昨日は「蘇我氏邸宅跡」を見てきました。その前に一言。
昨日、IAEA事務局長に天野之弥氏が選ばれたというニュースが飛び込んできました。核兵器持ち込みの密約を認めようとしない日本政府ですから、彼がどれほどバックアップされるのかは分かりませんが、少なくとも唯一の被爆国としての立場から、核兵器廃絶への第一歩を踏み出したことは喜ばしいことだと思います。
これを機会に、ヒロシマ・ナガサキで連続してサミットを開催し、全世界の首脳に核兵器の惨状を、核兵器を持つことはこの様な惨劇を自らの手で行うことになるのだということを、見せるべきです。
全世界から核兵器を無くすことを望む人はこいつをポチッと押して下さいね→ヒロシマの原爆資料館を見てなおかつ核武装を唱える人間がいるとしたら、それはもう「鬼」としかいいようがありません。悲しいことです。これから8・6、8・9まで毎日でも核廃絶を訴え続けます。
(調査地南から全体を見たところ。)
さて、昨日は、突然舞い込んだあるメールに引き寄せられて、甘樫の丘に行ってきました。先々週行われた現地説明会には参加できなかったので、大変有り難い案内でした。MKさん有り難うございました。当日は私が午後に参ったものですからお会い出来ず残念でした。後で御案内のCTさんに聞くと高松市のYTさんもご参加だったとか、先日のお礼が申しあげられたのに残念でした。
(石垣の裾がやや灰色になっていますよね。これが泥の堆積跡だと思われます。)
現場では今回もTJさんに現場を御案内頂きました。途中から少し雨が降ってきて、濡れながらのご説明申し訳ありませんでした。
この部分で「石垣」は折れている。裾に降りるような構造にも見える。)
今回の目玉は何といっても以前発見されていた「石垣」の続きが見付かったことでしょうか。そして、この「石垣」が、面していた谷と共に一気に埋め立てられていたという事実です。大変な土量が投じられて埋め立てられている様は、異口同音に「大阪城」を思い起こさせるという評価に通ずるものがあります。
(排水溝のようにも見える石組み)
ただし私には少し気になることがありました。「石垣」の裾から下にグライ化した土壌が堆積していたことです。本当にここは深い谷だったのでしょうか?少し先を塞げば濠のようにもなります。「石垣」を見ていますと大半は露出していたようですから、外から見えていたのは間違いなさそうです。しかし石の最下部が泥のようなもので覆われていたとするとあまり「防御性」などを考える必要性はなさそうです。特に「石垣」の石が、地山面に若干の土を当てて貼り付けてある点は、「垣」としての機能はほとんど期待できません。現場でも話題になりましたが、古墳の葺き石のように「見せる」ためのものだったとしか考えられません。
(西端の突出部分)
では何のために??
ここではたと止まってしまいます。なぜなら、この地はあまり飛鳥の中心部からよく見えないところなのです。直ぐ近くに来て初めて何とか見ることができます。そもそもがここが蘇我氏の邸宅というのはちょっと飛躍しすぎなのです。ご説明によれば、丘から外部が最もよく見える地点は「エビス谷」という地名の残るもう少し北東側なのだそうです。あくまでこの地は「蘇我氏邸宅」の一部に過ぎないのです。その一部のあまり外からよく見えないところにも「石」を貼って綺麗に見せているところが蘇我氏の外国(朝鮮)好みなのかも知れませんね。
(廃棄土壙からの出土須恵器)
雨も酷くなってきたので、お礼をいって現場を後にし、見学会の主要メンバー逢坂のK大学のSTさんに乗せてもらって、遺物のある藤原調査部のロビーに行きました。山田博士ならその後一杯となるのですが、STさんはこの後『続日本紀』研究会に出席とか、大まじめなので、お茶を飲んで別れました。真面目ーーー!
(小型の完形品ばかりを出した土壙の資料)
(以上奈良文化財研究所配布の現地説明会資料より)
考古学のロマンに耽ってはいられない!戦争大好き人間達が着々と扇動を始めている。夢を追いつつ、しかししっかりと現実に目を向けて発言し続けよう!!と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→
「目には目を 86こそが連鎖 断つ証」
「核持ちて 青き星消せと 蚊がブンブン」
「奢る蘇我 落日の夏 直ぐそこに」
「石垣に 恐れるふりで 雷火待つ」
昨日、IAEA事務局長に天野之弥氏が選ばれたというニュースが飛び込んできました。核兵器持ち込みの密約を認めようとしない日本政府ですから、彼がどれほどバックアップされるのかは分かりませんが、少なくとも唯一の被爆国としての立場から、核兵器廃絶への第一歩を踏み出したことは喜ばしいことだと思います。
これを機会に、ヒロシマ・ナガサキで連続してサミットを開催し、全世界の首脳に核兵器の惨状を、核兵器を持つことはこの様な惨劇を自らの手で行うことになるのだということを、見せるべきです。
全世界から核兵器を無くすことを望む人はこいつをポチッと押して下さいね→ヒロシマの原爆資料館を見てなおかつ核武装を唱える人間がいるとしたら、それはもう「鬼」としかいいようがありません。悲しいことです。これから8・6、8・9まで毎日でも核廃絶を訴え続けます。
(調査地南から全体を見たところ。)
さて、昨日は、突然舞い込んだあるメールに引き寄せられて、甘樫の丘に行ってきました。先々週行われた現地説明会には参加できなかったので、大変有り難い案内でした。MKさん有り難うございました。当日は私が午後に参ったものですからお会い出来ず残念でした。後で御案内のCTさんに聞くと高松市のYTさんもご参加だったとか、先日のお礼が申しあげられたのに残念でした。
(石垣の裾がやや灰色になっていますよね。これが泥の堆積跡だと思われます。)
現場では今回もTJさんに現場を御案内頂きました。途中から少し雨が降ってきて、濡れながらのご説明申し訳ありませんでした。
この部分で「石垣」は折れている。裾に降りるような構造にも見える。)
今回の目玉は何といっても以前発見されていた「石垣」の続きが見付かったことでしょうか。そして、この「石垣」が、面していた谷と共に一気に埋め立てられていたという事実です。大変な土量が投じられて埋め立てられている様は、異口同音に「大阪城」を思い起こさせるという評価に通ずるものがあります。
(排水溝のようにも見える石組み)
ただし私には少し気になることがありました。「石垣」の裾から下にグライ化した土壌が堆積していたことです。本当にここは深い谷だったのでしょうか?少し先を塞げば濠のようにもなります。「石垣」を見ていますと大半は露出していたようですから、外から見えていたのは間違いなさそうです。しかし石の最下部が泥のようなもので覆われていたとするとあまり「防御性」などを考える必要性はなさそうです。特に「石垣」の石が、地山面に若干の土を当てて貼り付けてある点は、「垣」としての機能はほとんど期待できません。現場でも話題になりましたが、古墳の葺き石のように「見せる」ためのものだったとしか考えられません。
(西端の突出部分)
では何のために??
ここではたと止まってしまいます。なぜなら、この地はあまり飛鳥の中心部からよく見えないところなのです。直ぐ近くに来て初めて何とか見ることができます。そもそもがここが蘇我氏の邸宅というのはちょっと飛躍しすぎなのです。ご説明によれば、丘から外部が最もよく見える地点は「エビス谷」という地名の残るもう少し北東側なのだそうです。あくまでこの地は「蘇我氏邸宅」の一部に過ぎないのです。その一部のあまり外からよく見えないところにも「石」を貼って綺麗に見せているところが蘇我氏の外国(朝鮮)好みなのかも知れませんね。
(廃棄土壙からの出土須恵器)
雨も酷くなってきたので、お礼をいって現場を後にし、見学会の主要メンバー逢坂のK大学のSTさんに乗せてもらって、遺物のある藤原調査部のロビーに行きました。山田博士ならその後一杯となるのですが、STさんはこの後『続日本紀』研究会に出席とか、大まじめなので、お茶を飲んで別れました。真面目ーーー!
(小型の完形品ばかりを出した土壙の資料)
(以上奈良文化財研究所配布の現地説明会資料より)
考古学のロマンに耽ってはいられない!戦争大好き人間達が着々と扇動を始めている。夢を追いつつ、しかししっかりと現実に目を向けて発言し続けよう!!と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→
「目には目を 86こそが連鎖 断つ証」
「核持ちて 青き星消せと 蚊がブンブン」
「奢る蘇我 落日の夏 直ぐそこに」
「石垣に 恐れるふりで 雷火待つ」