ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

イヨネスコ作「授業」・「禿の女歌手」

2011-05-30 14:29:38 | 芝居
5月23日銀座みゆき館劇場で、ウジェーヌ・イヨネスコ作「授業」と「禿の女歌手」を見た(演出:大間知靖子)。

昨年3月に結成された「アンフィニの会」の旗揚げ公演。
さて、またしても absurd play =不条理劇。私もとことん懲りない人です。

「授業」
白い壁。小さなテーブルに椅子が2つ。玄関のベルの音。女中が出てきて卓上の女性用の帽子とかばんを片づけ、客を通す。
客は少女。白ブラウスにピンクのチェックのジャンパースカート。髪を赤いリボンで2つに結んでいる。この家に住む教授に個人授業を受けに来たと言う。
教授の講義は数学(足し算・引き算)から始まり、次いで言語学に移る。少女は途中から歯が痛くなりしきりに訴えるが・・。
最後は冒頭と全く同じ女中の行動。

「禿の女歌手」
茶色い壁。茶色い長椅子と椅子にスミス夫妻が座っている。妻(日向薫)は刺繍をしながら先ほどの夕食の内容について話し続ける。夫(青山伊津美)は新聞を広げている。時計がしょっちゅう打つ。ここはロンドン郊外、今は夜の9時らしい。
女中(村中玲子)がマーチン夫妻の来訪を告げる。スミス夫妻は、夕食に彼らを招いたのに4時間待っても来ないので先に食べてしまった、と言い、着替えに行く。
客が入ってくる。と、驚いたことに二人(山口太郎、佐野美幸)は初対面らしい。どこかで会ったことがあるかも、と記憶を辿ってゆくと、二人共同じ日に同じ町から同じ列車でここロンドンにやって来たことが分かり、さらに驚くべきことに、現在住んでいる部屋も同じ、アリスという2歳の娘がいることも同じ、その子の目の色は片方が白でもう片方が赤(!!)なのも同じと分かり、そこで二人はようやく互いを伴侶と認め、ひしと抱き合う。
そこに女中が現れ・・・

まあこんな風に筋を述べても仕方がないかも知れない。この後二組の夫婦のぎこちない会話があり、そこに消防士もやってきて、また女中が現れ・・・という展開になるのだが、最後はまた冒頭とそっくりの、夫婦二人の情景で結ばれる(ただし少し違う)。

なぜだろう、不条理劇と言われるものの中でイヨネスコだけはなぜか面白く感じるのだ。明るく笑えるし、知的刺激も得られる。安倍公房とは大違いだ。
この劇のインパクトあるタイトルは、劇中の短いセリフから取られているが、全く人を食っているとしか言いようがない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「スラムドッグミリオネア」

2011-05-22 16:13:46 | 映画
先日テレビで、映画「スラムドッグミリオネア」を観た。

いきなりの拷問シーンにはビビッたが、あっさり描かれていて助かった。
独特のリズミカルな二拍子の音楽が快い。

警察で尋問を受ける青年ジャマールと、クイズ番組に出演している彼、そして彼のこれまでの生い立ちとが交互に描かれる構成が面白い。
インドの少年ジャマールは、宗教対立で母を殺され、兄サリームや同じ境遇の少女ラトナと共に路上生活者となる。そこに男たちが現れ、食べ物や寝る場所を与えてくれる。子供たちは彼らを神様かと思うが、実際は孤児たちを集めて乞食として働かせるグループだった。その親玉ママー役はチェ・ゲバラ似の男優。

インドにも人権団体が存在するらしいが、とにかく人権が尊重されるという保証がまるでない国に生きる恐さをひしひしと感じた。宗教対立から人々が殺し合ってるそばで警官たちはのんびり遊んでるし、銃も手に入るようだし、法律はあるんだか無いんだか・・・白昼女の子が車でさらわれてもその場に居合わせた人々は無関心だ。ここ日本では想像できない。何とも恐ろしい。

主人公はなぜクイズ番組に出たのだろうか。普通なら賞金目当てだろうが、彼には別の意図があった。彼は一途ではあるが、ちょっとどうかと思うほど浅慮で、先のことをまるで考えずに行動するので見ている我々をハラハラさせる。人物像はさほど深くない。

クイズ番組での最後の問題が易し過ぎるのではないか、と思った。まあ、筆者にとって「三銃士」は小学生の頃の愛読書だったから特別かも知れないけど、人物名の語尾が同種類なので、たとえ知らなくてもすぐに分かるのではないだろうか。

最後はお約束の集団での踊り。これがインド映画か、と納得。本当にインドの人々は踊るのが大好きのようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「冬物語」

2011-05-15 22:49:15 | 芝居
先日テレビで、蜷川幸雄演出の「冬物語」を観た(2009年、彩の国さいたま芸術劇場大ホールでの上演、松岡和子訳)。

シチリア王(唐沢寿明)は身重の妻ハーマイオニ(田中裕子)と親友であるボヘミア王ポリクシニーズ(横田栄司)との仲を疑う。彼は忠臣カミロー(原康義)にポリクシニーズ暗殺を命じるが、善良なカミローは迷った末、ポリクシニーズと共にボヘミアに逃亡する。
それを知った王はますます怒り狂い、王妃を幼い王子マミリアスから引き離して牢に入れる。王妃は牢の中で王女を産む。王はそれを不義の子と決めつけ、家臣に国境近くの荒野に捨てに行かせる。
王は臣下が誰も自分の主張を信じないので、皆を説得するためにアポロ神殿に使いを派遣して神託を受ける。使いが戻り、居並ぶ貴族たちの前で、ついに神託が読み上げられる。「王妃は貞淑、ボヘミア王は潔白、カミローは忠義の臣下、王は邪推深い暴君・・・」という宣言に、皆は安堵の声を挙げる。
しかし王はそれを信じることができなかった。彼は神託を無視して裁判を続けようとする。その時、唯一の世継ぎたる王子マミリアスが死んだとの知らせがもたらされる。
この時ようやく王の目が覚める。神々が自分に天罰を下して王子を死なせたと分かるのだ。打ちのめされた彼は、ポリクシニーズに許しを請い、再び王妃の愛を求め、カミローを呼び戻そうとするが・・・。

このように、これは嫉妬が発端となって始まる物語だが、嫉妬するのは将軍ではなく一国の国王である。ここにイヤゴーはいない。
嫉妬される妻はすでに一児の母であり、今また身重の身である。

幼い王子は細長い魚の頭の張りぼてをかぶって登場。そのまま大人たちと遊ぶ。

この芝居で最も重要な場面は、3幕2場で神託が読み上げられた直後にある。なのに、そこで音楽を流したのは邪魔だった。
緊迫感が損なわれ、場が台無しになってしまった。
重苦しさから歓喜と解放へ、そして再び恐怖と暗黒へ、という大転換が、たった数秒の間に起こるのだ。そこに音楽の入る余地はない。

さて、荒野に捨てられた赤ん坊は羊飼いの親子に拾われ、パーディタと名づけられ、美しく成長する。
そこに、運命の糸に導かれてポリクシニーズ王の息子フロリゼルが現れ、二人は恋に落ちる・・・。
成長したパーディタも田中裕子さんが演じるので、最後の大団円をどうするのか興味があった。
だって母娘の初めての出会いの場面があるのだ!
実際には、5幕3場でパーディタの最後のセリフが語られたところでいったん奥のカーテンを閉め、その間にパーディタ役の田中さんが奥に消え、
急いで彫像姿のハーマイオニになり代わる、という手を使ったのだった。
蜷川さんは、かつて「ペリクリーズ」でも田中さんに母娘二役をやらせたっけ。
確かに彼女は余人をもって代え難い。清純、透明感、哀しみを彼女ほど表わせる人はいない。ほほ笑みも堪らなく魅力的だ。

結局、ここでは愛が身分を越えることは残念ながらないが、この際重要なのは、この貴種流離譚の大きな円環が大団円によってめでたく閉じることなのだから、
そこは仕方ない。

全体にムード音楽のようなのが流れるのには違和感がある。
以前RSCだったか、フォーレのレクイエムを流したのでつい号泣してしまった。まんまと敵の術中にはまったわけだが、この劇では哀れなマミリアス王子とアンティゴナスら犠牲となった人々のためにも、また失われた16年の歳月のためにもレクイエムのような音楽こそがふさわしいだろう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゴドーを待ちながら」

2011-05-05 17:47:37 | 芝居
4月26日新国立劇場小劇場で、サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」を観た(演出:森新太郎)。岩切正一郎の新訳による上演。

演劇史にその名をとどろかせる作品なので、苦手な不条理物ではあるが、前もって安堂信也・高橋康也訳を読了して臨んだ。

田舎道。ヴラジミールとエストラゴンがゴドーを待っている。二人はゴドーに会ったことはなく、いつまでも待ち続ける。そこにポッゾとラッキーがやって来る・・・。

細長い舞台を客席が囲む。最近こういうのがはやりだが、これだと後ろ向きにしゃべった時のセリフが聞き取りにくい。

「生まれてすみません」というセリフにびっくり。これってアドリブだったのだろうか。ここ日本でなら必ずウケるセリフだけど・・。新しい訳を使っているだけでなく、今回の台本は、岩切と演出の森新太郎とが作者自身が演出した時の台本も検討して作った由。他にも「イエスさまは・・」といったセリフが新しい。

何しろこの芝居を観るのは初めてなので、役者を他と比較することはできないが、それぞれよくやってると思った。ヴラジミール役は橋爪功。エストラゴン役の石倉三郎は初舞台にして橋爪功の相手役という大役。ポッゾ役の山野史人、ラッキー役の石井愃一も共に好演。

ベケットはシェイクスピアが大好きだったそうで、特にこの作品は「リヤ王」との関連が深いらしい。しかし、だからと言って面白いとは限らないのが残念だ。

この芝居がパリで初演された時も、次いでロンドンで上演された時もブーイングがひどかったとか。
その後の米国初演ではお客がみんな途中で帰ってしまい、劇作家など数人しか残っていなかったという。
いかにもな話だ。筆者もその点、珍しく米国人にいささかの共感を覚える。
この世界の不条理、人生の不条理なんて、改めて教えてもらわなくてもいやと言うほど知っているのだから。
それに筆者は沙翁の芝居さえあればおなか一杯になれるし。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする