YS Journal アメリカからの雑感

政治、経済、手当たり次第、そしてゴルフ

リーダーは正しくなくてはならない

2011-02-16 00:17:25 | 雑記
MBA の授業のなかで、本質的に一番苦労したのは、組織論におけるリーダーシップであろう。リーダーをビジネス社会の中で狭義に捉える事に違和感があり、非常に矮小された特殊な形で理解される事を強いられるのを、本能的(?)な拒絶反応があった。

特にビジネスの社会では割と気軽に理解されていて、例えば、南カルフォルニア大学リーダーシップ研究所ウォーレン・ベニス所長は、マネージャーとの対比としてリーダーを定義しようとしている。(ネットで調べてたら、分かり易いのが見つかった)

1、マネージャーは「管理」し、リーダーは「革新」する。
2、マネージャーは 前例の「模倣」で、リーダーは常に自らが「オリジナル」である。
3、マネージャーは「維持」し、リーダーは「発展」させる。
4、マネージャーは「秩序に準拠」し、リーダーは「秩序を創り出す」。
5、マネージャーは「短期的視点」を持ち、リーダーは「長期的な見通しを持つ」。
6、マネージャーは「いつ、どのように」を、リーダーは「何を、なぜを」問う。
7、マネージャーは「損得」に、リーダーは「可能性」に目を向ける。
8、マネージャーは 現状を「受け入れ」、リーダーは現状に「挑戦」する。
9、マネージャーは「規則や常識通り」に行動し、リーダーは最善の結果の為なら、「規則を破ることも辞さない」。
10、マネージャーは「能吏」であり、リーダーは「高潔な人格」が求められる。高潔な人格は、信頼の基礎。中身は「自己認識・誠実・成熟」。

追加で、こんなのも。
マネージャーは部下を「使い」、リーダーは部下を「育てる」。
平時のリーダーは「After you」と部下のマネージャーに任せ、有事には「Follow me」と自ら先頭に立ち部下を指揮する。


その他いろいろあると思うが、これらをみても、リーダーを定義するものは、心掛ける事は出来るが、スキルとしても後天的に得られ事は難しい類いの物ばかりである。

なぜ、リーダーシップの授業で苦労したかは、当時もぼんやり分かっていた。アメリカ人、それも女性の教官は、リーダーシップを教えているので同然であるが、リーダーシップとは理解が可能で、心掛ける事で、スキルとして取得出来、実践出来ると考えているおり、凡庸なちょっと古臭い日本人的(?)な私は、リーダーは生まれつきのもので、後天的には得られないものであると考えから抜け出せなかった。どうしても違和感がつきまとい、危うく落第するところであった。

真のリーダーシップは、真のリーダーからしか生まれないとの考えは、自分にとっては信仰に近いものがあり、リーダーシップ論は、マネジャーの役割の拡大解釈しかないと思ってしまうのだ。

人間の才能と努力については、非常に広く深い話題なので、いろんな考察があるのだが、今後自分なりに考えを深めていく一里塚になる様に、今の時点で
考えている事を書いておこうと思う。

リーダーシ(そしてリーダーシップも)は才能であり、その才能は生まれつきのものだと考えている。

才能が生まれつきであると言う事について、一番分かりやすいのは、才能が剥き出しになるアスリートとスポーツやゲームの関係を考える事であろう。

競技が単純になればなるほど、才能が輝く。100 メートルを10秒を切って走る事が出来る人は、世界に一握りしか存在せず、才能は誰がみてもハッキリ分かる。

競技が複雑になるに連れ、純粋な運動神経とは別の要素が大きくなる。野球は相手が居るので別の要素が入るが、投手を考えた場合でも、時速140キロ以上の速球が投げれ無ければ、先ず、日本でもプロの投手になるのは難しいであろう。速い球を投げれるのは、特殊な才能である。ただ、変化球を投げれると言う後天的なスキルがないと投手としては役立たずであり、才能だけでは勝負出来ない。

いろんなスキルが要求されるもっと複雑なゴルフでは、いろんな体型や幅広い年齢の人が一流となれるが、遠くに飛ばせるという希有な才能がある人が圧倒的に有利なのは明らかであるし、超一流の人のゴルファーは、例外無く飛距離がある。(ニクラウス、ウッズ、ジャンボ尾崎、青木、石川遼(?))

つまり、人間の究極の凌ぎ合いは、溢れるばかりの才能があるひとが、凄まじい努力をするという修羅場なのである。これらのアスリートの才能を疑う人は1人もいないであろし、平均的な運動能力の人をスーパースターに出来ると考える人は、先ずいないであろう。

ビジネスとか社会は、ゴルフを何倍も難しくした上に、対人関係(当たり前だが)のある複雑なスポーツに例えられるのではないか?複雑さの故に、後天的に獲得出来るスキルが多い方が、希望(?)があるのだが、やっぱり、才能の有無、大きさが決定的な意味を持つと思う。

スポーツでは当たり前の様に考慮される才能が、ビジネスや社会の中では、急にタブー視される様に思えてならない。リーダーを目指す人が皆スーパースターを目指す訳ではないだろうが、有る分野(スポーツだと野球と言う狭い分野)で第一人者になる事がどれだけ難しいか分かるだろう。

では、速く走る、速い球が投げれる、ボールを遠くまで飛ばせるに相当する、社会一般やビジネスにおけるリーダーの才能とはとは何ぞやという事になるのだが、一言で言うと、
「正しい事」だと思う。

「正しい事」とはと何ぞやと言われると、過去の理解、未来の見通し、現在やらなくてはならない事も、全てにおいて、自分の判断があり、それが全て正しいのである。人間は神様では無いので、全て正しい事は有り得ないのだが、間違っていても「正しく」なくてはならないのである。(これ言っている私本人も説明不可能気味なのですが、何と無くニュアンスを理解していただけれと幸いです)

「正しさ」を他の人に理解してもらうために、スキルや方法論などがあると思うのだが、これこそ雲を掴む様な事を、情報、知性、学問を導入して形にするのである。

ビジネスの話に戻ると、目標達成や今後の発展のために行う事は、正しく将来を見通す事に他ならないのだが、これが出来るのは、リーダーにしか出来ない事なのである。事象が複雑なが故に、情報、知性、学問と言った普通の人に分かるための高度な仕掛けが編み出されていたのであろう。

付け入る隙が一杯あるので、参謀、側近、コンサルティング会社などの存在価値がある。松下幸之助などは、このようにして編み出された反対意見を、自分が正しいと思ってやる事の補強材料にしたりしており、才能あふれる天才なのだと思う。

但し、企業のトップ(企業におけるリーダー)を選ぶという事に関しては、トップが才能をある人を選ぶというシステムが、そこはかとなく確立している様に思う。才能ある人が才能あると思うという好循環だと良いが、トップに才能が無く、才能が無い人を選んでしまう悪循環もある。

社会やビジネスは、常に競技自体の本質やルールがころころ変わる複雑なゲームであり、体験的な成功の二番煎じや、有るゲームで才能を発揮した人が、次のゲームでの才能があるとは限らない。マイケル・ジョーダンが、ゴルフでは泡沫プロにさえなれない事を思い浮かべれば、納得出来るだろう。(ゴルフプロになろうとしているのは、彼だけではなく、テニスのイワン・レンドルや野球で殿堂入りしているジョニー・ベンチなどもいる)

与えられた状況で、才能、つまりリーダーを見極める事が出来るかというと、これ又難しいと思う。つまり、その人の才能とその上に気付き上げられた努力が、時とマッチしなければならないからである。よって、常に普通の人は、リーダーを渇望しながら、リーダーを見極める事が出来ず、リーダーの才能を持った人の殆どは、ミスマッチの中で埋もれてしまっているのである。

ゆえに、リーダーシップは、スキルや心がけといった矮小した形でしか、世間での理解が得れないのである。


いつも楽しみに読んでいる Lilac さんのブログ、My Life After MIT Sloan のエントリー『リーダーがチームの力を活かして育てるためにやるべき5つのこと』に刺激されて、考えていた事が少しまとまり、少し深くなりました。感謝!!

私が書いた事は、実用的に全く役に立ちそうに無いのが我ながら残念ではあるが、人の才能とかリーダーの資質とかを考えるヒントになればと思っている。(これも自惚れ過ぎか)