よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№20 「御油宿~吉田宿」(豊川市~豊橋市)

2017-01-19 14:35:58 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/7(土)今回の東海道歩き最終日。

折角豊橋まで来ましたので街道歩きの前に日本三大稲荷のひとつである「豊川稲荷」に行くことにしました。

JR豊橋駅から飯田線で豊川駅へ。豊川駅から豊川稲荷まで徒歩3分。

  

豊川稲荷は、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院です。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、

一般には「豊川稲荷」の名で広く知られています。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っています。また、日本三大稲荷の1つとされています。

 

総門を潜り左に行くと、狐様が迎えてくれます。(ちょっと怖い顔をされています) 今日は土曜日ですが、朝早い為、参拝の方もまばらです。お正月3が日は、賑わったでしょうね。

  

参拝を終え、「狐塚」に向かいます。

 

たくさんの狐様の数。神聖な世界。何かパワーが宿っているみたいです。

  

御朱印をもらい、名鉄豊川稲荷駅から昨日のゴール地「御油」に向かいます。

 

 国府(こう)駅で御油方面の普通電車に乗り換えようとしましたが、待ち時間が20分以上あるため、国府(こう)駅から御油に向けて歩きました。※国府と書いて「こう」と読みます。ちょっと難解ですね。

 

行力信号の近くには、「姫街道追分」があります。

姫街道は、磐田市の見附宿から愛知県の御油宿までの十五里四町(約60km)の距離で、江戸時代、 東海道の新居宿が、江戸から下る女性に対して、厳しい取調を行ったので、

それを避ける女性がこの道を利用したことから、この名前が付いたといわれています。見附宿で再び東海道に合流します。

その横には、「国幣小社砥鹿神社道」、「秋葉山三尺坊大権現道」の石碑も立っています。砥石神社は、平安時代初めころから、三河国の神社では筆頭格の扱いを受けています。

やがて「三河国一宮」として記録に登場するようになり、これが一宮町の名前の由来にもなっています。(名鉄豊川稲荷駅の次の駅)

家運隆昌、交通安全、厄難消除の御神徳で東海の総鎮守砥鹿神社は大己貴命(おおなむちのみこと)大国さまを祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各方面から篤い崇敬をいただいています。

秋葉山三尺坊大権現は、浜松天竜区にある秋葉神社でしょうか?

 

信用金庫駐車場の端には、「御油の一里塚」があります。江戸まで76里(約298km)。

その先が、「大社神社」。社伝によれば、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、

合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。

社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、

神社造営をしたものと考えられます。

当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。

また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となりました。

「大社」という名前から、出雲大社の大国主命を勧請したのですね。なるほど。

  

「八平次記念館 八の蔵」があります。古民家を利用したレンタルライブハウスみたいです。詳しいことは、わかりませんでした。

 

国府駅前に通じる新栄2丁目を過ぎると、「薬師瑠璃光如来」があります。母の死を嘆く娘に行基が仏像を刻んで提供すると、娘は寺を建立したそうです。

その少し先には、秋葉神社の常夜燈があります。

  

街道は、国府高校の所で1号線と合流。白鳥橋を渡ると斜め右へ。しばらく歩くと「伊奈町」に入ります。

太鼓屋さんの横に「伊奈の一里塚」があります。

  

伊奈村立場茶屋跡加藤家」(茶屋本陣跡) 芭蕉の句碑もあります。説明文を見ると、

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので茶屋の地名ができた。
二 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇はこの加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい、芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作。「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」           小板井教育委員会

  

街道は、小坂井町に来ました。「莵足(うたり)神社」があります。

7世紀後半頃に建てられたといわれる菟足神社は菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。

風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。

また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,梵鐘(ぼんしょう)は県の有形文化財に指定されています。(豊川観光協会HPより)

風祭りは、毎年4月第2土、日に行われますが、手筒花火も行われることで有名です。

  

豊川放水路です。ここを渡ると豊橋市になります。豊川は、洪水に悩まされましたが、昭和40年(1965)豊川放水路が完成しました。

  

豊橋市に入るとすぐ右側に「豊橋魚市場」があります。今日は、土曜日ですので閉まっているみたいです。

 

更に進むと、国指定史跡「瓜郷(うりごう)遺跡」があります。

この遺跡は、弥生時代に属する土器、石器、骨角器、木製の農具などが出土しており、農耕の他に漁撈、狩猟の生活が行われていたことを示しています。

奈良県の唐古遺跡、静岡県の登呂遺跡とともに低地弥生遺跡の一つとして有名です。

  

聖眼寺には、「松葉塚」があります。貞享4年(1687)11月23日、芭蕉が愛弟子杜国の身を心配して渥美郡保見(現渥美町)の里を訪れる途中、当寺に立ち寄り詠んだものといわれている。

左の自然石の方が「古碑松葉塚」と呼ばれ、寛保4年(1744)、芭蕉の没後50周年を記念して建てられたもの。  松葉(ご)を焚(たい)て手ぬくひあぶる寒さ哉

右のものが「再建松葉塚」と呼ばれ、明和6年(1769)に建てられたもの。

  

「豊橋」に来ました。豊川に架かるこの豊橋は、豊橋市の地名にもなった橋です。(江戸時代まで、豊橋は。「吉田」と呼ばれていました。)滋賀・瀬田の唐橋、岡崎の矢作橋とともに東海道三大橋と言われていました。

当時は、吉田大橋と呼ばれていました。広重の「吉田宿」の浮世絵は、この豊橋が描かれています。(お城側から見たもの)

 

橋を渡ると右側に大正年代に造られた「豊橋」の一部が展示されています。

  

豊橋のマンホールです。

一つは、吉田城と手筒花火、一つは、豊橋公会堂と市電、一つは、朝日の中を出航する船と人々と町がデザインされています。

   

船町には、高札場がありました。

  

豊橋市の中心部札木に来ます。

 

吉田宿本陣は、現在鰻屋さんの所にありました。吉田宿は、本陣2、脇本陣1、旅籠65軒。東海道に面した「表町十二町」と「裏町十二町」からなり、東海道の中でも大きな宿場の一つでした。

 

この鰻屋さんには、「べっぴん」語源発祥地の案内板も設置されています。現在NHK朝ドラ「べっぴんさん」が放映されていますが、案内文によると、

明治初期、田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を掲げ鰻を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき、極上品は、「べっぴん」と呼ぶようになって

そのあとの明治中期には、美しい女性「美人」にも使われるようになりました。丸よは、その伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。

  

  

ついでに吉田城に行きました。途中の吉田神社では、「手筒花火発祥の地」の看板があります。

吉田神社の手筒花火は、毎年7月第3金曜日の祇園祭で開催されます。テレビで見たことはありますが、近くで見ると迫力満点でしょうね。

  

吉田城は、永正2年(1505)今川氏の被官であった一色城(豊川市牛久保)の城主牧野古白によって構築され、今橋城と呼ばれていました。以来東三河の要衝でした。

今川、武田、松平(徳川)ら戦国大名の激しい攻防を経て、吉田城と改称されました。

永禄8年(1565)徳川家康は、今川氏の東三河における最大拠点であった吉田城を攻略し、ここに酒井忠次を置きました。

天正18年(1590)豊臣秀吉により、家康が関東移封となってから池田輝政が入城し、15万2000石の城地に相応しい拡張と城下の整備が行われましたが、未完成のまま明治を迎えました。

現在は豊橋公園として整備されています。

  

  

 豊橋公会堂は、昭和6年(1931)建築の半球ドームと鷲がシンボルのロマネスク様式の建物で、国指定登録文化財。完成以来多くの催しが行われ、現在も講演会の開催や式典、舞踊大会、歌謡大会等

幅広く利用されています。過去には太平洋戦争末期に市役所機能が移された時期や、豊橋中央公民館や市民窓口センターとして使用された時期もありました。(豊橋市観光協会HPより)

 

今回の東海道寄り道ウオークは、ここまでとし、市電で豊橋駅に移動しました。お昼がまだでしたので豊橋市B級グルメの「豊橋カレーうどん」を頂きました。

豊橋カレーうどんには、5か条があります。

1.自家製麺をつかうこと。2、器の底からご飯、とろろ、カレーうどんの順に入れる。3、豊橋産うずらの卵使用。4、福神漬、又は壺漬、紅ショウガを添える。5、愛情をもって作る。

食べ方は、1.カレーうどんを普通通りに味わう。2、うどんを食べ終わるとうどんの下からとろろがのった御飯が出てくる。カレーと絡めて二度目の味を楽しむ。

先ず、お箸でうどんを食べ、次にスプーンでご飯を頂きました。何かカレーライスにうどんがのっているという感じでした。これって結構いけます。お薦めです。

  

帰りは、豊橋から新幹線乗換で博多に戻りました。

1/7 御油宿~吉田宿(豊橋)GPS