ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「復活の主が共に」

2013-03-31 23:45:41 | 説教
イースター礼拝の説教  テキストは「マタイによる福音書」 28章 16節~20節でした。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そしてイエスに会い、ひれ伏した。 しかし、疑う者もいた。
イエスは近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを
すべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」



復活の主の存在は、目で見て確かめなくては分からないことかもしれません。
今日の聖句では弟子たちは目で見ても、なお疑う者もいました。
しかし、本当の信仰、愛とは疑うことをしない、証拠を求めるものではありません。
復活の主を信じることは、理解や感覚を超えたものです。
喜びや平安は主を信じることから得られ、その確信は主を信じる生活から来ます。

復活した主と弟子たちの出会いは弟子たちの考えを覆すものでした。
自信のない中途半端な弟子たちにイエスは近づいて、伝道することを命じ、そして世の終わりまで
あなたがたと共にいると言われました。 
この出来事があってから弟子たちは伝道に励み教会を建てます。

主に従う生活は疑いを吹き払ってくれるものです。
常識的には、疑いが無くなってはじめて信じるものかも知れませんが、実際は、主に従って生きてみて
本当に信じることができ、疑いが消え去るのです。


マタイ伝の最後の言葉「わたしは世の終わりまで、共にいる」という「わたし」とは復活の主のことです。
この言葉は、マタイ伝1章23節の「その名はインマヌエル、神は我々と共におられる」という言葉と
呼応していて、マタイ伝は「神、我らと共に在り」 人間と共におられる神を語り続けています。


復活の主に従う生活とは、暗く不安な弱い存在の我々人間を神がすべて新しくしてくださる生活です。
弱さや孤独、虚無感もなくなり、神が私共の中に入ってくださり、生きているという生活です。

今日は一人の方の洗礼式がありました。
洗礼とは 英語で in the name of…… と言いますが、元のギリシア語では into the name of……となり、
into~ は ~の所有となるという意味です。

洗礼を受けることは父と子と聖霊の所有となり、復活の命を受け継いで生きる、ということです。
神が私たちの中に入り込み生きてくださる、私たちの新しい主人となって下さるのです。


神と一つになることは神のような人間になって偉くなるということではありません。
私たちは内側から強められより一層謙虚になるはずです。

地上での全権を持っている主、神の愛がこの地に踏み込んで私たちを永遠の命へと導いてくださる、
世界中が暗い中にあってもキリストは世界の希望であり、そして光です。

では、私たちは実際にはどのような歩みをしたらよいのでしょうか。

主は弟子たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。
この言葉に出会わなかったら、弟子たちはまたそのまま日常に戻ってしまったかも知れません。
弟子たちは主の戒めの道を守り、全ての民に福音を伝え教会を作ることに励みました。
人間の幸福への道、「マタイによる福音書」5章~7章の「山上の教え」を伝えました。

敵を愛する能力など私たち人間にはあるはずもありませんが、能力の有無ではありません。
その力は洗礼から、つまりキリストの所有となることから私たちに与えられるものです。

第一歩、基本が洗礼です。
幼子も老人もすべての人が洗礼に招かれています。
洗礼を受け、恵みに従ってまず生きる、その生活が信仰より先にあります。
主は「わたしの恵みと平安の中にいなさい」と私たちに語りかけているのです。

(文責はゆうゆうにあります。 下線はゆうゆうが入れました。
 今日は、まず信じて生きていくことが大切だと教えられた気がいたします。
 聖書を読み、祈り、礼拝に出席し、毎日を生きていると自然に平安が感じられる今日この頃です。)





公園の山桜 (クリックすると大画像が見れます)


今日は一人の兄弟が洗礼を受けました。本当に素晴らしい感謝な出来事です。
礼拝の後、教会学校の子供たちも一緒に祝会が持たれ、食事をしながらゲームをして
楽しいひと時を過ごしました。
美竹教会のホームページです。 神さまに守られて生きる幸せをあなたもご一緒に!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする