御心がなされますように」という祈りに集約されてくるはずです。
毎日の私たちの祈りは内容が薄くなりがちですが、最後にはイエスがゲッセマネで祈られたように「御心がなされますように」
という御霊に導かれた真剣な祈りになるはずです。
祈ることによって神の救いが確信でき、平安を得られるようになります。
〇 それでは「御心がなされる」というのはどういうことでしょうか。
御心とは神の御計画、我々一人一人を救うという永遠の御計画です
イエスの祈りにもかかわらず、ここではイエスに十字架を負わせた神ですが(そしてこれは神の御計画でした)
神は決して私たちの祈りに無関心な神ではありません。
わたし達が祈ると、キリストが私たちのために祈っていて下さることが見えてきます。
〇 この後、イエスは十字架に向かって進み苦しみの杯を飲み干し、世界は一変しました。
ゲッセマネの祈りが自分たちのための祈りであるとわかっていなかった弟子たち、何が大切なのか分かっていなかった弟子たち、
私たちのために祈り苦しむ神がここにいられることがわかっていなかった弟子たちですが、イエスの十字架と復活のあと、
この救いに気づき、命を懸けて祈り、伝道するようになりました。
主は今も祈っていてくださり、すべてを委ねる平安に私たちを導い下さいます。
(以上、文責はゆうゆうにあります。 今回も大脚色かな? (^^;)
公園の白梅古木です。
3月31日(日) 美竹教会のイースター礼拝です。 お出かけください。