(その1)から続きです。
津島神社を御参りしたのち、再び佐屋街道に戻りました。浄土宗清光院の所に「津島の一里塚」がありました。
このあたりに「埋田(うめだ)の追分道標」があるはずなんですが、一寸探すが見つからない。幸楽苑という中華そば屋さんの裏手を行くとありました!
道標には、「右 つしまみち 左 さやみち」と書かれています。その先には、常夜燈がありまた先には土台だけのものがあります。
ここには、津島神社の一の鳥居がありましたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒れたそうです。
この一帯、江戸時代の終わり頃には、茶店などもあり通る人々で賑わい、大正時代までは松並木が続いていました。
今は、耕地整理や新しい町づくりで道筋も変わっています。
先へ進みます。日光川架かる「日光橋」に差し掛かりました。尾張名所図会では、「頗(すこぶ)る大河にして佐屋街道には大橋を架す。下流に百町、鹿伏兎、観音寺、大海用等の渡船あり」と書かれています。
津島市のマンホールです。津島神社の天王祭まきわら舟と市の花「藤」がデザインされています。津島市は藤の花の名所としても知られています。
越津町の信号の所で道を間違えてしまいました。ここは道が二手に分かれており間違えて県道68号の方に行ってしまいました。
神守(かもり)町下町の信号で気づき佐屋街道に戻りました。
万場宿と佐屋宿との間があまりに長かった為、正保4年(1647)に神守の宿が定められました。憶感神社を中心に宿屋・商家が建ち並び近くの村々の手助けによって宿駅の役割を果たしていました。
神守宿は、本陣1、旅籠12でした。神守という地名から想像すると神社の仕事をされてた人々の集まりしょうか?ここで言う神社は、津島神社かな?
神守町信号の手前に「神守の一里塚」があります。また、この一帯は、海抜-1mの地帯で海よりも低い所です。
「莪原(ばいはら)」というバス停がありました。莪という字が読みにくいです。難解地名にあげられますね。調べてみると莪は、きつねあざみ、つのよもぎなど湿地に自生し、若葉を食用とする。
と書いてます。薬草でしょうか。
街道はあま市七宝町に入りました。下田橋を通り、あま市役所七宝支所の近くに「七宝焼原産地」の道標があります。
あま市の七宝焼は、天保年間(1830~1844年)、尾張国の梶常吉が、オランダ船により輸入された七宝の皿を手がかりにその製法を発見し、改良を加えたのが始まりとされています。
ここから約600m先の遠島で現在でも約10軒の業者が七宝焼に携わっているそうです。
大治(おおはる)町に入りました。ここは、海部郡大治町ですが、マンホールは、名古屋市のマンホール採用されています。
富田町に入りました。ここから名古屋市中川区になります。
八剣社を通ると「万場宿」です。万場宿は、万場の渡しをはさみ、岩塚宿と向き合って寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれました。
この両宿場は近距離にあるため、制度上は、一宿と見なされ、月の上半分を万場宿が、下半分を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。
明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。天保年間の規模は、家屋160軒、人口672人、問屋場1、町並6町10間、本陣1、旅籠10。
庄内川に架かる万場大橋を通り、「岩塚宿」に入ります。
岩塚宿は、天保年間の規模は、家屋212、人口1038人、問屋場1、町並4丁9間、本陣1、旅籠7でした。
ですが、宿場の跡は残ってなく、近所の人に聞くと、本陣は、八幡宮横にあったそうです。
神社の横に行くと「岩塚綱次郎先生之碑」が建っていました。説明文は消えており、ネットで調べてもわかりません。この方が岩塚宿に関わっていたのではないでしょうか?
時計も4時半を過ぎました。あたりはだんだん暗くなってきました。ちょっと急ぎます。
長良橋を渡ると「二女子」とか「五女子(ごにょうし)」という地名があります。かつては一女子から七女子まで村があったそうです。由来は、昔ある尾張の豪族に七人の娘がおり、
その娘を七つの村にお嫁に出しそこを領地としたことから村の名が変えられたとのことです。
新幹線のガードを通り、17:45金山総合駅に到着。時間も遅いし今日はここまでとします。
金山駅からJRで今夜の宿泊ホテルがある名古屋駅に向かいました。
名古屋といえば名古屋メシ・・・・・今晩は、みそカツをいただきました。
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