yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

備後国を訪ねて-番外編  大迫古墳から蛇円山、そして帝釈峡へ思いを馳せての条

2009-07-03 09:57:00 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 葦田駅家を訪ねた後、近くの佐賀田城跡に登った。絶景だった。備後を一望することができた。山頂には毛利が築いたという石垣が見事に残っていた。備後府中に入る最も狭くなった地点の山頂に佐賀田城はある。ただ、とても残念だったのは、広島テレビや中国放送、NHKの電波塔が林立しこの素敵な光景を邪魔していたことだ。高い山なら他にもあるのだから、こんな歴史遺産のど真ん中に建てないでもっと別なところに建てればいいのに!!と強い憤りを覚えながら城内を回った。一刻も早く電波塔を撤去すべし!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ





(本能寺の変が起こらなければこの地をめぐる大戦争があったかも知れないという)



(左手に府中の町並みが一望できる)



(一番奥、濃い緑の尾根が右手へ細く延びているこの先辺りが品治駅家跡だという。)

 品治駅家の探訪の後、この駅家がなぜこの位置にあるかを考えるために周辺の遺跡を少し回ることができた。
 品治駅家の直ぐ北にあるのが県下最大級の後期古墳・二子塚古墳である。今回は残念ながら訪れることができなかったが、伝えられる資料によると、二頭の龍がそれぞれ向かい合って玉を銜えるという特異なスタイルの双龍環頭太刀を出すという。近世にこの地域を潤した服部池の直ぐ南に位置し、大規模な横穴式石室をもつこの古墳が、六世紀末にこの地域を大和王権との深いつながりの中で治めた首長のものであることは疑いなかろう。福山市駅家町二子塚古墳の様子が、福山市のホームページ上で詳しく紹介されている。必見である。

 二子塚古墳の奥にあるのが大迫古墳である。奥壁に巨大な一枚岩を用いる六世紀後半の円墳と推定される古墳である。



(石室は民家の庭先に潜っていっている。)













(古墳の前の畠に咲いていた花)

 大迫古墳を見学した後、さらに奥へ入り、学生の実家を訪れた。大きな門構えを持つ旧家は『倭名抄』の服織(部)郷に当たる福山市駅家町雨木にあった。いろいろお話を伺ううちにこの地域が備後北部から出雲へ抜ける近道だと判った。我が母校の研究財産である帝釈峡も実はこの道から行くと直ぐだと判った。





「なるほど!!」

 思わず手を打った。

 駅家から北に延びるこのルートは遅くとも古墳時代後期には備後北部から出雲へ抜ける重要交通路として王権によって管理された地域だったのではなかろうか。今でこそあまり大きな道はないが、その道は古代にも生きており、ちょうど品治駅家の横を通っていた。だからあの位置に設けられたのだ。そう考えると実に合理的な位置に最明寺後南遺跡はあった。



(こんなものが身近に見られる自然の残る備後路だった。充実した一日を有り難うございました。)

 学生の実家で冷たいお茶と美味しいアイスクリームを頂いて家路を急いだ。実に収穫の多い一日だった。

 有り難うございました。

 間もなく8.6である。ヒロシマではこの日、「核武装」を唱えるとんでもない集会がぶつけられると言う。アメリカ大統領オバマは核兵器廃絶に向けた第一歩を踏み出した。にもかかわらず被爆国日本の自衛隊の元トップがこうした言動を振りまいて国民を再び戦争の道に導こうとしている。とてもとても悲しく、恥ずかしいことである!
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 「ピカドンを 二度と許さぬ 強い意思」
 「棚田誘う 水面の先に 出雲路が」
 「双龍が 銜えし玉に オオムラサキ」

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