よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

佐屋街道を歩く(その1)(愛知県愛西市~愛知県津島市)

2017-01-08 15:06:34 | 佐屋街道

2017年新年あけましておめでとうございます。

1/3~1/7まで今年の初歩きとして東海道脇街道「佐屋街道」と東海道「宮宿」~「吉田宿」を歩きました。

佐屋街道

東海道の宮(熱田)宿と桑名宿との間は、伊勢湾を海路で行く七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もありました。

そのため佐屋街道は、船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されました。

佐屋街道は、三重県桑名から三里の渡しで佐屋湊に着きそれから陸路、神守、万場、岩塚を通り宮宿に向かいました。

博多を6:05の始発の新幹線で名古屋に行き、名古屋から名鉄尾西線に乗り換え佐屋駅へ。佐屋駅には10:20到着。

準備を整え、10:30から歩き出します。 

   

   

新田交差点を左折し、しばらく歩くと「佐屋代官所跡」「佐屋舟場跡」の碑があります。

案内板には、「佐屋はその昔、慶長20年4月家康が大坂夏の陣にここから船出し、大勝した徳川方吉祥の地である。藩祖義直もこの事を嘉し寛永11年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、

更に承応2年船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるに至った。そのため元禄8年奉行所が、ついで天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、

海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄、寛永文久と、二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。

その後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物もそれを知る人もない。」

  

佐屋川が埋め立てられ、今、現在この地に立つと昔は湊町だったとはとても思えません。

往時、佐屋には、本陣2、脇本陣1、旅籠31もあり、大きな宿場町でした。町を歩くと、所々に旧家が建ち並んでいます。

   

内佐屋信号の手前には、「佐屋海道址」の碑が建っています。いままで佐屋街道と思っていましたが、石碑には、「佐屋海道」と書いてます。

西愛宕の信号の所が、愛西市と津島市の境界線。佐屋街道は、ここから津島市に入ります。

   

西愛宕信号から路地に入ると右角に「愛宕神社」があります。境内に入ってみますが、参拝客が少ない。このあたりの人は、初詣は「津島神社」に行くのかな・・・・・・

そう思い、私達も津島神社に行ってみることにしました。津島市民病院の先から右に約1,5kmが津島神社です。

津島神社参宮道の所にお饅頭やさんがあり、ここの「やき大福」が美味しそうでしたので買ってみました。ちょっと小腹がすいていましたので美味しくいただきました。

  

津島神社参宮道を通ると、「津島湊」の碑があります。それによると、

津島湊は、天王川の上流は、萩原川・渕高川と呼ばれ、約五百年前、この辺りは三百メートルほどの広さの川幅であった。津島神社参詣の人々のために天王橋(幅三間・長さ七二間)が架けられ、

その両岸には数千軒の町屋が並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。津島湊はこの一帯で広さ五~六ヘクタールに及ぶ当地方随一の湊町・門前町として頗る繁昌した。

商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定・信秀と次第に勢力を広め、信長は天下布武をとなえ天下統一の基礎を築いた。信長は天王橋から津島天王祭を見物した。また、江戸時代になると、

代々の殿様も見物に訪れて、たいへんなにぎわいであったという。天王川は、天明五年(1785)に水害防止のためここでしめ切られ埋立地に町ができた

  

津島神社正門の横には、「堀田家住宅」があります。

堀田家は津島神社の神官に連なる家系で、初代之理(ゆきまさ)が福島正則に仕えた後、正則が広島へ国替えとなった際に帰郷し、祢宜町に家を構えたという。

近世に入り酒造業、金融業や新田開発を営んで財をなし、尾張藩の寺社奉行所御用達(ごようたし)を勤め名字帯刀を許されていた。屋敷は、居室・台所・座敷を設ける主屋と、茶室、土蔵群からなる。

最も古い主屋居室部は前身建物の材を用いた明和2年(1765)の建造、座敷部は明和7年(1770)の建造であることが棟札に記される。台所部は19世紀の増築という。

都市計画道路拡幅のために方位を45度北に振って曳屋され、現在はほぼ北を正面としている。

  

津島神社

御祭神は、天照大神の弟、「建速須佐之男命」

社伝によると、 欽明天皇元年(540)、西国対馬より大神が御鎮座されたのが始まりとされ、古くより「津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)」と言われ、全国天王総本社として凡そ三千社の御分社があり、

現在でも「津島の天王様」として尊称崇拝されています。

  

まだお正月も3日ということで境内には、参拝する方で一杯です。本殿で御参りしようと思ったのですが、長い列ができており、諦めました。

本殿は家康の四男清州城主松平忠吉の妻女が寄進しました。また楼門は、天正19年(1591)秀吉が寄進しています。どちらも国の文化財に指定されています。

 

    

尚、津島神社の「天王祭り」は、昨年のユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」で他の候補と一緒に登録されました。