YS Journal アメリカからの雑感

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500円玉一枚の香典

2011-02-26 11:52:19 | 非常に個人的な昔話
実家を飛び出した形になっていたのだが、父親の葬式(もう18年前)では、長男という事で喪主を務めさせていただいた。親戚や近所の人が、全ての手筈を整えて貰っており、自分でやる事は殆ど無いのだが、叔父さんに香典のまとめは喪主の仕事だと言われ、頂いた香典の会計を行った。(年の離れた従兄弟は、香典は預かりものだと言っていたのが印象に残っている。自分の手でお返し出来そうないのが、心苦しく)

その中に、名古屋から郵送されたものがあり、500円玉が一枚入っていた。名前に見覚えが無く、母親に尋ねた所、昔、近所に住んでいて、野村ダム建設で立ち退きさせられた中の一人で、こどもの所に身を寄せている人だと聞いた。お札ではない香典にちょっとビックリしたのだが、父の死を悼む気持がうれしかった。

父親とはキチンと話をした記憶が無い。反りが合わないと勝手思い込んでいた。戦後の混乱で地元の農業学校を中退だったし、本を読んでいる姿をみた事も無い。田舎者だと馬鹿にさえしていた。

死んだからと言って急に尊敬するとかという殊勝な気持はないのだが、百姓の長男として生まれた事をキチンと受け入れて、淡々と生きた父の人生を思うと、いつもわがままし放題であった自分の幸運が奇跡の様に思えてくる。又、それを許してくれた父を思うと何とも言えない複雑な心境となる。軍国主義の最中に育ちながら年が足りなく軍人になれず、農地改革で生まれた土地を離れ、野村ダムの建設で再び慣れた土地を離れなくてはならなかった事を思うと、本当に昭和という時代に翻弄された感じがある。

喧嘩どころか、怒られた記憶すら無いのに、とにかく怖かった。死ぬまで怖かった。どこへ行っても、誰に対しても、結構物怖じしない方なのだが、父の前に出ると、兎に角、怖がっている感じがありありと出てしまう私が、家内は可笑しくて仕方なかったらしい。

今でも、田舎に帰ると親戚や近所の人が優しくしてくれるのは、親父の遺産だと思っている。本当に感謝している。私が小さい頃に一緒に写っている写真には、男前で、素敵な笑顔の親父がいるのだが、そんな笑顔が記憶に無い。私は、つくづく親不孝ものである。