ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「叔母との旅」

2021-11-29 14:07:25 | 芝居


11月22日、池袋サンシャイン劇場で、グレアム・グリーン原作、ジャイルズ・ハヴァガル脚色の「叔母との旅」を見た(加藤健一事務所公演、演出:鵜山仁)。

2年前、勤めていた銀行を53歳で早期退職、庭のダリアをいじるだけの平穏な暮らし、それがヘンリーの日常。父は40年前に他界、86歳で亡くなった母の
葬儀で、母の妹であるオーガスタ叔母さんに再会。年齢や常識にとらわれないエキセントリックな叔母から出てくる話はどこか怪しくて・・・。思いがけず一緒に
行くことになった旅先で、スーツケースに金塊は入ってるし、ホテルに警察は乗り込んでくるし、関わる男は指名手配犯?おまけに留置場まで体験してしまった。
叔母に巻き込まれたスリリングな日々は、これまで静かに暮らしてきた男の本能を刺激し始める。人生に、今更スタートできないものなんて無いのかもしれない
(チラシより)。

その初日を見た。
この芝居は、2010年に青山円形劇場で見たことがある(演出:松村武)。
役者は段田安則、高橋克実、浅野和之、鈴木浩介の4人。狭い舞台でほとんど何の装置もなかったが、緻密に練り上げられた構成、ベテラン俳優たちの軽快な演技、
工夫を凝らした演出で、非常に面白かった。

今回も、男優4人が入れ替わりで主役のヘンリーに扮するなど、計24人を演じ分ける。
この日は初日のせいか、セリフをとちったりする残念な場面もあった。

3人の役者が目まぐるしく交代で主役ヘンリーを演じるというやり方は面白いが、時として、芝居の輪郭を分かりにくくしているようにも思えた。
ヘンリーは叔母に誘われ、ブライトン、パリ、そして何とオリエント急行でイスタンブールへまで旅行する。そしてそこでも怪しい男と出会うことになる。
彼は母の遺灰(日本だと遺骨だけど、西洋だから少量の遺灰だ)を麻薬とすり替えられたらしく、麻薬所持の容疑で警察に追われる身となり、とうとう捕まって
留置場に入れられる。だがその場面で、ヘンリー役の男が3人一緒に入れられるので、実に奇妙だ。とんだ災難なのに、3人もいると仲間が一緒みたいで
恐怖とか孤独とか追い詰められた感が伝わって来ない。

ヘンリーの趣味と言えば、庭でダリアを育てることだけ。文字通りの草食系だ。彼に好意を寄せているらしい女性がいるというのに何も行動に移さない。
その彼が、破天荒な叔母と出会ったために、それまでと打って変わった日々に突入する、という典型的な巻き込まれ型の芝居だ。
だが、そこに少しずつ明らかになって来ることがある。つまり謎解きの要素もある。たまにチラッと出て来るヒントから、必ずしもくっきりと明確にではないが、
ヘンリーの実の母が誰だったかがおぼろげに見えてくるのだ。
それが観客の興味と想像力を搔き立てて止まない。
だが彼自身の口から、そのことについての言及は、最後までない。そこが風変わりでもあり、ちょっと予想を裏切っていて面白い。
イギリス人気質ということなのかも知れない。

今回、叔母などを演じた加藤健一の味のある演技は期待通り。
そして清水明彦、天宮良といった芸達者な役者たちのお陰で楽しいひと時を過ごすことができた。








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番外編・・・英語こぼれ話 ③

2021-11-20 10:35:48 | 英語
① Bonsai (盆栽)

昔、ロンドンの小さな英会話学校で、何の話の流れだったか、若い英国人講師が「あなたたち、ボンサイ持ってる?」と生徒たちに尋ねた。
というのも、生徒が全員日本人だったからだろう。5~6人いて、ほとんどが駐在員の奥さんだった。
私が他の人たちに聞くこともせず「いえ、私たち、まだそんな年じゃないので」と笑いながら軽く答えると、先生驚いて「えっ?ボンサイってお年寄りがするものなの!?」
と目を丸くしていた。1994年か95年のこと。
当時、ロンドンでも他の都市でも、あちこちの駅前でBonsai が売られていた。日本と違って、新しいものに敏感な若者たちに人気のようだった。
人が植物に手を加えて小宇宙を構成するという表現形式は、それまでの西洋社会になかったので興味津々らしい。「クール」ってことだろう。
その後も盆栽人気は続いていて、わざわざ日本まで買いに来る人たちもいるらしい。

② play second fiddle (セカンドバイオリンを弾く ⇒ 人の脇役を演じる)

昔アガサ・クリスティーの小説を読んでいたら、ある家でパーティが開かれていて、そこでいつもと違ったことが起き、「彼はセカンドバイオリンを弾いて
いるのだ」という表現が出てきて、ふーんと思った。
初めて見る言い回しだったが、その意味するところはすぐにわかった。パーティで、いつも会話の中心にいた男が、その夜は別の男に主役の座を奪われて
かすんでしまったということ。なるほどと思い、非常に印象的で忘れられない。
ところが先日、ある英和大辞典を見ていたら、この表現が載っていて「人の脇役を演じる、人を引き立てる」とあった。
では最近の翻訳家たちは、この表現を、こう訳してしまうのだろうか。そうかも知れない。
でも、元の表現の面白いニュアンスが消えてしまって残念な気もする。
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「面と向かって」

2021-11-15 11:07:18 | 芝居
11月8日俳優座劇場で、デヴィッド・ウィリアムソン作「面と向かって」を見た(俳優座公演、演出:森一)。

ジャック・マニングは、住民会議に集まった人々を静かに紹介し始める。
「まずはグレン」・・・展示会施工会社で働く彼は、社内で暴力沙汰を起こし解雇された青年だ。
その母親、グレンの友人、さらには経営者はじめ上司や同僚ら9人。
そして、この仲裁が不首尾に終われば、グレンは裁判所に送致される。
仲裁人ジャックの進行で明かされるものとは・・・(チラシより)。

舞台はオーストラリア。
かの地には仲裁人制度というものがあり、事件が起こると、まず「仲裁人」が被害者、加害者、その関係者たちを集めて双方の話を聞く。
そこで事件の詳細と、そもそもの原因を徹底的に明らかにし、両者の仲裁を図るが、それがうまく行かない場合は、加害者は裁判にかけられるという。

グレンが社内で暴力沙汰を起こしたため社長が彼をクビにすると、彼は社長宅の前で待ち伏せし、社長がベンツで帰宅すると、その車に自分の車をぶつけて
毀してしまう。しかも、むち打ち症になった社長に向かって「職場に戻してくれなきゃまたやってやる!」と怒鳴り続けた。
だが、話し合ううちに、より詳しい事情が明らかになってくる。
グレンは今の仕事が大好きだが、同僚はみな、給料(時給)が安くて仕事は単調、残業代も出ない、と不満たらたらだった。
安い時給に見合うだけの仕事しかしたくない、と彼らは「なるべく手を抜くようにしている」。当然、会社の業績は上がらない。いわゆる負の連鎖だ。
さらに、ストレスを発散させるために仲間内での悪質ないじめや悪ふざけが日常的に起こっていて、その標的がグレンだった。
人を信じやすいが切れやすくもある彼は、我慢の限界に達して同僚を殴ってしまったのだった。

だが話し合いは途中から意外な方向に広がってゆく・・。

残念なのは、登場人物がみなステレオタイプなこと。
特に女性4人は、母親タイプ、妻タイプ、愛人タイプ、奥手タイプ、とはっきり書き分けられていて、あまりにも古臭い。
男の作家だから仕方ないのか。いや男でも、もっと多様な女性を書き分けられる人はいるぞ。
特に、社長の愛人である秘書が結婚に憧れるあまり、ラストでしつこく一人の男性のことを独身かどうか尋ねる場面など、実に腹立たしい。
彼女は結婚して妻となり母となることを願っている。それを笑ったり茶化したりするような描き方はやめてほしい。
女性の観客がこういうシーンを見てどう思うか、想像してほしい。
女はどんなに頑張っても一人では母親になれないんですよ。桐島洋子みたいに仕事ができて経済力のある人は別として。そこのところをわかってほしい。
女好きなオーナー社長など、男たちも似たようなもの。
ただ、軽い知的障害を持つ青年や、セルビア系移民の男性への残酷な差別といった要素が加わって、こちらは幾分か重層的。

疑問なのは、社長の妻クレアが突然、夫と秘書の不倫に気づく場面。
現場監督の話がきっかけだが、彼女の反応が唐突で、よくわからなかった。
そもそも脚本が悪いのか、それとも演出上のミスなのか、あるいは役者がセリフを飛ばしてしまったのか??

グレンが社長に謝るのを仲裁人ジャック始めみんなが待っているが、とうとう最後まで謝らなかった。ただ「仕事がしたいんだ~!」の一点張り。
ジャックも、これがグレンの限界だと思って諦めたのだろう。そこは、芝居的にはありきたりにならずに良かったと思う。

クレア役の佐藤あかりは、声がいい。
ハグ好きな人々。何かというとハグ、ハグ・・・。

チラシを読んで予想していたより、ずっと明るく楽しい芝居だった。









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番外編・・・ドイツ語こぼれ話③

2021-11-08 10:20:32 | ドイツ語
(1)情緒的な副詞(doch, bloß, da, など)  

ドイツ語を始めてまず驚いたのが、意外と情緒的なこと。
日本の独和辞書をひくと、時々出くわすのが「(話し手の主観的心情を反映して)・・・」とか「叙述に具体性を与え、驚き・あきれなどの感情的ニュアンスを
添える」などという表現。それらはたいてい副詞。
たとえば doch の場合、「(話し手の驚き・感嘆の原因である意外な出来事を示して)それというのもなにしろ(・・・)なので」「だって(驚いたことに)
(・・・)なのだから」という具合。
主語、動詞、目的語といった主要な要素ではないので、文章構成上必要不可欠というものではないし、日本語に訳す時には特に訳す必要はない場合も多い。
だがドイツ人にとって、これらは会話の潤滑油のようなものらしく、無しでは済まされないようだ。
彼らは、こういった副詞をたくさん会話文の中に織り交ぜながら、自分の気持ちを相手にできるだけ正確に伝えたいという気持ちが強いようだ。
一般に、ドイツ人というと理屈っぽくてお堅いイメージだが、実際の彼らはかなり情緒的な民族なのかも知れない。

(2)Fahrrad (自転車)

初めてこの単語を知った時、すでに中年だったが、かなりがっかりしたことが忘れられない。
Fah は fahren つまり「乗り物で行く」という意味で、rad が車輪のことだから、その成り立ちはまったく自然で正しい。「乗り物としての輪っか」というわけだ。
だがファーラートというその発音、腹に力の入らない、気の抜けたような音がいやだった。
ところが、それから数か月、ドイツ人教師の授業を受けつつ勉強を続けるうちに、あ~ら不思議、いつの間にか、全然気にならなくなっていた。
慣れとは恐ろしくもありがたいものです。

学生の頃は、こういう身近な言葉をまったく知らず、Vernunft(理性)とか Versöhnung(和解)とかの哲学・神学用語にどっぷり浸かって暮らしていた。
中年になり、神学者カール・バルトの説教集の翻訳(共訳)という大変な仕事をいただいて、再び難解な文章と格闘する日々が始まった。
長いブランクがあったので大変だったが、そのうち慣れてくると、脳内でこんな難しいことをやってるのに日常会話もできないっておかしいんじゃないか、
バランスがとれてないな~、と気づき、思い切って会話学校に通い出したというわけだ。
バルトの、一文が何十行もあるような厄介な文章を因数分解のように解いて、自然で柔らかな日本語にする作業も、うまくいった時の快感は最高だったが、
若い人たちに混じってLöffel(スプーン)とか Gabel (フォーク)とかいう卑近な単語を覚えるのもまた、新鮮で楽しかった。



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ヘルマン作「子供の時間」

2021-11-01 11:30:31 | 芝居
10月12日東京芸術劇場シアターウエストで、リリアン・ヘルマン作「子供の時間」を見た(翻訳:常田景子、演出:西川信廣)。
1934年に発表されブロードウェイで大ヒットした後、オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンの共演で映画化された有名な作品。
今回、初めて芝居を見て、映画と原作とがだいぶ違うことが分かった。

アメリカ、マサチューセッツ州郊外。大学時代からの友人であるカレンとマーサは古い農家を改造した女子校を経営している。学校の経営は数年がかりで
ようやく軌道に乗り始めていた。カレンはこの学校の大きな後ろ盾となっているティルフォード夫人の甥・カーディンとの結婚も決まっていて、すべてが
順調にいっているように見えた。しかし、ティルフォード夫人の姪で、この学校の生徒でもあるメアリーの、ある一言によって、大人たちの運命の歯車は
狂い始めていく・・・(チラシより)。

寄宿学校とティルフォード夫人の屋敷が交互に舞台となる。
登場する大人たちは、ほとんどみな知的で良識ある人々であり、子供たちは素直で明るい。
ただそこに、一人大変な問題児がいる。ティルフォード夫人の姪メアリーだ。彼女は口から出まかせの噓をつく。何の苦もなく噓をつく。気の弱い同級生の弱みを
知ると、すかさずつけ込み、相手を支配下に置く。しかもこれといった動機がない!だから悪魔のようで、ぞっとする。
周りの人たちをめちゃめちゃ引っかき回す彼女を見ていて、アーサー・ミラーの「るつぼ」に登場する美少女アビゲイルを思い出した。

メアリーは噓をついた罰として外出を禁止される。彼女は反発して家に帰ろうとするが、バス代などがかかる。そこで同級生を脅して金を奪い取る。
ティルフォード夫人は姪を愛してはいるが、やはり良識ある人で、姪が学校を無断で出て来たと知ると、すぐに学校に連絡しようとする。
メアリーは学校に戻りたくないので必死になって次々と言い訳を言うが、うまくいかない。彼女は相手の顔色を伺いつつ、ついに、二人の先生の「秘密」について、
その場で思いついたことをどんどん言う。最後は夫人の耳元でささやく。ショックを受けた夫人は、ついに「もう戻らなくていいわ」と言い、迷った末、保護者たちに
電話する。それが自分の義務だと彼女は信じた・・・。

保護者たちは一斉に子供を自宅に連れ戻す。二人は裁判を起こすが負け、無人となった寄宿学校に何日も引きこもる。
カーディンが来て「家を売ったよ。ウィーンに行こう、三人で」「いつまでもここにいちゃいけないよ」と明るく言うが、彼が二人の関係に内心疑いを抱いていることを
知ったカレンは、彼と別れることを決意。彼は何度も食い下がるが、カレンは彼を強引に去らせる。
それを知ったマーサはショックを受け、自分の中のカレンに対する気持ちに初めて気づく。彼女はカレンに告白し、「私は汚らわしい・・」と言い残して別室で自殺する。

ティルフォード夫人が会いに来る。メアリーの噓がやっと発覚し、二人に謝罪しに来たのだった。
彼女は何とかして自分のしたことの埋め合わせをしようとする。カレンはカーディンと別れたこと、そしてマーサが自殺したことを話す。
夫人はカーディンとカレンが関係を修復できると希望を持っている。カレンもそれを否定しない。

カレンは夫人に、メアリーを手放した方がいい、と言うが、夫人は、それはできない、と答える。
とすると、これからメアリーはどうなるのか。
彼女のしたことは、ただの子供のいたずらなどではなく、実際にお金を奪い取ったのだから恐喝という立派な犯罪だ。現代なら少年院行きだろう。
このままにしておいたら、もっと大変なことになるのでは。

カレンはマーサの告白を聞いた時、ただ戸惑うだけ。もう少し特別な反応を示すべきでは?他のみんなが怪物を見るようになったのに対して、あまりに自然な感じがする。

映画との一番大きな違いは、夫人が謝罪に来るタイミング。
映画では夫人が来た時、二人はまだ健在だが、原作(この芝居が原作通りだと信じて)では、夫人はマーサの死後にやって来る。
そして、マーサの死という衝撃的な悲劇(学園崩壊よりさらに大きな悲劇だ)の直後だというのに、夫人とカレンは早くも和解する。
それがあまりに早過ぎるように思われる。マーサの自殺という重い出来事を、普通もっと引きずるのではないだろうか。
この点、映画の脚本は原作の弱いところを補って、実にうまく再構成していると思う。

役者では、ティルフォード夫人役の佐々木愛が、味わいある重厚な演技。
いつも知的な役をやる新井純がマーサの叔母で軽薄な女優・リリー・モーター役というのには少々戸惑った。何しろこのモーターという女性、人から陰で「おバカ」と
呼ばれているという損な役柄。だが新井純は、自分本位で身勝手なために、この悲劇のきっかけを作ってしまった女性をきっちり演じて見事。
メアリー役の原田琴音も憎まれ役を好演。

この作品は、1810年にスコットランドで起こった実話が基になっている由。
当時、同性愛は罪深いこととされて忌み嫌われ、人々から悪魔の仕業のように恐れられていた。そのことが、セリフに込められたリアルな人間の姿からひしひしと伝わって
くる説得力のある芝居だった。「不自然」という語には、特殊な罪深いニュアンスがあるようだ。
発表された1934年の時点でも、二人の役を引き受ける俳優がなかなか見つからず、米国の多くの都市で、上演できなかったという。
映画化されたのは1961年だが、その時ですら困難を極めた由。
ただ、この戯曲は必ずしも同性愛に対する迫害を訴えるものではない。そんな単純な意図を持つ作品ではなく、もっと重層的な内容だ。
よく練られた戯曲と演出、そして俳優陣の熱演のおかげで、素晴らしいひと時を持つことができた。
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