よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№17(その1)「有松~池鯉鮒宿」(名古屋市南区~愛知県知立市)

2017-01-13 16:36:49 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/5(木) 今日もいい天気です。7時半にホテルを出て名鉄で前日ゴールの有松駅へ。8時よりウオーキング開始。

大将ヶ原の交差点から「豊明市」です。豊明市のマンホールは、「桶狭間古戦場」をデザインしています・。

    

さて、その桶狭間古戦場ですが、中京競馬場前の所から少し入った病院の前にあります。有松の方でもこの古戦場がありましたので、桶狭間の戦いは広範囲で行われたのでしょう。

一応、有松は「桶狭間古戦場」、豊明は、「桶狭間古戦場伝説地」と区別しています。

ですが、ここにも今川義元の戦死場所がありました。また、今年の大河ドラマ「女城主 井伊直虎」の父、井伊直盛もこの戦で亡くなっています。

  

  

  

街道に戻ります。1号線中京競馬場の信号を斜め右に行き、旧道に出ます。

  

五軒屋バス停の所から1号線を横切った所に「戦人塚」があります。ここの坂道はちょっと急です。何度か立ち止まろうかと思いましたが、私もウオーカーの端くれ、何とか休まず来れました。

戦人塚」は、桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世快翁龍喜和尚が明窓に命じ埋葬供養した塚で、石碑は元文4年(1739)180回忌の供養祭に建碑されたものです。

  

  

街道に戻ります。池下信号の近くに「阿野一里塚」があります。愛知県には、18の一里塚があって現存するのは4か所。そのうち道の左右に残っているのは、この阿野一里塚と知立市のみです。

1号線の標識には、345の数字が見えます。日本橋まであと、345kmです。長いな~

   

 

豊明駅を過ぎると何か、焼きたてのパンの匂いがしてきます。匂いにつられて入って行きたい気分です。どこか、パン屋さんがあるのかな?と探しますがそれらしい所はありません。

境川にかかる「境橋」に来ました。この橋が、尾張国と三河国の境です。橋を渡ると。「刈谷市」です。

  

橋を渡ると左手に大きな工場があります。地図を見ると「敷島パン」とありますが、工場には「Pasco」。このPascoは、「パン敷島コーポレーション」という意味で関東、東海方面に売られているパン屋です。

九州ではあまり見かけませんが、ウオーキング大会などで関東に遠征するとコンビニなどで売られています。

豊明駅で匂っていたパンは、このPascoだったのですね。

   

刈谷市内の旧東海道を歩いているとお寺が多く眼につきます。

   

「いもかわうどん発祥の地」の碑がありました。江戸時代の東海道紀行文に「いも川うどん」の記事が良く出てきます。この名物うどんは、「平うどん」でこれが関東に伝わり「ひもかわうどん」として現代に残り、

今でも東京では、うどんのことを「ひもかわ」と呼んでいます。私もひもかわというと、群馬県をイメージしていました。

    

一里山町新屋敷の信号から知立市です。昔は、ここに一里塚があったそうです。知立市のマンホールは、伊勢物語の一部を引用しています。

頭文字を並べると「か・き・つ・ば・た」になります。カキツバタが知立市の花になっています。

逢妻橋にやってきました。逢妻川というと、「八橋」ですね。知立市の昔話には、「八橋」があります。

むかし、野路の宿に、名前を羽田玄喜という医師が、この地の荘司(荘園の役人)の娘である妻と、二人の男の子と楽しく暮らしておりました。しかし、父親の玄喜は、若くしてなくなってしまい、

家はだんだんに貧しくなっていきました。母は二人の子どもを育てるため、山に行ってたき木を拾ったり、浦(今の逢妻川は海に続き、浦になっていた)に出て海草をとったりして、苦労しながらも、

子どもの成長を楽しみに暮らしておりました。兄は八歳、弟は五歳になっていました。

ある日のこと、母親は二人の子どもに、「よい子だから、母さんが帰るまでおとなしく留守番をして、待ってておくれ。」といいきかせて、この浦にのりをとりにでかけました。

二人の子どもは、初めのうちはおとなしく家でまっていましたが、そのうちに母がこいしくなり、川辺まできました。向こう岸で一生懸命のりをとっている母の姿をみつけると

「おかあさん、おかあさん。」といいながらかけよろうとして、あやまって川の深みに落ちてしまいました。あっと言う間のできごとです。

目の前で水におぼれて流されて行く二人のわが子を見て、母は気も狂わんばかり。なんとかして子どもを助けようとしましたが、そのかいもなく、とうとう二人のこどもを見失ってしまいました。

母親の悲しみといったら、たとえようがありません。母は無量寿寺に入り、髪をおろして、師孝尼という名の尼さんになりました。

朝夕仏に仕え、二人の子どものめいふくを祈り続けました。そして、「この川に橋さえあれば、子どもがおぼれることもなかったろうに、また、村の人たちも安心して、川を渡ることができるのではないか」と思い、

観音様の本尊に祈願をこめ、「どうかこの川に橋をかけることができますように」と、一心に祈りました。

ある夜のことです。

「彼の浦へ行けば、材木がたくさん岸べに打ち寄せられている。それを使って橋をかけるがよい。」と、夢のお告げがありました。

師孝尼は喜んで、浦へ行ってみますと、お告げどおりたくさんの材木がありました。

その材木で、橋を渡そうとしましたが、この川は、流れがいくすじにも、くもの手のようになっていて、まっすぐの一本の橋をかけることはとても無理でした。しかしたがいちがいに板を渡して、

どうにか向こう岸にとどく八つの橋ができあがりました。

それからは、村人たちも、楽に向こう岸に行くことができるようになり、橋の数にちなんで、この地を八橋と名づけました。仁明天皇の時代、承和九年(八四二)五月のことです。

の後、師孝尼は、この川のほとりに咲くかきつばたの花を、なき子の供養の花と思いますます信心を深めたということです。

現在、その二人の子の供養塔は、無量寿寺の境内に、師孝尼の供養塔は、在原寺の境内にひっそりと建っています。(知立市HP 知立の地名の由来より)

 

 

  

   

街道を歩いていると右側に「総持寺」があります。大きな龍宮門が眼に入ります。ここは、徳川家康側室「於萬の方」様が誕生された所です。

碑には、徳川秀康の母、於萬と書かれています。於萬は、池鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘です。

 

総持寺を左に入ると、「知立神社」です。池鯉鮒大明神と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社で、社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。

祭神は、鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと) - 主神。(神武天皇の父)

境内に建てられている「多宝塔」は、国の重要文化財であり、古額、舞楽面、能面等は県指定に、獅子頭面他9点は市指定の文化財になっています。

例祭であります「知立まつり」は毎年5月2日・3日に行われていて、隔年で開催される本祭(ほんまつり)の山車5台は絢爛目を奪うばかりです。

この時上演される人形浄瑠璃芝居の「山車文楽」と「からくり」は、ともに国指定重要無形民俗文化財として伝統ある民俗芸能を今に伝えています。昨年12月ユネスコ無形文化遺産に登録になりました。

  

 

 

  

街道に戻ります。知立公園には知立城址があります。知立城は長く知立神社の神官を勤めた永見氏の居館として築かれたのが始まりとされます。

永見氏は平安時代末期には後白河院配下の武士として頭角をあらわし、戦国時代に徳川家康の側室於万の方(長勝院)を輩出し、子供である結城秀康は福井藩(福井県福井市)62万石の大大名になっています。

永見氏は刈谷城(愛知県刈谷市)の水野氏や岡崎城(愛知県岡崎市)の松平清康、駿府城(静岡県静岡市)らに従いましたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、

織田軍が当地まで進軍し敢え無く知立城は落城しています。その後、織田信長に従った水野忠重が知立城を接収し、天正年間(1573~92)に信長に対しての迎賓館的な施設を設けました。

寛永年間(1624~43)には将軍上洛時の宿泊施設として増改築が行われましたが、元禄の地震により大破しています。 (知立ナビより)

  

知立祭りに使う「山車」の格納庫があります。1/3から愛知県を歩いていますが、愛知県のお祭りの山車には、からくり人形や文楽などがあり、見る人を楽しませています。

一度お祭りの時に来てみたいですね。

   

池鯉鮒宿は、江戸時代、知立神社の御手洗池には多くの鯉、鮒がおり、池鯉鮒宿と名付けられました。本陣1、脇本陣1、旅籠35、人口1620人の宿場でした。本陣跡は、歩道橋のそばにありました。

  

お昼に近づきましたが、近くに食べる所がありません。まだお正月休みかな?

食べる所が見つかるまでもう少し歩きたいと思います。

    

 

(つづく)