今日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」27章45節~58節
タイトルは「この人こそ神」でした。
******************************************
イエスはその日の朝、9時頃十字架につけられた。
昼の12時に全地は暗くなり、それが三時頃まで続いた。
イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた。
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエスは大声をだして息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。
十字架の側で百人隊長はこれらのことを見て「本当に、このひとは神の子だった」と言った。
夕方になるとアリマタヤ出身のヨセフと言う金持ちの弟子が来て、イエスの遺体を渡してくれるよう、
ピラトに願い出て、ピラトは渡すようにと命じた。
*********************************************
主の最期の光景です。
二千年過ぎた今でも鮮烈な、イエスの生の御言葉が述べられています。
イエスは絶望と落胆の内に、挫折の断末魔の叫びをあげたのでしょうか。
これまでの預言者や殉教者は皆、神を賛美しながら死んで行ったのに、何故イエスは違ったのでしょうか。
「わが神、わが神」と呼びかけるこの言葉は決して絶望を意味するのではありません。
同じ呼びかけ「わたしの神よ、わたしの神よ なぜ私をお見捨てになるのか」で始まる詩篇22編が
神への賛美で終わっているのを読むとわかります。
イエスはこの詩篇のように唱えたかったのだと思います。
世俗的な見方からすれば、イエスは神に見捨てられ死を与えられたのは事実です。
しかし、イエスを側で見た百人隊長は「この人は神の子であった」と言いました。
これは信仰告白です。
最初の教会の信仰告白ともいえます。
教会はその後二千年にわたってこの告白をし続けました。
「真(まこと)の人」イエスが何故見捨てられたのか
「真の人」とは、真理に適った人とか理想的な人の意味ではなく、神の前の真の人とは神のみを信じ、
神にのみ依り頼む人です。
つまり誰よりも弱い人なのです。
祭司や民衆は「彼は他人を救ったのに自分は救えない。イスラエルの王なら十字架から降りろ」と
言いましたが、イエスはそうしませんでした。
神が造られた時の人間、原罪を犯す前の人間(真の人)は自分が殺されないために相手を殺すような
ことはしなかったはずです。
殺し合うということは無かったのではないでしょうか。
イエスは神が造られた本来の人間だった、神にのみ依り頼む、本当に神の子だったのです。
十字架の出来事を他人の出来事として見る限り、主イエスと他人同士の関係を捨て自分の者として
受け入れない限り、ここは理解できません。
わたし達人間が十字架につけたのではなく、神がイエスを十字架につけられたのです。
(参照 : 「コリントの信徒への手紙二」 5章21節
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。)
イエスが息を引き取られた午後三時にエルサレムの神殿の幕が裂けたということは
神と私たちを隔てる壁が取り払われたことを意味します。
(参照 : 「ヘブライ人への手紙」4章26節
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に
近づこうではありませんか。)
神殿の幕が裂け、神と私たちの隔てがとり去られたのですから、これから後は私たちは
神に大胆に近づくことができるのです。
自分の故郷を天に持つことができるのです。
(以上、文責はゆうゆうにあります。今日の要約は一段と難しく上手く纏りませんでした m(_ _)m )
<辛夷(こぶし)>
今日は嬉しいこと!に、礼拝に新しい方が見えましたよ!
礼拝に出て祈り、讃美歌を歌い、聖書の説明かしをお聴きすると何故か元気がでます。
あなたもご一緒にいかがですか。
美竹教会のホームページです、ご覧ください。
タイトルは「この人こそ神」でした。
******************************************
イエスはその日の朝、9時頃十字架につけられた。
昼の12時に全地は暗くなり、それが三時頃まで続いた。
イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた。
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエスは大声をだして息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。
十字架の側で百人隊長はこれらのことを見て「本当に、このひとは神の子だった」と言った。
夕方になるとアリマタヤ出身のヨセフと言う金持ちの弟子が来て、イエスの遺体を渡してくれるよう、
ピラトに願い出て、ピラトは渡すようにと命じた。
*********************************************
主の最期の光景です。
二千年過ぎた今でも鮮烈な、イエスの生の御言葉が述べられています。
イエスは絶望と落胆の内に、挫折の断末魔の叫びをあげたのでしょうか。
これまでの預言者や殉教者は皆、神を賛美しながら死んで行ったのに、何故イエスは違ったのでしょうか。
「わが神、わが神」と呼びかけるこの言葉は決して絶望を意味するのではありません。
同じ呼びかけ「わたしの神よ、わたしの神よ なぜ私をお見捨てになるのか」で始まる詩篇22編が
神への賛美で終わっているのを読むとわかります。
イエスはこの詩篇のように唱えたかったのだと思います。
世俗的な見方からすれば、イエスは神に見捨てられ死を与えられたのは事実です。
しかし、イエスを側で見た百人隊長は「この人は神の子であった」と言いました。
これは信仰告白です。
最初の教会の信仰告白ともいえます。
教会はその後二千年にわたってこの告白をし続けました。
「真(まこと)の人」イエスが何故見捨てられたのか
「真の人」とは、真理に適った人とか理想的な人の意味ではなく、神の前の真の人とは神のみを信じ、
神にのみ依り頼む人です。
つまり誰よりも弱い人なのです。
祭司や民衆は「彼は他人を救ったのに自分は救えない。イスラエルの王なら十字架から降りろ」と
言いましたが、イエスはそうしませんでした。
神が造られた時の人間、原罪を犯す前の人間(真の人)は自分が殺されないために相手を殺すような
ことはしなかったはずです。
殺し合うということは無かったのではないでしょうか。
イエスは神が造られた本来の人間だった、神にのみ依り頼む、本当に神の子だったのです。
十字架の出来事を他人の出来事として見る限り、主イエスと他人同士の関係を捨て自分の者として
受け入れない限り、ここは理解できません。
わたし達人間が十字架につけたのではなく、神がイエスを十字架につけられたのです。
(参照 : 「コリントの信徒への手紙二」 5章21節
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。)
イエスが息を引き取られた午後三時にエルサレムの神殿の幕が裂けたということは
神と私たちを隔てる壁が取り払われたことを意味します。
(参照 : 「ヘブライ人への手紙」4章26節
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に
近づこうではありませんか。)
神殿の幕が裂け、神と私たちの隔てがとり去られたのですから、これから後は私たちは
神に大胆に近づくことができるのです。
自分の故郷を天に持つことができるのです。
(以上、文責はゆうゆうにあります。今日の要約は一段と難しく上手く纏りませんでした m(_ _)m )
<辛夷(こぶし)>
今日は嬉しいこと!に、礼拝に新しい方が見えましたよ!
礼拝に出て祈り、讃美歌を歌い、聖書の説明かしをお聴きすると何故か元気がでます。
あなたもご一緒にいかがですか。
美竹教会のホームページです、ご覧ください。