yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

備後国を訪ねて-3 品治駅家はなぜ彼の地に設置されたのかの条

2009-06-27 00:35:06 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 今日26日(もう明日になってしまった)は歴博での研究会出席のために東京にやってきた。

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 夕方懐かしいメンバーと会うためだ。
今から17年前(にもうなってしまったらしい)、木簡学会の会場手前の休憩用ソファーのところで、佐原真さんに呼び止められた。

「山中さん、学生さん要らない?」

これが彼女たち、お茶大考古学研究会の連中との付き合いの始まりだった。その懐かしいメンバー5人が集まって、東京駅近くの居酒屋でワイワイやった。一人を除きみんな独身というのが今時のインテリ女性の傾向と見事に一致する。来れなかったメンバーの消息なども聞くことができとても楽しい会を二次会も含めて23時近くまで過ごした。

  
 さて、備後国訪問の旅の最終回である。実は一昨日原稿を書いてアップする直前に用事が入って、しばらくして部屋に戻り、手直ししてから・・、と思って操作したとたんに原稿が消えてしまった。ショックで、なかなかそのままの原稿が思い出せない。仕方ないので、今東京のホテルで写真だけでもとにかくアップしておこうと思って始めている。

 品治駅家は現在の広島県福山市駅家にある。先にも書いたとおり、JR駅家というそのままの駅名まで残っている。長くその所在地は不明だったが、近年の発掘調査でその一部が明らかになってきた最明寺跡南遺跡がそれではないかという。



(道路拡幅工事に伴って推定地の一角が調査された。しかし残念なことに道路建設が優先され、遺跡は破壊されてしまった。)





(南に伸びる丘陵の先端部を切った切り通しがあり、これが山陽道に推定されている。駅家はその直ぐ北にあったらしい。)



(出土瓦には平城宮系のものや備後国府系の瓦が大量にある。)



(中にはこの様な重圈文鬼瓦も含まれており、山陽道駅家の特徴と合致する点も多い)



(現在も瓦が採集できるらしく、遺跡の一角に設けられた祠にはこの様に奈良時代の瓦が置かれていた。)



(以上の航空写真や遺物の写真は福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財調査団編『最明寺跡南遺跡』より)



(破壊された遺跡の壁に遺された説明板。)

 実はこの前に訪れた葦田駅家跡の途中で突然デジカメの電池が無くなったのである。勿論予備はいつも持って歩いているから予めポケットに忍ばせておいたものと交換した。、ところがである。

「バッテリーを交換して下さい」と出るのである。

「???今替えたジャン!」

 なぜかその交換用電池ももう切れていたのである。充電し忘れたのか、はたまた放電したのか、えらいことになってしまった。やむなく同行した学生にデジカメを貸してもらいながら、時々自分の携帯で写真を撮りながら進むことになった。



(その携帯(iphone)で撮ったあまりよくない画像。備後国品治郡の全景。佐賀田城から。)

それにしてもよく判らないのが品治駅家の立地である。確かに山陽道の切り通しのあるところにあり、播磨国の野磨駅家との共通点ともとれるが、切り通しの直ぐ北にあり少し雰囲気が異なるようにも感じられる。野磨駅のような大規模な築地によって囲繞された空間があるのか否かも問題だが、直ぐ近くには交差する道もなさそうである(唯一北、服部郷方面から備後北部へ抜ける交通路に近い点が注意されるが)。


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